
タイトル写真は以前「作業日誌」の表紙にしていたものです。
追記)後に判った事ですが、1973年春が正解です。
オヤジは仕事一筋の真面目な人だったが、子煩悩ではあったようだ。
自分が小学6年の頃、東海道線の草津駅に行くと蒸気機関車を見ることができた。草津線の朝の3本の通学列車は草津駅までD51が けん引し、そこからEF58につなぎかえて京都に向かう。
それが撮りたくて家にあったミノルタの小さなカメラを父から借りる。
そのうち一眼レフが欲しくなって父にせがむようになる。
アサヒペンタックスSPかキヤノンFTbにするか家族会議をして後者に決定。
めでたく購入になる。
ところが父はそれを貸してくれなかった。
自分が撮り鉄を始めたのでした。
その代り父のクルマで一緒に撮影旅行に出かけるようになった。
関西本線、参宮線、越美北線、七尾線、明知線、、
自分は父のミノルタを貰い、コンバージョンレンズを付けたりしていろいろ工夫をしていた。
これは父の作例かな。有名な加太越えですね。
近所からSLがいなくなった頃、自分の写真熱はさめてしまった。当然撮影には同行しなくなる。
だがその頃父は写真趣味をやめず、鉄道以外も撮るようになった。
やがて父は同行者に母を選び、カメラ操作を母に教えるのが私の役目になった。
このころドイツ旅行の土産といってローライ35を買ってもらったが、これがシンガポール製でガッカリした記憶がある。でもこれは小さいくせに非常に良く写るカメラで今も時々使っている。
自分が成人するころになると両親ともキヤノンF-1なんていう重戦車のような一眼レフをぶら下げて写真展などに出品して賞をもらうようになっていた。私が撮ったスナップを両親が勝手に伸ばして私の名前で出品、入選したこともある。
その後父は中版カメラに手を出して、プラウベルなんとかとかハッセルなんとかを使うようになった。
ライカも一台持っていたみたい。
キヤノンのカメラは気軽に貸してくれたので、何かあると借りていた記憶が。
私の作品。500mm反射望遠なんかが普通に転がっていたので借りてみた。
父は私より新しいものが好きで、デジカメに早くから移行していった。晩年はライカレンズのコンデジを愛用していた。
10年前に父が他界した際に、残されたカメラを見て途方に暮れる。ご想像のとうりカビだらけで放置してあった。
一台一台動作確認して防湿庫に入れる作業。
そうこうしてるうちにFTbを与えてくれなかった事を思い出した。
あのころカメラ年鑑をみて、なんとか自分で買えそうな廉価版のカメラが何台かあって。
それがどうしても欲しくなってヤフオクのジャンクに手を出したのが5年ほど前。
キヤノンペリックス(ニコイチ)
ミランダオートセンソレックスEE
ミランダセンソレックス4台
キヤノンEXAuto(500円ジャンク)
トプコンユニ(ニコイチ)
キヤノンAL-1(500円)
ペトリFT(サンコイチ)
レンズは東独M42数本(マウントアダプタでキヤノンとミランダで使い回し)
ガラクタ以外の何物でもないカメラではあるが、各一台くらいは現役です。
ミランダ軍団。
黒カメラ軍団
キヤノン
Posted at 2016/11/05 00:11:42 | |
銀塩写真 | 日記