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まんぞくのブログ一覧

2018年11月30日 イイね!

気が付けばもうすぐ20年(2003年当時)後編

気が付けばもうすぐ20年(2003年当時)後編早々に後編にまいります。勿体ぶってイイね!を稼ぐような歳でもないし。

後編は2000年9月で突然幕を下ろします。







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後編

9)第二章S8クーペがやってきた。




鈴鹿サーキットでの試乗


試乗会がAHSMという贅沢な体験の結果、S6クーペは下取りになってしまいました。私は今でもエスロクが好きです。エスハチはエスロクに比べて造りが雑な印象があります。しかしながら何と言っても各ギアの伸びが良い。まず感じたのは鈴鹿サーキットがひとまわり小さくなったような気がしたことです。それは当時の私にはあまりにも魅力的でした。

しかしリジットのエスハチというのは速いことは速いがリアサスのロードホールディングは悪い。多分ストローク不足なのでしょう。このためヘアピンでのインリフトによる失速も激しい。社長は納車時には全塗装を勧めたが、やっぱりLSDが欲しいなぁ。結局外観は現状渡しのLSD付き、S6ステアリングギアボックスを組み込んでもらって、お値段の方はバブル期でもあり現在の相場よりちょっと高いくらいでした。

この車、前のエスロクと比べあまりにも外装が汚かった故、両親には大変不評で、ある時などは正座させられて



「お前は絶対に名古屋の自動車屋に騙されている!」



と説教されたことがあります(笑)。



10)遠征開始



やっぱり立つなら真ん中が良い(1994年5月、ビスタランド大豊にて)



S800はフルシンクロなのでシフトダウンも楽。早速旧車ジムカーナへとエントリーをする事にしました。名古屋、広島、高知、、、、、、。

覚えているのは、

○「気分はジムカーナ」(オーツタイヤ主催名阪SL)

:初参加ブレーキ不調

○タイムトンネルトライアル(愛知県城西自動車学校跡地)

:クラス優勝

○JokeSpeed主催ジムカーナ(グリーンピア三木駐車場)

:新旧ごちゃまぜ40台くらいで総合5位だったかな?



○ホンダワンメイクスジムカーナ(名阪SL,鈴鹿南コース)2回

:旧車クラス優勝とA車両ブービー(GA2競技車両20数台にやられた)


○広島ヒストリックモーターカーニバル(みろくの里)

:クラス6位(これはテレビ放映があったらしい。またOT誌に激しい水しぶきの走行写真が掲載された)

○オートシロー主催旧車ジムカーナ(高知県 ビスタランド大豊)

:クラス優勝

○フォーミュラードラテクレッスン(2&4主催 名阪SL)

○クリスマスイブイブジムカーナ(同上)

:クラス優勝

等々






他にもスピマイアタック(雑誌主催のタイムアタック)






AHSM鈴鹿走行会

某ディーラー主催ジムカーナ

等々



購入後数年は殆どトラブルフリーで、路上で困った記憶がありません。そういえば右フェンダーの穴、薄いアルミ板とリベットで大胆に補修、「飛行機みたいだろ?」と嘯いていたのですが、あるイベントで若い人に

「ここにバッテリーが入っているんですね!!」

と真顔で訊かれて返答に困った事がありました。すみませんトヨタ2000GTじゃないです。



この時期になると自宅に持ち帰るトロフィーを見る度、両親の「あの名古屋の自動車屋、、」云々はトーンダウンしていったのでした。



11)エスハチRE!



スクランバザール(またですか)に「S800レーサー ロータリー FRPボディー 価格80万応談」という記事が出ていたので兵庫県のオーナーに即電話。現物を見せてもらいに行きました。置場所のことはともかく二度とないチャンスだと思ったので。

現物は大きなガレージにひっそりとしまわれていました。持ち主は60年代にACコブラを所有していたという趣味人を父に持ち、自らもレースをされているそうでした。S8でロータリーというと、岐阜でダートラに出ていた車、あるいは現在関東にある車(あるいはこの2台は同一かもしれません)が知られていますが、これはそれとは異なります。車体は総FRP、,関東のJで製作されたものと思われ、RJ用のエンジン、サニーのホーシング、ダイハツP5のホイールという化け物でした。持ち主の弁では「パワーがありすぎて乗りにくい。」ということでした。また「きちっとセッティングを出して結果を出してくれる人に譲りたい。」とおっしゃってました。

この話、欲しかったのですが肝心のセッティングを出してくれる筈の社長が首を縦に振らず結局没になってしまいました。社長が言うには「どういじっても良いタイムは出ない。もし乗りこなせるドライバーがが居るとすれば日本に3人くらい。タイムの出ないレーシングカーには何の価値もない。」との事でした。

この車を煮詰めるには重量配分の修正と4WD化が必要だったのではないか?と私は考えます。それでも今考えると惜しいことをしたと思います。結局もう一人名乗りをあげていた方がいて、その人に売却されたそうです。その後この車が新オーナーの手でイベントを荒らしまわったという話は聞きませんし、欠点は今なお克服されていないのかもしれません。

時は流れて最近偶然にもこの車を発見しました。兵庫県の旧車ショップのHPに写真が乗っています。実はずっとエーモンの社長が持っていると思っていたのですが聴き間違いであることがこの時判明しました(これヒント)。



12)スズキキャラ購入




エスハチREを諦めて以来、もう少し現実的に自走で競技に参加できる車を探す事にしました。エスの練習台にするためにはサイズの小さい後輪駆動。始めに考えたのはカプチーノ。オープンにもなるしね。ただし当時は中古でも高く、これを購入してジムカーナ車を作るには予算不足でした。そんなときAZ-1が不評なままで製造終了。ジムカーナ関係者は当初からAZ-1に目をつけていたらしく、社長からも強い勧めが。そして当時不人気で投売りをしていた(今では信じられない事だが)ので結婚前のどさくさに購入する事を決意。中古の状態のよい物(OEM版のスズキキャラ)を購入しました。

購入以降ジムカーナに傾倒していくことになります。三重県の軽自動車のショップ、トータルチューンワークス(TTW)主催のジムカーナにエントリー、さらに普通車に混じっての公式戦参加や練習会へと進みます。とはいえ結婚、転勤、子供の誕生等もあって、フルエントリ-という訳にはいきませんでした。良い成績を残せたわけでもありません。だが一方でエスの活躍頻度がだんだん減ってきている事には、当時夢中だったので気が付きませんでした。

この時期の事についてはAZ-1ファンのサイトである「世界最小のスーパーカー(笑)AZ-1のページ」にも寄稿していますのでそちらを参照ください。



13)9月の思い出




この頃になると深刻なジレンマに陥っていました。キャラを通じて知り合った軽自動車モータースポーツの連中がホントに良い奴ばかりで(最高のメンバーだと今でも胸をはって断言できます)、そちらに顔を出す一方でエスに乗る機会がめっきり減ったのでした。また仕事では単身赴任になり、赴任先での足にジムニーの旧車(LJ20)を購入した、というのもエスから遠のく理由になりました。酷い時には2ヶ月に一度程度にまで使用頻度が減り、車の調子もイマイチになっていく悪循環。これではイカン!ということで2000年の9月初旬のAHSMに出ようと決心し夏ごろからちょくちょく乗るように心がけていました。少し前からの持病であるキャブの不調は直らず時折回転落ちが悪くなります。



その年のAHSMは天候に恵まれ例年どうり日曜早朝にはパドックに大集合。しかし出走前の点検にてラジエーターから冷却水が漏れているのを発見。量は大したことは無いのですが大事を取って出走を断念する事に決めました。パドックに車をしまうと社長がやってきて「せっかく来たのだから走ったら?ラジエーターキャップを外して圧を逃がして、水を足しながら、、、、」とおっしゃる。

いわれるままに水を足してコースイン。水温計に注意しながら2周走っては水を補給、これを繰り返す。なんだかんだで2時間楽しく走れました。



この年は幸いクラッシュも無く社長の積車は空いたまま。そこで私の車を積んで帰ってもらってキャブとラジエーターの修理をお願いすることになりました。私は滋賀のes氏のビートで最寄の駅に送ってもらう事に。なんだか段取り全てがうまくいったような気がしました。





翌月曜日は曇天。湖北の職場(単身赴任)で夜まで仕事をし、宿舎に帰る頃には激しい雨が降っていました。





翌火曜日の朝、天候は雨。いつものようにテレビをつけて身支度を始めると



「東海地方に未明から集中豪雨、堤防決壊にて大水害」



というニュースが。見れば駅のホームの高さまで水に漬かっている。場所は名鉄下小田井駅、、、、、、、、、、、、。





いつも車を取りにいく時に降りる駅ではないか!





一瞬にして全てを悟りました。なぜなら下小田井駅と名岐オートとは目と鼻の先、しかも勾配のない平坦な道、、、、。





当然その日は仕事が手につきませんでした。





昼頃になって鈴鹿の青木屋のSさんに連絡がつき「店はダメみたいですよ。社長は無事ですが。とにかく店に近づくことさえ出来ないらしい。」と言われる。



水が引くのに丸一日半かかったそうです。この水害は東海大水害とネーミングされ連日報道されていました。あとで聞いた話ではこの間社長はお店と預かった車の修復の段取りを必死で考えていたそうです。その結果、まず預かった7台の車のエンジンから水分、泥を除き錆がまわらないようにするのを優先したそうです。



9月15日祝日、陣中訪問に行くもあまりの混乱と疲労困憊、おまけに当方の準備不足もあって、かえって邪魔をしに行ったような結果に(ごめんなさい)。すでに私の車は社長の実家に避難され分解が始まっていました。私は一部電装品を分解し、自分の家に持ち帰り洗浄することにしました。かえって足手まといの結果だったかもしれませんが、そうせずにはいられなかった気持ちも察してください。



なおこの一件の写真はありません。一説では私のクーペの「STP」のステッカー半分まで泥水に沈んだ報道写真かTVニュースが存在するそうですが定かではありません。





14)おわりに そして 夜明け前





在りし日の名岐オート。オレンジのツナギが社長(パノラマカメラで撮影)



両親には厄年だからしょうがないと言われました。

このとき私には水没S8クーペと前述の書類なしS6オープンとそれまでに集めた沢山の部品が残りました。そしてそれよりもずっと大切な「エスを通じて知り合った沢山の人々」がいました。

数日間じっと考え、考え、考えて社長に電話しました。「僕の車の修理は一番最後でいいです。落ち着いたらもう一度そちらに伺います、、、、、、、、。」と。



結局S8クーペは再び公道復帰する事はありませんでした。空白の2年の始まりです。





この話はここで終わりです。最後まで辛抱強く読んで頂いた事に感謝します。なにぶん昔のことなので記憶違いや誤った記述があるかもしれません。また道路交通法等を逸脱した記述があるかもしれません。昔の事と笑ってお許しいただければ幸いです。



おまけ)エスハチクーペでの主なトラブル

ブレーキ不調(ジムカーナ会場)→走行自粛し帰宅→マスターシリンダーを宅配にて交換

セルモーター不調(ジムカーナ会場)→押しがけで帰宅→予備部品に交換

クラッチ切れ不良→自走可だったので名岐オートにて車検時に修理

電気式タコメーター破損→原因はプラグコード→機械式ストックに交換

キャブ不調→吹き上がりに問題ないので放置

燃料計不調→ストックのS6用と互換性なし、だいたい判るので放置

ラジエーター水漏れ→AHSM会場だったので積車で名岐オートへ。

2000年9月12日未明 水害にて水没


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最後まで読んでいただき感謝しています!


Posted at 2018/11/30 20:54:15 | コメント(1) | トラックバック(0) | ホンダスポーツ | 日記
2018年11月30日 イイね!

気が付けばもうすぐ20年(2003年当時)前編

気が付けばもうすぐ20年(2003年当時)前編昨日はこの削除された日記がひょんなところから出てきて、うれしくて舞い上がってしまいました。しかしよくよく考えるとこれは所詮「たかだか15年ほど前に書かれた無名人の自分語り」に過ぎないということに気が付きました。ひょっとすると3人くらいにしか響かない内容かもしれません。

今回の原稿は「気が付けばもうすぐ20年、私のホンダスポーツ歴」というタイトルで2003年頃に書かれた文章の前編です。おもに昭和時代の出来事と思っていただいて良いのかもしれません。


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気が付けばもうすぐ20年。私のホンダスポーツ歴



大好きだった黒いエスロククーペ



1)夜明け前


私が4歳頃、京都の親戚がS6(多分)に乗っていて助手席に乗せてもらったことがあるそうです。でもすぐに眠ってしまったそうな。この家には117やベレGなどもあって、私が免許を取ってすぐいすゞジェミニを譲ってくれたのもこの親戚でした。




ゼッケンなんか貼っているけれど実は単なるパレード走行。サーキット初体験の図(恥かしい~)


そのジェミニに乗っていた関係で京都修学院(当時)のサファリスピードに入り浸っておりました。そのころはISCC(いすゞスポーツカークラブ)のメンバーにもなっていましたし、もっぱらスカイラインGT-Rのような箱形4ドアセダンが好みでした。

昭和60年秋、当時の店長K氏から電話がありました。「ホンダS600の出物があるので買わないか?」という内容でした。当時はそれほどホンダスポーツには興味はありませんでした。第一私はまだ大学生でしたし、おまけに受験生の身でありました。当然買えるわけも無く丁重にお断りしたのですが「気分転換に見においで。」という嬉しいお言葉が。

実車は左側面に大きな擦り傷のある赤いS600オープンでした。社員の方の所有でお値段は70万円だったと思います。第一印象はとにかく小さい!とにかく見たことも無いようなディメンジョンだった記憶があります。(見慣れたフェアレディーSRとかコンパーノスパイダーのサイズを想像していたので。)

鍵を託され乗って来いとのこと。喜び勇んで修学院周辺を走り回ったのでした。今まで経験した事のない素晴らしいエンジンフィールと排気音!一瞬にして虜になったのは言うまでもありません。



2) 購入




すべてはここから。覗き込むのは悪友O君(おーさん)



2年の月日が流れ、就職2年目の正月、スクラン(今のカーマガジン)の売買欄にて「S600クーペ黒 程度上60万」というのを見つけました。あまり深く考えず部品取りになれば良いや!とばかりに購入、実車は大阪千里の中古車店に委託販売されていました。この車、姫路の字光式ナンバーがついており、ボディのサビは比較的ましな部類でしたが、耕運機のようなエンジン音(後述)だけが気にはなりました。普通にパワーは出ていましたが。

名義変更は当時就職が決まって退屈していた京大のM君(最近再び一緒にバンドをやり始めた)が引き受けてくれました。こうして5181号(黒い御位牌などと言われたもんだが)が誕生したわけです。

とにもかくにも嬉しくて乗り回していましたが1ヶ月もしないうちに初めのトラブルが私を襲います。ある日京都に行くため山中越えを走行中突然パワーダウン。明らかに一発死んでいる感じですぐさま引き返し近所のホンダディーラーへ。以前ステップバンでお世話になったメカニック氏達の推理はキャブだろうということでしたが、修理はままならず途方に暮れる日々が続きます。



3)そして出会い



はじめてのドナドナ



「近所での修理は無理、スペシャルショップへ預けよう!」と決心するまで数週がかかりました。今思うと初めからそうすれば?となるわけですが、それまで乗っていたのは低年式中古車、エスは初めての本格的旧車だったわけですから無理もない話です。雑誌から芦屋の某店と名古屋の名岐オートを知り、とりあえず名岐さんに電話をしました。電話の相手は多分社長の奥さんだったと記憶します。不調箇所を説明し

「一ヶ月くらいで修理できますか?」

「そんなの、とても無理です!時間をいただかないと!」

「実はその頃ISCCの鈴鹿西コースの走行会があるんですよ、、、、、、。」

「ちょっと待ってください、、、、(ごそごそ)、、、、そういう事情ならやりましょう(きっぱり)!!」

妙な事を言うなぁ。と思った記憶があります。そのときは何も知らなかったのですが(笑)名岐オートはモータースポーツのお店でもあったわけです。(ちなみに20年近い付き合いの中で「○月○日ジムカーナがあるので、、、」という手を2回ほど使わせていただいたのを白状します。)

GWの早朝、積車を手配し(もちろん初体験)不調S6クーペを積みお店に向かいます。雲ひとつない上天気の午前10時、開店前の名岐オートに到着。思ったより古ぼけたお店に妖しいものがゴロゴロと転がって異様な感じ。メカニックのSさん(現ガレージ青木屋主人)がエンジン音を聴くなり「ヘッドまわりでしょう多分」とのこと。お店の車のエンジン音は濁りのない素晴らしい音色で、少なくとも耕運機ではありませんでした。お金がないので大体の予算を伝えて空の積車で帰路につきました。

走行会の一週間前、社長から「出来ましたよ。」と電話が。請求金額は予算とほぼ同額、ただし肝心の修理はエンジンを下ろさず出来たので格安だったようです。では残りのお金を何処に使ったの?自分の車を見ると妙に精悍な感じが、、、、。「サーキットに行くということなので足回りひと通り診ておきました。」車高は落とされリアには中古バネが組まれハブボルト全交換とブレーキ調整、、、。


ISCCの走行会では楽しく走れました。とっても(笑)。




いざ出陣!



ただこの走行会には後日談があります。たった1リッター強のオイルで走っていた事が判明します。原因は形状の良く似た他車用のオイルゲージ(ちょっと長い)が刺してあったためでした。購入後それまでに一度オイルはガソリンスタンドで替えていたのですが、上から抜いたのでので随分抜けの悪いエンジンだなと思っていました。



4)第一章 S6クーペ時代



若気の至り



そうしてこのお店との付き合いが始まりました。始めのうちは路上故障の連続でしたが、それも一巡すると故障もなくなり、いつしかS6クーペはフロントにディスクブレーキが付き、ロールバーが入り、ついにはS7になり、、、、と進化していきます。仕事の忙しい中濃厚な日々だったと思いますが、今思い返せばたった4、5年ほど。この時代、古い話なので日時が曖昧だったりします。



5)初のAHSM(オールジャパンホンダスポーツミーティング)参加





購入してすぐに近所のエスのオーナーと知り合いになりました。短期間ではありましたが近隣のエスや旧車のオーナーと集まってお茶を飲むなどということもありました。そうして昭和62年の秋、この方々と一緒に初めて鈴鹿のAHSMに参加する事になりました。

高校時代からの付き合いで当時ランタボで走り回っていた内科医のS君をさそってダブルエントリー。記憶では第10回、既にフルコース走行でしたが英国車なども参加可能だった最後の年でした。若かったのでしょうね。仕事を終えてから深夜鈴鹿に到着の強行軍、鈴鹿峠の下りで行きずりの86とバトルなんてこともやりました。

朝の車検ではオイルキャッチに不備を指摘され急遽作る事に。この時に手伝っていただいたのが旧車レースの常連Y岡さんだと思います。

サーキット場では往年のフォーミュラーと混走、夢のようなひと時を過ごしました。



このあたりの前後関係がはっきりしませんが、その後まもなくS君はAHスプライトMk-1(通称カニ目)を購入し英国車道楽に突き進んでいくのでありました。



6)浮谷邸までの往復1000キロの旅




浮谷和栄さんから頂いた手紙の消印などから、1990年の8月である事が判りました。



高校時代からの友人O君は学生時代TE71やAW11でサーキット走行を楽しみ、その後GA2にて本格的にジムカーナを始めました。彼が短期間の東京転勤を命ぜられ八王子に下宿している間、一度遊びに行く機会を窺っていましたが、彼と私の共通のアイドルでもある浮谷東次郎を偲ぶ会が市川であるというので出かけることにしました。(高校時代にがむしゃら1500キロという本を貸してくれたのもO君でした)

土曜日の早朝自宅を出発、名古屋の名岐オートで昼過ぎまで時間を潰して中央道を通り八王子に着いたのは22時ごろ、待ち合わせの場所でO君と合流し彼の下宿に泊めてもらいました。翌日早朝に2名で八王子を出発、渋滞を避けて都内を抜け、午前中には市川の浮谷邸に到着。東次郎の母和栄さん(1999年没)は熱心なクリスチャンで敷地にはなんと教会があり、そこで礼拝。お昼頃から簡単な立食パーティーがあり、そこには無限社長の本田俊博氏が来られていました。どんな話をしたかは今となっては覚えていませんが、和栄さんが凛とした形容しがたいオーラを放っておられたこと、私の車を浮谷家の人が「まるでカラスのようだ」といってくれたこと、それと東次郎の直筆の手紙を見せていただいたこと、その筆跡が丸みを帯びた女性的かつ力強い独特のもので彼の人柄を垣間見たような気がしたこと、などが思い出されます。夕方に市川を後にし、渋滞にはまりつつ深夜にO君と別れ八王子を発ちました。

実はこの後が大変でして、とにかく疲れは最高潮、徹夜で滋賀まで帰るのですから今考えれば無謀としか言いようがありません。1時間に一度SAで休憩する事にしましたが長野県でギブアップ。インター付近のラブホテルで泊まる作戦に切り替えるもネオン一つ無い。さらに恵那山トンネルのあたりで運転中金縛りに、、、、、。SAでの仮眠もエスの車中では寝付けず。午前6時ごろ自宅にたどり着いたものの、あとは泥のように眠っていたそうです。

浮谷東次郎について知りたい方はこちら



7)夜の峠に出没



昼間はこんな感じ(ゴール付近)

峠族などという言葉が生まれるもっと前、近所に二輪のローリング族の集まる峠がありました。高速道路建設のため幅を広げた林道で約一分ほどのコース、それがS峠です。路面状態は最高で対向車も無く、走るにはもってこいのコースでしたので、いつしか夜な夜なエスを持ち込むようになりました。大抵はそれほど遅くない時間帯で3往復ほどして帰るわけですが、ある晩とても速いEP71ターボに出会いました。あとで判ったことですがジムカーナ全日本ドライバー、F選手の若き日の姿でした。この峠、安全に飛ばせる事にかけては最高(もちろん違法行為ではあるが)であったため多くのモータースポーツのドライバーを輩出しているようです。



8)富山に書類なしのエスロクがある



「書類なしS600オープン 価格相談」というのをスクランバザールで見つけた。場所は富山と比較的近い。当時S6オープンへの乗り換えを模索していた最中だったのでこの話は魅力的でした。自分のクーペをベースにボディーその他を移植、改造申請はフレーム車だし純正部品同士なのでなんとかなるだろうと考えていました。

早速連絡を取るとお相手は現地のホンダ車関連のメカニック氏で自分でレストアしようと部品を集めたが、ある日書類を焼失、そのまま戦意喪失という感じでした。さすがに記憶が曖昧ですが恐らく3度訪問、始めは特急で小矢部の自動車博物館見物を兼ねて下見、次にハイラックスで行き、お金を納めてエンジンやパーツを、最後は積車で行きボディー関係を引き上げたと記憶します。

現地ではエスや英国車のオーナー達が積み込みを手伝ってくれました。非常に和やかな感じで商談が成立した記憶があります。現車はバラバラの状態で前半分の外装パーツの欠品が多数ありましたが、貴重なキーセットやケーブル、ブレーキ関係、ウエザーゴム関係等多数の新品純正部品がついてきました。



持ち帰ってすぐに泥と再生不能品とを廃棄して部品は整理しガレージに納めました。その後ただちに行動を始めればよかったのですが、レーサー製作などというよからぬ考えが頭をよぎったため二コイチ計画はあえなく頓挫。その後長い間ガレージの一等地で惰眠をむさぼることになります。

今こうやって思い出して書いていくと、この時の行動が後々のカーライフに大きく影響しているように思います。退路を自ら断ったというべきでしょうか(笑)



9)ピストンリング折損、そして別れは突然に



この頃バンパーレスにしていました。最も好きなアングル



ある日名阪スポーツランドでジムカーナ練習会がありO君(おーさん)と参加する事にしました。エスロクは一速がノンシンクロのためタイトコーナーは苦手。それでも狭いABコースをなかなかのスピードで走ります。雨だったので何回かスピンしましたがお約束のクラッチ操作でエンジンを守ります(エスの場合セルモーターを傷めるので逆走厳禁)。

そのうちコントロールタワーのオフィシャルから「タイムが出てきたけど煙もでてきたでぇ~」といわれる。見ると確かにマフラーから白煙が出ている。パワーも僅かに落ちている様子。結局自走できるものの、後日ピストンリング折損疑いということで名岐オートに入院。ジムカーナ練習会のような連続走行はオイル切れの危険性あり要注意とのことでした。



さて車を預けてAHSMも迫ってきたころ社長から電話が



社長「あのエスロククーペ、レースに使いたいという人がいるけど譲らない?」

私「えっ?でも僕の乗る車はどうなるの?」

社長「いま僕の乗ってるエスハチにしたらどうだね?なんなら鈴鹿で乗ってみりゃええがね。」



というわけで鈴鹿には社長の車で参加ということになりました。車はエスハチクーペ、英国仕様のMk-1.当然フロントディスク。さらにエンジンは社長がジムカーナで使ったスペシャル、、、、、。



おまけ)エスロククーペでの主なトラブル

バルブのシム割れ→積車で名岐オート搬入

ラジエーター水漏れ(重症)→水を補給しつつ自走で帰宅→部品宅配にて交換

雨の夜、峠でエンジン停止→JAF積車で帰宅→燃料ポンプ宅配にて交換

セルモーター不調→部品宅配にて交換

セルクラッチのセンターナット走行中脱落→惰力で山を降りて近くの自動車屋さんへ

→翌日路上に落ちていたナットを見つけその店で修理

アンメーター断線→ショップに預けている間だったので(笑)。

エンジン停止(ポイントを固定するネジの脱落)→JAFロードサービスで応急処置→自宅で修理

メインヒューズ断線→帰宅後部品取りから移植

チェーンケースオイル漏れ→名岐オートでOH→テンショナー純正部品不良で再修理に

オイルに冷却水混入→名岐オートで車検時に修理

CDI不調→ポイント式に→セミトラへ

ピストンリング折損疑い→名岐オート搬入


それで現在は?というと



2人のオーナーの手を経て、更に進化して活躍しています

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後編につづく



Posted at 2018/11/30 19:32:44 | コメント(4) | トラックバック(0) | ホンダスポーツ | 日記
2018年11月29日 イイね!

発掘!自分日記

発掘!自分日記先ほどNHKテレビをみていると「古いガラケーの写真を復元する!」という内容の番組をやっていました。
自分の3つ前の携帯電話(もちろんガラケー、しかも多分Mova)が引き出しにあったので面白がって弄っていると16MbのSONYメモリースティックDuoという記憶媒体が刺してありました。、

おそるおそるPCに繋いでみたら、認識する。

そこにはなんと!


10年ほど前にウイルス感染で急遽閉鎖した旧HPの原稿が残っていました!

当時バックアップを一切取っておけなかったことが極めて悔やまれていましたが、こんな形で再会するとは思いませんでした。ありがとうNHK!

今後数回に分けて再生できそうな原稿は、みんカラ日記や愛車紹介などで紹介していこうと思います。

まずはこのあたりから。14年前の痛い文体ですが笑ってお許しください。


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私のS800

2004年7月初稿

key words: ホンダスポーツ、S800、名岐オート、




私は昭和62年よりホンダスポーツに乗っていますから今までの経緯を書くと長くなりますので、それについては今後暇を見てボチボチと書き綴るとしましょう。ここでは2000年からの2年がかりで大修復(フレーム分離、鉄板一枚まで総バラシ)をお願いした以降のことについて書こうと思います。

理由はともかくバラバラになった車を一から作ってもらうと決意してから、まずどんな車にしたいか?を考えました。新車同様に復元するか?それともランニングコンディションで行くか?チューニングカーにするか?等々。私自身、名岐オート(現 工房名岐)さんとの長いお付き合いもありますし、その影響でジムカーナの真似事に手を染めたこともありますので「スポーツ、改造系」で行くことにしました。あまりヒストリーや純正にこだわらずに自分が楽しく乗れる車を目指すことにしました。(それとわざと転売出来ないようにしてしまう!という自虐的な想いがここにありました)というわけで注文書にはかなり過激な事を書いてしまいました(のちに後悔することになります)以下にまとめます。



「日曜の早朝に峠に走りに行く、あるいは100キロ圏内のジムカーナ会場に自走して行ける目的以外は大胆にそぎ落として軽量化してください。雨天のことは考えなくてもいいです。屋根つき車庫で保管します。幌は要りません。4点ロールバーは本格的なものにしてください。なお室内は雑巾がけができるように一切の内張りなしでお願いします。イメージ的には「レーシングカーにあとから保安部品を付けてナンバーを取得した」という感じ。スーパー7並のシンプルさ。」



今読むと顔から火が出そう(笑)。



さらにコンセプトとしては「当時(これ重要)の街の走り屋、レーシングカー風。現在ならダサい感じもなるべく取り入れる。例えばそのまま映画撮影に使えるような。という感じ」とまで書きました(笑)



私は元来「オタク系」だと自分で思っており、出来上がりはよくある英国車ショップ製作の「雰囲気重視のスポーツ」のようなものをイメージしていたのですが、上記のような仕様書を「ジムカーナ屋さん」に出したものだからさぁ大変。工房名岐、ガレージ青木屋という二つのショップによって、見えない部分に競技車両的な工夫(とにもかくにも軽量化)が盛り込まれていきました。そうして少しずつ車が出来ていく過程で「ちょっと怖くなったので(笑)」若干マイルドな方向に修正し(主にドライブ中に聴こえる「音」に関する問題、たとえばフレームとの固定方法。それとガソリンタンクの事等)2002年5月に完成に至ったわけです。

結局

機関、駆動系はちまたのSフリークの「定番、おいしいところ」をほぼ全て取り込んだ形(残るはFCRと5速だけ)になりました。

外観では色のみ地味(銀トップ白)ですが、モールなし内装なし軽量部品採用等々で恐らく50キロほどのダイエットとなったようです(オーナーが痩せんと!)。それ以外のお遊びはアルミ板に打刻ポンチでこの車ヒストリーと私の名前を打刻してボディにリベット留めしたことでしょうか。結果として転売も出来ず一生乗り続ける決意表明!みたいな車になってしまいました。まぁ、これで良いでしょう。そのつもりで作ったのだから。



長く乗るための工夫としてもうひとつ。時々気分をかえてみようというわけで、バンパーレス、ハードトップ、ビキニトップ(2004年完成)、S600グリル、ホイール3セットなどを駆使して定期的にイメチェンをはかるようにしています(なんだかなぁ)。









本音を言うとフロントウインド一式を外してレーシングスクリーンにして積車でイベント参加したいのですが、まだデザインが決まっていません。問題は左右のドアサッシの突起を如何に自然に隠す(安全のためでもあります)か?その方法が見つからないことです。



S800 今までの主な故障(完成から2005年春まで)

ガソリン漏れ→宅配で燃料計センサーのパッキン交換

セミトラ不調→路上で外して帰宅→別のセミトラに交換

タコメーターケーブル断線→ストックに交換

セルモーター異音→工房名岐で車検時修理



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いかがでしたでしょうか?昨今忘れていた「最初の思い」が生々しく(痛々しく)語られていて、ちょっと感動しております。いつになるかは分かりませんが東海大水害までの自分語りの原稿もアップしますね。





Posted at 2018/11/29 21:35:51 | コメント(2) | トラックバック(0) | ホンダスポーツ | 日記
2018年11月11日 イイね!

39thAHSM

39thAHSM昨日今日はオールジャパンホンダスポーツミーティングに参加しました。
いつものように車検係のお手伝いをしながらなんですが、今年は少し違った参加になりました。


過去の日誌にもあります「ベンツ300SLの縮小版(ベースはホンダS600)」をAHSMに展示しませんか?と打診。幸運なことに快諾をいただき、陸送(という名の実は試乗)をさせていただけることになりました。ホンダスポーツとガルウイングドアの両方の扱いに慣れているからOKが出たのでしょうか?

(ちなみにこのクルマ、先日カスタムCarという雑誌でカラー4ページの特集を組まれています。)



基本的な走りも良く出来ていてS600クーペに乗っていた頃を思い出しました。いや、トレッドが広がっている分はるかにマイルドで安定しています。
ただ窓が開かないのと、高めに表示する水温計に泣かされて、緊張のドライブ汗ダラダラ。



会場に登場。お弁当を食べて車検と立食パーティーと温泉で一日目が終了。
このイベントについてはどなたかのブログを参照ください。



翌朝は良い天気。暗いうちから当日組の車検を行い、ピットにクルマを並べます。熱気球の低空飛行。



走行会中は裏でお留守番



有名人



走行会終了後記念撮影。



ドア全開ですな。

このクルマ、本当に綺麗なラインと仕上がり。ボディのチリもぴったりです。ただやはりカスタムカーに有りがちな要改良の部分もあります。それを一つずつ直していくのも楽しみ方の一つなんでしょうね。他人様のクルマなのに「あーでもないこーでもない」とアイディアが沸きます。


てなわけで、非常に注目を集めた二日間でした。来年は40回記念大会。今度は自分の車で走ろうと思います。


さて、沢山のクルマを見たので帰路にちょっと寄り道をしたくなりました。あそこのモミジは色ついているかな?



こんな道を延々と走ります。



紅葉が綺麗。



ですが、ここのモミジはまだでした。



おしまい。

来週は自分のガルウイングドアの車でツーリング予定です。








Posted at 2018/11/11 17:55:31 | コメント(4) | トラックバック(0) | ホンダスポーツ | 日記

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