昨日はこの削除された日記がひょんなところから出てきて、うれしくて舞い上がってしまいました。しかしよくよく考えるとこれは所詮「たかだか15年ほど前に書かれた無名人の自分語り」に過ぎないということに気が付きました。ひょっとすると3人くらいにしか響かない内容かもしれません。
今回の原稿は「気が付けばもうすぐ20年、私のホンダスポーツ歴」というタイトルで2003年頃に書かれた文章の前編です。おもに昭和時代の出来事と思っていただいて良いのかもしれません。
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気が付けばもうすぐ20年。私のホンダスポーツ歴
大好きだった黒いエスロククーペ
1)夜明け前
私が4歳頃、京都の親戚がS6(多分)に乗っていて助手席に乗せてもらったことがあるそうです。でもすぐに眠ってしまったそうな。この家には117やベレGなどもあって、私が免許を取ってすぐいすゞジェミニを譲ってくれたのもこの親戚でした。
ゼッケンなんか貼っているけれど実は単なるパレード走行。サーキット初体験の図(恥かしい~)
そのジェミニに乗っていた関係で京都修学院(当時)のサファリスピードに入り浸っておりました。そのころはISCC(いすゞスポーツカークラブ)のメンバーにもなっていましたし、もっぱらスカイラインGT-Rのような箱形4ドアセダンが好みでした。
昭和60年秋、当時の店長K氏から電話がありました。「ホンダS600の出物があるので買わないか?」という内容でした。当時はそれほどホンダスポーツには興味はありませんでした。第一私はまだ大学生でしたし、おまけに受験生の身でありました。当然買えるわけも無く丁重にお断りしたのですが「気分転換に見においで。」という嬉しいお言葉が。
実車は左側面に大きな擦り傷のある赤いS600オープンでした。社員の方の所有でお値段は70万円だったと思います。第一印象はとにかく小さい!とにかく見たことも無いようなディメンジョンだった記憶があります。(見慣れたフェアレディーSRとかコンパーノスパイダーのサイズを想像していたので。)
鍵を託され乗って来いとのこと。喜び勇んで修学院周辺を走り回ったのでした。今まで経験した事のない素晴らしいエンジンフィールと排気音!一瞬にして虜になったのは言うまでもありません。
2) 購入
すべてはここから。覗き込むのは悪友O君(おーさん)
2年の月日が流れ、就職2年目の正月、スクラン(今のカーマガジン)の売買欄にて「S600クーペ黒 程度上60万」というのを見つけました。あまり深く考えず部品取りになれば良いや!とばかりに購入、実車は大阪千里の中古車店に委託販売されていました。この車、姫路の字光式ナンバーがついており、ボディのサビは比較的ましな部類でしたが、耕運機のようなエンジン音(後述)だけが気にはなりました。普通にパワーは出ていましたが。
名義変更は当時就職が決まって退屈していた京大のM君(最近再び一緒にバンドをやり始めた)が引き受けてくれました。こうして5181号(黒い御位牌などと言われたもんだが)が誕生したわけです。
とにもかくにも嬉しくて乗り回していましたが1ヶ月もしないうちに初めのトラブルが私を襲います。ある日京都に行くため山中越えを走行中突然パワーダウン。明らかに一発死んでいる感じですぐさま引き返し近所のホンダディーラーへ。以前ステップバンでお世話になったメカニック氏達の推理はキャブだろうということでしたが、修理はままならず途方に暮れる日々が続きます。
3)そして出会い
はじめてのドナドナ
「近所での修理は無理、スペシャルショップへ預けよう!」と決心するまで数週がかかりました。今思うと初めからそうすれば?となるわけですが、それまで乗っていたのは低年式中古車、エスは初めての本格的旧車だったわけですから無理もない話です。雑誌から芦屋の某店と名古屋の名岐オートを知り、とりあえず名岐さんに電話をしました。電話の相手は多分社長の奥さんだったと記憶します。不調箇所を説明し
「一ヶ月くらいで修理できますか?」
「そんなの、とても無理です!時間をいただかないと!」
「実はその頃ISCCの鈴鹿西コースの走行会があるんですよ、、、、、、。」
「ちょっと待ってください、、、、(ごそごそ)、、、、そういう事情ならやりましょう(きっぱり)!!」
妙な事を言うなぁ。と思った記憶があります。そのときは何も知らなかったのですが(笑)名岐オートはモータースポーツのお店でもあったわけです。(ちなみに20年近い付き合いの中で「○月○日ジムカーナがあるので、、、」という手を2回ほど使わせていただいたのを白状します。)
GWの早朝、積車を手配し(もちろん初体験)不調S6クーペを積みお店に向かいます。雲ひとつない上天気の午前10時、開店前の名岐オートに到着。思ったより古ぼけたお店に妖しいものがゴロゴロと転がって異様な感じ。メカニックのSさん(現ガレージ青木屋主人)がエンジン音を聴くなり「ヘッドまわりでしょう多分」とのこと。お店の車のエンジン音は濁りのない素晴らしい音色で、少なくとも耕運機ではありませんでした。お金がないので大体の予算を伝えて空の積車で帰路につきました。
走行会の一週間前、社長から「出来ましたよ。」と電話が。請求金額は予算とほぼ同額、ただし肝心の修理はエンジンを下ろさず出来たので格安だったようです。では残りのお金を何処に使ったの?自分の車を見ると妙に精悍な感じが、、、、。「サーキットに行くということなので足回りひと通り診ておきました。」車高は落とされリアには中古バネが組まれハブボルト全交換とブレーキ調整、、、。
ISCCの走行会では楽しく走れました。とっても(笑)。
いざ出陣!
ただこの走行会には後日談があります。たった1リッター強のオイルで走っていた事が判明します。原因は形状の良く似た他車用のオイルゲージ(ちょっと長い)が刺してあったためでした。購入後それまでに一度オイルはガソリンスタンドで替えていたのですが、上から抜いたのでので随分抜けの悪いエンジンだなと思っていました。
4)第一章 S6クーペ時代
若気の至り
そうしてこのお店との付き合いが始まりました。始めのうちは路上故障の連続でしたが、それも一巡すると故障もなくなり、いつしかS6クーペはフロントにディスクブレーキが付き、ロールバーが入り、ついにはS7になり、、、、と進化していきます。仕事の忙しい中濃厚な日々だったと思いますが、今思い返せばたった4、5年ほど。この時代、古い話なので日時が曖昧だったりします。
5)初のAHSM(オールジャパンホンダスポーツミーティング)参加
購入してすぐに近所のエスのオーナーと知り合いになりました。短期間ではありましたが近隣のエスや旧車のオーナーと集まってお茶を飲むなどということもありました。そうして昭和62年の秋、この方々と一緒に初めて鈴鹿のAHSMに参加する事になりました。
高校時代からの付き合いで当時ランタボで走り回っていた内科医のS君をさそってダブルエントリー。記憶では第10回、既にフルコース走行でしたが英国車なども参加可能だった最後の年でした。若かったのでしょうね。仕事を終えてから深夜鈴鹿に到着の強行軍、鈴鹿峠の下りで行きずりの86とバトルなんてこともやりました。
朝の車検ではオイルキャッチに不備を指摘され急遽作る事に。この時に手伝っていただいたのが旧車レースの常連Y岡さんだと思います。
サーキット場では往年のフォーミュラーと混走、夢のようなひと時を過ごしました。
このあたりの前後関係がはっきりしませんが、その後まもなくS君はAHスプライトMk-1(通称カニ目)を購入し英国車道楽に突き進んでいくのでありました。
6)浮谷邸までの往復1000キロの旅
浮谷和栄さんから頂いた手紙の消印などから、1990年の8月である事が判りました。
高校時代からの友人O君は学生時代TE71やAW11でサーキット走行を楽しみ、その後GA2にて本格的にジムカーナを始めました。彼が短期間の東京転勤を命ぜられ八王子に下宿している間、一度遊びに行く機会を窺っていましたが、彼と私の共通のアイドルでもある浮谷東次郎を偲ぶ会が市川であるというので出かけることにしました。(高校時代にがむしゃら1500キロという本を貸してくれたのもO君でした)
土曜日の早朝自宅を出発、名古屋の名岐オートで昼過ぎまで時間を潰して中央道を通り八王子に着いたのは22時ごろ、待ち合わせの場所でO君と合流し彼の下宿に泊めてもらいました。翌日早朝に2名で八王子を出発、渋滞を避けて都内を抜け、午前中には市川の浮谷邸に到着。東次郎の母和栄さん(1999年没)は熱心なクリスチャンで敷地にはなんと教会があり、そこで礼拝。お昼頃から簡単な立食パーティーがあり、そこには無限社長の本田俊博氏が来られていました。どんな話をしたかは今となっては覚えていませんが、和栄さんが凛とした形容しがたいオーラを放っておられたこと、私の車を浮谷家の人が「まるでカラスのようだ」といってくれたこと、それと東次郎の直筆の手紙を見せていただいたこと、その筆跡が丸みを帯びた女性的かつ力強い独特のもので彼の人柄を垣間見たような気がしたこと、などが思い出されます。夕方に市川を後にし、渋滞にはまりつつ深夜にO君と別れ八王子を発ちました。
実はこの後が大変でして、とにかく疲れは最高潮、徹夜で滋賀まで帰るのですから今考えれば無謀としか言いようがありません。1時間に一度SAで休憩する事にしましたが長野県でギブアップ。インター付近のラブホテルで泊まる作戦に切り替えるもネオン一つ無い。さらに恵那山トンネルのあたりで運転中金縛りに、、、、、。SAでの仮眠もエスの車中では寝付けず。午前6時ごろ自宅にたどり着いたものの、あとは泥のように眠っていたそうです。
浮谷東次郎について知りたい方は
こちら
7)夜の峠に出没
昼間はこんな感じ(ゴール付近)
峠族などという言葉が生まれるもっと前、近所に二輪のローリング族の集まる峠がありました。高速道路建設のため幅を広げた林道で約一分ほどのコース、それがS峠です。路面状態は最高で対向車も無く、走るにはもってこいのコースでしたので、いつしか夜な夜なエスを持ち込むようになりました。大抵はそれほど遅くない時間帯で3往復ほどして帰るわけですが、ある晩とても速いEP71ターボに出会いました。あとで判ったことですがジムカーナ全日本ドライバー、F選手の若き日の姿でした。この峠、安全に飛ばせる事にかけては最高(もちろん違法行為ではあるが)であったため多くのモータースポーツのドライバーを輩出しているようです。
8)富山に書類なしのエスロクがある
「書類なしS600オープン 価格相談」というのをスクランバザールで見つけた。場所は富山と比較的近い。当時S6オープンへの乗り換えを模索していた最中だったのでこの話は魅力的でした。自分のクーペをベースにボディーその他を移植、改造申請はフレーム車だし純正部品同士なのでなんとかなるだろうと考えていました。
早速連絡を取るとお相手は現地のホンダ車関連のメカニック氏で自分でレストアしようと部品を集めたが、ある日書類を焼失、そのまま戦意喪失という感じでした。さすがに記憶が曖昧ですが恐らく3度訪問、始めは特急で小矢部の自動車博物館見物を兼ねて下見、次にハイラックスで行き、お金を納めてエンジンやパーツを、最後は積車で行きボディー関係を引き上げたと記憶します。
現地ではエスや英国車のオーナー達が積み込みを手伝ってくれました。非常に和やかな感じで商談が成立した記憶があります。現車はバラバラの状態で前半分の外装パーツの欠品が多数ありましたが、貴重なキーセットやケーブル、ブレーキ関係、ウエザーゴム関係等多数の新品純正部品がついてきました。
持ち帰ってすぐに泥と再生不能品とを廃棄して部品は整理しガレージに納めました。その後ただちに行動を始めればよかったのですが、レーサー製作などというよからぬ考えが頭をよぎったため二コイチ計画はあえなく頓挫。その後長い間ガレージの一等地で惰眠をむさぼることになります。
今こうやって思い出して書いていくと、この時の行動が後々のカーライフに大きく影響しているように思います。退路を自ら断ったというべきでしょうか(笑)
9)ピストンリング折損、そして別れは突然に
この頃バンパーレスにしていました。最も好きなアングル
ある日名阪スポーツランドでジムカーナ練習会がありO君(おーさん)と参加する事にしました。エスロクは一速がノンシンクロのためタイトコーナーは苦手。それでも狭いABコースをなかなかのスピードで走ります。雨だったので何回かスピンしましたがお約束のクラッチ操作でエンジンを守ります(エスの場合セルモーターを傷めるので逆走厳禁)。
そのうちコントロールタワーのオフィシャルから「タイムが出てきたけど煙もでてきたでぇ~」といわれる。見ると確かにマフラーから白煙が出ている。パワーも僅かに落ちている様子。結局自走できるものの、後日ピストンリング折損疑いということで名岐オートに入院。ジムカーナ練習会のような連続走行はオイル切れの危険性あり要注意とのことでした。
さて車を預けてAHSMも迫ってきたころ社長から電話が
社長「あのエスロククーペ、レースに使いたいという人がいるけど譲らない?」
私「えっ?でも僕の乗る車はどうなるの?」
社長「いま僕の乗ってるエスハチにしたらどうだね?なんなら鈴鹿で乗ってみりゃええがね。」
というわけで鈴鹿には社長の車で参加ということになりました。車はエスハチクーペ、英国仕様のMk-1.当然フロントディスク。さらにエンジンは社長がジムカーナで使ったスペシャル、、、、、。
おまけ)エスロククーペでの主なトラブル
バルブのシム割れ→積車で名岐オート搬入
ラジエーター水漏れ(重症)→水を補給しつつ自走で帰宅→部品宅配にて交換
雨の夜、峠でエンジン停止→JAF積車で帰宅→燃料ポンプ宅配にて交換
セルモーター不調→部品宅配にて交換
セルクラッチのセンターナット走行中脱落→惰力で山を降りて近くの自動車屋さんへ
→翌日路上に落ちていたナットを見つけその店で修理
アンメーター断線→ショップに預けている間だったので(笑)。
エンジン停止(ポイントを固定するネジの脱落)→JAFロードサービスで応急処置→自宅で修理
メインヒューズ断線→帰宅後部品取りから移植
チェーンケースオイル漏れ→名岐オートでOH→テンショナー純正部品不良で再修理に
オイルに冷却水混入→名岐オートで車検時に修理
CDI不調→ポイント式に→セミトラへ
ピストンリング折損疑い→名岐オート搬入
それで現在は?というと
2人のオーナーの手を経て、更に進化して活躍しています
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後編につづく