
年に一度だけ、友人と各地の桜を巡る旅をしている。
樹齢が1000年とも2000年とも言われている桜の王や、歴史の重要人物が手植えをした、花見を楽しんだ、馬を繋いで休んだ、そんな伝説が残るような桜の神々に会いに行く旅。
自分たちのライフワークのひとつとなっている。
元々僕たちは、子供の頃から都会の雑踏や社会のよしなし事を嫌い、バックパックを背負ってあちこちを歩いて廻った。
とても純粋だったんだ。
自然の美しさにかけがえのない尊さを感じ、あらゆる動植物を可愛いと感じていた。
学生の頃の長い休みには離島や僻地にテントを背負って赴いた。
過剰生産過剰消費が基本の利便生活の矛盾を、何もない山の中できちんと理解し、何もかも自分たちの事は自分たちでやるという事の大切さを痛感する。
そうやって、自分たちにとって必要なものと実社会との距離感を測っていた。
僕たちは、よく川沿いを上流から海まで歩く旅をした。
鉄道も来ていないような所が多かったので、バスで行ける所まで行き、野営しながら海を目指したんだ。
遠くでホイッスルのように猛禽が鳴いている。
川向こうの山の斜面には、雑木林に混じって山桜がぽつぽつと咲いているのが見える。
ただそれだけだ。
だけど、そのただそれだけが、この上なく美しいと思った。
特に華美ではない。
山桜など花弁も小さいし色味も少ない、開花には若葉が混ざってしまうし鑑賞用には向かないと言っていい。
そもそも並べて沢山植わっているものではない山に勝手に咲いている自然の桜である。
だけどため息が出た。
当時持ち歩いていた銀塩フィルムカメラにこそ収めなかったが、こころのフィルムにはしっかりと焼き付けられているのである。
高校2年生の春だったか。
この時に感じた世界の美しさが、今の自分の全てなんじゃないかと思う。
お互いに社会人になり、ストイックな旅は一時中断。
あんなに嫌いだった社会の荒波に揉まれ、幾人かの女性と付き合ったのちに結婚。
ただの普通のひとになっていく。
だが、旅をしていたあの頃に見た裾野の山桜が忘れられない。長良川や古座川の澄みきった流水が忘れられない。
あの頃の記憶は、憧憬となって心のフィルムに焼き付いたままなのだ。
そして、そろそろそれらを現像してみたいと思うようになった。
そう思い立って友人のコウヘイと再び動き始めたのが10年前・・・
始まりは山梨からだった。
山梨には全国からひとが訪れるようなラスボスクラスの一本桜が多数あり、この中には国内最老桜である山高神代桜が含まれる。
これに照準を合わせると、樹種や標高的にまだ早い桜が数多くあり、いちどきに全てを見て回ることは出来ない。
今回は前回訪れこそしたものの、まだ見頃ではなかった名桜を主に見て回ることにしたのだった。
雨ばかりだった4月前半、一か八かで取った有休が大当たりで、モーゼの十戒かってくらい晴れ渡りました。
持ってるなぁ~。

大きな富士山が出迎えてくれました。
いつも花やフルーツに囲まれていて、甲斐駒ヶ岳や、八ヶ岳、霊峰富士に見守られている。
山梨は一時間程度で赴ける近県にもかかわらず、風光明媚で素晴らしい風土だと思います。
相変わらずのコウヘイの愛機ヴィッツRSで出発です。

メジャーな樹はもう終盤と予想していましたが、わに塚が意外と咲き遅れていて丁度満開という現地情報もあり、最初に一発大関クラスのエドヒガンを見て行こうということになりました。

通称「わに塚の桜」です。
過去のブログでも何度か取り上げたことがありますね。
平場の桜よりやや開花が遅いので、何度かリベンジチャレンジをしています。
この桜は満開であることもそうですが、霞の少ない澄み切った空が揃えば八ヶ岳との素晴らしいコラボが実現する有名な撮影スポットでもあります。
プロが何度も何度も通って、漸く納得のいくシチュエーションを求める。
この日はそんな奇跡のシチュエーションでしたw

とても晴れているけど、北の風が入っていてウィンドブレーカーを着ていてもかなり寒い・・・でもそのお陰でこの空気の透明度である。
南風が入ると湿気が多くなり霞がでてしまうのだ。
今日はヤバイ。
僕とコウヘイはそう感じた。

何だか出来過ぎている風景にシャッターを切りながら、春の風を胸いっぱいに吸い込むと、日頃シンナーや粉塵に侵されている肺胞のひとつひとつが浄化されていくような気がした。
菜の花の匂いがした。

神代桜のすぐ近くの無名ながら絵になっているエドヒガンも満開。
バックの甲斐駒ヶ岳が雄々しい。
こんな風に寄り道をしながら、以前にも訪れたことのある眞原の桜並木へ。

一見満開のように見えますが、並木のアーチの中はまだ3分4分と言った感じ。
ここも標高が高いので遅いんですよね。
それでも日当たりのいい東側だけが咲き進んでいて絵的には悪くない。

黄色いキャップを被っている方がだ い ですねw
古い一眼レフをしつこく使い、何とかいい絵を撮ろうと頑張っています。
コウヘイはさらりとフルサイズに買い替えてワンランク上の写真に挑戦しています。
いいなぁ・・・フルサイズ。
高くて買えないです。
ふん(´゚д゚`)写真は機材じゃネーヨ!
みたいな。

さてさて、次は割と念願だった「本村の関の桜」
ここの開花は特に遅く、
何度も訪れているものの、まともな開花に遭遇したことが無い。
しかし、今回はこの御姿である。

幹回りが大きくてなんて重厚な桜だろう。
写真の僕も満足そうである。
1973年に白州町指定の天然記念物に指定。(現在は近隣7町村合併があり北杜市となっています。)
すぐ脇の道路が旧街道であり、関所の近くだったことから「関の桜」と名付けられたと案内板には説明されています。
マイナーな樹なこともあって来客は少な目。
静かな里山の桜です。
こういう樹が渋くていいですね。
しばらくじっくりと見上げてしまいました。

次の桜もなかなか開花に巡り合えない遅い桜、
「白秋保育園の桜」です。
関の桜同様、初めて開花時期に訪れることが出来ました。

特別に由緒ある老桜という訳ではないんですが、畑から狙ったときのダイナミックな甲斐駒と保育園の桜とのマッチングがとても美しいんです。
文句なしの満開だぁ・・・
平日だったので、多くの園児たちのはしゃぐ声が聞こえてきました。
絶対に良い保育園だろうなどと思ってしまいます。

清春芸術村といういわゆるアートギャラリーへ。
桜に囲まれた美しいイベントモールです。
周辺の桜が目的でしたので入館こそしませんでしたが、いつも有名な芸術家のエキシビジョンを公開しています。
友人のコウヘイは
演劇家なので割とよく訪れているようです。
僕も博物館や美術館などは割とよく行く方なので、今度来たときは入館してみようかな。(大人1500円とちょっと高めですが。)
さてそろそろ昼ですが、韮崎エリアから少し戻って勝沼方面へ。
そこから若干山の方へ上がって乾徳山の麓は牧丘町にあるしだれ桜が目当てです。
勝沼エリアでも富士山はしっかりと見えている。
日光がトップライトにあたる南中付近では桜は白飛びしてしまってあまりいい絵は撮れない。
ので、高台にある狙いのしだれ桜の前に、麓の公民館で弁当を食ったりして少し休憩タイム。
周辺をロケハンしたり、機材の点検などをして、夕方の本番に備えます。
勝沼は韮崎よりも若干標高が低いので、基本的に桜自体は早く、
平場は殆ど終わってしまっています。
近辺の他の桜を少し一瞥してきましたが、花桃やサトザクラを残して殆ど終わってしまっていました。
川沿いの峻嶮な渓谷を登り切った所にも「天王桜」という有名な桜があるんですが、こちらは逆に蕾すらかたく絞ったままでした。
やはり孤高のしだれ一本で行くしかなさそうです。
ここはトワイライト狙いなのですが、一応日中に下見をしておきます。
「乙ヶ妻(おっかづま)の枝垂桜」
甲府盆地を見下ろす牧丘町の高台に座する樹齢200年程のしだれである。
実は昔、私だけで単独で訪れたことがあるんですが、
他の桜との兼ね合いを考えた結果やや早かった記憶がある。
当時はマイナーな桜で、日曜に訪れたのにも関わらず、観客は自分の他にアマチュアのカメラマンがひとり居るだけだった。
だが、近年どういう訳か知名度が上がったようで、多くの来客で賑わっていて驚いてしまった。
その理由の一つとして、しだれ桜周辺の樹を切ったことが関係しているのかも知れない。
自分が訪れた当時は周辺は梅林と杉が周りを覆っていて、こんなに見晴らしが良くなかったように記憶している。
数年前に大流行した梅の伝染病「PPV(プラムポックスウイルス)」が関係しているのかも知れない。
当時青梅の梅林にもPPVが蔓延し、2013年には断腸の思いで市内全ての梅の木を伐採した。
ウイルスの根絶やしには完全伐採以外選択肢はなかったのである。
勝沼など青梅から見たら山ひとつ向こうという感じ。
蔓延を防ぐために伐採をしたのかも知れない。

しかし、物事とはどう転がるか判らないもので、
その功罪というのか、副産物というのか、見晴台のように開けた高台からは富士山と甲府盆地を見下ろすことが出来る景勝地になってしまった。
梅の伐採と同時に、見晴らしの妨げになる杉林も少し切ったのが良かったのかも知れない。
有名になって観光客が多く訪れるようになったせいか、以前は行なっていなかった夜間ライトアップまでされるようになったようだ。
平日に訪れているのにも関わらず、多くの人たちが訪れていた。
土日来ていたら撮影どころではなかったかも知れない。
なるほどなるほど、随分と状況は変わってきているようだ。
しかし、なんという凄まじいロケーションであろうか。
山の斜面に咲く巨大な枝垂れ桜と、澄み渡る青い空。
遠くに甲府の市井を見下ろし、その背景には冠雪の霊峰が堂々と座している。
神や妖の存在を身近に感じるような、現実感を失った世界がそこにはあった。

時間つぶしに少し近所を散策してみる。
土壁の蔵や納屋、古い神社や、民家の花桃などを横目に山梨という所の風土を感じている。
辺鄙な里山だと思う。
一言で言えば田舎だ。
人の手の入っていない原始の森も美しいが、こうやって人が不便な山奥にきちんと順応して自分たちの暮らしをしているという事そのものが美しい。
共存のカタチが美しいと感じるのだ。
環境が厳しければ厳しいほど、身の回りが必要なものだけで構成されていく。
あっても無くてもいいような無駄なものがあまりない。
家の造りも、クルマも、一人ひとりの趣味や人付き合いも、どうでもいいようなくだらないものが無い。
田舎は封建的だという。
狭い世界でまとまっているから、人間関係なども濃くなっていくんだろう。
でもそれは、その世界で生まれ育った人には当たり前の事なんだろうし、都会人のように隣の家の人の事も知らないと言ったスタイルだと、きっと生活していけない。
「田舎暮らしが憧れでした」なんて言いながら外から来た人では、相当砕けないと馴染んで行けないと思う。
だから、ここで生きていく術や正解というものは何だろうとか、人々の暮らしぶりや人柄を見て想像したりする。
「ヲレだったらここで生きていけるだろうか」
とか、
考えたりしますね。
僕やコウヘイは多分生きていける。
まぁ、コウヘイは判らないが・・・僕は大丈夫な気がする。
何故⁉自然が好きだから???
否。
確かに自然は美しいが、それが好きかどうかは問題ではない。
どんな環境にでも順応できるかどうか、という割とシビアな話なのである。
僕もコウヘイも、東京に生まれ東京に育った都会人であることは間違いないだろう。
だがしかし、こころのやり取りそのものを淘汰していく集団密集生活にはずっと辟易しながらやってきた。
コウヘイもそういうタイプの人間だったから、僕と一緒にしていた「旅」の中に求めているものが同じだった。
結果と利益だけを求め、周りを顧みずに最短距離を行く生活。
上辺だけでやり取りする人々。
その何処に人間としてのサティスファクション(本当の満足)があるのか判らなかった。
死ぬほど沢山の人間が居るというだけで、そういう感じになってしまうのだ。
東京は全国から利益を求めて人が集まる多民族国家みたいなものだから、ギラギラした奴らが多いのは確かだ。
他の奴を踏みつけてのし上がっていい生活を手にした奴だとか、蹴落とされて心に傷や闇を抱えて能面みたいな顔でやっと生きてる奴だとか、いろんなクソ野郎が沢山居る。
そして、どちらも思ってるのは「気を許せばやられてしまう」という猜疑心だろう・・・
そりゃ、玄関の扉を閉めたら直ぐに鍵を閉めたくなる気持ちも解る。
四人に一人はメンヘラだと言われている今の社会で、どれだけ心豊かに生きていけるかどうかというのは、人生の大きな課題だと思う。
それは本当に思う。
どれだけ仕事ができるとか、どれだけ技術があるとか、どれだけ金が稼げるとか・・・どれもそこそこは必要だけど、一番必要な事じゃない。
一番大事なのは、人と如何にうまくやれるかどうか。
この一言に尽きる。
如何ににいい友達が出来るか、
如何に同じ会社のひとと仲良く出来るか、
如何に妻や子供といい関係でいられるか、
如何に今日会っただけの誰でもない人と笑顔で過ごせたか、
人生の全てはここに集約されていると思う。
昔はそれが判らなかったから、
「僕が僕であるために」と思う事に必死で、人を傷つけて、結果自分も傷ついていた。
技術や知識があれば何とかなる、アイデンティティーをなくしたら終わりだと思っていたけど、実際はそうじゃなかった。
何時だって何かを壊すのは自分自身。
人間これ以上大切なものを失う事があるだろうか、と言う程の挫折も味わった。
自分がこれまで大事だと思っていたものが、実はそうでもない。
あまり自分を守り過ぎる事に意味が無いんだなぁ、と思うようになった。
元々直感で判断するシンプルな脳なので、
気付くことで方向転換出来たのだ。
誰とでもうまくやれれば、何処でだって生きていけるんじゃないかなぁ。
きっとその方が楽しい、
とね。

思っているよりも日没が早かった。
高台だからもう少し西日が残ると思っていたが、山を登っている最中に捉えたこの一枚を最後にバーミリオンの残光は山陰に遮られてしまった。

一気に辺りは暗くなり、ぽつぽつと街の灯りが輝きだす。
ここからが本番なのだ。
ここだという場所に三脚で陣取り、深まっていく宵闇の中でカメラの撮影モードや、シャッターレリーズの動作確認などをする。
あまり明るいレンズではないので、F値を上げ過ぎるとスローシャッターになり過ぎてしまう。
なるべくパンで撮りたい。
かと言ってISO感度は極力上げたくない。
バランスの難しい所なのだ。
「このレンズはこういう場面で絶対にゴーストが出ないからいいよ」
「何とかさんがインスタで言ってたから真似して買ってみたんだけどいいよ」
「ツイッターの○○ってひと××ちゃんだったんだ」
「え~、ラインのスタンプってそんなに儲かるの?」
「とにかくね、いいものはどんどん真似しないとね、道具で決まるからね」
自分よりやや高いベストポジションにさっさと陣取ってた野郎が、近くのカメラ女子みたいなのにデカい声で能書き垂れてるのがさっきからうるさい。
アマだかプロだか知らないが、ちゃんと写真を判ってるような奴が話すような内容じゃない。
普段は温厚なヲレだが、何だかイライラするぜ。
(僕や私で通してきたのについにヲレが出てしまう・・・)
道具で決まるだと?
思ってても言うんじゃねえよクソが。
前のくだりでヲレが垂れてた能書きと逆行するんだよ。
大して出来そうもない奴ほど、現場でウンチクを並べたがるのはクルマもカメラマンも同じだな・・・スペックばかり気にする奴には信念がない。

そうこうしていると遂に桜の周りのスポットライトが点灯し始めた。
ライトアップが始まったのだ!
グレー一色だと思っていた空が、対比で鮮やかなブルーに変わる。

驚くべきことに、無風だった。
最高でISO400のまま、10秒まで開けたがブレは殆ど無かった。
風に揺れやすい枝垂れ桜では有難い異例のシチュエーションである。
後ろのクソ共も流石に黙って息を呑んでいる。
最低限の心得はあるようだ。
一体何だこれは、こんな事があっていいのかという雰囲気に包まれている。
皆黙って一様にシャッターを切っている。

数秒おきに青の濃さが増していく、蒼が青になり、藍色になっていく。
僅かな残り時間で究極を追求するエンペラータイムである。
どう撮っても美しくなってしまうのが逆に難しい。
スローシャッターは記録に時間が掛かるので、その時間すら惜しい、長いと感じてしまう。

一番いいと思う所では結局みんなが集中するので、ありきたりになってしまうのではないか・・・少し下から回り込んで狙ってみると三日月が入れられる。
月齢は3.8、上弦の月である。
コウヘイがあろうことか三脚を忘れたというので、いい感じの所で代わるがわる撮影していた。
だけど、その間じっくりと肉眼で見上げる時間が出来たんだ。
写真はストイックになれば成る程、何を撮っているのか判らなくなる時がある。技術や構図の黄金比に拘るあまり、もはやそのものを見ていない時がある。
「いや~、今日のは良かったな。」とか言いながらロクに桜を見ていないで帰るという事になるのだ。
普通の人にとって写真は、その時の思い出だとか、記録、追求があるとしたらありのままが写せればいいのにとか、そういう所だと思う。
しかし、写真家と言った辺りに足を突っ込んで長くやってる人にとっては、自分の中にある理想のイメージの具現化作業なのである。
電線や看板などの人工物を入れたくないだとか、色の対比が悪いものは写らないようにするだとか、ありのままを写そうなんて気はさらさらない。
それそのものの、そのままの姿を全然見ていないじゃないか。
そう気づいたのは子供の運動会を見に行った時だった。
結局自分の子供のハイライトシーンは全てファインダーしか覗いていなくて、自分の肉眼で全く見ていない事に気づいてしまったのだ。
だから、カメラを構えないで肉眼で静かに見上げているという時間がこんなにも贅沢なんだなぁ・・そんな風に思ってしまった。
「美しいなぁ・・・。」
この日初めて本当にそう思ったのかも知れない。
インスタだか何だか知らねえけどさ(やってるけどw)、写真もクルマも仕事での人付き合いもそう、なんでも上辺ばっかり取り繕ったって駄目だよな。
メッキなんか直ぐに剥がれてしまう。
それを何のためにやってるのかって信念が無いと、心が伝わらない。
僕たちにとっての桜は、若き日の僕らの原点を象徴しているようで、その懐かしい日々を再び表現したいだけだった。
だけど、表現者としてのゴーグルを取っ払えばこんなにも美しいという事が言葉ではなくてこころで理解できる。
後ろの連中にイライラしていたのは、あいつらがクズだからではなく、
自分たちもそうなりかねないという事が気に入らなかったからなのかも知れない。(まぁヘラヘラした野郎だったけど)
人が嫌いだった学生の頃は、植えてある桜には余り興味を持てなかった。
だから山の斜面に一人で咲く孤高のヤマザクラに共感を抱いた。
でも、今追いかけている里山の桜は決して自然の美ではない。
当時の人々がいろんな想いを込めて植え、みんなで守っているから今年も咲くのである。人の手によって生み出される美である。
「ヲレだったらここで生きていけるだろうか。」
このシダレザクラは現にここでしっかりと根を張って今年も立派に咲いている。
でもそれは、周囲の人々に愛され面倒を見てもらってきたからに他ならない。
自分がその時々に追う人生の縮図を、常に桜が体現しているんだという事に気が付いた。
ただただ綺麗だと感じるものを追い求めているだけだと思っていたのに、
自分が思い悩み、挫けた自分にいつも方向を指し示してくれるのが桜だったんだ。
今回は人生哲学みたいな詰まらない話になってしまったけど、
桜には縮図がある。
宇宙があるんだ。
曼荼羅みたいなものか、
でもこんな姿を見たら、強ち嘘でもないって思いませんか?
最近は長いブログは流行らないってさ。