昨日の日曜日は、来年度新卒者対象の合同企業説明会のため休日出勤でした。
毎週日曜日に更新していますが、今日は代休のため、一日遅い掲載となりました。
6日の土曜日、長野県須坂市で難聴の治療を受けました。
帰路は菅平から鳥居峠を抜け、大前から北軽井沢へ向かいました。
先週、軽井沢駅前に展示されている草軽電鉄の小さな電気機関車を見学しました。およそ60年前に廃止された軽便鉄道ですが、北軽井沢に駅舎が残っていると知り訪問しました。
北軽井沢駅の正面です。
元々は地蔵川という駅名でしたが、近所に法政大学が大学村を拓き、この駅舎を寄贈した際に改名されたそうです。
欄間に「H」模様が並んだデザインは、法政大学の頭文字を並べたものだそうです。和風意匠の木造平屋建ての入母屋造り、外壁は白漆喰塗りです。
2007年(平成18年)に、国の登録有形文化財に指定されました。
草軽電鉄にはおよそ22の駅がありましたが、ここは現存する唯一の駅舎。
駅で手にしたフリーペーパー「きたかるvol.5」に、その経緯が掲載されていました。何と元北軽井沢駅員の黒岩謙さんが、長い間自費で維持していらっしゃったのだそうです。以下に記事を抜粋します。
中学を卒業して2年目に草軽電鉄に入社しました。それから昭和35年4月25日に北軽井沢駅が廃止になるまで、駅員としては9年間。
(※中略)
駅が廃止になって数年でボロボロになってきて、これは潰れちゃうなと。草軽の本社に行って「貸してくれ」と言ったら、貸すには貸すけどお金は出してやれないって。だから自腹で直しました。壁は布張りにして、本体には傷をつけないようにして。何百万もかけて、きっと夜逃げするよっていう人もいましたけどね(笑)。もう10年遅かったら、建物はダメだっただろうね。昭和47年の4月から平成13年の10月まで、29年と7か月。スナック「麗峰」をやりました。
(※中略)
店をやめるときには、長野原町に買ってもらえるよう本社との間を取り持って。最後まで面倒みれてよかったですね。なんでそこまでって?とにかくここを潰したくなかったから。私のライフワークだからね。
一人の元駅員さんが長年に渡って維持に情熱を注いだ駅舎は長野原町に買い取られました。町は2006年(平成17年)、旧草軽電鉄や北軽井沢の歴史を後世に伝える目的で改修工事を実施しました。その後、この駅舎はその土地を知る上で重要な建物であり、また広く親しまれているため「国土の歴史的景観に寄与しているもの」に該当すると考えられ、登録有形文化財となったそうです。
若かりし日々に草軽電鉄に奉職された元鉄道員の情熱が大きな実を結んだことを知り、胸が熱くなりました。素晴らしき人生、気高き魂です。
駅名票です。
おそろしい程達筆な毛筆です。ゴシック体の大きなローマ字表記は、土地柄外国人が多かったのではと想像しました。
出札口です。
昔の駅には、切符の自動販売機などありませんでした。
ボクが子供の頃、まだ東京の駅でも行先を伝え、中の駅員さんから切符を買いました。当時、まだ分厚く硬い紙製でした。
運賃表です。
新軽井沢まで大人130円!
昭和35年に廃止された鉄道の料金としては極めて高い設定です。ローカル赤字私鉄の厳しい経営状況が察せられます。
デキの模型が展示されています。
高原を走る写真が展示されています。
噴煙を上げる浅間山も。火山噴火の威力を知らされます。
駅の歴史の説明板です。
駅舎内部から改札口を望みます。
外に何か見えますね。
この時代の駅に見られる、堅牢な木製のゲートが。
この脇に駅員さんが立ち、挟みをカチャカチャ鳴らして切符を切ってくれたものです。
ホームにはデキ13の姿が。
実物は軽井沢駅前。これは木製のレプリカです。
デキの前にも、説明板がありました。
さて。こちらは駅と道を挟んだ北軽井沢ふるさと館です。
草軽関連の品が展示されていると聞き訪れました。
機関車、貨車、客車の三両編成の大きな模型が。
こんな素敵なものが、自宅にも欲しくなりました。
北軽井沢駅で使われていた鉄道電話の実物です。
このデザイン、素敵です。
運転手さんがかぶっていた帽子です。
これは凄い!
二度上駅の駅名票です。
旧二度上駅跡は道路から隔絶された山の中で、草軽の廃線跡を訪れる場合、最も難度が高いのだそうです。おまけに熊の出没地域。行ってみたいのですが、素人に無理は禁物です。
当時の時刻表です。
「混」とあるのは混合列車。客車と貨車の両方が連結されます。
素敵なイラストが沢山ありました。
当時の写真はモノクロが大半、高原を走ったこの鉄道の雰囲気を知るには、これらのイラストの方がいいと思いました。
こちらは国境平。
三笠。
小瀬温泉。
新軽井沢。
長日向。
東三原。
帰路。
抜けるような青空に映える冠雪の浅間山を撮りに行きました。
これは、ホテル軽井沢の近くで撮影しました。
こんな風光明媚な高原を、ちっちゃな電車がコトコト走っていたとは、今となってはまるで夢物語です。
軽井沢から草津に掛けての観光開発は、今も昔も西武系列の会社が多く知られています。実際、西武バスは軽井沢エリアで路線バスを運行しています。
そんなこの地で、草軽電鉄は東急電鉄の系列だったそうです。路線の廃止により会社側が提案した代わりの職場は、何と同じ東急電鉄系の伊豆急行だったそうです。黒岩さんのようにこの地に残った方もいましたが、多くの鉄道員とその家族が、海岸を走る鉄道へ赴いたのだそうです。
ボクは亡き親父が勤務していた東京の製紙工場が環境問題で閉鎖となり、中学校入学の直前に地方都市に移りました。馴れ親しんだ土地からの片道切符。移住先は言葉や価値観が異なる土地柄で、あまり良い思い出がありません。あの頃は毎日のように東京時代が思い出されたものでした。
観光地を走るという点は共通していますが、高原と海岸では環境が全く異なります。並大抵の苦労ではなかったことは、想像に難くありません。
それぞれの人生に、それぞれのドラマがあることを再度認識した訪問でした。
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Posted at
2019/04/08 16:04:03