関東地方への旅行です。
まずは飛行機で羽田空港へ移動。そこから京浜急行+横浜線で東京都八王子市を訪れました。
八王子市は八王子千人同心、滝山城、八王子城の名城など以前から訪れたかった史跡が点在します。
最初に、
信松院を訪れました。
信松院は、武田信玄の四女(六女ともいう)、松姫尼公を開基とする寺院です。姫は永禄4(1561)年に生まれ、7才のとき織田信長の長男信忠と婚約したが、その後、武田・織田の両家が不和となって、この約は果されませんでした。
天正10(1582)年武田氏滅亡の際、姪たち数人と八王子に逃れました。後、下恩方町の曹洞宗心源院の卜山禅師により仏門に帰依し、この地に庵を建て教化にもつとめ、元武田家家臣である八王子千人同心や大久保長安の心のよりどころとなり尊敬を得ました。
元和 2(1616)年、56才でこの地で没しました。法名は、信松院殿月峰永琴大禅定尼です。本堂の裏側(西側)に墓所があります。
近くには、
大久保石見守長安陣屋跡があります。大久保長安は、八王子城落城後、関東に入封した徳川家康の代官として新八王子宿建設にあたり、街並の南側に陣屋を置きました。ここで関東十八代官の頭として関東の統治を行いました。
陣屋の範囲ははっきりと判りませんが、鬼門の方向に稲荷社を置いたとされています。産千代稲荷神社鳥居左手に「大久保石見守長安陣屋跡」の石碑が建っています。
滝山城は、永正18(1521)年に山内上杉家の重臣で武蔵国の守護代大石定重が築城し、高月城から移転したと伝えられています。
天文15(1546)年に、北条氏康が河越野戦で扇谷上杉氏、山内上杉氏の勢力を武蔵国から排除すると、大石氏の当主であった大石定久は北条氏康の三男氏照を養子に迎えました。
滝山城は、永禄元(1558)年前後に北条氏照によって大改修が行われたと考えられています。
大石氏時代には、現在本丸と呼ばれている主郭を中心として、二の丸と呼ばれている郭付近までであったと考えられており、小宮郭などその他の郭群は北条氏照時代に拡張されたものと言われています。
永禄12(1569)年、甲斐の武田信玄が小田原攻略の途中で、二万の兵で本城を囲み、二の丸まで攻め寄せるほどの猛攻を加えたが、城主氏照を中心に城方もよくこれに耐えて守り抜き、落城をまぬがれたという。しかし、この戦闘の後、氏照は武田に備える戦略上の利点から八王子城を築き、天正12(1584)~1587)年頃に、その居を移しました。
現在は、都立滝山自然公園となっていて、城跡も空堀や土塁、虎口など遺構がよく保存されていて、見応えのある城です。
滝山城の虎口
滝山城の石碑
宗関寺は、山号は朝遊山、宗派は曹洞宗の寺院です。
八王子城の東側にあります。
延喜年間(10 世紀初め)華厳菩薩が開基した寺です。後に北条氏照が、永禄7(1564)年に牛頭山寺として再興しました。
天正18(1590)年の八王子城の落城の際に本堂などの建物は焼け落ちましたが、後に再興され、氏照の法名から「宗関寺」と命名しました。
元禄2年(1689)7月11日、氏照百回忌のおりに菩提を弔うため鋳造された銅造梵鐘が残っています。
八王子城東側、宗関寺の西側には
北条氏照および家臣墓があります。北条氏照の供養塔は百回忌追善の際建立したものです。このあたりはかつて宗関寺のあった場所だそうです。
北条氏照は北条氏康の子で滝山城主大石定久の後を継ぎ、戦国時代広く勢力をもった武将です。
永禄10(1568)年には滝山城で武田勢の攻勢を守り抜き、同11(1569)年9月には三増峠で武田勢と戦うなど歴戦の武将でした。その後滝山城から八王子に居城を移し、榎本、古河、栗橋、小山などの数城を併有しました。
天正18(1590)年小田原攻めの時は自らは小田原城に籠城し、八王子城は家臣に守らせました。
八王子城は豊臣秀吉の武将前田利家、上杉景勝と戦い落城し、氏照は小田原城開城後の7月11日小田原で自刃しました。法名は「青霄院殿透岳宗関大居士」です。
両脇は中山家範および信治の墓です。中山勘解由家範は八王子落城の際、城とともに討死しました。
中山備前守信治は家範の孫、信吉の子にあたり水戸藩の附家老です。
中山家範の最期に感銘した徳川家康は、中山照守・信吉の兄弟を召し抱えました。そして信吉は水戸藩の附家老となりました。
八王子城は、北条氏照によって築城された山城です。
氏照は当初、多摩川と秋川の合流地点にある滝山城(八王子市・国史跡)を居城としていました。
しかし、永禄12(1569)年武田信玄が滝山城を攻撃し、落城寸前にまで攻められたことから、強固で広大な八王子城の築城を思い立たせたといわれています。
築城の時期は明確ではありませんが、元亀から天正初め(1570年代)に築城が開始され、天正年間の中頃に氏照が八王子城に移ったと考えられています。
天正16(1588)年には、豊臣秀吉の来攻に備え、兵糧の確保や兵士とその妻子の入城を命じ、守備固めの準備を急いでいます。
氏照は天正18(1590)年の秀吉の小田原攻めでは小田原城に籠城し、八王子城は家臣が守りました。
6月23日、小田原在城の城主氏照を欠いたまま、豊臣秀吉の小田原攻めの一隊前田利家・上杉景勝などの軍勢の猛攻を受け、一日で落城しました。
昭和26(1951)年、国の史跡に指定され、平成18(2006)年に日本100名城に指定されています。
城跡はかなり大きく、居館地区と山城の要害地区に分かれます。
居館地区は、城山川沿いの山腹に御主殿と呼ばれる大きな館跡と、その東側にアシダ曲輪と呼ばれる曲輪が残っています。御主殿跡は城主・北条氏照の居館跡とされ、アシダ曲輪は有力な家臣の屋敷跡と考えられています。
御主殿跡の調査では、大きな建物の跡や石を敷いた通路、溝などが発見されており、庭園もあったようです。石垣と曳橋、城門などが復元され、美しい状態で整備されています。
八王子城、駐車場入口に立てられた新しい石碑
八王子城管理棟入口
管理棟付近の石碑
復元された曳橋と御主殿
石垣
御主殿。江戸時代初期に描かれた八王子城古図に「北条陸奥守殿御主殿」と記されており、城主北条氏照が居住していたところです。
御主殿の滝。
八王子城落城の際に城中の婦女子が身を投じたため、川の流れが三日三晩赤く染まったという伝説があるそうです。
曳橋と石垣
要害地区は、急な斜面で守られた城山山頂から尾根の上に造られています。山頂付近には本丸・松木・小宮曲輪があり、西側には詰の城と呼ばれる曲輪が残っています。八王子城の攻防戦では本丸は横地監物吉信が、松木曲輪は中山勘解由家範が、小宮曲輪は狩野一庵が守備していました。管理棟から要害地区への途中にも曲輪が点在し、金子丸は金子三郎左衛門家重が守備していました。
また、山頂近くには延喜13(913)年に華厳菩薩妙行が山頂で修行中に牛頭天王と八人の王子が現れました。その因縁で延喜16(916)年に八王子権現を祀ったといわれている八王子神社があります。この伝説が八王子の名称の由来になったといわれています。
管理棟から本丸跡には40~50分程度かかります。地元の人のハイキングコースにもなっているようです。
要害地区への登山道です。
金子丸
八王子神社
本丸。小さな社は、本丸を守り落城寸前に奥多摩へ落ち延びた横地監物が祀られています。 もともと、東京都奥多摩町にありましたが、ダム建設で湖底に沈んでしまうためにここに移しました。
日本100名城に指定されている山城だけあってかなり見応えのある城です。夏の暑さもあってかなり体力も消耗しました。
この次は、武田信玄と北条氏が戦った三増峠へ向かいます。