2.MTの消えない優位性とは
「これが有るから、マニュアルは止められない」と言うポイントを探ってみたい。実は、情緒的要求とは別に今日メカニズムも多様化し、クラッチレスのMTもあるので、その分析から始めましょうかね。
クラッチは、元来変速機構とは別の機能であって、主体はあくまで減速比を変える事なのだが、自動車の歴史上、クラッチ機構無しには成立させられなかった。シンクロ機構が出来たことで、走行中の素早い変速。。というか、回転を余り合わせる事が出来なくても変速出来るようになった(いわゆるダブルクラッチが不要に)。従って「変速する」と言う事だけで見れば、クラッチレスはなんらMTと競合せず、MTのクラッチ操作を取り除いた進化である。ところが現実にはクラッチは動力の連結を断続する機能を持ち、これが車の運転に全く違う役割を与えている事は、案外顧みられていない。
バイクの2スト小僧なら、クラッチを滑らせて一旦パワーバンドに入れてから、繋ぎ直したり、アクセルを戻さずに、一瞬クラッチを滑らせてトラクションを取り戻したり、、とエンジンとトラクションの関係に置いて、隠れた機能がある。車でも使う時は有るが、エマージェンシー的な使い方ではある。一方でコンビニに突っ込むAT車の事故が問題となっているが、脳生理学的に、MT車ではこういった事が起きない。それはアクセルとブレーキというプラスとマイナスの動作以外に、「ゼロ」を仲介する左足が有るからです。
足は脳から遠いため反射で動くまで習慣化し、普段気付かず歩いていますが、MT乗りは咄嗟の場合にクラッチを踏むため、間違っても車が飛び出す事は無い。また、右足でのアクセルブレーキという使い分けと違い、左足はクラッチ断続という単機能に特化しており、反射に「判断」が要求されません。
それから全くの私見だけれど、右利きの場合AT車では左手は遊んでいる場合が多く、右手がハンドル操作の主体になり、右足はアクセルブレーキと忙しく、逆に左足は遊んでいる。つまり常に論理脳の左脳が主体となり、右脳は眠ってしまう。私の場合、右脳人間と思っているのでMTの場合は左手左足を動かすことで右脳が活発化することが、脳活動的に心地良いのかな?と思ったりもする。(根拠ないけどMTに乗ると感情が活性化するのは右脳も働くからだと思う。
ちょっと寄り道すると、視覚を主体とした認知活動をする現代人は、おかげで最も発達した大脳皮質視覚野が行動の主導権を握っているとも言われる。さまざまな感情思考も大脳の働きではありますが、心というか、魂部分はA10神経を介して、実は古い脳と繋がり(欲を)制御されているようです。元来「気持ち良いとか、感動するとか」の心の部分は視覚よりもむしろ、触角や嗅覚、筋肉や内臓を通して喚起されやすく、イメージ、感覚脳の右脳は古い脳幹と仲が良いようです。なので、単なる右手右足の動作と言う意味以外に、案外心や感情と繋がった働きがあるやもしれません。:興味のある方は「共通感覚論/中村雄二郎著」を読むと大変興味深く面白いですよ。)この方面は、これ以上深入りしませんが、意外と・・・・w。
横道に逸れましたが、話を戻すと、
このように、MTには「変速する」という主機能以外に、動力の断続を行う機能があるのです。2ペダルMTが市販化された時、「これぞ理想のトランスミッション!」と喜んで試乗して見たが違和感全開!。
「あれ?、なんかちがう」
クラッチを踏むという労働から解放されて「変速操作」という主任務に集中させてくれるこのクラッチレスの違和感は、先に述べた動力断続の「意思」を奪われた事が、事のほか重大だった事に気付かさせてくれます。カミサンに言わせれば「全く理解不能」ということになり、彼女のクラッチ操作には、スイッチャブルなオンオフスキルしかなかった事が分かる。
これに伴う2次的な機能が「リズムと間」である。シフト操作が素早くなると、クラッチ操作は全く無駄な動きであって、一瞬で変速してくれるDCTは、能書き垂れる趣味人に「あんた、おせーよ」と言い放つ上に、ブリッピングまでしてぴたりと収めてくれる。この上、何が問題だ!とまるでカミサンと同じ事を言っているようです。
ところが私の場合、このようなDCTに乗ったところ、早々にATモードにしてしまった。なぜか?。「変速操作」が面倒なのである。これは実に面白い心理変化で、変速操作=エンジンのおいしいところを対話しながらギアを選ぶと言う、全く今や無駄な知的労働を楽しもうと言う原始人であったのに、原始人に戻れないのです。ただのものぐさ親父モードに戻ってしまう。これはセガラリーをやり過ぎた弊害かもしれないが、変速ボタンを押す行為が、妙に戦闘モードを消沈させてしまうのです。MTならシフト操作が面倒などと思ったことも無いのになぜ?。
これは私固有の問題かも知れません。つまり、私の場合はクラッチを断続してギアを選ぶ「間」をある種のメトロノームとしており、これによってアクセルをもう一度合わせ直す事になり、これが無いと究極の突っ込みモードになってしまうというか、楽しいレベルが公道ではヒンシュクレベルになるからだとわかって来ました。
つまり、変な話だけれど、MTの変速操作とクラッチ操作はもちつきの合いの手のようなもので、不可分なのですね。あれだけ、強化クラッチで渋滞で嫌になったのに、なぜかクラッチを踏みたいのですよ。これは合理的(タイム短縮)ではなく、機械操作の手順感とでも呼べばよいだろうか、変速を1度行う度に、ドライバーと車の同期は1回リセットされる。このサイクルを何度も回して走るわけですが、DCTの手動変速だとアクセルは変えず、ギアだけが勝手に変わるだけで、ドライバーと車の対話もリセットされない。ならばより好都合に思えるのだが現実はそうでもない。息が続かないのです(仕事モードな走りになってしまう=無駄を削る、タイムを詰める)。これはサーキットに行かないと楽しめないなと。
では、主役の「変速操作」は必要なのだろうか?。今日のエンジンパワーバンドは相当に広く、小排気量をピーキーにチューンして狭いバンドを繋ぎながら走った時代とは異なる。50cc2気筒2ストローク14段変速、、などと夢のようなGPレーサがサーキットを走っていた時代ではない。私のBLEだとAT5速とは言え、たいていの峠は3速固定で十分だし、タイトヘアピンでも2速でOKですからね。(でも2.0Rは2-3-4と使ったな)
これにはエンジン側の特性もあります。エンジンにはトルクバンド以外に、気持ちの良いエリアが存在する。恐らくダウンサイジングエンジンには余りないと思う。良く出来たNAの特権でしょう。その気持ち良いエリアを選んで走らせるところに醍醐味があるし、「お互い、わかっているな」と機械を擬人化して錯覚する相棒感があります。ところが、良く出来たATは、そんな事しなくても気がつかないぐらい良く動いてくれるのです。技術面、合理的な変速の意義はATのCPUがよほど十二分にメカを理解しており、「普通に走る場面では」人間に変えて頂く必要はもはやないと言えるでしょう。
ここでもう一つの「MTの決定的優位性」を最後に述べておきます。
それは、お気づきだろうけども、ドライバーの予測機能が使えると言う事です。どんなに機械が進歩しても、ATはあくまでアクセル操作による「エンジンへの指令」に基づいて意思を持ち、ブレーキによる車速の変化に対応して変速する。従って、いかに変速が0.03秒でプロ並みだ!と広告記事は持ちあげても事後操作になる。人間は先を読んでいるので、ただのよーいドンならそうかもしれぬが、交通の流れに乗った○トルでは、変速操作は既に先読みで行われているため、物理的タイムラグはあっても、ストーリ的なタイムラグは無い。なので、運転的には途切れなく思考が続くが、逆にATではトルク切れは無いかも知れないが、変速の思考切れが生じる。予測が甘くなり(楽になり)場当たり的に「その時」変速すれば良くなり、ドライバー側の覚醒が減衰される気がします。(不自由が絶えず人間を鍛えている事になるのと反対に)
なので、2ペダルの場合には純粋に「パワーバンドを外さんといてね」という注釈付けて機械に委託し、当人はインプットに専念する運転。なので、私の場合には、ATとは、トルコンだろうが、CVTだろうが、エクストロイドだろうが、DCTだろうが、クラッチレスはAT。クラッチ有りはMTという心情的分類になります。
アイサイトが進化して、前方で挑発している車とドライバーの性格を読んで「今ですよ!」とシフトダウンしてくれれば、ATもいいかもですが(笑)。(もっとも、その時は「後ろに覆面ですよ!」という機能も必要だがw)
つづく
話は変わって、スバルのジュネーブショーの話題を紹介します。いよいよボクサーディーゼルにCVTの組み合わせで出るようですね。相性いいのか、悪いのか興味深いですね。
Exhibition Outline of the 83rd Geneva International Motor Show
http://www.fhi.co.jp/english/news/press/2012/13_02_07e_1_86983.html
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私的なミニ哲学の泉 | クルマ
Posted at
2013/02/10 21:29:14