車と違って、バイクは峠を普通に走っていても、「怖い」と思うことが有るのはなぜか?。
ある程度、うまく走れている慣れた人でも、道路や、天候条件が悪化すると「怖い」は有る様子。
このような感想をお持ちのバイク乗りの方は結構多いと思います。
それは端的に言えば、「車はハンドルを切れば、その切った方向に曲がる」と言うこと。ドライバーのハンドルを切るという行為=車が進路を変える、、と言う結果に直結します。(ただし、その反応速度や、曲がる角度、場合によってはアンダーステアで狙ったところまで曲がらない、、と言うことは有るにしろ、、)
しかしながら、バイクではライダーが「曲がろう」と思ったことを、即座に正確にバイクに伝えることが出来ないという特性が有ります。
だから、ライダーが時々「怖い」と感じることの大半は、「思ったように曲がらない」と言う感情が沸くことで、それを客観的に表現すると「実はライダーが思ったようにバイクに曲がる入力を入れられない」と言うことなのですが(;^_^A、うまく乗れていないケースの大半で、そのことが自覚されていません。実は普段は意識しなくても、「〇〇〇〇した」領域に入って運転しているためでもあるし、バイクがバランスを取ってくれている範疇で乗せられているからでも有ります。
「車には無くて、バイクには有る」というケースについて、ちょっと書きたいのですが、普通に走っていて、車では「ハンドルを切る」と言う動作で、「怖い」という経験をした方はあまり多くないでしょう?。おそらく超少数派だと思います。なぜなら、物理的にハンドルを切ったドライバーの「意志、思い」と、結果の車の曲がる挙動が「つながらない、シンクロしない」という経験をしないからです。途中でエンストしてパワステが効かなくて重くなったケースを味わった人はわかると思いますが、「ドキリ」とします。それは突然「思った通りハンドルが切れない」という現実を味わうからです。
車でも前輪がパンクした時、あるいは雪や何かがリンケージや、ホイールハウスに引っ掛かったとか、ハンドルが思った通り、切れなかったときの「ドキリ」は、バイクで感じる「ドキリ」と同質のものではありませんか?。
つまり、バイクに故障や異常が無くても、ライダーが、「思った通りにハンドルが切れない」と言う思いを、バイクでは結構、簡単かつ常日頃から味わう(人が多い?)ということではないかと思うのです。
身も蓋もなく言ってしまえば、多くのライダーは、バイクと一体化と言うか、一心同体に成れていないということです。車で言うところの人馬一体は、バイクの場合では、直線でしか、実現できていないケースが大半です(言い切っちゃうけど、%で表すとそれでいいかも(ライダー人口比で10%ぐらい?(;^_^A)
実態はもう少し多面的で、精神的に、いつもより速い速度でカーブに入り、思ったより先が曲がっていて、「あ、切り足さなければ・・」と思って固まる、なぜなら、それ以上インに切る手段を知らないから(無理やりハンドルをインに切るとどうなるかは経験者は知っていますけど(;^_^A)。この場合の固まる原因は「バイクを操る手段の喪失」です。
この段階を卒業して、ほぼ、思い通りにバイクの曲げ方を知っているライダーは、思った通りに曲がらなくて「怖い」と言う思いをすることはほぼ無くて、代わりに「やった入力手段に失敗した、」と思うだけです。これは車で言うなら、ハンドル切ったら思ったよりアンダー出してしまって、戻しながらアクセル抜いてグリップ回復、、でリカバーした時の「下手打った!」の自省感であって、固まることは有りません。
上の例では、車はラインを膨らんだものの、再びハンドルで内向させる手段が回復したのでクリア。バイクでも、再びインに入れる為に、何かをしますが、その時、車と違ってやはり間接的に○○を制御してバランスを取る、という作業を加えながら、修正操作をしなければなりません。その間接的な分、反射的に体が動く必要が有ります。
バイクも車のように、ハンドルを切ることが出来て、その旋回ラインが車のように直接的な、ズレの無い旋回円に持って行ければ「怖い」という感覚は無くなるハズです。それが出来るということは「バイクと○○〇〇出来ている」と言うことに成ります。
そこで最後にヒントですが、自動車学校でも、最初に「車のハンドルの切り方」を教えますが(切り方というか、持ち方含む回し方ですが)、それではバイクの場合、どう教えるでしょうか?。
ハンドルグリップの握り方や、回し方ではありませんね。
バイクのハンドルは切るのではなく「切らせる」のですが、どうやって切らせるのか?。私は今までに、それを直接教えてくれた人に出会いませんでした。自分で「そうか!」と気が付いただけです。
ちなみに、車でのハンドルの切り方、回し方に相当するバイクの部分は、ハンドルではなく、大体ニーグリップとお尻とステップの使い方になります。だから本当は最初に必要なのはライドフォームなのですが、それは逆に「必要なことを学んで一周してくると、必然的にわかる仕掛け」なので、一旦後回しにします。
私は、最初にバイクへの入力手段を教える段階では「バイク」を使いません。バイクを使ったら、同時にやることがたくさんあって初心者はそれを感じられないからです。最新バイクの6軸センサー以上の高性能センサーを人間は持っています。人間はオフロードの、険しい凹凸を自分の足で走り抜けることができます(今やると、私はすぐ捻挫しそうですが(;^_^A)。
※(文献を見ると、耳の卵形嚢・球形嚢は耳石系(先に石が載っている短い毛が密生しています)と呼ばれ、直線方向の動き・重力・遠心力を感知し、三半規管は回転運動を感知します
だからそれを無意識下から、意識下に置く練習が先に必要なのです。その時には自分自身の普段意識しない「高性能センサー」をはっきり自覚し、その感度やフィードバックを認知させる運動から始めます。それが出来て始めて、乗車姿勢やライディングフォームの作り方が分かってきます。
それを会得してからやっと「停止したバイク」に乗って、それの伝え方、使い方を習熟します。車でもへその下あたり?の3軸Gセンサーは使いますよね。映画「ベスト・キッド」だったか、この手の修行過程の話では、上達することとは全く関係ないかのような、単純な鍛錬が有り、教わるその段階では、やってる本人にはそれがどういう意味が有るのかわからない。そこで自身の自信?が邪魔して純粋な会得が出来ない。素直な人が上達する近道でもありますね。素直に続けると、やがてある場面でその効果が分かる、、なんて感じですね(;^_^A。身体のセンサーが意識の中に現れる。
うまい人はそれぞれ自己流でそこに到達しており、その過程をいつか通ったハズだと思いますし、あえて意識せずに気が付いたら体が動いていた、、となります。けれど無意識のそれだと、その後を磨いて行くのがちょっと難しくなりますよね。
初心に戻って、バイクと友達になるには、バイクを知る前に、ライダー自身の体を知る必要が有り、目の情報と三半規管による6軸センサーを意識下に認知・実感する必要が有ります。
普段人間は、無意識化にフィードバックが掛かり、転ばずに立って、まっすく歩けるわけですが、目をつぶったとたんに、転びはしないが、メッチャ歩きは遅くなります。なぜか?。高精度な6軸センサーの情報量と分解能は、時間軸で可変調整していると思われます。人間は、まず視覚情報から、現在の体の状態を客観モデルとして合致(原点補正)していると思われます。(目を開けて状態を起こすと、慣れ親しんだ自分の身体の仮想モデルがPCの中で同期して現れたかのように、そのずれや加速度を三半規管のセンサーからフィードバックし、そのシンクロが外れないようにしているように感じます。
だから、人間は、まず水平線、まっすぐ立っているか?を目視で得た情報のマップに体のセンサーを同期させているのです。なので視覚情報の水平が分からないと、マジで三半規管だけで垂直を感じ取らねばならず、その微細な目盛りからでは、差分は測れるが、フィードバックが間に合わない。オートフォーカスの望遠レンズが、フォーカスリミッタを掛けて、0~10mはフォーカスレンジから外すことで、ロスタイムをミニマムにすることと似ています。
だから、人間の水平認知と6軸センサの座標を合致させておくために、バイクのバンク角にかかわらず、頭は立てておく必要が有ります。そうすることで視覚の水平軸と体感する内耳とをシンクロさせておかないと、自分の身体にかかる重力方向を見失うのです。
ライダーがバイクと一緒に傾く座標系と、バイクは傾いても頭は垂直な場合で遠心力を受けた場合を考えると、水平方向の定常円のGを感知する軸がズレるということが分かります。
<公道でなら、これが限度と思う理想的フォームのC・サロン>
自分の姿勢が決まってくると、頭を倒してもその水平との偏差を補正することが出来るようになるので、そのようなレーサは、頭も結構傾けていますね、GP500の時代と違って、フロントにもっと荷重を掛けたい現代のMotoGPは重りとして頭も使うので(それでも目線は水平を保っているように思います)。
人間の体は軟体なので、「ある姿勢」での重心(垂直軸)は、時々刻々変化しつつ、しかしその重心点を全体として制御していると言えます。こういう事を実感するために、準備運動、訓練の段階では、バイクは必要ありません。バイクに乗る段階は、最後になります。
走ったり、急激な動きの時は、視覚情報で捉えた地面を基準面に、頭の中の自分の状態をそこにシンクロさせて、肉体の動きをリアルタイムに指示、補正を掛けています。この時、、、、
おっと、これぐらいでやめておこう(;^_^A
続く