
この記事はみん友のタッチさんの、
たまにMT車に乗って思ったこと。。。について書いています。
(長文注意)
最近、ダウンサイジングターボの良く出来た車や、低速トルクとレスポンスのいいクリーンディーゼルターボの高級車に乗ったせいで、4気筒でもなめらかだし十分なものだよね。。と言い聞かせ、、と思う一方で、低燃費で実用性十分なパワー&トルク。 それが非常に良くできたシャシーに乗っかり、高級感あるインテリアに包まれると、それはもう十分に素晴らしい車であります。何も言うことはない、、ハズではありますが、その一方で今乗っている黄昏の大排気量多気筒エンジン(と言ってもたかだか3L/6気筒ですが)の気持ち良さ。
何か物足りない、その差はエンジンとの対話ですかねぇ、、ということはトランスミッションの存在も大きいよねぇ、、となり、また面白いネタを掘り起こす人が居て、、「ああ、あんなことも考えたよなぁ」とまた深淵に引きずり込まれるのですwww。
さて「MT運転の楽しさ」について私的意見ですが車(バイク)を楽しむことの中に、「エンジンを楽しむこと」という章立てが組み込まれている人、それも非常に大きい山場として、、、なんて人の駆け抜ける喜びの中身において、ATとMTの違いはどう認知しているのか?。また考えてみました。
実はATにおける「これじゃ、向こう側に行けない」感は、MTがエンジン回転数制御型モード運転にドライバーの意識が切り替わるから、、と過去のブログで書いていたわけですが、その中でもシフトレバーを動かすこと、、が重要ではなく、私の場合は「クラッチ」操作が「意識のスイッチ」になっていると書きました。突き詰めればシフト操作自体は機械がやってくれても全く構わないのです。
そして、変速行為を「トラクション制御」の意識と置き換えて述べられてる、タッチさんの考察には、まったく全面的に賛成です。頭の中では何速に変える、、と言う意識よりも、「次のコーナにはこのぐらいのトラクションが必要なはず」と未来予測思考に対して、無意識化で手足がそれを実現するように動いたにすぎません。なので、「この次はこうしたい」制御を人馬一体となって実現するAT制御システムが出来れば、MTは要らなくなるのでは??、ということを考えたこともあったのです。そしてそれが通常は「有意差の核心」だと思います。
それで、話は終わるはずです。
ですが、それだけでなく「クラッチの存在」(しつこい(^_^;))が重要なことに確信も持っているのです。
タッチさんが述べられているような、手足が勝手に動いている・・・つまりそれこそが車との一体化、AT化によって自立型自動車となり、ハンドルと加減速入力のみで走りが成立するのに対して、MTはクラッチの介在により非自立型自動車であり、ドライバーが動力をつないでやって、初めて動き出すわけです。この「意識」がきっと大事なんだろうと私は思っているわけです。なので以下は、多分極めて個人的な自身に限った感想だと思いますが、一応述べてみたいと思います。
リンクしていただいた 一連の「MTとATの違いを考察する」を書いてた当時、情報伝達経路の違いをブロック図にしてあれこれ考えていたんですが、PCの中から出て来ません(先日死んだHDDの方にはいっていたのかなぁ)。ので割愛しますが(汗)。(走りの組み立てに実は寄与していないクラッチ操作の左足運動だけが、これら神経回路とは別の系統に属すると考えられました)。
車を走らせる運転操作の思考回路と手足の運動回路にあって、ATはハンドル、アクセル、ブレーキ、パドル操作と、どれもがいわば同じ次元のスイッチ(アナログ的ではあるものの)操作であり、目的意識は前後左右の「G」変化やグリップ限界のみに有るように思いました(に対してクラッチ操作は単に機械工学上の未熟事項であって、ドライバーが「機械の頼みを聞いてやっているようなもの」に過ぎないので従来から雑誌評論などでも過小評価というか、考察の対象にすらなっていませんでしたが。)
なので、タッチさんが指摘されたATとの違いは、その先の変化に合わせた予備行為をしてくれない「変速制御」に不快感というか、不満足感を感じるから、、というのはひとつの答えだと思います。実際、これは非常に大きな違いであるし、ストレスの差になっていると思います。ですから、この違いによって、積極的にドライバーがトラクションの期待値を求めようとして運転すると、従来AT任せだった「意識」が切り替わって、「ドライバー自身が主体性を持って運転する=ドライビングプレジャーにつながる」というこの違いには大いに賛同してます。私自身も、それを知る機会が実は有って、ATでも積極的にマニュアルモードを使った事件が有りました。それは会社の同僚のWRXのSPEC-Cに峠で付いて行ったときです。
(補足話)
『こんな車に峠で付いて行こうとすると、3速ホールドなんてもんじゃ全くダメで、2-3-4を駆使しないと立ち上がりで付いてゆけない。ところがこのATはシフトチェンジに時間がかかってまるでダメ、、だけれど911で覚えた突っ込み前変速完了の原則を使えば、ブレーキングをシながらシフトダウンを入れておいて、ハンドルを入れる時点では変速を終わらせておく時間さえ確保すれば、これはヒールアンドトウなどしなくてもいいので、微妙なブレーキングに集中できて意外と楽。ただしトルコンの介在感でタイヤのトラクション感は伝わってこないのだけれど、一応ついてゆけました。この時ばかりは、マニュアルシフトをばかばかしいとは思わず、無意識に「手が動いて・・・」となって楽しいのでした。
その時同僚は「レガシィって、結構速いんですね、それATですよね?」と驚いてましたが、「もちろんATだけど、マニュアルシフトで走ったよ(笑)」と。
つまり、自分の意識の中で、必要に迫られると、面倒なこともやらざるを得なくなり、結果の反応が良ければ、それに嵌ると(^_^;)。、一人で流していると、そこまでの必要性が喚起されないと言うことなのでしょう。』
これがMTの場合は、必然的にやらざるを得ませんから、「自分から動かして」ますから予測制御も出来るし、ミスも起きるし(笑)、となります。ですが、自業自得と言うか不快感はブーメランですから脳内で折り合いがついて納得できる?。だから余計なストレスを感じずに、満足度が高いのか?。いわば自動的に積極的疑似バトルモード(この場合は己が追求するゴーストとの戦い(笑))をやっていることによって、実はATでもMT的なエンジン回転数制御型運転に意識転換することは可能だと思いました。
しかしながら、そこにはかなり強い「外圧」が掛からないと、安楽なATモードに意識は流されてしまう。2つの変速機構の違いが生み出すドライバー心理の違いという元の結論に戻ってしまうのでしょうか?。
私が思っているのはこの論点とはすこし違って、さらにオタクな、私固有の生理的な感性だと思いますが(しかし、エンジンいじりしている人にはこの傾向は強いと思いますが・・・)
例えばこの違い。
A)近未来、スマホアプリのように生体端子が取り付けられた頭にスマホの意思伝達アプリが起動する。するとドライバーの加減速欲求がどうなのか、ブルー(冷静)、レッド(興奮)、ホワイト(無関心)、、なんて感じで伝わり、これを拾って、CVTが燃費と加速の折り合いモードを変化させる。するとドライバーはいつでも思った通りの加速を(車の能力の範囲で)得られる実に気持ちいい走りが実現する。その時、人の気持ちを汲取った車に私はこう、問いかける「どうして俺の気持ちを止めてくれなかったんだい、その先にパトカーが君のアイサイトでは見えていただろうに・・」と文句を言う(^_^;)。
人はどこまで行っても、自分に都合のいい自分が好きだ。
B)制限速度ちょい下の速度で前のトラックにつかえたスポーツカーが居る。さっさと抜いてしまえばいいのに、と思いつつ、車の中を除くと、携帯片手に何やら頭を振っている。「こりゃダメだ、」と思うが早いか足と手はクラッチ、シフトレバー、アクセルとパクパク動いて、タコメータだけが4000回転まで跳ね上がるがGは変わらない。そのまま前方の状況を見極めて、車間を取る。そして、後ろを見て頭にオールグリーンランプが点くや、ウインカーをだし、アクセルを踏んづける・・・
と言った行動で車を操って走るとき、車はまさにドライバーの能力拡大スーツとしての道具となっています。人馬一体とは異なり、自分が能力覚醒したアスリートの感覚。どこまで行っても車の中に、意思を委ねない。
私はバイクに乗っている時はまさにこのAパターンで、バイクは鉄馬で「必要なトラクション」が得られるところに無意識的にシフトし、人馬一体という2つの人格の融合的快感を得ているようで、パドルだけであれば完璧です(クラッチレスで可)。ところが私の場合、自動車は人馬一体ではなく、自身の強化パーツというか、モビルスーツ的?なBパターンのようなのです。
このような考えがうろついて、つまり「私の場合は」ですが「自動車側に自立判断を委ねる」ことにどうも拒絶反応が有るようなのです。もちろん仕事モードでの走りならむしろ逆で「俺は寝てるから、着いたら教えてくれ!」とでも言いそうです(笑)。 ところが自分自身がスポーツアスリートで、ランナーズハイみたいな気持ちになりたいと潜在意識が渇望しているとしたら、全ての艱難辛苦は全て自分のモノとして受け入れ、その上での最大成果(自分の思い通り)を得ようと言う行為になるのだと思うのです。
その時、「クラッチ」(また出た!)の存在は大きくて、つまりエンジンという動力源(物理運動の拡大増幅装置)を自分側(車ではない)に持っている意識を確認させるのがこの”クラッチ”の存在なのだろうと思うのです。故に全自動操縦モードであっても、心臓部分を寝ているドライバーから借りて、動き回るようなイメージであり、ドライバーとしては、「寝ている間に「自分の活動限界」を引き出されては気持ち悪いわけです。
何言ってるか、わからなくなりましたね((^_^;)。
うまく表現できませんが、全自動運転自動車に乗って、「目的地まで行ってくれ」という将来地図は、AT自動車の未来とつながっています(だからスバルはCVTなのでしょう、しかし以下の私の主張部分が彼らにはわかってないかも、あるいはだからMTはSti?脱線www))。
一方、MT自動車の場合はどこまで行っても動力源をドライバー(私)が握っている感覚を持つことが出来、そのことこそが、MT運転の「核」なのではないかと思っている次第です、なのでシフトレバーやパドルをマニュアルで動かす2ペダルも、もしATモードが無かったら分類的にはMTに属するんでしょうが、色々意識を試してみた結果、自分が認めている「MT」とは、実はエンジンを自分側に置いているかどうか、つまりクラッチ操作権を自分が握っているかどうか、に因るのだと言うのが今の持論です。(Aの話であえてCVTとしたのは、クラッチの概念が無い機構だから、よりイメージが合うと思ったからです)
なので、ドライバー側が必要と感じる「トラクション」を常に用意する無自覚なシフト操作が有ったとしても、それは究極アイサイトの発展した人工知能が予測し、ドライバーの気持ちとシンクロしたとしたら、それは実現するかもしれません。そうすると改めて気が付く違いは、「エンジン」を車側に置いてくるのか、ドライバー側に持っているのか、の違いと言うことになりはしないか、という考察です。
逆に見てみると、結局私の言う「MT変速自動車」の定義は「エンジンのトルク(ご機嫌領域)を常にドライバーが(自分が)操っている車のことのようなのです。
だから、車を選ぶとき、たとえATであっても「エンジン」の官能性にことのほか、執着してしまうのかも知れませんね。エンジンの個性自体が、自分の分身、変身願望そのものなのかも。これはエンジンを組んで、あれこれチューニングして一喜一憂していた性なのかもしれません、初めて組んで火が入って回り出したエンジンは、本当に生き物のように感じて感情移入して来たからです。なのでエンジンが無表情な電池やモータのようなものであったなら、そこまでの車に対する刺激は感じないものだったかも、とも思います。
話は発散しましたが、昨今の出来のいい省エネの「トルクの井戸」型エンジンと良くできた快適なシャシーに乗っていると、高い満足感を得ている一方で、何かしら抜け落ちた「何か」郷愁のようなものを感じる気がする理由は、それがまるで心が宿っているかのような、情緒豊かな「エンジンの叫び」が聞こえなくなってしまっているからではないか、、、などと(^_^;)。
思う今日この頃。
以上