
「(あなた)・・・らしいね」という言葉。 悪い意味でのレッテル、いい意味での褒め言葉?。
次期車選びを頭の片隅に起きつつ、世間を眺める今日この頃ですが、、、
ふと、思ったことをつらつらと。
「・・・・らしくないかな。」
というセリフ。
「次はこれかなぁ」
といいながら、ネットで某車を見せた時のかみさんの反応。
私は結構2重人格であり(ふたご座の本性ですかね)、非常に真面目な堅物に見えるらしく、職場を変わったりした当初は、女性陣から「怖い人」という看板で通っていたらしい(笑)。
それは、社会人的には最も無難な処世術?。
一方、ちゃんとラジオの周波数が合う人は、それなりにこちらも電波を出すので、なんとなく読まれたりするんですね。例えば車を見られたとき、、
『・・・こんな車に乗ってるんですね』
その言葉には色んな意味があるわけで、
車が詳しくない人
①汚れてますね、(綺麗ですね)
→維持状態の観察からのインプットに留まる。
車にやや詳しい人
②こんな地味な車ですか。え、スバル?、という反応。
(北陸ではスバルは誰も不審がらないけど(^O^))
→車によるヒエラルキーをインプットする人。
車に詳しい人(その1)
③B4ですか、よく走るでしょう?。(ターボだと思っている人が大半)
→車好きなんだな、とやや親近感をインプットする人。
車に詳しい人(その2)
④ミシュランにCE28ですか、いいですね。6発は違いますか?。
→相当オタク。ほぼ会話が成立とインプットする人。
この後、「車高、ちょっと落ちてますか?、あ、サス変えてますね、、」と
チューニング迄見る人と、そこまでは行かない人に分かれます。
みたいな感じで、その車を「選んだ」こととオーナの「仕立て」が醸す個性で、大体の”嗜好回路”(周波数)がバレてしまいます。
このように、車というのは結構オーナの素性をばらしてしまう情報源になるわけですが、そこで冒頭の言葉「・・・らしくない」というのは、相手が抱いている当人の雰囲気とのマッチングであり、女性の場合はファッション的センスというか、洋服が似合うかどうか、のようなものらしい、、と思っていますが、そう言った空気感を見てるんでしょうね。
一方、自分自身はというと、知らずにあるいは意識的に?、自分のスタイルというものが段々出来上がってきて、周辺の友人たちは「A+B=?」、、「あの人なら@だろ」らしいわ~。となるわけです。ところが年月を経て次なる変化を予感する今日この頃なんですが、
例えば老いも含めて、段々と自然に変わってゆく自分もまた、「自分らしい」というのか、
あるいは白洲次郎氏のように、じーさんになってもナローポルシェで箱根を走るような、スピリットあるスタイルを取るのか、どうなるか?。
では、この2つの変化は何が違うのか?。
ひとつは、拘らない自然に任せる「スタイル」とそもそも求めてきた自分のスタイルに「こだわり続ける」かということでしょうか。
前者はエントロピーの無限大化、すなわち「死に向けて贖(あがな)わず。。」であり、後者は最後まで自分の求めた「秩序」すなわちエントロピー最小を追求するスタイルですね。
実は私自身は結構早くにその自問自答があって、
GSX-Rからハヤブサに変わった時、SSに行かなかった理由として「もう、コーナリング命、、みたいな走りを求めても肉体的能力の減衰の方が大きく、仮にマシンがそれを補ったとしても、それは楽しいのか??」ということがありました。
であれば、マシン自身の究極の方、ある意味メカとしてのバイクの限界みたいなものを見てみたい、、ということもあって、いわばメガスポーツ?のバイクに変わりました。
当時子供が小学校の2年と4年だったかな。答えは案外早く出て、その動力性能の凄さに目がついて行かない(笑)。大和トンネルから御殿場までの高速区間で、アインシュタインの「光速に近づくものは、時の経過が遅くなる」という体験をしました(アクセルを開けた瞬間、周りが止まって見える)。一方で大質量のガタイは、反射神経の遅れを許容せず、むしろSSよりも早めにアクション開始が必要であり、当たり前ながら間を取った走りが必要です。
そこで、予想通りに SS的延長線を求めた場合には不満が残り、新たな境地を求めた場合には満足が残り、という具合です。けれど仕事と子育て(大して付き合ってやれなかった気がするけど)があったにせよ、13年の所有期間で走った距離は約18000キロというていたらくでした(泣)。
そして、昨年9月に
NUDA900Rに乗り換えたのは、実は先祖返りなんですね。自身を振り返って最もバイクライフを楽しんだときの愛車はRZだったわけで、低中速林道主体の峠攻めです。全く違うバイクのように見えて、そのコントロール性や刺激は、「ぴったりシンクロするんじゃなかろうか」と読んで実物を見もせずにオーダーしました。
結果は大正解で、お尻が痛いのを除けば、「バイクを操る」というテクニック面では、それまで培った経験がすべて活かせる事になりました。子供たちが家を出て行って、かみさんとの暮らしに戻ったこともありますが、約1年で10000キロの乗車率になりました。
話が遠回りしましたが、車です。車の場合には、バイクほど先鋭化した趣味の領域だけで所有できるほどのゆとりはありません。(^_^;)
なので、「秘めたる基本性能が合って、普段は実用車」という選択になります。そこで当時はRX-8がメインターゲットでしたが、結局今のB4になりました(経緯は古いブログのどこかw)。この時ターボはハナから対象外でした。その加速Gが年齢的感性には合わなかった(ドッカンターボはBFMRで十分味わった)ので、試乗した6発は予想以上の出来だったわけです。
その時はしかし、この車の本質を全部見通していたわけではありませんでした。このBLE型は私の車評価軸に大きな影響を与えました。それまでの「ヨーコントロール」の運転性の評価を見直す事になりました。一言で言えば「直進はあらゆるコーナリングのたった一つの極限値を表す」ということです。車の運転はつい、コーナリングのライントレース性とそのラインへ載せるハンドリングを評価しますし、多くの運転好きはアクセルを第2のハンドルとして大いに使うと思います。
タイヤへの荷重移動を使ってうまくコーナリングラインを作る、、という評価。ところが高速道路や一般道でも路面変化に合わせて「直進を作る」ことを無意識下に要求されています。それに気づかされたのはスバルのAWDとこの6発エンジンです。「路面がどうあれ、ハンドルで狙ったところに淡々と進む」という普段気づかない性能に驚いたことです。速度を上げて行くほど顕著になりますが、これが出来ると実はコーナリングラインを組み立てることは驚く程容易なのです。逆に若かりし頃の「ほれほれ、ドリフトじゃー」とカウンターを当てるようなヨーコントロールの制御性を求めないし、それが「無駄」だと伝えてくれます。ほとんどゼロカウンターのようなあくまで、狙った出口にハンドルを向ける」というヨーコントロールの面白さにはまりますし、その運転の面白さは速度の上下にかかわらず、確実に感じ取れます。
座りが良すぎて面白くないのでは?という危惧はその通りなんですが、逆にその裏で起きている車の挙動を感じつつ走れると、けして退屈ではありません。4輪に分散されたトラクションがまさにヨーダンピングを生み、幅の広い安定性分の帯の中を走る感覚ですが、その繊細な感触は加減速Gのなめらかな6発でより顕著に感じれたと思います。
故意に、ドライバー側から車のスタビリティを壊してヨーを増幅させ、ハンドルとアクセルを合わせる運転スタイルから、スタビリティーのバンドの中で、ライントレースさせる運転スタイルになると、神経は想像以上にリラックスします。(何も気づかずT社の車がふぁふあと、なんとなく車線中央を泳いでいるリラックスとは違いますよw、私の場合はこんな制御精度の低い車は怖くて飛ばす気にもなりませんw)
路面環境の変化で不要な車両の挙動が起きず(それは全く運転に支障があるような過大なものでなく、無意識下に体が感じる程度のものに過ぎないですが)、流れるように走る快感を知ると、車を造る本当の答えは、こっちにあるなぁ、と思ったものです。 もちろん、反射神経を刺激し、アドレナリンを沸かす文字通り「スポーツ」な車も否定しません。バイクもモトクロスやエンデューロやモタードなど、振り回して楽しむジャンルも大いに有りです。
そこで、私の次なる「・・・らしい車って?」
おアトがよろしいようで、、、、、おしまいw。