この日は奈良県東部の宇陀市と三重県の伊賀地方の城を巡ってみました。
旧松山城西口門は旧松山城大手筋にあたる西口関門です。
建築は徳川初期のもので、門を含む地域は桝形になっています。
松山城は、旧名秋山城と呼ばれていましたが、福島正則の弟福島掃部頭孝治(別名福島高晴・正頼とも)が関ヶ原の戦いの後に入城して整備しました。
この西門もその頃の構築で、宇陀松山城の唯一残る建築物です。
宇陀松山城は、旧名秋山城と呼び、戦国時代に秋山氏が城を築き本拠地としていました。
天正13(1585)年に秋山氏が追放された後、豊臣秀長の領地となり、配下の武将により改修されました。
慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦後、福島正則の弟福島掃部頭孝治(別名福島高晴・正頼とも)が城主となり、本格的な近代城郭として大改修が加えられました。
元和元(1615)年、孝治の改易にともない松山城は破却され、織田信長の次男信雄が城主となりました。織田氏は、山麓に「御上屋敷」や「長山屋敷」を設け藩政を行いました。
しかし、元禄7(1694)年に4代目藩主織田信武が家臣2人を殺害のうえ自殺した為、翌8(1695)年 領地を没収され、藩主となっていた織田信休は減封の上、丹波柏原へ転封となり、 以後天領となりました。
城跡は、春日神社から登ります。(ホームページURL)
本丸付近には石垣など遺構がよく残っています。眺望も良く、お勧めの城です。
発掘調査が進められています。
高山右近の碑は宇陀市の旧榛原町地域にあります。高山右近は永禄7(1564)年、父ダリヨ飛騨守(高山友照)の感化により「ジェスト」即ち正義の教名をもって洗礼を受けました。
高山友照は、摂津の出身でしたが、松永久秀に従い大和国の沢城の城主になったため、右近は少年時代を沢城で過ごしたました。
そのため、沢城近くに高山右近とその父を称えて沢城址を顕彰するため高山右近の碑が昭和45(1971)年建てられました。
沢城は、正平年間(1346~1370)に宇陀三将の一人沢氏の居城として築かれました。
永禄3(1560)年から永禄10(1567)年までは高山右近の父高山飛騨守図書(友照)が城主となりました。高山右近も幼い頃はこの地で過ごしたそうです。
土塁や堀の跡が残っています。
高山右近の碑の近くから登城口への説明看板が出ています。
柏原城は、伊賀の土豪滝野氏の城です。
天正9(1581年)年の天正伊賀の乱の際、織田軍に攻められ各地で敗れた伊賀勢が最後に立てこもった城です。
柏原城主・瀧野十郎吉政は開城し、天正伊賀の乱は終わりを告げました。
勝手神社脇に「天正伊賀乱四百年記念 決戦之地柏原城」と書かれた石碑が建てられています。
城跡は勝手神社の東側のようです。
名張藤堂家邸〔名張陣屋、名張城〕は、丹羽長秀の三男で藤堂高虎の養子となった藤堂高吉が、寛永13(1636年)年に2万石で名張を与えられ、かつて筒井定次の家臣松倉勝重、重政、藤堂高虎の家臣梅原勝右衛門らが居館を構えた古城跡に屋敷を構えました。
宝永10(1710)年の名張大火で屋敷は焼失しましたが、再建されました。明治時代に建物の大部分が失われましたが、中奥、祝の間、茶室などが残っています。
壽榮神社(ひさかじんじゃ)の祭神は名張藤堂家の初代藤堂高吉です。
高吉の法名徳蓮院殿徳翁壽榮大居士に因んだ社名です。
境内には旧名張藤堂家邸の正門(太鼓門)が移築されています。
千賀地氏城は千賀地氏の城です。千賀地氏は服部家の宗家とされています。
平安時代の武将服部家長が、平家に味方し壇ノ浦の戦いの後伊賀に落ち延びて千賀地氏を名乗ったとされています。
子孫の服部保長は千賀地氏から元の服部氏に戻し、足利義輝に仕えた後、松平清康、広忠に仕えました。その後徳川家康の時代に服部正成(半蔵)が活躍したことはよく知られています。
藤堂采女元則もこの千賀地氏の出で、藤堂高虎に仕え、藤堂姓を与えられました。
大坂夏の陣などで活躍し、伊賀上野城代になりました。
城跡には「服部半蔵、藤堂采女正誕生の地」と書かれた石碑が建っています。
丸山城は、天正6(1578)年、北畠氏の養子に入った織田信長の次男信雄の家臣、滝川雄利によって築かれました。
天守も備えた本格的な城でしたが、完成間近で伊賀の土豪衆の襲撃を受け、築城半ばで放棄、撤退しました。この丸山城襲撃事件が有名な「天正伊賀の乱」の原因となりました。
天正9(1581)年、織田信長による伊賀攻めの後、雄利は城に戻り、城を完成させました。
遺構としては、本丸の天守台と枡形虎口、堀切など遺構がよく残っています。
登城口は南側ということでしたが、私は西側から登りました。そして北側へ降りていきました。登城口はどの方角からも非常にわかりにくいです。案内の看板もありません。旧天守台跡に石碑が建てられています。
福地城は、福地氏の城です。
天正9(1581)年天正伊賀の乱で福地伊予守宗隆は、織田信長に与して伊賀侵攻の案内者となり、福地氏城には信長の家臣不破彦三を置きました。天正伊賀の乱の後は池尻平左衛門尉が城主となりました。
現在、城跡は芭蕉公園となっています。松尾芭蕉の先祖は福地氏の一族であるということで、句碑と生誕碑が建てられています。
石垣や土塁、空堀など遺構がよく残っています。
萬寿寺は、元は徳雲山長福寺といいました。後に萬寿寺と改称しました。
伊賀市柘植出身の松尾芭蕉の菩提寺として知られています。
福地城のすぐ隣にあります。
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ドライブ | 日記
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2008/10/02 23:01:55