この日は10月初めに
「その時歴史が動いた」で
「怒れる民よ、信長を討て!~浅井長政 逆襲の京都包囲作戦~」をやっていたので、なんとなく浅井氏関係の史跡を見に行きたくなりました。
ということで近江国、湖北地方をめぐります。
山本山城は治承4(1180)年に、山本義定、山本義経父子が以仁王の令旨を受け挙兵したため、本拠である山本山城を平知盛・資盛が攻撃したとの記録があります。
戦国時代には、京極氏の被官であった阿閉氏の本拠となりました。
元亀年間(1558~1573)織田信長による浅井攻めに際しては、浅井氏の居城・小谷城の支城としての役割を果たしていましたが、元亀4(1573)年阿閉貞征が織田信長に降ったことで小谷城は孤立し、浅井氏の滅亡の一因となりました。
阿閉貞征は秀吉の与力となり山本山城と伊香郡内の本領を安堵されたが、天正10(1582)年本能寺の変で明智光秀に加担して、秀吉方の長浜城を攻めましたが、山崎の合戦で光秀を破った秀吉に追討され一族全て殺され、山本山城は廃城となりました。
城跡には、南西の宇賀神社から登りました。賤ヶ岳古戦場までハイキングコースが整備されています。曲輪や空堀など遺構がよく残っています。
JR北陸本線河毛駅は小谷城の最寄り駅になります。
駅前には小谷城主
浅井長政とお市の方の銅像があります。
中島城は、丁野山城の尾根伝いのすぐ東にあります。天正元(1573)年の小谷城攻防戦の時、浅井氏の家臣中島宗左衛門直親が守ったと言われています。
土塁や空堀など遺構は残っていますが、位置や規模からして丁野山城の出城か砦のようなものだったのかも知れません。
丁野山城は、の尾根伝いのすぐ東にあります。天正元(1573)年の小谷城攻防戦の時、浅井氏の家臣中島宗左衛門直親が守ったと言われています。
土塁や空堀など遺構は残っていますが、位置や規模からして丁野山城の出城か砦のようなものだったのかも知れません。
虎御前山砦は姉川の戦いの後の元亀3(1572)年、織田信長が小谷城の浅井氏を攻めるために陣地(砦)を構えた標高230mの山です。県立虎御前山教育キャンプ場となっていますが、ハイキングコースも整備され、武将達の陣地跡を見ることができます。
蜂屋頼隆陣地は、虎御前山の北山古墳に置かれていました。頼隆は、織田信長に仕えた武将です。
元亀3(1572)年に江北出陣に従軍し、虎御前山に陣を構え、柴田勝家・丹羽長秀・佐久間信盛らとともに小谷城を攻めました。その後も越前朝倉攻め、伊勢長島攻めなど各地を転戦しており、近江国愛知郡肥田城主になりました。
天正10(1582)年に勃発した本能寺の変後は、山崎合戦で羽柴秀吉に属し、天正13(1585)年越前敦賀城主に転封となり、天正16(1588)年には「羽柴」の姓を与えられ、羽柴敦賀侍従と呼ばれました。しかし、翌年の天正17(1589)年に死去しましたが後嗣がなく、家は断絶となりました。
丹羽長秀陣地は、虎御前山キャンプ場の中心部になっています。
丹羽長秀は、元亀元(1570)年の姉川の戦いの後は佐和山城攻めを担当し、磯野員昌を下して佐和山城主となりました。元亀3(1572)年の小谷城攻めではこの虎御前山に陣を構えました。
滝川一益陣地は、NTTの電波塔のすぐ隣にあります。ここまでは舗装路(電波塔管理用、キャンプ場までしか自家用車は登ることができない。)が整備されています。ここから北側の織田信長陣地跡方面へは、普通のハイキングルートになります。ハイキングルートの入口付近に石碑が建っています。
堀秀政陣地は、織田信長陣地の近くにあります。
堀秀政はなんでもそつなくこなすことから「名人久太郎」の異名のある武将です。天文22(1553)年、美濃の茜部村(現在の岐阜市茜部)に生まれ、13歳の時信長に仕えるようになります。信長の小姓だったといわれています。
「信長公記」に初めて秀政の名が出てくるのは元亀3(1572)年で、ちょうど浅井攻めの頃です。その後も雑賀攻めなどで活躍し、信長の死後は秀吉に従い、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いなどでも活躍し、近江佐和山城主、後に丹羽長秀の後を受けて北の庄城主となりましたが、天正18(1590)年、小田原攻めの際陣中で亡くなりました。
織田信長陣地跡は、文字通り小谷城攻めの織田軍の本陣です。
曲輪の遺構がはっきりとわかります。
木下秀吉陣地跡は、織田信長本陣より更に北側に位置します。
他の武将の陣地跡に比べて最も堀や曲輪などの遺構が明確に分かる陣地です。
柴田勝家陣地跡は、木下秀吉陣地跡の更に北側にあります。しかし、伝柴田勝家砦跡と書かれた木製の標柱の他は、藪に覆われて遺構が明確に見つけることはできませんでした。
小谷寺は、小谷城の築かれた小谷山の麓に建立された、真言宗豊山派の寺院です。山号は如意輪山です。
泰澄大師が奈良時代に築き、常勝寺と称しました。
戦国時代、浅井亮政が小谷築城の際に帰依し、小谷寺と改めました。以後3代にわたる浅井家の祈願所でしたが、浅井家の滅亡とともに焼失し、豊臣秀吉が再建しました。
小谷城戦国歴史資料館は、平成19(2007)年10月に清水谷武家屋敷跡にあった児童館を閉鎖しリニューアルオープンした小谷城に関する歴史資料館です。浅井氏、小谷城に関する資料を展示しています。
小谷城の縄張りなどがよくわかります。地図もくれますので、登城前に立ち寄ることをお勧めします。
そして、ここからいよいよ
小谷城へ向かいます。今回は清水谷コースを選んでみました。
小谷城は浅井三代、亮政、久政、長政の居城として知られる山城です。
大永4(1525)年、浅井亮政が築いたとされます。その後、亮政・久政・長政と浅井氏3代に渡り、拡張整備されました。
永禄4(1562)年、浅井長政は織田信長の妹お市の方を妻に迎え、織田家と縁戚関係を結びましたが、信長が元亀元(1570)年に越前の朝倉義景を攻めた際、信長と敵対関係に入りました。この年の6月、姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍は、織田・徳川連合軍の前に敗北しました。
天正元(1573)年に、織田信長は小谷城を攻めました。信長はその際、援軍に来た朝倉勢を破り、一乗谷まで追撃し朝倉氏を滅亡させました。そして、再び小谷城を総攻撃し、浅井久政、長政は自刃し小谷城は落城しました。その後、伊香郡・浅井郡・坂田郡は羽柴秀吉に与えられ、小谷城に入城しましたが、天正3(1575)年に今浜に長浜城を築城し本拠としたため小谷城は廃城となりました。
昭和12(1937)年に国の史跡となり、平成18(2006)年に日本100名城に指定されました。
小谷山全山にわたり造られた曲輪は1,000箇所もあるそうです。
春日山城、七尾城、小谷城、観音寺城、月山富田城を日本五大山城というそうです。
結構登城には体力がいる城です。
今回は清水谷コースということで、小谷城の搦手からの紹介です。通常なら一番山側になるのがこの六坊です。ここから山王丸にあがり、本丸に向かって降っていく形になります。小谷城の搦手にあたり、浅井久政の時に、軍務や政務を司っていた六つの寺院をここに集めたそうです。ここから発する山続きの道を「越前忍道」といい、大嶽城に通じています。
山王丸です。かつて山王権現が祀ってありました。
山王丸下の石垣です。
小丸です。浅井久政の隠居所です。木下秀吉が京極丸まで攻め込み、浅井長政との間を分断したため、久政はこの地で自害しました。
京極丸です。大永4(1504)年に浅井亮政が主君京極高清、高延父子を迎えた場所です。織田軍の小谷城攻めでは、京極丸は清水谷側、大野木屋敷を経て侵入してきた木下秀吉の軍勢によって占拠され、「小丸」の久政と「本丸」の長政との連絡を絶ちました。
中丸
本丸
大広間は千畳敷ともいわる城内最大の郭で、主殿の跡とされ約35アールの広さがあります。
桜馬場には浅井氏の供養塔があります。
赤尾屋敷です。重臣赤尾氏の屋敷がありました。
赤尾屋敷は浅井長政が切腹した場所です。
大嶽城(おおづくじょう)は、小谷山の最高所の標高495mに位置しています。
大永5(1525)年、小谷城が築城された際には、現在の本丸の位置ではなく、この大嶽にあったといわれています。大規模な砦ですが、本丸、山王丸、福寿丸等小谷城の遺構と比較すると土塁などの構造が古いようです。
天正元(1573)年、大嶽城は朝倉氏の援軍が守備していましたが、大嶽城の北にあった焼尾砦の守将・浅見対馬守が織田軍に寝返り、織田方を手引きしたため落城しました。
福寿丸です。大嶽城と尾根続きに降りていったところにあります。浅井氏の一族、浅井福寿庵惟安が居城としていたことからこの名があります。
元亀3(1572)年織田信長の小谷城攻めに際し、朝倉氏により築かれたともいわれています。
福寿丸から降りていくと山崎丸があります。山崎丸も福寿丸同様、浅井氏を支援する朝倉氏により築かれたとされます。
前回訪れた時は、まだ残雪が残っていたため、あまりゆっくり見ていません。ちょうど秋と言うことで山城をじっくりと見るにはよい時期でした。大嶽城も行けて良かったです。しかし、小谷城だけででほぼ3時間は使いました。
次はこの勢いで、姉川古戦場へ向かいます。