いよいよ最終日です。
韮崎の宿を出発し、まず、若神子にある
平賀源心の墓です。
武田信玄の時代、若神子には陣所がおかれ信州への出陣の際には陣立てが行われていました。東西に石塁が置かれて上木戸は「上の棒道」と呼ばれる軍道の起点となっていました。
上木戸を出たところに平賀源心の墓があります。源心は信玄が初陣の時に討ち取った信濃海ノ口城主で、父信虎も落とせなかった城を僅かな兵で奇襲して勝利を得たと言われていますが、諸説があり研究が進められています。
若神子城下、民家の入口の一角にあります。ここにある墓は首塚と言われており、胴の方は海ノ口に近い平沢峠にある胴塚に葬られているそうです。
若神子城は「古城」あるいは「大城」とよばれる遺構を中心に、東に北城、湯沢の西に南城の三ヶ所からなる山城の総称です。
連郭式といわれる中世の古い形態を残す山城で、甲斐源氏の祖新羅三郎義光によって築かれたと言われています。
戦国期には武田軍の信濃攻略への国境玄関として重要視され、佐久口・諏訪口方面からののろしの中継点、陣立ての場所としての機能も持ちました。
天正10(1582)年織田信長の侵攻により武田氏は滅亡しました。その信長もその年本能寺の変で明智光秀に殺され甲斐国は、北条氏直と徳川家康との係争の地となりました。天正壬午の乱といいます。家康は韮崎の新府城に陣し、信州から侵攻した北条氏直が若神子城に陣を構えました。古城に籠もった北条軍が築構した薬研堀、南端部からは見張台の跡と思われる柱穴が検出されています。現在は古城はふるさと公園となっていて、のろし台が復元されています。眺望が良く富士山も見えます。
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正覚寺は正式には陽谷山正覚寺という曹洞宗の寺院です。
大治2(1127)年、甲斐源氏始祖新羅三郎義光の菩提を弔うため逸見冠者(武田冠者)義清公が創建しました。当初は天台宗で現在の高根町村山北割にありましたが、永享2(1430)年、甲斐源氏の館跡である現在地に移転し曹洞宗に改宗しました。
新羅三郎義光の菩提寺と言うことで訪れました。若神子城は新羅三郎義光の城だったので、恐らく居館を正覚寺のあたりに構えて、若神子城を詰めの城にしたのではないかと思いました。
墓所には新羅三郎義光公と、逸見冠者義清公の供養塔があります。
勝永寺は屋代越中守勝永(秀正)の菩提寺です。屋代氏は、信濃の屋代城を中心とする地域の豪族でしたが政国の時代に武田氏に仕えました。後に荒砥城に移りましたが武田氏の支配下の豪族でした。その後武田氏滅亡の後勝永は織田信長、上杉景勝を経ましたが、信濃に進出してきた徳川家康に内応、荒砥城を失いました。
慶長19(1614)年、甲斐国巨摩郡に領地を拝領し、寛永9(1632)年まで、子・忠正の2代にわたり、上神取に館を構えました。
勝永寺の山門は北杜市指定文化財となっています。この門は江戸時代中期の関所門だそうです。屋代勝永の墓もこの近くにあるそうですが、見つけることはできませんでした。
獅子吼城は別名を「江草城」といい、城山に築かれた中世の山城です。築城時期は不明ですが、鎌倉時代末の元応2(1320)年5月4日夜この城で信田小右衛門実正・小太郎実高、親子とその家来が討死した記録があります。
そして、応永年間(1394~1428年)武田信満の三男江草兵庫助信泰が居城したといわれています。武田信玄の時代には、烽火通信の中継地として重要な場所であった場所で、現在でも塩川上流の「大渡の烽火台」「比志城」「前の山の烽火台」さらに甲信国境の信州峠。また西方には「中尾城」「若神子城」「大豆生田砦」「能見城」「新府城」などまで遠望できます。
天正10(1582)年壬午3月、武田氏は織田信長の甲州攻めで滅亡を遂げ信長も6月に本能寺の変で明智光秀に殺されました。
甲斐国は小田原の北条氏直と徳川家康との係争の地となり(天正壬午の乱)、家康は韮崎の新府城に陣し、氏直は若神子に本陣を構え、大豆生田砦と獅子吼城にそれぞれ兵を配しました。徳川軍は9月の初旬、津金衆・小尾衆など武田の遺臣たちと服部半蔵ひきいる伊賀組とがこの城に夜襲をかけて落城させこの乱は徳川勢の優勢となり、獅子吼城の戦いは甲州における戦国時代最後の合戦となりました。
城跡は西側の根古屋神社から登るのが大手道と思われますが、車を活用して東側から登ると比高差を稼げ楽に登ることができます。
主郭部付近には平らな石を積み上げた石垣が残っています。
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山本勘助屋敷の近くから八ヶ岳 posted by
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山本勘助屋敷墓です。山本勘助の子孫が今も住んでおられるという屋敷です。
平成19(2008)年の大河ドラマ風林火山の第4回 「復讐の鬼」の風林火山紀行で山本勘助供養塔として紹介されていましたので訪れてみました。ドラマの放映の時には一般公開されていたそうですが、現在は公開されていないそうで、外から屋敷を見たのみです。
旧津金学校の藤村式校舎(明治校舎)は、明治7(1874)年に着工、翌8(1875)年に落成しました。
甲府市にある睦沢学校(躑躅ヶ崎館跡・武田神社境内に移築)などと共に現存する日本最古の年代の擬洋風建築です。藤村式校舎は、近代化を奨励した藤村紫朗県令(知事)に因んだ名称です。
現在は須玉歴史資料館として活用されています。訪れたのが年末のため、閉館していたので外からの見学のみです。
古宮城は、武田氏に仕えて甲信の国境警備を任じた武士団・津金衆の旗頭・津金氏歴代の居城です。
室町時代の文明年間(1469~1486)に常陸佐竹氏の一族である薩摩守胤義と、その子・美濃守胤秀が武田信昌を慕って甲斐国に移住し、戦功により津金郷に封ぜられ、苗字を佐竹から津金へと改めました。
津金氏は世々人材を輩出し、津金衆の旗頭として多くの功績を残し、信濃国境の警備などにあたりました。
武田氏滅亡後は、徳川家康に属し後に尾張徳川家に仕えました。
旧津金学校の裏側にあり、社が建っていて、土塁などが残っています。
JR鉄道最高地点は、野辺山高原、小海線の清里駅と野辺山駅の間にあります。
JRの路線の中でも標高の一番高い1375mの地点を示す「JR鉄道最高地点」の木製の標柱が建っています。
隣には「鉄道神社」があり、線路を挟んだ反対側には、「日本鉄道最高地点」の碑が立っています。
平賀源心の胴塚は、清里アーリーバードゴルフクラブの東側、平沢峠にある獅子岩の近くにあります。源心の胴がこの場所に埋められていると伝えられています。山梨県北杜市須玉町若神子の路傍にあるのは、首塚で首実検のため首だけ持ち帰り若神子に葬ったそうです。
高さ約1メートル直径約4メートル位の築山に、何万個という石が旅人により供えられています。
平沢峠の獅子岩付近は八ヶ岳の撮影スポットとして知られています。
野辺山高原と八ヶ岳、絶景です。
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獅子岩(平沢峠) - 14 posted by
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獅子岩(平沢峠) - 17 posted by
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そして、ようやく昨日攻略に失敗した
海ノ口城です。
登城口です。ここから少し車で登りました。
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今回も少し道に迷いました。今までの経験で主郭部と思われる方角を目指したのですが、やはり正しいルートからは登ることができず、直登しました。
無理矢理登ると一の郭への案内看板が建っていました。
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城の主郭部の搦手の大堀切に出てほっとしました。
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大堀切は、落ち葉で膝まで埋もれる状態でした。
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海ノ口城 - 13 posted by
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そして、主郭部です。海ノ口城は、佐久市平賀の平賀城城主平賀源心(成頼)の出城で別名鳥井城ともいいます。
平賀氏は永正、大永年間の頃から甲斐の武田氏としばしば兵を交え文安、宝徳頃(1444~1451)からこの城に拠っていました。平賀源心は剛胆七十人力といわれた武将だったそうです。
天文5(1537)年、武田信虎は兵7、8千人を率い、この城を攻めました。源心はは兵3千で城を固く守り、雪が降ってきたため信虎は一旦兵を引くことにしました。
この時父信虎とともに海ノ口城攻略に加わっていた武田晴信(信玄)は隊列の殿をつとめていましたが、兵三百人を率いて途中より引き返しこの城を奇襲しました。一方平賀源心は武田氏の帰陣するを知り城の守りを解き兵を家に戻しくつろいでいましたが、晴信の奇襲に逢い虚をつかれあえなく戦死し、海ノ口城は落城したと伝えられています。
平成19(2007)年の大河ドラマ「風林火山」の第8回「奇襲!海ノ口」の風林火山紀行で紹介されていました。
海ノ口城 - 16 posted by
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昔から行ってみたかった城なので満足しました。帰りは「正規」のルートと思われる方から降りてみました。そうすると、昨日もあと一歩までのところまで来ていたことが判明しました・・・
まあ、信虎、晴信親子それぞれの気持ちで海ノ口城を見学できたので、良しとします。でも疲れました・・・