いよいよ越後です。親不知を超えて糸魚川市に入りました。
勝山城は、標高382mの山城で、足下に日本海がせまり、遠く西は親不知や越中宮崎の鼻が、東は姫川河口から不動山城(糸魚川市早川)や徳合城(能生町)が望まれる場所に位置しています。
戦国時代上杉氏が領国の経営と国境守備のため、春日山城の支城として各地に保有した番城や砦の一つで、謙信没後その跡を継いだ上杉景勝が、越中方面からの織田信長の脅威に備えて築いたものです。
はじめ地名から落水(おちりみず)城と呼ばれていましたが、後に勝山城と改められ、秋山守綱、萩田主馬丞らが城将であったことなどが古文書に記されています。
天正13(1585)年夏に豊臣秀吉は、越中の佐々成政の征伐が終わると石田三成以下のわずかの供を従え勝山城へ乗り込み、この地で上杉景勝、直江兼続と会見し、固い盟約を結んだことで知られています。
山頂の石祠は、昭和13(1938)年に青海青年会が建てたもので、上杉ゆかりの高田の春日山神社から、お礼をうけて祀ったものです。
国道8号線沿い、城からみて北東側に登城口(関連情報リンク付近)があります。かなり急な登山道を40分程度登っていきます。鎖を頼りに登っていくところもあります。
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勝山城(落水城) - 5 posted by
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ここから高速に乗って上越市へ向かいます。
居多神社(こたじんじゃ)は、越後国一宮で、大国主命を主祭神とし、奴奈川姫、建御名方命を配祀しています。
弘仁4(813)年に従五位下、貞観3(861)年には従四位下を朝廷から賜りました。
承元元(1207)年、越後国府に流された親鸞は近くの居多ヶ浜に上陸し、まず当社に参拝したそうです。
室町時代には守護上杉氏、上杉謙信らの厚い保護を受けていましたが、御館の乱に巻き込まれ、居多神社は上杉景虎に味方したため、景勝方によって社殿が焼かれ、社家の花ヶ前家は国外の各地を転々としました。慶長3(1598)年、景勝が会津に移ったため、花ヶ前家は越後に戻りました。現在の社殿は平成20(2008)年に完成したものです。
境内には、越後七不思議の一つ「片葉の芦」があります。親鸞が当社に参拝し念じたところ、一夜で境内の芦が片葉になったと伝えられています。
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近くの
親鸞聖人上陸の地です。
浄土真宗の開祖親鸞聖人は、比叡山で天台宗を学びましたが、後に法然上人の門下で専修念仏(浄土宗)の信仰に帰依しました。
承元元(1207)年、浄土宗の教えが旧来の仏教の弾圧を受け、法然に連座して京を追放された親鸞は越後国府に流されることになりました。
聖人は、北陸道を下り木浦(糸魚川市能生町)から船に乗りこの地に上陸したと伝えられています。
浄土真宗の教典に「海」のつく言葉が多く見られるのは、親鸞が暮らした越後国府の影響ともいわれています。
聖人は4年後許されましたが、そのまま越後にとどまり、当時住んだとされる「竹ノ内草庵」、「片葉の葦」などの遺蹟や言い伝えが上陸の地周辺に残っています。
上陸の地には、昭和42(1967)年には居多ヶ浜記念堂が、昭和46(1971)年には親鸞聖人の坐像を安置する八角堂の見真堂を建てられています。
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五智国分寺は、は天平年間(729~749)に聖武天皇の勅願によって各国ごとに建てられた国分寺の一つ越後国分寺が起源です。
本尊を大日如来像、薬師如来像、宝生如来像、釈迦如来像、阿弥陀如来像の五智如来を祀っていることから五智国分寺と呼ばれています。その後、衰退した為、創建当時の国分寺の位置は不明だそうです。
承元年間(1207~1211)に、越後へ流された親鸞上人が、国分寺に滞在した旧跡でしたが戦国時代には荒廃したため、上杉謙信はそれを愁い、永禄5(1562)年に堂宇を整備、再興しました。
境内には親鸞聖人の旧跡の竹之内草庵があり、等身大の自刻像が安置されています。
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十念寺は、信州善光寺大本願別院不捨山光明院十念寺と称し、通称「浜の善光寺」ともいいます。
寺伝では、聖武天皇の頃、行基菩薩が越後下向の折に創建されたと伝えられています。
旧跡からは鎌倉時代の遺物が多く出土しています。
昔から信州善光寺とは深いつながりを持ち、海中より出現され十念寺に安置してあった釈迦涅槃像を善光寺上人の夢のお告げにより天延3(974)年4月に信州善光寺に移し、善光寺から尊像並びに善光、弥生の二卿を迎えたご縁をはじめとし、川中島の戦いの際には、上杉謙信が信州善光寺尊像及び仏具等を戦火から守るために当寺に安置して以来「浜の善光寺」と呼ばれるようになりました。
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御館は、北条氏康に敗れ越後に逃れた関東管領上杉憲政のために上杉謙信が造営した館で、後に憲政から関東管領を継いだ謙信が政庁として使用したともいわれています。
天正6(1578)年、上杉謙信が亡くなり、二人の養子景勝と、景虎が跡目を争った御館の乱が起きました。景勝は春日山城を拠点とし、景虎は御館を占拠して戦いました。翌天正7(1579)年、御館は景勝の総攻撃を受けて落城し、景虎は鮫ヶ尾城で自害し御館の乱は幕を閉じました。
御館跡の発掘調査では、鉛や青銅製の銃弾、武具や刀剣が見つかっています。
御館は、東西250m、南北300mの大規模な館であったと考えられています。中心の郭は四方を堀で囲まれた東西120m、南北150mの規模です。
現在は遺構は残っていませんが、中心部分が御館公園として市民の憩いの場となっています。現地には石碑と説明看板が建っています。
御館跡 - 01 posted by
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普段は普通の公園なのでしょうが、天地人の影響でしょう。多くの人が訪れていて、駐車場まで用意されていました。
御館跡 - 04 posted by
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ここで
越後上越 天地人博に行ってみました。でも史跡めぐりがメインなので、ここは軽く春日山城の模型やドラマのスタジオセットの再現なんかを見ていきました。
越後上越 天地人博(直江津屋台会館) - 1 posted by
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越後上越 天地人博(直江津屋台会館) - 2 posted by
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越後上越 天地人博(直江津屋台会館) - 3 posted by
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福島城は上杉氏の後越後国主となった堀氏の居城です。
慶長8(1613)年、徳川家康が江戸幕府を開いてから、春日山城のような山城の必要がなくなり、堀秀治が福島城を築城することになりました。秀治は慶長11(1606)年に死去し、その子忠俊が慶長12(1607)年に完成させました。しかし、慶長15(1610)年堀忠俊は改易され、徳川家康の六男松平忠輝が城主となりました。しかし、忠輝はより内陸部に高田城を築城し居城としたため福島城は慶長19(1614)年に廃城となりました。
福島城はわずか7年間の存在でしかなかったが、室町時代から江戸時代に移る当時の築城形式をしめす典型的な大城郭でした。城を移した理由は明らかではありませんが、毎年、雨期になれば関川・保倉川が氾濫するからだそうです。
一説には忠輝が波の音で眠れない」と言ったためという説もあるそうです。
現在は、古城小学校内に石碑が立っています。
福島城 - 1 posted by
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この後は、春日山城へ向かいます。
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ドライブ | 日記
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2009/05/16 09:44:33