栖吉城(すよしじょう)は、築城年ははっきりしませんが、永正年間(1504~1521年)に古志長尾家の長尾孝景が築城し、蔵王堂城から古志長尾家の本拠を移したとされています。
栖吉の古志氏は上杉謙信の母虎御前の生家とも言われています。
古志長尾氏は謙信の元で重要な役割を果たしており、長尾景信は謙信が上杉家の名跡を継いだ時上杉姓を許され上杉景信となりました。
御館の乱では景勝の出身の上田長尾氏との対抗上上杉景虎に味方しましたが、居多ヶ浜の合戦で景信は討死し古志長尾氏は滅亡しました。
乱後は河田長親が古志長尾氏を継ぐ形で遺臣たちを栖吉衆として再編しました。長親の死後は嫡男の岩鶴丸が継ぎましたが早世、その後は栖吉衆が番将として治めたそうです。
慶長3(1598)年、景勝の会津移封により廃城となりました。
西側の栖吉神社、普済寺付近から登ることが出来ます。
土塁や空堀など遺構はよく残っています。
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普済寺は、曹洞宗の寺院で栖吉城の館があった付近にあります。
裏山の境内には三間豊蔵正英や牧野金太郎正英、西郷勇英人など北越戊辰戦争において、若くして散った少年隊士の在名碑、更に石段を上ると初代藩主牧野忠成公の墓があり今も長岡の街並みを見守っています。
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栃尾城は、築城年代は不明ですが、南北朝時代の正平年間に、下野の将芳賀禅可が下越後の守護として一時ここに寄り、当山を縄張りし要害堅固な山城として築いたとも言われています。室町時代には、春日山城を本拠とする守護代長尾氏の属城となり、 古志長尾氏の家臣本庄氏の持城となりました。
天文5(1536)年春日山城で長尾為景が亡くなると、 嫡男の長尾晴景が家督を継ぎましたが、晴景は病弱のため守護職上杉氏の養子問題に絡む争乱を押さえきれなかったため、晴景は春日山城下の林泉寺で修行の日々を送っていた弟長尾景虎 (後の上杉謙信)を還俗させ、天文12(1543)年、中越の要であった栃尾城に入城させました。
近郷の豪族たちは景虎を若輩と侮って栃尾城に攻めかけましたが、栃尾城代本庄実乃(さねより)の補佐などもありで、見事に敵を撃退したため、景虎の武将としての勇名は轟きました。
越後の豪族たちは病弱の晴景に代わり景虎を守護代に擁立しようとする動きが広がり、晴景と景虎の争いになりました。
天文17(1548)年景虎は守護上杉定実の仲介で兄晴景に代って守護代職を相続することになり、春日山城に入りました。
謙信没後の天正6(1578)年の「御館の乱」の際、本庄実乃の子本庄秀綱は上杉景虎に味方しましたが、景虎が敗れた後も戦いましたが天正8(1580)年 4月景勝軍の攻撃を受けて栃尾城は落城しました。
以後、景勝の家臣が交代で城代を勤めたようです。
慶長3(1598)年景勝の会津移封にともない、栃尾城には春日山城主となった堀秀治配下の武将神子田政友が在城しましたが、 慶長15(1610)年堀家の改易にともない廃城となりました。
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栃尾の町は雁木の町。なかなか歩いてみるのも楽しいです。
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上杉家の史跡も他にあるのですが、今日の最後のメインの河井継之助記念館、与板にも行かなければならないと言うことで、早々に長岡市街に引き返しました。
そして長岡市街地にある
河井継之助邸跡に建てられた河井継之助記念館に来てみました。
河井継之助邸は、戊辰戦争の戦火で焼失しました。
戦後、家族が許されて長岡に帰ってきて父の河井代右衛門、母の貞、妻のすがの三人が焼け跡に小さな家を建てて住んでいました。最近までその家が残っていたそうですが、老朽化が激しく取り壊されてしまったそうです。
屋敷跡に現存する庭は、継之助の頃のままだそうですが、蒼龍窟の元になった庭の二本の松は枯れてしまい、二代目の松も昭和59(1984)年の豪雪で倒れてしまいました。
屋敷跡には、平成18(2006)年12月27日、市制100周年、合併記念事業の一環として「河井継之助記念館」がオープンしています。国の街なみ環境整備事業を活用し、継之助の屋敷跡にあった建物を改修したものです。
記念館には継之助の旅日記「塵壺」や、継之助が旅の途中に買ったものの雨が降らず使わなかった蓑、司馬遼太郎の小説「峠」の自筆原稿、河井継之助の史跡めぐりに役立つ資料なども展示しています。
入館料も安くて展示物もなかなか興味深かったです。あまり大きな記念館ではありませんが、なかなか楽しめました。
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この後は与板に向かいます。
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ドライブ | 日記
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2009/05/31 20:58:12