涌谷城は、元々は大崎氏の一族であり家臣であった涌谷氏が居城として築いたと言われています。
天正18(1590)年豊臣秀吉により大崎氏が改易されると、城は木村吉清の持城となりましたが、葛西・大崎一揆で旧大崎領は伊達政宗のものとなり、天正19(1591)年に伊達氏の一族である亘理重宗が入城しました。亘理重宗の父亘理元宗は伊達稙宗の子で、重宗の子定宗の時代に伊達氏の称号を許されました。定宗の子が伊達安芸宗重で伊達騒動(寛文事件)で原田甲斐により落命しました。
江戸時代は涌谷城でなく涌谷要害と称し、幕末まで仙台藩一門2万2640石の涌谷伊達(亘理)氏が城主でした。
明治2(1869)年登米県庁が置かれましたが、明治5(1872)年城は取り壊され、隅櫓(太鼓堂)のみが残っています。太鼓堂脇にある天守閣は後年造られた鉄筋コンクリート造りの模擬天守閣で内部が涌谷町立史料館となっています。
現在、涌谷神社のあるところが本丸で、伊達安芸宗重が祭神となっています。
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寺池城〔登米要害、臥牛城〕は築城年代は不明ですが、鎌倉幕府の御家人で奥州藤原氏滅亡後この地に封じられた葛西氏により築城されたと言われています。
葛西氏は当初石巻城を本拠としていたといわれていますが、後に葛西晴胤が本拠としたといわれていますが、葛西氏の領国支配の実態は不明な点が多いようです。
天正18(1590)年、豊臣秀吉の奥州仕置によって葛西氏が改易されると、木村吉清が葛西・大崎旧領30万石を与えられて入城し、居城としました。吉清の子清久は大崎氏の居城であった名生城を居城としました。
しかし、葛西・大崎一揆により一揆軍に城を占拠され、木村父子は佐沼城に逃れました。しかし、寺池城は伊達政宗の鎮圧軍により落城しました。
慶長9(1604)年伊達氏の家臣白石宗直が移り居城としました。それまでは胆沢郡水沢を領していましたが、南部氏に反乱を起こした和賀忠親を支援したため責任を取らされたとも言われています。宗直は城下町の整備や河川の改修などに力を尽くしました。堤防は白石相模宗直にちなみ「相模土手」と呼ばれています。白石宗直は後に伊達氏を名乗ることを許され登米伊達氏として幕末まで続きました。
城の名称は一国一城令のため「要害」扱いとなり、寺池城は江戸時代は登米要害という名でした。
現在は本丸は裁判所に、二の丸は登米懐古館、三の丸は公園となっています。
城の遺構はあまり残っていませんが、登米町は、城下町の雰囲気がよく残っています。またゆっくりと見てみたい町です。
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佐沼城(佐沼要害)は築城の際に守神として、鹿を生き埋めにしたことから鹿ヶ城ともいいます。
藤原秀衡の家臣・照井高直によって築城されたといわれています。
奥州藤原氏滅亡後は葛西氏の所領となりますが、戦国時代には大崎氏家臣・石川氏の居城となりました。
天正18(1590)年、豊臣秀吉の奥州仕置によって大崎氏は改易され、木村吉清の持城となりました。
葛西大崎一揆が勃発すると木村吉清・清久父子はこの城に籠城し、木村父子は伊達政宗によって救出されました。政宗が秀吉に召還された間に再び一揆軍が蜂起しましたがが、伊達軍によって鎮圧されました。一揆平定後は伊達氏の支配となり、津田景康が入城しました。その後津田氏が7代続いた後、宝暦7(1757)年亘理倫篤が入城し、幕末まで亘理氏の城でした。この亘理氏は政宗が亘理定宗に伊達氏の称号を許した際に、政宗の庶子(秀吉の愛妾香の前との間の子)である宗根を定宗の父である亘理重宗の養子としたことに始まる家系です。
現在城跡は鹿ヶ城公園となり、土塁や堀が残っています。公園の隣には登米市歴史博物館があります。
私は行くことが出来ませんでしたが、近くには葛西大崎一揆で伊達軍に撫で切りにされた将兵野獣移民2500人余を埋葬した首壇や、政宗が陣地を構えた御陣場山、政宗の乗馬を洗ったとされている馬洗いの池などがあるそうです。
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高清水城(高清水要害)は、天文年間に大崎義兼の三男高泉直堅が築城しました。
直堅の子直隆の代、天正18(1590)年豊臣秀吉の奥州仕置により大崎氏は滅亡し、高泉氏は没落しました。
高清水城は葛西大崎一揆の際に、一揆勢に奪われましたが、伊達政宗が奪還し陣所として使用しました。
一揆平定後の天正19(1591)年この地は伊達領となり、慶長6(1601)年に亘理重宗の隠居地となりました。重宗の子定宗は涌谷要害を与えられ涌谷伊達氏の祖となったため、政宗の庶子宗根を養子としました。
江戸時代は一国一城令で高清水城は高清水要害と称しました。
宝暦7(1757)年には亘理氏は佐沼に移り、石母田興頼が入場しました。
そして石母田氏が幕末まで城主でした。
外濠は高清水小学校の北側に「外濠公園」として整備されています。
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現在本丸跡は高清水小学校となっています。
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ドライブ | 日記
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2009/08/11 07:47:02