大分に来たら絶対行ってみたかった戸次川の古戦場を訪れました。大友、四国連合軍と島津軍との激しい戦いの中で、長宗我部信親、十河存保といった猛将たちが亡くなった悲劇の古戦場です。
鏡城は、築城年代など詳しいことは分かっていませんが、戸次川の戦いの際、四国連合軍の本陣となった城です。
天正14(1586)年11月、島津家久は2万の軍勢を率いて豊後に侵入し、大野川(戸次川)上流右岸の鶴賀城を包囲しました。
鶴賀城を救援するため、豊臣秀吉が豊後に派遣した長宗我部元親・信親父子、十河存保、仙石秀久の四国連合軍の軍勢は大友義統の家臣戸次統常に先導されここに着陣しました。
主郭部には特に鏡城の石碑や説明看板はありません。「征露軍凱旋記念碑」が建っていました。
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国道10号沿いには、大きな看板が建っています。
「戸次川古戦場〔戸次河原古戦場〕」
天正14(1586)年11月下旬、薩摩の島津家久は2万の軍勢を率いて豊後に侵入しました。
大野川(戸次川)上流右岸の利光にある鶴賀城の城主で大友一族の利光宗魚は兵700を含む老若男女3000とともに島津軍に激しく抵抗しましたが、城は包囲され、12月7日利光宗魚は流れ弾に当たり討死しました。
豊臣秀吉が豊後に派遣した長宗我部元親・信親父子、十河存保、仙石秀久の軍勢は大友義統の軍勢と合流、大友・四国連合軍6000が鶴賀城を救援するため、対岸の鏡城に着陣しました。
長宗我部元親や十河存保らは援軍を待っての攻撃を進言したが、軍監の仙石秀久は進言を聞き入れずに出撃することに決まり、12月12日朝、大友・四国連合軍は戸次川(大野川)を渡り、山崎、脇津留、迫の口に布陣し、脇津留で両者が激突、合戦が始まりました。
島津軍先陣の伊集院久宣はいったん脇津留から上流の利光まで兵を引くと、大友・四国連合軍はこれを追撃しました。すると、繁みや土手にいた伏兵に鉄砲で攻撃を受けて後方の島津家久と新納大膳正に反撃され、さらに迫の口東方の本庄主税介に側面を攻撃され島津軍の罠(釣野伏戦法)に落ちました。
長宗我部信親、十河在保、戸次統常は奮戦しましたが戦死し、大友・四国連合軍は中津留まで押し込まれ総崩れとなり、府内に退却しました。この「戸次河原の合戦」では両軍合わせて2000人以上の死者を出しました。
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鎧塚は、長宗我部信親の墓近くにあります。
戸次川の戦いで鎧がちぎれるまで奮戦し、壮烈な戦死を遂げた信親の鎧が埋めてあると伝えられています。
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長宗我部信親の墓です。長宗我部信親は長宗我部元親の長男です。
織田信長から「信」の字を与えられ、信親と名乗るようになりました。背の高さは6尺1寸(約184cm)と長身で、色は白く礼儀正しく、家臣には分け隔て無く接し、領民には常に情けをかけるなど人々からしたわれていたと伝えられています。
元親にとって期待の息子でした。
敵に囲まれる絶望的な状況の中、信親は家臣700と獅子奮迅の戦いを行いますが、刀の刃は欠け、鎧はちぎれついに力尽き家臣全員とともに22歳の短い生涯を終えた。
信親は島津氏によって山崎に葬られ、後に元親がつかわした僧により荼毘にふされました。
持ち帰られた遺骨と遺品を見て元親やその家臣たちは悲しみの余り涙しました。
長宗我部信親の墓の側には森鴎外の長編叙事詩、「長宗我部信親の碑」が建っています。
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十河一族の碑〔十河一族慰霊碑〕です。
十河存保は三好長慶の弟、三好義賢の次男です。
叔父の十河一存の養子となり十河氏の家督を継ぎました。
四国に勢力を伸ばす長宗我部元親に対し、実家の三好家の勢力を挽回すべく激しい戦いを繰り広げました。
一時、元親により四国から追われましたが天正13(1585)年、豊臣秀吉の四国征伐で活躍し、旧領の讃岐十河3万石を回復しました。
しかし、翌年の天正14(1586)年の戸次川の戦いによりかつての宿敵長宗我部元親の嫡男長宗我部信親と共に戦死しました。長宗我部信親の慰霊碑の横に「十河一族慰霊碑」が建立されています。
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鶴賀城は別名「利光城」ともいわれ、険しい連山の頂に築かれた山城です。
築城時期は不明ですが、この地は豊後の豪族、緒方一族が治めていました。
建久7(1196)年、大友氏の初代、大友能直が豊前・豊後の守護職として府内に入り、地元の九族を一掃しました。能直の孫大友親家に「利光」と名乗らせ、以来390年間代々府内南の要衝として治めました。
天正14(1586)年、大友、島津の豊薩の陣において、11月には島津家久率いる薩摩軍2万が伊集院美作を先陣に、城主利光越前守宗魚の率いる3千余が守る鶴賀城に攻め寄せました。利光宗魚は12月7日に戦死するが、城兵は籠城を続けました。
12月12日援軍の大友・四国連合軍は「戸次川の合戦」で大敗を喫しました。鶴賀城は善戦数十日に及んだが、軍勢の差は大きく、水・食料を断たれ、矢弾つきて降伏しました。
一応車で登れますが、かなりの悪路です。二の丸に鶴賀城や利光越前守宗魚の石碑が建っていて、本丸には土塁が残っています。
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この後は、臼杵へ向かいます。
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ドライブ | 日記
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2010/08/10 00:19:26