斑鳩の里を西から順番にサイクリングしていきます。
藤ノ木古墳は、法隆寺の西方に約400mに所在する直径50m以上、高さ約9mを測る6世紀後半の円墳です。
昭和60(1985)年に発掘調査が開始され、南東方向に開口する全長13.95m両袖式の横穴式石室で、玄室の奥壁近くに全体を朱で塗られた二上山の凝灰岩製の刳抜式家型石棺が横向きに置かれていました。石室内からは、世界でも類例の無い装飾性豊かな「金銅装透彫鞍金具」に代表される馬具のほか、武器や土器等の遺物が出土し、一躍世界からも注目される古墳となりました。
昭和63(1988)年には、ファイバースコープ調査を経て開棺調査が実施されました。石棺内部は未盗掘で、二体の人物が埋葬当時の状態で合葬されていることが明らかとなりました。副葬品は豊富で、被葬者の権力を示す金銅製の冠や履などの金属製品のほか、玉纏太刀や剣などの刀剣、銅鏡、銀製空玉やガラス製玉をはじめとする多くの各種玉類などがありました。
昭和62(1988)年に重要文化財、平成16(2004)年に国宝に指定されました。
藤ノ木古墳 - 01 posted by
(C)pismo
藤ノ木古墳 - 02 posted by
(C)pismo
藤ノ木古墳 - 03 posted by
(C)pismo
藤ノ木古墳 - 04 posted by
(C)pismo
藤ノ木古墳 - 05 posted by
(C)pismo
藤ノ木古墳 - 06 posted by
(C)pismo
斑鳩文化財活用センター(斑鳩文化財センター)は、国史跡藤ノ木古墳のガイダンス機能を有し、貴重な文化財の展示がされている施設です。
平成22(2010)年3月20日、オープンしました。
藤ノ木古墳から出土した代表的な副葬品のレプリカが常設展示されています。
斑鳩文化財センター - 1 posted by
(C)pismo
斑鳩文化財センター - 2 posted by
(C)pismo
龍田神社は、法隆寺の鎮守とされていた神社です。
伝承によれば、聖徳太子が法隆寺を建立しようとしていた際、白髪の老人に化身した龍田大明神に逢い、「斑鳩の里こそが仏法興隆の地である。私はその守護神となろう」と言われたので、その地に法隆寺を建立し、鎮守社として龍田大明神を祀る神社を創建したといわれています。
龍田神社 - 1 posted by
(C)pismo
龍田神社 - 2 posted by
(C)pismo
龍田神社 - 3 posted by
(C)pismo
龍田神社 - 4 posted by
(C)pismo
龍田城は、室町時代に一乗院方衆徒龍田氏に築かれたといわれています。
関ヶ原の戦いの後、慶長6(1601)年、徳川家康は豊臣氏の家老として豊臣秀頼の後見人を任されていた片桐且元に大和龍田2万8000石の大名として取り立てました。その際、龍田城の跡に陣屋を築いたと言われています。
ちなみに茨木城の方は豊臣家家老の立場での預かり城であったと思われます。
大坂夏の陣の後、片桐且元は元和元(1615)年には加増され4万石を領しました。
且元は大坂夏の陣の後、20日後に死去し、子の片桐孝利が継ぎました。孝利は寛永15(1638)年に死去したが、嗣子が無く、一時は断絶されかけましたが、且元の功績を考慮して弟の片桐為元が家督を継ぐことで存続を許されました。ただし、1万石に減封されました。為元の後は、為次がついだが、嗣子が無く改易されました。
幕府は為次の弟にあたる片桐且昭を3000石の交代寄合としたが、且昭も嗣子がなく、且元の弟・片桐貞隆から始まる小泉藩の一族・片桐貞就を養嗣子としました。しかし、貞就も元禄7(1694)年に死去すると、これまた嗣子なく断絶し、且元系統の片桐家は完全に断絶し、陣屋も廃されました。
白山神社の裏側のため池・平太池が龍田城の唯一の遺構だそうです。
龍田城 - 1 posted by
(C)pismo
吉田寺(きちでんじ)は山号は清水山、浄土宗の寺院です。
天智天皇の勅願により創建されたとされ、本堂近くに・妹の間人皇女を葬る古墳があります。
平安時代の永延元(987)年に天台僧・恵心僧都(源信)が開山したとも伝えられています。
俗に「ぽっくり寺」の名で親しまれています。聖霊殿(聖徳太子を祀る)と承応元(1652)年建立の多宝塔が重要文化財に指定されています。
吉田寺 - 1 posted by
(C)pismo
吉田寺 - 2 posted by
(C)pismo
吉田寺 - 3 posted by
(C)pismo
斑鳩神社は、旧法隆寺村の守り神として、丘の麓にありましたが、元享4(1324)年に現在の所に移したといわれています。
地元では「天満さん」の名で親しまれている菅原道真を祀る神社で、天慶年中(938年以降)に法隆寺第9代管守湛照僧都により建立されました。湛照僧都は菅原氏の後裔であることも関係し、建立したと伝えられれています。当初は天満山の西麓に位置し境内に如法経堂という堂がありましたが、寛文年間に火災で全焼した。寛文8(1668)年に神殿が再建された後、水害のため享保10(1725)年に現在と同じ山上に移ったと伝えられれています。
明治2(1869)年には、法隆寺境内にあった総社明神、五所明神、白山権現が遷祀され、現在の境内には、本殿、一殿、二殿と惣社、五所社、白山社、大将軍社、厳島社、恵比須社の六社が祀られています。
斑鳩神社 - 1 posted by
(C)pismo
斑鳩神社 - 2 posted by
(C)pismo
斑鳩神社 - 3 posted by
(C)pismo
次は、法輪寺へ向かいます。
ブログ一覧 |
自転車 | 日記
Posted at
2010/11/10 20:05:27