源氏三代の墓(源頼信、頼義、義家)は、河内源氏の里、通法寺付近にあります。
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源義家の墓は、通法寺の南東の丘陵上にある小高い円丘です。
義家は、父は源頼義、母は平直方の長男として生まれました。
前九年、後三年の役で活躍し、武将としての地位を不動のものにしました。
嘉承元(1106)年7月に京の邸宅で死去し、この地に葬られました。
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源頼信の墓です。
源頼信は、清和源氏の家系である満仲の三男として生まれ、20歳のとき中央官界に身を置き、藤原道家や道長に仕えました。
長元元(1028)年に勃発した平忠常の乱の際には、追討使平直方に代わり反乱を鎮圧しました。
この乱を鎮圧したことによって、頼信は武家の頭梁としての確固たる地位を築きました。
また、上野・常陸・伊勢・美濃などの国司を歴任し、最後に河内国司となり、河内国古市郡壺井里に本拠地を構え、河内源氏をひらくもとになりました。
長久元(1043)年には、子の頼義とともに観音堂(後の通法寺)を建立したと伝えられ、代々河内源氏の氏寺として信仰されました。
永承3(1048)年、81歳の時この地で死去し、遺言により通法寺の巽(東南)の丘陵上に葬られました。
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大僧正隆光の墓は、源頼信の墓の隣にあります。
隆光は通法寺の再建の際に多田義直が上表した際、柳沢吉保と共に尽力した人物で、将軍綱吉の学僧であり江戸護持院の住職をつとめ、いわゆる「生類哀れみの令」を公布させた人物でした。
そのため綱吉の死後は役目御免の扱いを受け、自分が世話をしてきた通法寺の住職に左遷させられ、のちに奈良市二条町付近の自宅で死去しました。奈良には超昇寺跡に墓がありますが通法寺においても隆光の分骨所としての墓碑が残されました。
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通法寺は、長久4(1043)年に河内国司であった源頼信が小堂を建てたことから始まります。
前九年の役(1051~62)の時、東北地方で活躍した源頼義が浄土教に帰依し阿弥陀仏を本尊としてから河内源氏の菩提寺となり源氏の隆栄と共に栄えました。
南北朝時代には、戦火にあい建物を消失しましたが、江戸時代になって源氏の子孫・多田義直が5代将軍綱吉に願い出て柳沢吉保らが普請奉行となって再建しました。
しかし、明治時代の廃仏毀釈により現在のように、山門・鐘楼などを残すだけとなってしまいました。
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通法寺跡には
源頼義の墓が残っています。
源頼義は父は源頼信、母修理命婦で長男として生まれました。
平忠常の乱の際、父を助け乱の鎮圧に貢献し、はやくからその武勇を東国武士に知らしめていました。
前九年の役での安倍氏との戦いでは、清原氏の助けを得て勝利を得ました。
出陣に際して、石清水八幡宮に参拝して戦勝を祈願し、その戦功をあげることができたので、その感謝の意味をこめてこの地に八幡神を勧請し、通法寺の北側に壺井八幡宮を建立、源氏の氏神としました。
承保2(1075)年7月13日、88歳でその生涯を閉じ、通法寺境内に葬られたといわれています当初は本堂の床下に葬られましたが、後に現在の位置に移されました。
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通法寺跡の東側に
源氏館の石碑と説明看板が建っています。源満仲の三男頼信は河内守となって寛仁4(102)年に河内国古市郡壺井里の香炉峯に居館を構えて本拠地としました。数々の武功によって大きな勢力を築いた名族、河内源氏の始まりです。
頼信とその子頼義、孫の義家らは、平忠常の乱(1028~30)、前九年の役(1051~62)、後三年の役(1083~87)などの相次いだ戦乱で活躍し、関東、東北地方へも地盤を広げていきました。
彼らの子孫には、鎌倉幕府を開いて将軍となった頼朝や、その弟義経などがいます。
頼信らが住んだ館の跡は、壺井八幡宮が鎮座する丘の上にあると伝えられています。
今のところ、場所や規模などを知る具体的な手掛かりはないそうです。
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壺井八幡宮の鳥居の脇の井戸が
清泉「壺井」です。
平安時代の前九年の役の際、源頼義の軍が飲料水に苦しんだ折、弓の先で崖を突き崩して得た冷泉により将士の意気があがったといわれています。
役の平定が完了し凱旋する際、冷泉の水を壺に入れて持ち帰り、本拠地の香炉峯の南麓に井戸を堀り、そこに冷泉の水を底に入れ苦戦の記念としたもので、これが「壺井」の地名の起源となったそうです。
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壺井八幡宮があるあたりは、香炉峯(こうろほう)といわれ、河内源氏発祥の地として知られています。
寛仁4(1020)年、源頼信が河内守に任官し、この地に私邸を営みました。
康平7(1064)年、前九年の役を平定した源頼義は、石清水八幡宮の神を勧請し、私邸の東側に祀ったのが壺井八幡宮の始まりです。
また、八幡宮と並んで建つ壺井権現社は天仁2(1109)年、源義家の5男義時が氏神として源頼信、頼家、義家の三代を祀るため創建しました。
南北朝から戦国時代にかけ、度々兵火に見舞われ、荒廃しましたが、元禄14(1701)年に徳川綱吉の命で柳沢吉保が再建したのが現在の社殿です。
平成7〔1995〕年に復元修理が完成しました。
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秋のさわやかな天気の中のサイクリングはなかなか気持ちの良いものです。
河内は色々な史跡があり、またアップダウンがさほどないのでサイクリングには最適です。しかし、幹線道路がもう少し歩道等が整備されていればより快適なのですが。
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自転車 | 日記
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2010/11/24 20:41:00