この日から3泊4日で、人吉、八代、宇土、天草、島原半島、熊本に出かけました。
今年開通した九州新幹線で新八代へ向かいます。
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肘掛けはどちらの席のもの?半分で領地を区切っているように線が掘られています。
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新八代からはレンタカーで人吉へ。最初に訪れたのは日本100名城、
人吉城です。
人吉城は、もともと平頼盛の代官矢瀬主馬祐が城主であったとされていますが、建久9年(1198)年、遠江国相良の出身で人吉荘の地頭となった相良長頼が、矢瀬氏を滅ぼし、翌年から人吉城 (中世人吉城・原城)の修築を始めました。
その時、三日月の文様のある石が出土したので、別名を三日月城、或いは繊月城ともいわれます。 戦国時代に相良氏は球磨地方を統一し、更に芦北・八代・薩摩方面へと領土の拡大を図り戦国大名として発展します。
しかし、天正9(1581)年に島津氏に臣従しました。後に天正15(1587)年豊臣秀吉の九州征服により、球磨郡のみを支配することになり、関ヶ原の戦いでは西軍につくも後に東軍に内応し、本領を安堵されました。
近世人吉城の本格的な築城は、20代長毎によって天正17(1589)年、豊後から石工を招き始められられました。
明治4(1871)年の廃藩置県により廃城となり、明治10(1877)年の西南戦争で全焼しました。
その後城跡は公園として整備され、昭和36(1961)年国の史跡に指定されました。
平成元(1989)年隅櫓が復元され、平成5(1993)年には大手門脇多聞櫓と続塀が復元されました。
平成17(2005)年には人吉城歴史館が開館し、平成18(2006)年4月6日、日本100名城に選定されました。平成19(2007)年には市内民家に移築されていた堀合門が現存する門や絵図に基づき復元されています。
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戦死の碑です。
国内最後の内乱といわれる明治10(1877)年の西南戦争では5月の1ヶ月間西郷軍が滞在しました。
人吉隊も結成され、人吉に迫った政府軍との攻防戦が行われ市街地が焼失するなど「大騒動」となり、両軍とも多くの戦死、病死、獄死者が出ました。
戦後、その両軍戦死者を供養するため勝海舟の筆により城内(人吉市麓町10番地の2)に慰霊碑が建立され、後に道向かいの林鹿寺境内に移転しました。
(説明看板より)
林鹿寺・戦死の碑 - 1 posted by
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大井戸遺構〔相良内蔵助屋敷地下室〕です。
人吉城跡では、井戸のある地下室が二つ発見されています。 一つは 「人吉城歴史館」 の中庭にある地下室遺構で、二つ目はこの大井戸遺構です。
相良内蔵助は、人吉藩の家老相良清兵衛頼兄(犬童頼兄)の子です。相良清兵衛は関ヶ原の戦いの際、西軍に味方し大垣城に籠城していた主君相良頼房に東軍に寝返るように進言し、相良氏の存続を成し遂げるなど功績がありましたが、専横の振る舞いがあるとのことで初代頼房の遺言により、2代藩主頼寛の訴えにより寛永17(1640)年江戸に召還され、津軽に流罪となりました。
お下の乱は、その際に清兵衛一族がお下屋敷に立て籠もり、一族全員が討死した事件です。
地下室遺構は、「お下の乱」を描いた人吉城絵図によれば、家老を務めた相良清兵衛の屋敷内にあった二階建ての持仏堂に、大井戸遺構は、その息子の内蔵助の屋敷内にある「蔵」と書かれた建物の位置に相当するようです。
二つの地下室は、石段の降り口、踊り場、方形の大型の井戸、黒色の小石敷き、その下の杉板葺きなど、構造がよく似ています。江戸時代の初期に建造され、「お下の乱」の直後に破壊されて埋められてしまいました。
特殊な目的のために造られた井戸と推定されますが、全国では同様な遺構の発見例がなく、謎の多い遺構です。
今回、実物展示のため石積みの復元修理を行い、上部に推定される建物と同じ規模(6m×7m)の覆い屋を建設し、休憩施設としました。
(説明看板より)
相良内蔵助屋敷地下室 - 1 posted by
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人吉城歴史館は平成17(2005)年12月2日、人吉城跡の一角、相良清兵衛屋敷跡にオープンしました。
寛永17(1640)年の「お下の乱」を描いた人吉城絵図では、相良清兵衛屋敷内にあった二階建て「持仏堂」の場所にあたり、清兵衛の子相良内蔵助屋敷地下室と同様に地下室遺構が発掘され、保存されています。
また展示室では、鎌倉時代以来の領主・相良氏の歴史、その居城である人吉城跡の構造や特徴を学ぶことができます。
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次は、人吉城下にある寺社などを巡ります。
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ドライブ(レンタカー) | 日記
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2011/09/23 13:27:50