光明寺は、山号は金龍山、曹洞宗の寺院です。
この寺院には、木曽氏の墓があります。
天正10(1582)年3月、武田信玄と姻戚関係にあった木曽福島の城主木曽義昌は、織田・徳川の連合軍と手を結んだため離叛者となり、これを知った勝頼は未完成の新府城には防戦が不可能であることを察し、城に火を放って郡内岩殿城主小山田信茂を頼り再挙を図りました。
その当時人質として預かっていた木曽義昌の嫡子千太郎(光明寺殿木曽淨髙大居士)13才、娘(寶光院殿玉輪妙関大姉)17才、祖母(六観院殿幻屋法如大姉)70才を上野豊後守宅より連れ戻し躍躑が原において土屋惣蔵の介錯によって自決せしめました。勝頼は後事を上野家に託したので後年光明寺に墓碑を建て開基として霊を慰めました。
(石碑の説明板より)
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新府城は、正式には新府中韮崎城といい、天正9(1581)年春、武田勝頼が甲斐府中として、城地を七里岩南端韮崎の要害に真田昌幸に命じて築かせた平山城です。
織田信長の甲斐侵攻に備え、韮崎に広大な新式の城郭を構えて府中を移し、退勢の挽回を期すべく工事は昼夜兼行で行われ、着工後8ヶ月余りで竣工しました。
ついで城下町も整ったので、新府韮崎城と名付け、同年12月、甲府からここに移りましたが、翌年の天正10(1582)年3月、勝頼は織田軍の侵入を待たず、みずからこの城に火を放って退去するのやむなきに至り、天目山田野の里に滅亡の日を迎えることになりました。
武田氏滅亡後6月に本能寺の変で織田信長が亡んだ後、天正壬午の乱で徳川・北条両氏が甲州の覇権を争うこととなり、家康はこの城跡を修築して本陣とし、5倍する兵を率いて若神子に布陣する北条氏直を翻弄して有利に導きました。
昭和48(1973)年、国の史跡に指定されました。本丸には「勝頼公霊社」や長篠役陣没将士の墓があります。
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信玄公旗掛松碑は、日野春駅の東南端にあります。
武田信玄がここを通った時に目標の旗を掛けた松がかつてありました。
明治36(1902)年国鉄中央本線が開通しましたが、汽車の煤煙と震動により、「信玄公旗掛松」が大正9(1916)年に枯死しました。
そのため、所有者が鉄道院にたいして損害賠償を求めて裁判となりました。
この碑は原告の勝訴を記念して建立されました。
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次は高遠・伊那へ向かいます。
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ドライブ | 日記
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2012/01/11 21:48:33