洞松寺(とうしょうじ、どうしょうじ)は、山号は舟木山、曹洞宗の寺院です。
舟木山の山号はこの地が神功皇后の朝鮮出兵に関して、兵船のための舟材を献じたことに由来し、「洞松の司」という地名をうけたといわれています。
天智天皇の行幸の際、南都興福寺の光照菩薩を祀り、仏閣を建立し、舟木山洞松司院として開創され、のちに和気氏により、七堂伽藍が整備され三十六坊をもつに至りました。
安徳天皇臨幸のとき、船が破却したため、舟材を献じ洞松司院を洞松寺と称すようになったと伝えられています。
中世期、寺運は衰退していましたが、室町時代の応永19(1412)年、喜山性讃禅師は(大本山総持寺百世)、猿掛城主庄駿河守の帰依をうけ、洞松寺を中興開山し、師の恕仲天誾禅師を勧請開山として、自ら第二世となりました。その後大道場となり栄えました。
訪れたときは、修行中とのことで、境内に入ることができませんでした。立派な山門を見ることはできましたが、その他庄元資宝篋印塔や穂井田(毛利)元清宝篋印塔なども境内にはあるそうです。
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猿掛城は、小田川の右岸、倉敷市真備町妹と矢掛町横谷の境界に有り、標高239メートルの山城です。
源平合戦の功績により、東国の武将庄太郎家長は、建久3(1192)年、備中山方の庄、二万の庄、穂田の庄、草壁の庄の地頭として赴任し、総社市(旧山手村)の幸山城に入りましたが防御に不便として元久2(1205)年頃猿掛山に新城を築いて移りました。
元亀2(1571)年、庄元資の佐井田城攻めの討死まで、庄氏15代366年間備中の豪族として繁栄しました。
天正3(1575)年、備中松山城主の三村元親を討った毛利元就の六男穂井田(毛利)元清が五千貫の領主として入城しました。
天正10(1582)年羽柴秀吉による高松城の水攻めの際には毛利輝元がここに本営を置きましたが羽柴氏との和睦により元清は矢掛茶臼山城に移り、毛利元就の娘婿である宍戸隆家が入城しました。
その後、慶長9(1604)年、花房志摩守正成が五千石で入城しましたが、元和元(1615)年の一国一城令で廃城となりました。
曲輪の遺構は明瞭に残っています。
登城口は小田川沿い、猿掛山の北側にあります。大手口と搦手口がありますが、大手口からの方が登りやすいと思います。
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そして、この日の最後に
鬼ノ城を訪れました。
ここは、平成19(2007)年にも訪れています。
備中史跡めぐり(その1・鬼ノ城など総社周辺の史跡)
日本100名城スタンプを狙っていましたが、訪れたのが少し遅く、押印場所のビジターセンターはもう閉まっていましたので、残念ながらスタンプは押せず・・・
写真のみの撮影です。
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2012/02/15 22:51:17