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2012年05月12日

讃岐ドライブ(その3・源平合戦、屋島古戦場めぐり)

ここからは屋島古戦場をめぐります。
おもに自転車を使いました。
駒立岩です。
源平合戦の時、那須与一が祈り岩で神明に祈願を終え、海の中のこの岩まで駒を進め足場を定めて、波にゆれ動く船の扇の的を見事に射落としたので駒立岩といわれています。(現地説明板より)
駒立岩 - 1
駒立岩 - 1 posted by (C)pismo

駒立岩 - 2
駒立岩 - 2 posted by (C)pismo

祈り岩は、源平合戦の時、那須与一が平家の船に立てた竿の先の扇の的を射る時この岩の所で「南無八幡大菩薩、わけても私の生まれた国の神明日光権現、宇都宮那須大明神、願わくばあの扇の真中を射させ給え」と祈ったと伝えられています。
「いのり岩」の字は、松平頼重公の臣箕輪野六の書と伝えられています。
(現地説明板より)
祈り岩 - 1
祈り岩 - 1 posted by (C)pismo

祈り岩 - 2
祈り岩 - 2 posted by (C)pismo

景清の錣引の伝説は、源平合戦の一騎打ちの物語です。太刀を折られ、逃げる源氏の美尾屋(みおや)十郎のカブトを平家の悪七兵衛景清が熊手で引っかけ、強い腕の力でカブトの錣を引きちぎりました。
景清の剛勇さと十郎の首の強さをお互いに称賛したと伝えられています。
(現地説明板より)
景清錣引伝説 - 1
景清錣引伝説 - 1 posted by (C)pismo

洲崎寺は山号は眺海山、高野山真言宗の寺院です。
正式には眺海山円通院と号し、大同年間(806-810)に弘法大師空海により創建されました。
本尊である「聖観世音菩薩」は大師の作と伝えられています。
源平合戦や戦国時代に長宗我部氏の侵攻により焼かれるなど、繁栄と衰退を繰り返し、元禄12(1699)年に再興され、現在に至っています。
源平合戦時、義経の身代わりとなり討死した佐藤継信の亡骸を、戦火によって焼け落ちた本堂の扉に乗せて源氏の本陣の瓜生ヶ丘まで運ばれたと伝えられており、継信の菩提寺として、毎年3月19日に慰霊法要が行われています。
平成12(2000)年に再興三百年を記念して完成した庭園は、苔と石で「屋島壇ノ浦の戦い」を表現し、境内壁面に「扇の的」「弓流し」等の合戦のあらましを刻んだ説明板があります。
また、江戸時代、四国八十八ヶ所霊場を庶民に広め「四国遍路の父」と称えられている真念の墓があります。元々は牟礼町塩屋南三昧の共同墓地にありましたが昭和55(1980)年この地に移されました。
(現地説明板などより)
洲崎寺 - 1
洲崎寺 - 1 posted by (C)pismo

洲崎寺 - 2
洲崎寺 - 2 posted by (C)pismo

洲崎寺 - 3
洲崎寺 - 3 posted by (C)pismo

洲崎寺 - 4
洲崎寺 - 4 posted by (C)pismo

洲崎寺 - 5
洲崎寺 - 5 posted by (C)pismo

義経弓流し跡です。
源平合戦の際、義経は勝に乗じて海中に打ち入って戦ううち、脇下にはさめていた弓を海中に落として、平家方の越中次郎兵衛盛嗣に熊手をかけられ危うく海中に落ちかかりましたが、義経は太刀で熊手をあしらい左手のムチで弓をかき寄せ引きあげたというところです。
平家方に拾われて、「源氏の大将ともあろう者がこんな弱い弓を使っているのか」ともの笑いになるのをおそれたものだといわれております。(現地説明板より)
もう一箇所、屋島側に「義経の弓流し」の説明板が立っている場所が他にもあります。
義経弓流し跡 - 1
義経弓流し跡 - 1 posted by (C)pismo

総門跡です。
寿永2(1183)年9月、平氏は安徳天皇を奉じて六万寺を行在所として(屋島檀の浦の行宮のできるまで)ここで門を構えて、海辺の防衛に備えました。総門はこの遺跡です。
後に、檀の浦に行宮をうつしてからも、この門を南部の重鎮として大いに源氏軍を防ごうとしましたがついに源氏の占領するところとなりました。当時この付近は海浜でした。
標木は高松藩主松平頼重の建てたもので、碑は野津大将題、黒木欣堂撰書”夏草や”の碑は久保不如帰氏作です。(現地説明板より)
総門跡 - 1
総門跡 - 1 posted by (C)pismo

総門跡 - 2
総門跡 - 2 posted by (C)pismo

総門跡 - 3
総門跡 - 3 posted by (C)pismo

総門跡 - 4
総門跡 - 4 posted by (C)pismo

総門跡 - 5
総門跡 - 5 posted by (C)pismo

射落畠です。
寿永4(1185)年2月19日源平合戦の際、源氏の武将佐藤継信が大将義経の身代わりとなり、平家の雄将平能登守教経の強弓に射落された所です。
佐藤継信は鎮守府将軍藤原秀郷の後裔にして藤原秀衡に仕えていました。継信は若くして知略兵法に通じ、豪勇の名を知られていました。源義経陸奥に来て秀衡の庇護をうけ後頼朝挙兵を援けるため都に上るに際し、父の命により継信、忠信の兄弟もこれに従いました。連戦して平家を追い屋島壇ノ浦にいたり、源義経の身代わりとして戦死しました。時に28歳でした。
昭和6(1931)年継信の墓所大修築と共にこの地に柵をめぐらし池泉をつくり射落畠碑と、遠祖君乗馬薄墨碑を建立し、これをあらわしました。
昭和60(1985)年、福島飯坂ライオンズクラブにより、飯坂大鳥城の出身で源平800年祭と当クラブ結成20周年を記念して佐藤継信顕彰碑が建立されました。
(現地説明板などより)
射落畠 - 1
射落畠 - 1 posted by (C)pismo

射落畠 - 2
射落畠 - 2 posted by (C)pismo

源平合戦の際、源義経の身代りとなって戦死した佐藤継信の墓です。
寛永20(1643)年、高松藩主松平頼重公が新しく墓石を建てて、その忠死を称えました。
昭和6(1931)年5月、継信30世の孫・山形県人佐藤信古氏が更に大修築を加えて面目一新しました。
「胸板をすえて忠義の的に立ち」
(現地説明板などより)
佐藤継信の墓・大夫黒の墓 - 1
佐藤継信の墓・大夫黒の墓 - 1 posted by (C)pismo

佐藤継信の墓・大夫黒の墓 - 2
佐藤継信の墓・大夫黒の墓 - 2 posted by (C)pismo

佐藤継信の墓・大夫黒の墓 - 3
佐藤継信の墓・大夫黒の墓 - 3 posted by (C)pismo

太夫黒の墓は佐藤継信の墓の墓域内の右奥にあります。
この馬はもと後白河法皇から義経に賜わったもので、継信の忠死を賞揚する余りに、義経はこの馬を志度寺の覚阿上人に施して菩提を弔わせました。
太夫黒が倒れて後、ここに埋めたといわれています。
(現地説明板などより)
佐藤継信の墓・大夫黒の墓 - 4
佐藤継信の墓・大夫黒の墓 - 4 posted by (C)pismo

長刀泉は、源平合戦の時、この付近は海が近く水が悪かったので源氏の兵は炊事をするのに弁慶が長刀で掘った井戸のところからきれいな水が湧き、その水を使ったと伝えられている古井戸です。
「三代物語」に「武蔵坊弁慶屓尖刀鐓(なぎなたのいしずき)を以って、井戸を穿つ、しばらくして清泉湧く。云々」と記されています。
(現地説明板などより)
長刀泉 - 1
長刀泉 - 1 posted by (C)pismo

長刀泉 - 2
長刀泉 - 2 posted by (C)pismo

瓜生ヶ丘は、源平屋島合戦で平氏を攻めるため源氏が陣を敷いた場所です。
鎌長製衡工場の南東側の行き止まり道路に「宇龍ヶ岡」の石碑が立っています。
瓜生が丘
瓜生が丘 posted by (C)pismo

菜切地蔵です。
源平合戦の時、弁慶が源氏の兵のため炊事をするのにマナ板がなかったので、この石地蔵の背で野菜を料理して汁を作り、義経以下にさしあげたといいます。
その時のことを、後世の人は「弁慶がこしらえし菜は武蔵坊」と発句をよむと、すかさず弁慶は「それを知りつつ九郎判官」と詠んだといわれ、お地蔵さんの背には、刀痕があるとまでいわれています。
(説明看板より) 
菜切地蔵 - 1
菜切地蔵 - 1 posted by (C)pismo

菜切地蔵 - 2
菜切地蔵 - 2 posted by (C)pismo

義経鞍掛松です。
寿永4(1185)年2月平家追討の命をうけた九郎判官義経は、源氏の精鋭を率いて阿波の勝浦から大阪峠を越えて讃岐に入り屋島を望むこの地で人馬を整え、平家の陣を攻めたと伝えられています。
その時大将義経がここで松に鞍をかけ休息したといわれています。
(説明看板より) 
義経鞍掛松 - 1
義経鞍掛松 - 1 posted by (C)pismo

屋島の古戦場ではありませんが、喜岡城(高松城)が近くにあるので立ち寄りました。
喜岡城(高松城)は、鎌倉時代の末期、建武の中興の功臣舟木(高松)頼重が讃岐守護職としてこの地に城をかまえていましたが、建武2年(1335)11月26日、足利尊氏の臣、細川定禅らの軍勢に攻められ、老父一族14人と郎党30余人討死し、落城しました。
その後、ここ喜岡城(高松城)にて高松庄を領した高松左馬助頼邑は、天正13(1585)年4月26日、秀吉の四国征伐の一隊(宇喜多秀家ら七将の兵)約2万3千の攻撃をうけ、手兵100余人と、香西氏派遣の唐人弾正、片山志摩の率いる兵、合わせてわずか200をもって勇敢に戦いましたが衆寡敵しがたく城兵ひとり残らず討死しました。
高松町長塚は、当時激戦のあった場所で全将兵を葬ったところと伝えられています。
高松頼邑、唐人弾正、片山志摩の墓は、喜岡寺境内にあります。
(説明看板より) 
現在の高松城(玉藻城)が築かれる前は、こちらの喜岡城が「高松城」でした。
現在、城址は喜岡寺となっています。
高松城(喜岡城) - 1
高松城(喜岡城) - 1 posted by (C)pismo

相引川です。
昔、屋島は島で、南の方も海でありましたが、江戸時代の初めに埋め立てられて狭く川のようになりました。
引き潮には、東西の両方に潮が流れるようになったので、相引川と呼ばれるようになりました。
今でも屋島は、その名のとおり、この川によって陸地と離れて、その面影をとどめています。
また、源平屋島合戦のとき、両軍がこの川の辺りで戦いましたが、勝負がつかず、共に引き上げたので、相引川と呼ばれるようになったともいわれます。
(説明看板より) 
相引川 - 1
相引川 - 1 posted by (C)pismo

相引川 - 2
相引川 - 2 posted by (C)pismo

赤牛崎です。
寿永4(1185)年2月、屋島源平合戦のおり、源氏軍は瓜生が丘に陣を構えました。
当時、屋島は島であったことから容易に渡ることができませんでしたがたまたま高松方面(高松町)から赤牛が渡れるということを聞いて(夜中、牛の角に松明をつけて渡ったともいわれています。)浅瀬があることを知った義経は、後藤兵衛父子ら源氏軍30余騎に海を渡らせ屋島に上陸、平家軍の陣営に攻め寄せることができたと伝えられるところから、この地に赤牛崎の名が残っています。
(説明看板より) 
赤牛崎 - 1
赤牛崎 - 1 posted by (C)pismo

赤牛崎 - 2
赤牛崎 - 2 posted by (C)pismo

義経の弓流し跡です。
源平合戦の際、この付近一帯は遠浅な海岸であり、義経は勝に乗じて海中に打ち入って戦っていました。
その時、脇下にはさめていた弓を落としてしまい、平家方の越中次郎兵衛盛嗣に熊手をかけられ危うく落ちかかりましたが、義経は太刀で熊手をあしらい左手のムチで弓をかき寄せ引きあげました。
危険を冒してまで弓を拾ったのは、平家に拾われて「源氏の大将ともあろう者がこんな弱い弓を使っているのか」ともの笑いになるのをおそれたものだといわれています。
(説明看板より)
ここより南東側の牟礼町側にも義経弓流し跡があります。


菊王丸の墓です。
源平合戦のとき、源氏の勇将佐藤継信は、大将義経の身代わりとして能登守教経の強弓に倒れました。
そのとき教経に仕えていた菊王丸は、継信に駆けより首を切り落とそうとしましたが、そうはさせまいとする継信の弟忠信の弓によって倒されました。
菊王丸は、教経に抱きかかえられ、自らの軍船に帰りましたが、息をひきとりました。
教経は、菊王丸をあわれんでこの地に葬ったと伝えられています。
(説明看板より)
菊王丸の墓 - 1
菊王丸の墓 - 1 posted by (C)pismo

安徳天皇社です。
寿永2(1183)年、平宗盛は、安徳天皇を奉じて一の谷から屋島に来ました。
ここは、檀の浦の入江にのぞみ、後ろに険しい屋島の峰、東に八栗の山をひかえ、戦には地の利を得たところであったので宗盛は、行宮を建て将士の陣営をつくりました。
安徳天皇社のあたりが行宮跡であったといわれています。(説明看板より)
安徳天皇社 - 1
安徳天皇社 - 1 posted by (C)pismo

安徳天皇社 - 2
安徳天皇社 - 2 posted by (C)pismo

佐藤継信の碑です。
佐藤継信は、寿永4(1185)年2月の源平屋島合戦のとき、平家の武将平能登守教経の強弓により、大将義経の一命危ういとみて、義経の矢面に立ち、身代わりとなって討死しました。
この継信の死を広く世人に知らしめるために寛永20(1643)年初代高松藩主松平頼重公が、合戦当時に義経が丁重に葬ったあとを受けて、屋島寺へ続くこの遍路道の傍に建立したものです。
また、墓は牟礼町王墓に残っています。(説明看板より)
佐藤継信の碑 - 1
佐藤継信の碑 - 1 posted by (C)pismo

船かくしです。
寿永2(1183)年7月、木曽義仲の軍に敗れた平家は、幼帝安徳天皇を奉じてここ屋島周辺に陣を敷き勢力の回復を図ろうとしました。
そして平家は、この浦はもちろんのこと、久通(くず)、丸山、本浦、鎌野、大島、兜島など庵治浦全体を兵船の船だまりとして、海上からの源氏の攻撃に備えたと伝えられています。
特にこの浦は、南の小山の影になり、屋島の本営から見えないことから「船かくし」の地名が残っています。
(説明看板より)
船隠し - 1
船隠し - 1 posted by (C)pismo

六万寺は山号は眉間山、正式には眉間山白毫院六万寺といいます。
寺記によれば、天平年間(729~748)、全国に伝染病が流行し、多数の死者を出したので、聖武天皇は、行基菩薩に命じてこの地に一寺を建立し、お祈りさせたところ忽ち伝染病は消滅したといいます。
その後有志により六万躯の小仏像を安置して六万寺と称したと伝えられています。
また、牟礼、大町付近に42の支院を持ち寿永2(1183)年源平合戦の時、安徳天皇の行在所となった由緒ある寺であるといわれています。
しかし中世兵火のため焼失したがその後復興されました。
現在の建物は、延宝6年(1678)再興されたものであるといわれています。
(説明看板より)
六万寺 - 1
六万寺 - 1 posted by (C)pismo

六万寺 - 2
六万寺 - 2 posted by (C)pismo
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Posted at 2012/06/03 23:13:39

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