この日は、堺市を少しだけサイクリングしました。
城岸寺城は、別名大饗(おあい)城ともいいます。大饗の地名は称徳天皇の頃、丹比行宮の饗宴場であったことに起因すると伝えられています。
城岸寺城は南北朝の頃、楠木氏の一族である和田和泉守が城ヶ峯と称する周囲濠をめぐらした要害の地に城塞を築きました。。
和田氏は楠左衛門尉成康の次男、太郎親遠から始まり河内から泉州和田村に(岸和田古城)居城を構え和田氏を名乗りましたた。
その子、四郎高遠、その孫、正遠(正成の甥)その子孫、高家、正武等が城岸寺城に居を構えました。
正平7(1352)年和田助氏の軍忠状(自分の手柄を記した書状)に大饗城の名が見えることは大阪府史、狭山町史に記載されています。
その後、元享年間に融通念仏宗、中興の祖、法明上人が河内の国、念仏勧進の際、病気平癒のため、当城岸寺を建立し、現在当寺に伝わる通称「たくまはん」と呼ばれる阿弥陀如来来迎図があり信仰を集めています。「たくまはん」はその昔、一世を風靡した狩野派、巨勢派(巨勢の金岡は金岡神社の祭神)と並び称せられた宅磨派、宅磨法眼良賀の作といわれています。
堀は昭和56(1981)年に埋め立てられ、城岸寺公園、児童館が設置されるとともに現在の本堂が建立されました。その際発掘調査が行われ南北朝の頃と推測される建物跡が発見されました。
尚、境内植込の石臼は前の本堂建立の際に基礎石として、使用されていたものです。(説明看板より)
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家原城は松永久秀方の和泉衆の城で、永禄9(1566)年に松永方が三好三人衆と上之芝(現在の上野芝)で戦って敗れ、岸和田城へ逃れました。
永禄11(1568)年には三好政康率いる約5,000の兵に攻められました。松永方の寺町左近将監・雀部治兵衛らが籠城しましたが落城しました。家原城から逃れた人々は、踞尾、家原に住み着いたといわれています。
城域は南北約175m・東西245mで、本丸を中心に南の曲輪(南北約24m・東西約16m)・西の曲輪(南北約26m・東西約20m)が付属しています。城の周囲は堀(幅約6m)・土塁によって守られていました。城の南・東・西は石津川を利用して防御を固めていました。
現在は、公団住宅などが立ち並んでいますが、大池に面した部分にかつての家原城の南の曲輪の地形の面影を見いだすことができます。
(説明看板などより)
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家原寺は、山号は一乗山、院号は清涼院で正式には一乗山清涼院家原寺という高野山真言宗別格本山の寺院です。
慶雲元(704)年、行基が生家を寺に改めたのが始まりとされています。
本尊の文殊菩薩は「知恵の文殊さん」として知られていて、一年を通して多くの参拝者があり、特に受験生が多く合格祈願に訪れることで有名です。
家原寺所蔵の「行基菩薩行状絵伝」は、国の重要文化財に指定されています。また、家原寺の境内は大阪府の史跡に指定され、境内の石造板碑は天文20(1551)年の銘があり、大阪府の指定文化財となっています。
大左義長法会は「家原のとんどまつり」として知られ、多くの参拝者が昇運や無病息災を願って訪れます。
(説明看板などより)
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大鳥大社の御祭神は、日本武尊と大鳥連祖神の二柱で、和泉国一宮にあたる延喜式内社です。
日本武尊は、伊勢国能褒野で薨去した後、白鳥に姿を変え、大和琴引原、河内国古市を経て最後に大鳥の地に舞い降りたとされています。神域は千種森といわれ、樹木が密生しています。白鳥が舞い降りた際、一夜にして樹木が生い茂ったという伝説もあります。
同じく式内社の大鳥北浜神社、大鳥美波比神社、大鳥井瀬神社、大鳥羽衣浜神社と併せて、大鳥五社明神と呼んでいます。
本殿は、わが国神社建築史上、大社造りにつぐ古い様式で、大鳥造りと呼ばれている切妻造の妻入り神社建築ですが、明治38(1905)年に焼失し、明治42(1909)年に古式どおり造営されたものです。
平清盛・重盛父子も平治元(1159)年熊野参詣の途中当社に参拝し、清盛は「かいこぞよ、帰りはてなば飛びかけり、育み立てよ大鳥の神」と詠み、富岡鉄斎(当社大宮司)の筆による石碑が建てられました。
境内には与謝野晶子歌碑もあります。
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陶器城は、鎌倉時代の終わり頃北条氏の家臣陶器左衛門尉の居城でしたが、元弘3・正慶2(1333)年1月15日に楠木正成一族に攻め滅ぼされました。
また、正平6・観応2(1351)年7月には、南朝方の和田助氏と助重が北朝方の拠る陶器城を攻めています。
城域は南北約190m、東西約160mで、堀と土塁に囲まれた本丸跡(約26m四方)を中心にして北西と南東にそれぞれ長方形の曲輪が突き出ており、城の周囲は堀(北西の曲輪幅約6m・南東の曲輪幅約8m)と土塁(北西の曲輪幅約1.5~2.2m・南東の曲輪幅約12m)によって囲まれていました。
南東の曲輪には幅約4~6mの武者走が土塁に設けられていたり、南部には虎口が設けられていました。
現在は、陶器北公園となっていて、公園の一角に土塁が残っています。
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自転車 | 日記
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2012/06/18 23:43:49