• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+
イイね!
2012年06月23日

犬山・岩村ドライブ(その1、小牧、長久手の戦いの舞台となった城跡めぐりなど)

この日は、日本100名城、犬山城と岩村城を訪れに中部地方をドライブしました。
早朝出発なので、犬山城の開館時間の9時までは、周辺の小牧、長久手の戦いの舞台となった史跡などを巡ります。
上末城(かみずえじょう)は、森下城ともいい足利氏の末裔である落合将監勝正が築きました。
勝正は、文明年間(1469-87)の人物で、子の安親は織田氏に仕えました。
天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いでは、池田勝入らの三河進入の道案内をしたといわれています。
城跡の全容は明らかではありませんが、上末交差点の東南側に位置し、曲輪や堀、土塁の跡を見ることができます。
(現地説明板より)
城跡は陶昌院の周辺です。国道155号沿いの竹藪にに石碑と説明看板が建っています。
上末城 - 1
上末城 - 1 posted by (C)pismo

上末城 - 2
上末城 - 2 posted by (C)pismo

二重堀砦は、天正12(1584)年3月に始まった小牧長久手の戦いにおいて、羽柴秀吉方の最前線として築かれた砦で、守将は日根野備中守弘就、盛就の兄弟でした。
同年4月、三好秀次率いる別働隊が長久手において敗れると、織田信雄・徳川家康方からの攻撃に晒され、多数の死傷者を出しました。
合戦後、二重堀砦は廃城になりました。
二重堀砦 - 1
二重堀砦 - 1 posted by (C)pismo

内久保砦は、小牧長久手の戦いの際、秀吉軍の砦として築かれました。蜂屋出羽守頼隆・金森長近等を将とした、三千余が陣を敷きました。
現在、内久保山西南麓にある三明神社周辺が砦の位置と考えられていますが、正確な場所は不明です。
写真は三明神社です。
内久保砦(三明神社) - 1
内久保砦(三明神社) - 1 posted by (C)pismo

内久保砦(三明神社) - 2
内久保砦(三明神社) - 2 posted by (C)pismo


楽田城は、織田久長により永正年間(1504-1521)に築城されたと伝えられます。
戦国時代末の儒学者小瀬甫庵の書いた「遺老物語」には、楽田城が急襲を受けた永禄元(1558)年の様子が書かれており、城中に高さ2間余りの垣を築き、その上に5間7間の矢倉を作り、中央に矢を立て並べた八畳敷の二階屋敷を設けたとあります。 天守は館の上に設けた望楼から始まったとされ、楽田城がその起源といわれています。
楽田城は、永禄年間に犬山城主織田信清に攻略されましたが、後に織田信長に追われ、坂井政尚が城主になりました。政尚が元亀元(1570)年に浅井氏、朝倉氏との戦いで戦死した後には、梶川高盛が城主になりました。
天正12(1584)年の小牧・長久手の合戦時には、小牧山の徳川家康に対峙する羽柴秀吉の本陣とされましたが、 合戦終結の講和条件により取り壊しとなりました。
楽田小学校の敷地は楽田城のあったところです。 昭和54(1979)年に学校敷地が拡大されるまでは土壇や堀の痕跡がありましたが、現在は当時の面影を残すものはありません。現在では天守台跡から建造物としては移築した碑がわずかに残っています。
楽田城 - 1
楽田城 - 1 posted by (C)pismo

楽田城 - 2
楽田城 - 2 posted by (C)pismo

楽田城 - 3
楽田城 - 3 posted by (C)pismo

八幡林古戦場・野呂塚です。
八幡林古戦場は、天正12(1584)年、小牧長久手の戦いの始まりとなった古戦場です。
羽柴秀吉方は池田恒興(勝入)が犬山城を奪取し、美濃兼山城主森武蔵守長可(森蘭丸の兄、池田恒興の娘婿)は三千の兵を率いて、八幡林に陣を構えました。
徳川家康方は、酒井忠次、榊原康政、奥平信昌らが五千の兵で対峙しました。
3月17日、激しい戦いでしたが、徳川方のろくろまわしの戦術で、鬼武蔵の異名をもつさすがの森長可も、大敗してしまいました。
森長可の家来の野呂助左衛門は、主君を守り奮戦しましたが、壮絶な死を遂げました。助左衛門の長子の助三は初陣でしたが、父を助けようとして大軍の中討死してしまいました。
八幡林古戦場・野呂塚(野呂助左衛門の碑) - 1
八幡林古戦場・野呂塚(野呂助左衛門の碑) - 1 posted by (C)pismo

八幡林古戦場・野呂塚(野呂助左衛門の碑) - 2
八幡林古戦場・野呂塚(野呂助左衛門の碑) - 2 posted by (C)pismo

興禅寺は、山号は妙国山、臨済宗妙心寺派の寺院です。
承安4(1174)年、梶原景時により、真言宗光善寺が創建されたのがはじまりといわれています。景時は、平忠盛の目代として尾張国府に下向赴任していました。
源頼朝の死後、景時は正治2(1200)年、北条氏との政争に敗れ、今日に向かう途中の狐崎(現在の静岡市清水区)で一族と共に非業の最期を遂げました。
景時の次男景高の子豊丸は乳母隅の方の里である羽黒へ落ちのびてきました。
豊丸は成人し梶原景親と改め、現在の興禅寺に館を構えました。
光善寺は文明11(1476)年、梶原景綱により臨済宗妙心寺派興禅寺と改めました。
17代梶原景義は羽黒3000石の領主として織田信長に仕えましたが、天正10(1582)年、信長に殉死し梶原氏は断絶しました。
慶長7(1602)年、犬山城主小笠原吉次の寄進により、梶原屋敷跡の現在地に再建され、現在に至っています。
本堂は明治26(1893)年の造営で、平成18(2006)年、国の登録文化財になっています。
庫裏は文政13(1830)年の造営で、平成15(2003)年、国登録有形文化財になっています。
半僧坊は、元禄14(1701)年の造営です。山門は正和14(1939)年の造営で、本堂と共に国登録文化財に指定されています。
墓地には梶原夫妻供養塔や梶原一族の五輪塔などがあります。なお、山内一豊の母、法秀尼は梶原氏の出身であったと伝えられています。
興禅寺 - 1
興禅寺 - 1 posted by (C)pismo

興禅寺 - 2
興禅寺 - 2 posted by (C)pismo

興禅寺 - 3
興禅寺 - 3 posted by (C)pismo

興禅寺 - 4
興禅寺 - 4 posted by (C)pismo

興禅寺 - 5
興禅寺 - 5 posted by (C)pismo

興禅寺 - 6
興禅寺 - 6 posted by (C)pismo

羽黒城は、建仁元(1201)年、梶原景親(景時の孫)によって築城されたといわれています。
戦国時代になって、景親から17代目の末孫梶原茂助景義は織田信長に仕え、羽黒村3千石の領主でしたが、天正10(1582)年本能寺の変で信長に殉じて討死し、 梶原家は絶えました。
天正12(1584)年の小牧山合戦の際、秀吉がこの城を修復させ、 堀尾茂助吉晴や母方の法秀院が梶原家の出生と伝えられる山内一豊等に守らせましたが、焼けてのち廃城となりました。
中心部は、前方後円墳である羽黒城古墳の前方部を利用したものと推定されています。現在は城址碑が建てられています。
羽黒城 - 1
羽黒城 - 1 posted by (C)pismo

羽黒城 - 2
羽黒城 - 2 posted by (C)pismo

羽黒城 - 3
羽黒城 - 3 posted by (C)pismo

磨墨塚は、平家物語の宇治川先陣争いに登場する名馬「磨墨」の墓と伝えられています
磨墨は、源頼朝から重臣梶原景時に与えられた名馬で、寿永3(1184)年、宇治川の戦いの折、景時の嫡子景季が乗って、佐々木高綱の乗る生月(池月)と先陣争いをしたことで有名です。
頼朝の死後、幕府の内紛により、景時は追放の身となり、京都に落ち延びる途中、嫡子景季、次子景高らと共に悲惨な最期を遂げました。
この時、景高の子豊丸、後の景親は幼少だったので乳母のお隅の方の生地である羽黒、高橋の郷士長谷部左膳を頼って落ち延びました。
豊丸は、この羽黒の地で成人し、代々ここに屋敷を構えました。名馬磨墨は、この地で死没したのでその名を惜しみ「磨墨」の墓を造りました。これがこの塚と伝えられています。
平成元(1989)年度にふるさと創生事業の一環として、周辺の民有地を借り上げ、一帯を史跡公園として整備しました。
(現地説明板などより)
磨墨塚 - 1
磨墨塚 - 1 posted by (C)pismo

磨墨塚 - 2
磨墨塚 - 2 posted by (C)pismo

木ノ下城は、室町時代の文明元(1469)年に築かれ、 織田広近が最初に入城したといわれます。 以後、約70年間、代々織田氏が居城しました。
天文6(1537)年、織田信康(織田信長の叔父)が、城を木曽川南岸の犬山城に移したので、この城は廃城となりました。
愛宕神社本殿の建つ高台には、城の主殿があり、城郭は 南に構えられたと思われます。
境内にある古い井戸は、 金明水と呼ばれ、神社の西南方約100mの大榎の下にある銀明水と呼ばれる井戸とともに、当時の木ノ下城域に掘られたものと推定されます。
また、白巌水と彫られた手洗石が置かれていていますが、白巌とは織田信康の号名です。
現在、城跡は愛宕神社になっています。愛宕神社は慶長11(1606)年、鍛治屋町の銘鍛冶兼常が、当時の犬山城主小笠原吉次に願い出て、旧城地のこの場所に、天台宗の愛宕山長泉寺延命院を建立し、将軍地蔵を祀ったのが始まりです。
その後、前原新田入鹿山白雲寺の良陳らが住僧となって代々続きましたが、明治初年の神仏分離政策により寺は廃され神社として残り現在に至っています。
(現地説明板などより)
木ノ下城(愛宕神社) - 01
木ノ下城(愛宕神社) - 01 posted by (C)pismo

木ノ下城(愛宕神社) - 02
木ノ下城(愛宕神社) - 02 posted by (C)pismo

木ノ下城(愛宕神社) - 03
木ノ下城(愛宕神社) - 03 posted by (C)pismo

木ノ下城(愛宕神社) - 04
木ノ下城(愛宕神社) - 04 posted by (C)pismo

木ノ下城(愛宕神社) - 05
木ノ下城(愛宕神社) - 05 posted by (C)pismo

木ノ下城(愛宕神社) - 06
木ノ下城(愛宕神社) - 06 posted by (C)pismo

次は、犬山城下へ向かいます。
ブログ一覧 | ドライブ | 日記
Posted at 2012/07/22 20:29:26

イイね!0件



今、あなたにおすすめ

ブログ人気記事

コレがホントのミラー番!
シロだもんさん

東北のお土産は、完熟フルーツが、箱 ...
kz0901さん

去年の冬のボーナスの健康保険料と今 ...
京都 にぼっさんさん

OKUSHIZU expediti ...
UU^^さん

コスパ最低朝食‼️
RC-特攻さん

本日のプチキリ番&ミラー番♬
ブクチャンさん

この記事へのコメント

コメントはありません。

プロフィール

「[整備] #レヴォーグ レヴォーグBピラー静音化 https://minkara.carview.co.jp/userid/157690/car/1902122/8170099/note.aspx
何シテル?   04/01 22:18
ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/6 >>

1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930     

リンク・クリップ

沖縄県編 
カテゴリ:お勧めスポット都道府県別リンク
2024/06/26 22:49:38
 
鹿児島県編 
カテゴリ:お勧めスポット都道府県別リンク
2021/08/26 23:05:24
 
宮崎県編 
カテゴリ:お勧めスポット都道府県別リンク
2021/08/22 08:03:34
 

愛車一覧

スバル レヴォーグ スバル レヴォーグ
H27.3レガシィBPより乗り換え
ホンダ PCX ホンダ PCX
H26.3購入しました。
スバル レガシィツーリングワゴン スバル レガシィツーリングワゴン
H18.3アコードワゴンから乗り換えました。
ホンダ スペイシー100 ホンダ スペイシー100
2ストのリード100から乗り換え。 少しパワー不足でした。
ヘルプ利用規約サイトマップ

あなたの愛車、今いくら?

複数社の査定額を比較して愛車の最高額を調べよう!

あなたの愛車、今いくら?
メーカー
モデル
年式
走行距離(km)
© LY Corporation