岩村民俗資料館は、岩村歴史資料館のすぐ隣にあります。
草屋根の民俗資料館は昔の生活を偲ばせる民具を展示しています。
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岩村歴史資料館は、昭和47(1972)年にできた岩村町800年の歴史を展示する資料館です。
岩村藩主松平乗薀の子で儒学者の林述斎、その門弟の佐藤一斎、明治の教育家、歌人の下田歌子など岩村出身の偉人に関する展示や、岩村城の関連資料などを見ることができます。
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岩村城は大和高取城、備中松山城と並ぶ日本三大山城の一つです。別名を霧ヶ城といい、源頼朝の御家人加藤景廉が遠山荘地頭に補せられたのに始まります。景廉の長男景朝が岩村に移り、加藤の姓を地名の遠山に攻め、以降遠山氏が代々居城しました。
戦国時代、遠山景任の妻で織田信長の叔母に当たるおつやの方が景任亡き後女城主となりました。天正元(1573)年に武田方の秋山信友の攻略を受けたが、講和の条件として信友の妻になりました。
長篠の戦いの後、織田信忠の攻略を受け、城は落城しました。開城の際、助命が約されていたが織田方はこれを翻し、信友夫妻ら5名が長良川河川敷で逆さ磔となり処刑されました。
その後、河尻秀隆が城主となり城の改造を行い現在の城郭に近いものとなりました。河尻秀隆が甲斐国に移封となると、森氏の居城となり蘭丸、長可、忠政の3代続きました。その後、田丸直昌が城主となりましたが、慶長5(1600)年関ヶ原の戦いで西軍に属したため、松平家乗(大給松平家)が城主となりました。江戸時代の城主は松平氏2代、丹羽氏5代の後、大給松平分家の松平氏7代を経て明治維新を迎えました。
廃城令により、明治6(1873)年に城は解体され石垣のみとなりました。
平成18(2006)年、日本100名城に指定されました。
立派な石垣が残る、見応えのある山城です。
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乗政寺山墓地は、かつては岩村藩主の菩提寺があった地で、城主の移封に伴い寺の名にも変遷がありました。
慶長6(1601)年、松平家乗(大給松平本家)が岩村城主となり、この地に龍厳寺を建立しました。
寛永15(1638)年に松平氏は浜松へ移り、三河伊保から丹羽氏が移封され、妙仙寺としました。
元禄15(1702)年に丹羽氏が越後高柳へ移り、妙仙寺も同地へ移りました。
丹羽氏の後へ信州小諸から大給分家の松平氏が移り小諸城内にあった乗政寺をこの地に移しました。
この地は由緒ある地で城主や家臣の墓が多くあります。
乗政寺は明治4 (1871)年に廃藩置県となり住職も死んだのを機会に廃寺とし、寺仏等を縁の深い隆崇院へ移管し建物もこわしました。
城主の墓は松平家乗、丹羽氏四代、分家松平氏の乗薀(のりもり)、嫡子で林述斎の兄の乗国ほかがあります。特に丹羽氏の墓は巨大ですが、若くして死んだ丹羽氏明の墓は六地蔵を配しています。
分家松平氏、家臣の墓も多く役家の丹羽瀬、大野、佐藤家等や講談で知られた小兵の居合抜きの名人「美濃の小雀」こと井野猪左衛門の墓、東京の実践女子学園の創設者で愛国婦人会長となった、明治、大正の女傑下田歌子女史の墓もここにあります。この墓地一帯の山を今も乗政寺山と呼んでいます。
(説明看板より)
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岩村町本通り伝統的建造物群保存地区は、その町並の形成過程において、保存地区のほぼ中央に位置する桝形より東側と西側の大きく二つにわけられています。
桝形より東側の地区は、江戸時代から商家町として栄え、今でも当時の建造物が多く残っています。町家の敷地は間口が4間(7.2m)、南北に長い短冊形の敷地割で、中庭には天正疎水と呼ばれる水路が保存地区を縦断するように通っています。建物は江戸時代に建設されたものが多く、主屋のほとんどは木造二階建・切妻造、平入で、厨子二階であるものもあり、全体として軒の低い町並みとなっています。
桝形より西側の地区は、江戸時代末期から順次発展し、明治39(1906)年の岩村と大井(恵那市)を結ぶ岩村電気軌道の開通により一層繁栄し、岩村町の商業の中心地となっています。建物は、明治以降の切妻・平入・桟瓦葺が主で、桝形より東側の地区に比べて全体に軒の高い二階建の主屋が多く、明治以後、住宅の二階部分が重要な生活空間となってきたことをうかがわせます。
このように岩村町岩村本通り伝統的建造物群保存地区は、城下町の商家町地区として形成された町の形態と、近代の発展過程を伝える町家群が岩村川等周辺の環境と一体となって、東濃地方の商家町として特色ある歴史的景観を良好に伝えています。
本通りを中心に東西延長約1.3km、面積約14.6haの範囲で、平成10(1998)年4月17日に、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
(説明看板より)
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岩村神社〔巌邨神社・一条信能終焉跡〕です。
承久3(1221)年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒の兵をあげ、幕府によって鎮圧された事件を「承久の乱」といいます。
承久の乱の頭目とみられたのが承久殉難五忠臣といわれる5人の公卿で、一条宰相中将信能はその1人です。彼は官軍の一将として宇治川の芋荒で幕府軍と戦ったが敗れて捕えられました。
信能は幕府軍として出陣した岩村城主遠山景朝に伴われて鎌倉へ護送される途中、幕命により同年8月14日、遠山荘岩村の相原で処刑されました。享年32歳でした。
「承久記」では彼の処刑を悼み、その模様を美文で綴っています。処刑の日を「吾妻鏡』では7月5日としているが、『公卿補任」では8月14日としており、他の四忠臣との関連から後者の説が正しいと思われます。
村人はこれを哀れみ、処刑地に小祀を建てて霊を弔い、若宮社と称して供養を続けてきました。その後、六百数十年を経て明治の王政復古となり、明治13(1880)年6月、明治天皇が中山道御巡幸の折、特旨をもって岩村へ勅使を派遣され祭祀料を賜りました。明治14(1861)年3月に社号改称の沙汰があって岩村神社(巌邨神社)と称するようになりました。
昭和3(1928)年11月、正三位贈位の恩命がありました。現在は岩村町夏祭りとして毎年8月第1土・日曜の両日に全町をあげて祭礼を行っています。
昭和32(1957)年12月19日、岐阜県指定史跡になりました。
(説明看板などより)
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日本100名城スタンプラリー 取得実績
08
仙台城 H23/10/25
23
小田原城 H23/12/29
24
武田氏館 H23/12/30
30
高遠城 H23/12/30
33
高岡城 H24/4/28
34
七尾城 H23/7/23
35
金沢城 H24/4/28
36
丸岡城 H23/6/18
37
一乗谷城 H24/4/28
38
岩村城 H24/6/23
39
岐阜城 H23/4/16
40
山中城 H23/12/29
41
駿府城 H23/12/28
42
掛川城 H23/12/28
43
犬山城 H24/6/23
44
名古屋城 H24/3/24
47
伊賀上野城 H24/4/1
48
松坂城 H24/3/8
49
小谷城 H23/12/23
50
彦根城 H24/1/14
51
安土城 H23/4/9
52
観音寺城 H24/1/14
53
二条城 H23/11/3
54
大阪城 H23/11/19
55
千早城 H23/12/10
56
竹田城 H23/11/16
57
篠山城 H23/11/26
58
明石城 H23/12/24
59
姫路城 H24/1/28
60
赤穂城 H24/1/28
61
高取城 H24/1/22
62
和歌山城 H24/2/18
64
松江城 H23/6/27
67
津山城 H24/4/14
70
岡山城 H24/1/7
71
福山城 H24/2/4
72
郡山城 H23/3/18
73
広島城 H23/3/17
76
徳島城 H24/5/21
77
高松城 H24/5/12
78
丸亀城 H24/5/12
91
島原城 H23/9/17
92
熊本城 H23/9/18
93
人吉城 H23/9/15
H24/6/23現在 44/100城
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ドライブ | 日記
Posted at
2012/07/22 23:09:56