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2012年07月27日

鳥取城とその周辺

この日は、灼熱の中鳥取城を訪れました。
ここは、前回、桜が咲いていました。
鳥取自動車道開通記念ドライブ(その5・桜咲く鳥取城)

熱かったですが、もちろん山上の丸も訪れました。
鳥取城 - 01
鳥取城 - 01 posted by (C)pismo

鳥取城 - 02
鳥取城 - 02 posted by (C)pismo

鳥取城 - 03
鳥取城 - 03 posted by (C)pismo

鳥取城 - 04
鳥取城 - 04 posted by (C)pismo

鳥取城 - 05
鳥取城 - 05 posted by (C)pismo

鳥取城 - 06
鳥取城 - 06 posted by (C)pismo

鳥取城 - 07
鳥取城 - 07 posted by (C)pismo

この日は、山上の丸から足を伸ばして太閤ヶ平〔秀吉本陣跡〕を訪れました。
天正9(1581)年の羽柴秀吉の包囲作戦と吉川経家の籠城とによる対陣は、鳥取城の歴史の中で最大の攻防戦でした。この戦いは、天下統一をめざして中国地方を征討しようとする織田信長と、これを阻止しようとする中国地方の雄毛利氏との対立の中で展開されたものです。
信長の派遣した部将羽柴秀吉は、姫路から但馬口を経て天正9(1581)年7月12日、鳥取に到着し鳥取城背後の東北の山頂(太閤ヶ平)のこの位置に本陣を置き、左右両翼と前面の袋川沿いに各陣を布いて、2万余の軍勢により兵糧を絶つ鳥取城包囲作戦を展開しました。
太閤ヶ平(本陣山)は、西方前方に鳥取城を望み、左方に芳心寺に至る一帯の山々をひかえ、右方には、はるかに円護寺・覚寺・浜坂・賀露に至る一帯を見下し、総本陣としては最も適した場所でした。
これを迎え撃つ鳥取城は、毛利氏の一族で石見国福光城主吉川経安の嫡男経家が城将として守備し、その兵力は芸州毛利氏よりの加番衆4百と因幡国方衆千余でした。
 毛利氏からの援軍・食糧の補給が阻止されて、包囲後3ヶ月過ぎるころには、「籠城兵糧つき、牛馬人等喰い候」という状況となりました。
ついに10月25日、吉川経家は城兵を助けるために開城し、自身は城中広間で切腹しました。時に35歳でした。
死の前日、10月24日に本家吉川広家にあてた遺言状に、「日本二つの御弓矢境において、忰腹に及び候事、末代の名誉たるべく存じ候」と、経家は記しています。織田信長と毛利氏という「日本二つの御弓矢」の正面対決による鳥取城攻防戦での切腹を、大きな名誉と感じていました。
この太閤ヶ平には、当時の鳥取城攻防の歴史を物語るかのように、土塁と空濠を廻らした曲輪の跡が厳然として残されています。高低差4m以上の土塁(土の堤防)と空堀に囲まれ、内寸58m、櫓台も設置した、大型かつ強固な防御性を備えた構造をしています。本陣及び陣城群は、一城を攻めるにはあまりに大規模であることから、毛利氏との本格的な戦闘に備えた陣城であるとともに、信長を迎え入れるための本陣であった可能性が指摘されています。
また、この一帯は鳥取自然休養林であり、摩尼寺に至る中国自然歩道も整備され、広く市民の憩いの場として親しまれています。(現地説明板などより)
昭和32(1957)年、鳥取城と並び「鳥取城跡附太閤ヶ平」として国の史跡に指定されています。
太閤ヶ平 - 01
太閤ヶ平 - 01 posted by (C)pismo

太閤ヶ平 - 02
太閤ヶ平 - 02 posted by (C)pismo

太閤ヶ平 - 03
太閤ヶ平 - 03 posted by (C)pismo

太閤ヶ平 - 04
太閤ヶ平 - 04 posted by (C)pismo

太閤ヶ平 - 05
太閤ヶ平 - 05 posted by (C)pismo

下山し、樗谿神社(おうちだにじんじゃ)に参拝。こちらは前回の鳥取ドライブで訪れました。
鳥取自動車道開通記念ドライブ(その4・鳥取市内の寺社めぐり)
樗谿神社 - 1
樗谿神社 - 1 posted by (C)pismo

樗谿神社 - 2
樗谿神社 - 2 posted by (C)pismo

樗谿神社 - 3
樗谿神社 - 3 posted by (C)pismo

鳥取市歴史博物館(やまびこ館)は、鳥取の歴史や文化を系統的に学習できることを目的に平成12(2000)年に開館しました。
館内では鳥取市の歴史や文化に関する展示が行われています。
この日は「The 山名」という山名氏に関係する特別展を開催していて、とても楽しめました。
鳥取市歴史博物館(やまびこ館) - 1
鳥取市歴史博物館(やまびこ館) - 1 posted by (C)pismo

鳥取市歴史博物館(やまびこ館) - 2
鳥取市歴史博物館(やまびこ館) - 2 posted by (C)pismo

吉川経家公像は、平成5(1993)年10月25日により吉川経家公像建立実行委員会が奥谷俊治の作により鳥取城のあった久松山を背にした鳥取城堀端に建立したものです。
天正9(1581)年、天下制覇を目指す織田信長の先鋒として、羽柴秀吉の山陰侵攻が必至となりました。
この情勢に対応して、鳥取城を守る軍勢は、吉川の一門につながる有力な武将の派遣を毛利方に懇請しました。
山陰方面の総大将・吉川元春はこれにこたえて、石見国福光城主・吉川経安の嫡男経家を鳥取城の城将に任命し、経家はこの年の3月、部下4百余人を率いて鳥取城に入城しました。
羽柴秀吉はこの年の7月、2万の大軍を率いて鳥取城に押し寄せ、帝釋山(太閤ヶ平)に本陣を置き、日本海から鳥取平野、久松山の東側にかけ、約20キロメートルに及ぶ大包囲陣を敷いて、徹底した兵糧攻めをしました。
鳥取城に籠った2千の兵と民は、毛利方からの救援と食糧の補給を期待し、吉川元春も数回にわたり食糧の送り込みを行いましたが、秀吉方の厳重な遮断により一粒の米も搬入できず、8月以降、次第に飢えてきました。
そして、9月、10月になると、すべての食糧を食いつくし、遂には人肉を食するという地獄さながらの状態になりました。世に言う「鳥取城の渇殺」であります。
経家は遂に意を決して、秀吉の開城の求めに応じました。
この時秀吉は、「経家公は、連れて来た兵と共に芸州に帰られたい」とすすめましたが、経家は、「全ての責は城将たる自分にある」として、兵と民の生命を救って10月25日未明、城中広間において、見事な自刃をいたしました。
時に年35歳。
その潔い最期は、武人の鑑として歴史に高く評価されています。
経家が死に臨み、4人の子に遺した次の手紙は、その清々しい心事を物語るものとして、いつまでも人の心を打つものがあります。
「とつとりのこと よるひる二ひやく日 こらえ候 ひようろうつきはて候まま 我ら一人御ようにたち おのおのをたすけ申し 一門の名をあげ候 そのしあわせものがたり おきゝあるべく候  かしこ
天正9年10月25日 つね家
あちやこ かめしゆ かめ五 とく五
まいる 申し給へ」
(現地説明板などより)
吉川経家公像 - 1
吉川経家公像 - 1 posted by (C)pismo

吉川経家公像 - 2
吉川経家公像 - 2 posted by (C)pismo

仁風閣で鳥取城の100名城スタンプをゲット。
鳥取城・仁風閣 - 01
鳥取城・仁風閣 - 01 posted by (C)pismo

鳥取城・仁風閣 - 02
鳥取城・仁風閣 - 02 posted by (C)pismo

鳥取城・仁風閣 - 03
鳥取城・仁風閣 - 03 posted by (C)pismo

鳥取城・仁風閣 - 04
鳥取城・仁風閣 - 04 posted by (C)pismo

鳥取城・仁風閣 - 05
鳥取城・仁風閣 - 05 posted by (C)pismo

鳥取城・仁風閣 - 06
鳥取城・仁風閣 - 06 posted by (C)pismo

鳥取藩主池田家墓所は、初代藩主・池田光仲の墓所として元禄6(1693)年、現在の鳥取市国府町奥谷を池田家の廟地と定め、光仲を埋葬したことにその起源をたどることができます。
光仲の埋葬に合わせ、この地には「千岳庵」が建立されました。
千岳庵は、翌元禄7(1694)年に伯耆国久米郡定光寺からその末寺の寺号を貰い受け、「清源寺」と改められ、池田家の菩提寺である興禅寺の末寺として、明治初年に廃寺となるまで墓所の管理を担なっていました。
墓所内には、初代藩主光仲以後の歴代藩主11代をはじめ、藩主夫人・御分知家「東館」「西館」当主等も葬られています。現在、合わせて78基の墓碑が立ち並び、周囲には260基をこえる灯籠が家臣等により供えられている。また、藩主墓域に向かう参道両側には、初代光仲の寵臣和田三信と光仲の側室や菩提寺住職の墓もあります。
昭和56(1981)年10月13日、国の史跡に指定されています。
(現地説明板などより)
駐車場なども最近整備されたようです。
鳥取藩主池田家墓所 - 01
鳥取藩主池田家墓所 - 01 posted by (C)pismo

鳥取藩主池田家墓所 - 02
鳥取藩主池田家墓所 - 02 posted by (C)pismo

鳥取藩主池田家墓所 - 03
鳥取藩主池田家墓所 - 03 posted by (C)pismo

そして最後に、吉川経家公墓所を訪れました。
吉川経家は、天正9(1581)年、羽柴秀吉による鳥取城攻略に備え、毛利氏から鳥取城将として派遣されてきました。
鳥取城主山名豊国は織田信長への服属の意を表しましたが、これを不服とする森下道誉、中村春続らの因幡国方衆は、豊国を追放して毛利氏に鳥取守城のための城将派遣を要請しました。そして天正9(1581)年3月18日、毛利氏の一族の石見国福光城主吉川経安の嫡男経家が城将として鳥取城に入りました。
そして、7月12日、信長が派遣した部将羽柴秀吉は鳥取に到着し、鳥取城背後の東北の山頂(現在の太閤ヶ平)は本陣を置き、前面の袋川沿いに各陣を布いて、二万余の軍勢により兵糧を絶つ鳥取城包囲作戦を展開しました。
これを迎え撃つ鳥取城の兵力は、芸州毛利氏よりの加番衆400と因幡国方衆1000余でした。
毛利氏からの援軍、兵糧の補給が阻止されて、包囲後3ヶ月過ぎることには「籠城兵糧つき、牛馬人等喰ひ候」という状況に陥りました。
ついに10月25日、吉川経家は城兵を助けるために開城し、自身は城中広間で切腹しました。時に35歳でした。
死の前日、10月24日に吉川経言(広家)にあてた遺言状に「日本二つの御弓矢境において忰腹に及び候事、末代の名誉たるべく存じ候」と、経家は記しています。織田信長と毛利氏という「日本二つの御弓矢」の正面対決による鳥取城攻防戦での切腹を、大きな名誉と感じていました。
この五輪塔は、吉川経家主従の墓と伝えられています。(現地説明板などより)
当初は、鳥取城内にありましたが、慶長6(1601)年池田備中守長吉が鳥取城の大改造を行ったとき城外に移されました。
吉川経家公墓所 - 1
吉川経家公墓所 - 1 posted by (C)pismo

吉川経家公墓所 - 2
吉川経家公墓所 - 2 posted by (C)pismo

吉川経家公墓所 - 3
吉川経家公墓所 - 3 posted by (C)pismo

日本100名城スタンプラリー 取得実績
04 弘前城   H24/7/12
05 根城    H24/7/13
06 盛岡城   H24/7/13
07 多賀城   H24/7/15
08 仙台城   H23/10/25
09 久保田城  H24/7/14
10 山形城   H24/7/15
23 小田原城  H23/12/29
24 武田氏館  H23/12/30
30 高遠城   H23/12/30
33 高岡城   H24/4/28
34 七尾城   H23/7/23
35 金沢城   H24/4/28
36 丸岡城   H23/6/18
37 一乗谷城  H24/4/28
38 岩村城   H24/6/23
39 岐阜城   H23/4/16
40 山中城   H23/12/29
41 駿府城   H23/12/28
42 掛川城   H23/12/28
43 犬山城   H24/6/23  
44 名古屋城  H24/3/24
47 伊賀上野城 H24/4/1
48 松坂城   H24/3/8
49 小谷城   H23/12/23
50 彦根城   H24/1/14
51 安土城   H23/4/9
52 観音寺城  H24/1/14
53 二条城   H23/11/3
54 大阪城   H23/11/19
55 千早城   H23/12/10
56 竹田城   H23/11/16
57 篠山城   H23/11/26
58 明石城   H23/12/24
59 姫路城   H24/1/28
60 赤穂城   H24/1/28
61 高取城   H24/1/22
62 和歌山城  H24/2/18
63 鳥取城   H24/7/27
64 松江城   H23/6/27
67 津山城   H24/4/14
70 岡山城   H24/1/7
71 福山城   H24/2/4
72 郡山城   H23/3/18
73 広島城   H23/3/17
76 徳島城   H24/5/21
77 高松城   H24/5/12
78 丸亀城   H24/5/12
91 島原城   H23/9/17
92 熊本城   H23/9/18
93 人吉城   H23/9/15

H24/7/27現在 51/100城
ブログ一覧 | ドライブ | 日記
Posted at 2012/09/12 21:27:52

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この記事へのコメント

2012年9月12日 22:21
【鳥取の渇え殺し】、あまりに有名ですね。
元春の推した亡き名将 吉川経家が偲ばれます。
コメントへの返答
2012年9月12日 23:34
吉川経家は、自らの不運を嘆くことなく、「日本二つの御弓矢境において忰腹に及び候事、末代の名誉たるべく存じ候」「とつとりのこと よるひる二ひやく日 こらえ候 ひようろうつきはて候まま 我ら一人御ようにたち おのおのをたすけ申し 一門の名をあげ候 そのしあわせものがたり おきゝあるべく候」と言い残しているのが印象的ですね。

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