鳳来寺山の参道入口には
奥平仙千代の墓があります。
作手の奥平貞能とその子貞昌(後の長篠城主)は元亀2(1571)年武田信玄に降伏したので、仙千代を武田方へ人質に出すことになりました。
天正元(1573)年になって貞能親子は武田氏に背いて徳川家康についたので武田勝頼は彼を門谷の金剛堂前で処刑したといわれています。
(説明看板より)
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鳳来寺小学校の近くに
於フウの墓があります。
於フウは、日近城主奥平貞友の女です。作手亀山城主奥平貞能が、武田氏に属した時、貞能の二男仙千代、萩城主周防勝次の男虎之助と共に人質として甲州に差遣わされましたが、天正元(1573)年貞能親子が徳川氏に帰参したのを怒った武田勝頼の命により、山県昌景によって同年9月21日この地において処刑されました。享年16歳でした。
(説明看板より)
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阿寺の七滝は、日本滝百選に指定されている滝です。
下から第1の滝9m。第2は13m、第3は7m、第4の滝25m、第5の滝2m、第6の滝4m、第7の滝2m、計62mの高さである。その中で第2の滝は深さ4m、第5の滝には深さ7mの滝つぼがあります。また、下段より霹靂(へきれき)滝、虎嘯(こしょう)滝、龍攘(りゅうじょう)滝、長霓(ちょうげい)滝、雄飛(ゆうひ)滝、素練(それん)滝、敲壺(こうこ)滝という呼び名もあります。
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ドライブ | 日記
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2012/11/04 22:42:58