阿弥陀寺は山号は正覚山、浄土宗の寺院です。
慶長8(1603)年、鶴ヶ城主が蒲生秀行の時代に下野国出身の良然和尚が開山しました。
明治元(1868)年の戊辰戦争の後、会津藩戦死者の遺骸は、西軍の命で放置されたまま、さわることを許されませんでした。幾度もの嘆願で埋葬が許可されたのは、翌明治2(1869)年2月のことでした。
埋葬地は阿弥陀寺と長命寺に限られ、阿弥陀寺には1300柱にものぼる遺骸が埋葬されました。
春・秋の彼岸には手厚い供養会が行なわれています。
現在の阿弥陀寺本堂は旧鶴ヶ城の御三階が移築されたもので、玄関は同大書院玄関を移したものです。
御三階は藩政時代、藩公の密議また月見などされた所です。
境内にかつて青銅1丈3尺の大仏があったが、太平洋戦争中供出し台座のみ残っています。
正面の拝礼殿には明治戊辰戦争役会津藩殉難者の霊及び家老萱野権兵衛の木造を安置しています。萱野権兵衛(1500石)は戊辰の役諸処に転戦しましたが、会津藩抗戦の責任を負い明治2(1869)年5月18日江戸保科邸にて割腹自刃しました。享年42歳でした。
後に西南役の戦死者・佐川官兵衛他68名を合祀しました。官兵衛は戊辰戦争の際鬼佐川と呼ばれた勇将で、明治10(1877)年の西南役山地元治将軍の麾下にあって戦死し、其子直諒は日露の役遼陽に戦死しました。
また、境内には斎藤一(藤田五郎)の墓があります。
斎藤一は、天保15(1844)年御家人の父・山口祐助、母マスとの間に生まれ、初名を山口一、のち斎藤一に改めました。
文久3(1863)年壬生浪士組のちの新選組に参加し、副長助勤、三番隊隊長として活躍、沖田総司、永倉新八と並ぶ剣客で剣術師範も務めた。池田屋事件にも参戦しました。その後、伊東甲子太郎らが、御陵衛士を拝命し、新選組から分離した時、伊東に同調して離脱、しかし局長の近藤勇の密命によるものといわれ、油小路で伊東らが暗殺された後、新撰組に復帰し山口二郎と改名しました。
鳥羽伏見の戦い等を経て、会津若松城下に入り負傷した土方歳三に代わって新選組隊長となり、会津戊辰戦争を戦いました。しかし西軍が城下に迫った時「会津侯(松平容保)あっての新撰組、会津を見捨てることは出来ない」と隊士十余名と会津に残り仙台へ向かった土方と別れました。
会津藩降伏後は一瀬伝八と名乗り越後高田に幽閉されました。明治3(1870)年斗南へ移る際藤田五郎と改名しました。
その後上京し警視庁に入り、容保の媒酌により会津藩士高木小十郎の娘時尾と結婚しました。警視庁においては西南戦争へ出陣するなど活躍し、後に東京教育博物館等へ奉職し、大正4(1915)年72歳で逝去しました。
後半生を会津人として生きた本人の希望により、ここ阿弥陀寺に眠っています。
(説明看板などより)
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長命寺は、山号は無量寿山、真宗大谷派の寺院です。
慶長10(1605)年、京都本願寺第12世教如上人が蒲生秀行に請い、若松城下日野町(今の上町)に一寺を建立、本願寺輪番(本願寺出先機関)の地とし「本願寺掛所」としたのが始まりとされています。
そして、浅草本願寺と同じ寺格を賜り、会津一円は勿論、東北各地にも布教した。
寛文7(1667)年、院地狭隘のため今の地を賜って移り、これまでこの寺は御坊と尊称されてきたが、「幸甫」の代より長命寺と改め、輪番制を廃し世襲の寺となりました。
寛文年間(1661-1672)本願寺直轄寺院であったこの寺は、最高の寺格を示す白線の五條の築地塀を許されました。
この築地塀は、平成5(1993)年の大修理の際に分かりましたが、構造的には外観を土塀にして仕上げるいわゆる「練り壁」の工法がとられていました。この工法は江戸時代に広く行われていたものです。
この築地塀の名を高らしめたのは、戊辰の役における長命寺での攻防戦であり、当時の鉄砲弾がこの築地塀に無数に残っていて、その戦いのすさまじさを物語っています。
境内には、戊辰戦役会津藩士戦死者之墓があります。
慶応4(1868)年8月29日、ここ長命寺付近では大激戦が行われ、会津藩側に多くの死傷者がでました。
9月22日、会津藩の降伏開城により戦争は終わりましたが、城下の会津藩戦死者の遺骸は、新政府から埋葬が許可されず、翌年の雪解けまで放置されました。
これを見かねた、時の長命寺住職幸證師は、年の暮れに付近の遺骸を密かに埋葬しました。その総数は145体と言われています。墓碑は明治11(1878)年4月になり、旧会津藩士75名の有志によって建立されましたが、碑面には「戦死墓」の三文字以外表示することが許されませんでした。
〔説明看板などより)
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大町の東明寺墓地内にある
西軍墓地です。
この西軍墓地は明治元(1868)年の戊辰戦争に従軍し、この会津の地に散華した西軍十余藩、百七十四柱の精霊が眠る場所です。
す。会津藩だけでなく、会津に来攻した西軍にも多くの犠牲者がでました。この墓地は、西軍のうち会津若松付近で戦死した将兵の墓群で、戦争で亡くなった薩摩、長州、大垣、肥州、備州など当時西軍だった人々が静かに眠っています。
昭和32(1957)年、荒廃していた墓地を戦没者の郷里各県の方々が中心となって改修し、同年9月22日には戊辰戦役九十年祭が執行され、山口県知事小澤太郎氏が参列しました。
現在は西軍墳墓史保存会が清掃管理しているそうです。
(説明看板などより)
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清水屋旅館跡です。この場所には吉田松陰、土方歳三など多くの歴史的人物が訪れた「清水屋」という旅館がありました。
幕末の志士達に大きな影響を与えた吉田松陰は嘉永5(1852)年、22歳の時に東北各藩を歴訪する大旅行をしており、中でも会津藩(藩校日新館)には特に強い関心を示し、二度に渡って訪れ見聞を広めています。松陰の旅の記録「東北遊日記」に記された七日町の宿がここ「清水屋」でした。
松陰が会津を去ってから16年後に戊辰戦争がおこります。会津藩と運命を共にした新選組副長・土方歳三は宇都宮城の攻防で足を負傷し、会津田島を経て会津藩士秋月登之助が手配した「清水屋」に運び込まれ治療を受けています。土方はその後、函館五稜郭まで転戦し西軍と徹底的に戦い続けたのです。
明治15(1882)年7月には同志社大学の創始者新島襄・八重夫妻が会津を訪れました。
山本覚馬(新島八重の兄)の先妻の娘夫婦(伊勢時雄、峰)も同行し、八重と峰にとっては約10年ぶりの故郷訪問でした。27日には会津に到着し、この清水屋旅館には約1ヶ月宿泊したといわれています。
また、同年には「清水屋事件」が起こります。喜多方出身の自由民権運動家・宇田誠一らが帝政議員に襲われ重傷を負います。宇田誠一はその後国事犯として捕らえられますが、明治25(1892)年には復権し県会議員に当選しています
木造三階建ての純日本旅館清水屋は、幕末から明治・大正にわたって会津の歴史を見つめ続け、昭和初年に惜しまれながら取り壊されました。現在は大東銀行会津支店となっています。
(説明看板などより)
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暗くなってきたので、一度宿へ向かいます。夜も史跡めぐりは継続です。
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2013/01/06 17:41:54