白露庭は、旧会津藩家老2200石、内藤介右衛門の屋敷跡に残る庭園です。
この庭園の年代、作者等は明らかではありませんが、庭園様式はいわゆる江戸時代遠州流の流れを汲んだ由緒ある名園です。
現在は、福島地方裁判所会津若松支部の敷地になっています。庭園は自由に鑑賞でき、東側には「旧会津藩家老内藤邸跡」の石碑と説明看板が建っています。
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西郷邸跡です。西郷家は藩祖以来の重臣で、戊辰戦争の際の当主は国家老1700石の西郷頼母近悳でした。
明治元(1868)年8月23日朝、西軍が鶴ヶ城下に侵入し、急を告げる早鐘が打ち鳴らされると会津藩士・家族達は籠城戦に備え競って入城を急ぎました。
西郷邸では、頼母の留守を預かる妻・千恵子が長男吉十郎を城に送り出した後、最早これまでと一族を集め、幼い者や子女は足手まといになり、恥辱を受ければ家名の恥になると説き聞かせ、母・律子(58歳)をはじめ、季子(2歳)までの21人揃って辞世の和歌を詠み自刃しました。
「なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそきけ」 千恵子(34歳)
「死にかへり幾度世には生きるとも ますら武雄となりなんものを」妹 眉寿子(26歳)
「武士の道と聞きしをたよりにて 思いたちぬる黄泉の旅かな」 妹 由布子(23歳)
「手をとりてともに行なばまよはじよ いざたどらまし死出の山みち」
長女 細布子(16歳)下の句 次女 瀑布子(13歳)上の句
この日、郭内では230余名の婦女子が自刃するという大きな悲劇を生む戦いとなりました。
西郷一族21人の墓は、鶴ヶ城南、門田町北青木善龍寺にあり、毎年5月、その霊を弔う「なよ竹祭り」がしめやかに行われています。
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会津若松城の前身は黒川城です。至徳元年(1384年)、蘆名直盛が黒川城として築城し、戦国時代は蘆名氏の居城でした。伊達政宗は豊臣秀吉の命令を無視して蘆名氏を滅ぼし、黒川城を手にしました。伊達政宗が秀吉に降った天正18(1590)年、蒲生氏郷が居城としました。
近代城郭の姿を整え、城の名を鶴ヶ城と改め、7層の天守を築き城下町を若松と名づけました。
その後、慶長3(1598)年には上杉景勝が会津入りし、出羽3郡、佐渡3郡を加えて120万石を領しました。
関ヶ原の戦いの敗戦で上杉景勝は米沢に移ることになり、慶長6(1601)年には蒲生秀行が再び城主となりました。慶長16(1611)年には会津地方を大地震が襲い天守は傾きました。
その後、寛永4(1627)年には加藤嘉明が入城し、跡を継いだ加藤明成は寛永16(1639)年、天守を五層とし、西出丸、北出丸を増築しました。
しかし、寛永20(1643)年には重臣堀主水と対立したのをきっかけに、会津四十万石は幕府に召し上げられることになり、保科正之が入城しました。
そして、元禄9(1696)年には三代正容が将軍の命により松平の姓と葵の紋を与えられ、幕末まで会津松平氏の居城でした。
慶応4(1868)年、戊辰戦争の激戦でかなりの損傷を被り、明治7(1874)年天守は取り壊されました。
昭和9(1934)年、国の史跡に指定されています。
昭和40(1965)年天守などが復元され、平成2(1990)年には茶室麟閣を本丸内に移築し、平成13(2001)年、天守に続く南走長屋と干飯櫓が復元されました。
平成18(2006)年には、日本100名城に選定されています。
平成22(2010)年から天守の屋根瓦を明治時代に解体される前の赤瓦葺に復元される工事が行われ、平成23(2011)年に竣工しました。
今後、御三階櫓が復元される予定です。
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麟閣は、会津若松城本丸にあります。
豊臣秀吉の奥州仕置により天正18(1590)年蒲生氏郷がは会津黒川城の城主となりました。
氏郷は黒川を若松と改め城下町を発展させました。氏郷は織田信長の娘婿で勇猛な武将であるとともにこの時代を代表する文化人で、特に茶道に親しみ、のち利休七哲の筆頭にあげられるほどでした。
天正19(1591)年2月28日、千利休が秀吉の怒りに触れて死を命じられ、千家が茶の湯の世界から追放された折り、氏郷は利休の茶道が途絶えるのを惜しんでその子、少庵を会津にかくまい、徳川家康とともに千家復興を秀吉に働きかけました。
その結果、文禄3(1594)年と推定される「少庵召出状」が出されたのです。
少庵は京都に帰って千家を再興し、千家茶道は一子、宗旦(そうたん)に引き継がれました。
そののち宗左、宗室、宗守の3人の孫によって表、裏、武者小路の3千家が興され、今日の茶道隆盛の基が築かれました。 かくまわれている間、氏郷のために造ったと伝えられているのが「麟閣」であり、以来、鶴ヶ城(若松城)内で大切に使用されてきました。
しかし、戊辰戦争で会津藩が敗れ、明治初年、鶴ヶ城が取り壊される際、石州流会津怡渓派の森川善兵衛(指月庵宗久)は貴重な茶室の失われるのを惜しみ、明治5年(1872)年5月、自宅へ移築し、以来百二十年にわたり、森川家はその保全に努めてこられました。
会津若松市では平成2(1990)年9月12日、市制90年を記念してこの氏郷・少庵ゆかりの茶室を後世へ伝えるため、鶴ヶ城内の元の場所へ移築しました。
会津若松城(鶴ヶ城)・麟閣 - 07 posted by
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日本100名城スタンプラリー 取得実績
04
弘前城 H24/7/12
05
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06
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09
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10
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12
会津若松城 H24/12/29
23
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24
武田氏館 H23/12/30
30
高遠城 H23/12/30
31
新発田城 H24/12/28
32
春日山城 H24/12/28
33
高岡城 H24/4/28
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金沢城 H24/4/28
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丸岡城 H23/6/18
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一乗谷城 H24/4/28
38
岩村城 H24/6/23
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40
山中城 H23/12/29
41
駿府城 H23/12/28
42
掛川城 H23/12/28
43
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44
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45
岡崎城 H24/10/8
46
長篠城 H24/10/8
47
伊賀上野城 H24/4/1
48
松坂城 H24/3/8
49
小谷城 H23/12/23
50
彦根城 H24/1/14
51
安土城 H23/4/9
52
観音寺城 H24/1/14
53
二条城 H23/11/3
54
大阪城 H23/11/19
55
千早城 H23/12/10
56
竹田城 H23/11/16
57
篠山城 H23/11/26
58
明石城 H23/12/24
59
姫路城 H24/1/28
60
赤穂城 H24/1/28
61
高取城 H24/1/22
62
和歌山城 H24/2/18
63
鳥取城 H24/7/27
64
松江城 H23/6/27
65
月山富田城 H24/9/21
67
津山城 H24/4/14
68
備中松山城 H24/10/20
69
鬼ノ城 H24/10/20
70
岡山城 H24/1/7
71
福山城 H24/2/4
72
郡山城 H23/3/18
73
広島城 H23/3/17
76
徳島城 H24/5/21
77
高松城 H24/5/12
78
丸亀城 H24/5/12
86
大野城 H24/9/3
88
吉野ヶ里遺跡 H24/9/1
89
佐賀城 H24/9/2
90
平戸城 H24/9/1
91
島原城 H23/9/17
92
熊本城 H23/9/18
93
人吉城 H23/9/15
H24/12/29現在 63/100城
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2013/02/02 00:16:25