加古川市東神吉町神吉にある
神吉城は、織田信長の播磨攻めの攻防の舞台として知られています。
神出城主赤松範次(神出左衛門範次)が神吉城を築き、範次の子・元頼が神吉城主となり神吉氏を称しこの地を治めていました。
天正6(1578)年に羽柴秀吉を大将とする織田氏による播磨攻めに際して、三木城の別所長治に組みしていたため、志方城・野口城共々織田信忠の3万の軍の包囲に対し、わずか千名ほどの城兵で果敢に抵抗し、何度も攻撃を撃退したと伝えられています。しかし、度重なる攻撃に頼定をはじめとする城兵は討死し、ついに落城しました。
一説には黒田官兵衛の養女が頼定の奥方と伝えられていています。
本丸跡は現在は常楽寺という浄土宗の寺院になっています。裏手には城主神吉頼定の墓があります。
境内には見事なしだれ桜があり、参拝者の目を楽しませてくれます。
(現地説明板などより)
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志方城は、市易城とも呼ばれています。
明応元(1492)年櫛橋則伊によって築かれました。
櫛橋家は藤原氏の末裔で伊朝を元祖とし代々赤松氏の家臣でした。伊朝より5代の孫、櫛橋左京亮則伊は、赤松政則に仕えて大いに重んじられ祖父の例にならって播備作3国の財産出納の役をつとめ文明13(1481)年、志方・天神山に城を築き、明応元年(1492)この地に志方城を築きました。以来伊家、伊定と父子3代80年間続きましたが、天正6(1578)年、志方城主櫛橋伊定の時に三木城主別所長治に従ったため、天正7(1579)年8月10日羽柴秀吉によって攻められ落城しました。伊定の娘、光(てる/幸圓・こうえん)は秀吉の軍師として活躍した黒田官兵衛の妻となり、結婚した翌年に嫡男が生まれました。後の福岡藩主・黒田長政です。
伊定の娘は小寺氏の家老黒田官兵衛孝高に嫁いで長政を生んでいたため、櫛橋氏は黒田氏の家臣となりました。
現在の観音寺の境内を本丸とし、本丸を囲む内堀の周囲に二の丸(志方小学校所在のあたり)西の丸(旧志方町役場所在のあたり)とかなりの規模の城だったそうです。
観音寺の門に入り、右手に城跡を示す案内板があります。
観音寺は、曹洞宗の寺院で、本尊は観世音菩薩です。
現在の観音寺は、志方城落城の後、天正15(1587)年、宝岩宗珍和尚が城主の墓碑を守るために城の本丸跡に禅寺を建立したのが始まりです。
本堂裏の墓所に、櫛橋家の累代の墓所があります。
(現地説明板などより)
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志方八幡宮(志方八幡神社)は天永2(1111)年志方荘の宮谷に創祀され、明応元(1492)年志方城主櫛橋左京亮伊則が山城国・石清水八幡宮より八幡神を現在地に勧請し、志方荘30か村の総鎮守としました。
祭神は、応仁天皇、神功皇后、玉依姫命(たまよりひめみこと)です。
古来、厄除安産の神、交通安全の神として高く崇敬され、播磨三社八幡の一つになっています。
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久学寺は山号は河上山、曹洞宗の寺院です。
文安3年(1446)年性光禅師の開基と伝えられています。
赤穂城主浅野家の菩提寺として有名で、赤穂義士ゆかりの寺です。東京の泉岳寺、赤穂の花岳寺と並び浅野藩三がく寺ともいわれます。
正保2(1645)年、浅野内匠頭長直の国替えにより常陸笠間藩から播州赤穂5万3千石の城主となりました。
石高8928石の飛び地、加西郡三十三か村見聞の際には、久学寺に宿泊することもあり、住職の六世是天良扶和尚に深く帰依され、山林田畑12石を寄進、浅野家菩提寺となりました。
その後、赤穂花岳寺の再建に際し、中興開山として六世、七世の住職を招きました。
赤穂藩は長直の後、長友、長矩と続き、城代家老大石内蔵助良雄は八世碧峰和尚と昵懇でした。
元禄14(1701)年3月浅野内匠頭長矩が江戸殿中で刃傷事件を起こしたときも、大石内蔵助良雄は親交の深かったこの寺の住職と囲碁を楽しんでいて、悲報に仰天し、急いで赤穂に帰城したと伝えられています。
長矩や赤穂浪士の法名は久学寺九世海音和尚が授けた記録の過去帳が現在保存されています。
久学寺は江戸時代から明治にかけ、土砂災害などに遭遇することが度々ありましたが、その都度再建されました。
平成25(2013)年、本堂の改修工事が完成しました。
(現地説明板などより)
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ドライブ | 日記
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2014/03/30 16:28:44