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2014年03月29日

山口(西宮市)・淡河・三木(その1・中野城〔城垣内稲荷神社〕〜淡河)

この日はバイクでツーリング。
西宮市山口町〜神戸市淡河〜三木のコースです。

有馬川の畔に城垣内稲荷神社(しろのかいちいなりじんじゃ)という祠があります。
そこが中野城の跡といわれ、有馬法印則頼の持ち城だったそうです。また、安土桃山時代には、丸山山頂にあった丸山城(山口五郎左衛門の居城)の出城だったとも伝えられています。
いつ頃、誰がどんな理由で祀り始めたかは不明ですが、上山口地区の守り神として大切にされています。鎮座地字名の「城ノ垣内」をとって城垣内稲荷と呼ぶようになったようです。
御祭神は秀吉大明神、豊一明神、秀一明神です。名前も気になります。有馬温泉を愛した秀吉ですが、没後に地元の人が祀ったのでしょうか?
昭和57(1982)年、敷地が整備され、拝殿が新築されました。毎年5月の連休最終日には、参道に大きな幟が立てられ、大祭が執り行われます。
(現地説明板などより)
中野城 - 1
中野城 - 1 posted by (C)pismo

中野城 - 2
中野城 - 2 posted by (C)pismo

中野城 - 3
中野城 - 3 posted by (C)pismo

中野城 - 4
中野城 - 4 posted by (C)pismo

中野城 - 5
中野城 - 5 posted by (C)pismo

淡河城は淡河氏が築いた城です。
北条時政の三男時房の子時盛が子の時治(朝盛)に承久4(1222)年に播磨国美嚢郡淡河荘を与えました。(北条右近将監成正とも)
そして地頭職として補任され、入部したことに始まります。
以後時治の子孫が淡河氏を称しました。
暦応2(1339)年赤松円心は三男則祐を総大将として志染に陣を布き、南朝の拠点である山田・丹生寺を攻め、さらに淡河・石峰寺・三津田で合戦を行い、この時淡河城も落城しました。
室町時代の明徳3(1392)年、淡河範清は播磨守護赤松氏の一族中嶋彦八郎熙範の嫡男季範を養子に迎えたことにより淡河氏は赤松一族になりました。
天文23(1554)年、、三好長慶の支援を得た有馬郡の有馬重則(月公)が、摂津国衆を率いて播磨に侵入し別所方の城を攻撃しました。淡河城も攻撃され、元範は防戦につとめましたが城は落ち、しばらく淡河氏は没落しました。その後、永禄元(1558)年、別所氏の支援を得て淡河城を回復、別所氏麾下として淡河に勢力を維持しました。
天正6(1578)年2月別所長治、織田信長に反旗を翻したため、羽柴秀吉は三木城を攻めました。
天正7(1579)年4月織田軍淡河城の四方に付城を築き対陣しました。城主淡河弾正忠定範は、6月27日に敵陣に牝馬を放ち牡馬が狂奔したことで寄せ手は大混乱となり、そこへ淡河勢が攻め込みました。羽柴秀長らは多くの戦死者を出し、ほうほうの体で逃げ散りました。大勝を得た後は、三木城に入りました。谷大膳衛好は、羽柴秀吉の部将として平田山に陣を構え、三木城への食糧補給路を断つ任にあたっていましたが、9月10日毛利の将、生石中務と三木城の別所方が平田村の谷大膳の陣を攻撃しました。一方、秀吉も援軍を出し、戦いは秀吉方の大勝に終わったが谷大膳は壮絶な討ち死にを遂げました。
この大村合戦に淡河定範も出陣して奮戦しましたが手傷を受け、主従5騎で逃げ延びようとしましたが、遂に力尽き自害して果てました。
三木城が落城した後、淡河城は有馬則頼に与えられ、慶長6(1601)年まで有馬氏の居城となりました。
関ヶ原の戦いの後、有馬則頼は三田に居城を移したため、淡河城は廃城となりました。
城の遺構は現在、本丸と天守台、堀を残すだけとなっています。幅15m、深さ3~5mの堀に囲まれ、本丸の南辺に東西50m、南北8~16mの天守台を配する構えは、当時の面影を残しています。また、本丸の南東には竹慶寺跡があり、境内には城主淡河氏代々の墓碑があります。
(現地説明板などより)
淡河城 - 01
淡河城 - 01 posted by (C)pismo

淡河城 - 02
淡河城 - 02 posted by (C)pismo

淡河城 - 03
淡河城 - 03 posted by (C)pismo

淡河城 - 04
淡河城 - 04 posted by (C)pismo

淡河城 - 05
淡河城 - 05 posted by (C)pismo

淡河城 - 06
淡河城 - 06 posted by (C)pismo

淡河城 - 07
淡河城 - 07 posted by (C)pismo

淡河城 - 08
淡河城 - 08 posted by (C)pismo

淡河城 - 09
淡河城 - 09 posted by (C)pismo

淡河城 - 10
淡河城 - 10 posted by (C)pismo

淡河城・竹慶寺跡の淡河氏墓所- 11
淡河城・竹慶寺跡の淡河氏墓所- 11 posted by (C)pismo

淡河城竹慶寺跡の淡河氏墓所 - 12
淡河城竹慶寺跡の淡河氏墓所 - 12 posted by (C)pismo

淡河城・竹慶寺跡の淡河氏墓所 - 13
淡河城・竹慶寺跡の淡河氏墓所 - 13 posted by (C)pismo

淡河城 - 14
淡河城 - 14 posted by (C)pismo

淡河城 - 15
淡河城 - 15 posted by (C)pismo

淡河城 - 16
淡河城 - 16 posted by (C)pismo

淡河八幡神社は、伝承では、宝亀10(779)年6月に住吉の神(表筒男命)を祀り、仁平年間(1151~54)に吉野の神、安閑天皇、貞応2(1223)年に鶴岡八幡宮から応神天皇の分霊をうけて社号を若宮八幡宮と称し、その神域を八幡の杜と呼びました。
旧淡河郷(庄)16村の鎮守社で淡河氏、有馬氏、更に明石藩歴代の崇敬祈願所となりました。有馬氏はご本殿をさらに大きく造立しました。
明治7(1874)年郷社となりました。
なお、本殿は平成11(1999)年に神戸市指定有形文化財に指定されています。
また、御弓神事は昭和46(1971)年に県指定重要無形民俗文化財となっています。
御弓神事とは、一年の除災招福を祈る行事の一つで、毎年2月11日に社前で行われます。
鳥居下の大的に宮司が「鬼」と墨書し、すぐ塗りつぶし、災害の根源を封じ込めます。
次に氏子から選ばれた正副4人の射手が神前から矢を放ち、この的を射て、根源の悪霊を鎮圧し、的の中心を射た矢は神前に供えられます。
古式をとどめた厳格な作法が守られており、その起源は相当古いものと思われます。
(現地説明板などより)
淡河八幡神社 - 01
淡河八幡神社 - 01 posted by (C)pismo

淡河八幡神社 - 02
淡河八幡神社 - 02 posted by (C)pismo

淡河八幡神社 - 03
淡河八幡神社 - 03 posted by (C)pismo

淡河八幡神社 - 04
淡河八幡神社 - 04 posted by (C)pismo
ブログ一覧 | ツーリング | 日記
Posted at 2014/04/03 22:34:42

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