2日目の朝は、早朝少しだけサイクリングを。
柳橋は会津と新潟を結ぶ越後街道の湯川にかかる橋で、付近に道しるべとして多くの柳が植えてあったので、古くは楊柳橋と称されました。
慶長5(1600)年に上杉景勝が石田三成と計り、徳川家康を牽制し12万人を動員し、西へ半里程の如来堂に幻の神指城を築造する際、要所である橋を長さ17間、幅3間余の欄干のある堅牢な柳橋としました。
柳橋の200m程下流の薬師河原には、藩政時代の処刑場があり、特に昔キリシタン弾圧により寛永12(1635)年には会津キリシタンの中心人物である横沢丹波と外人宣教師など60余名が捕らえられ、一度に処刑されたところで、キリシタン塚があります。
近くには戊辰の役では、娘子軍の中野竹子が柳橋の激戦で敵弾に倒れ殉死し碑が残ります。
この場所には休み小屋があって、刑場にひかれる罪人は井戸の水で家族らと水盃を交わして別れを惜しんだところから、通称涙橋と呼ばれ、昭和初めの木橋には涙橋とも記されていました。
(現地説明板などより)
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中野竹子奮戦の地(中野竹子殉節之地碑)は、戊辰戦争の際、会津藩が西軍を迎え撃ったところで、西側には旧越後街道が走っていました。
会津藩では十数名の婦女子が義勇軍を結成しました。彼女らは松平容保公の義姉である「照姫」が会津坂下にいると聞きつけ、8月23日、照姫を警護するため薙刀をもって坂下へと向かいます。
中野竹子は妹優子と共にこの婦女子隊を率いた中心人物です。しかし、この時、照姫はすでに坂下にはなく、若松城(鶴ケ城)に籠城していました。そのため婦女子隊は、若松城へ向かう会津軍への従軍を願い、8月25日に従軍が許され旧幕軍の衝鋒隊と行動を共にします。衝鋒隊とそれに従軍する婦女子隊は、会津若松市神指町黒川付近で西軍(長州藩・大垣藩の兵士)と遭遇し、激しい戦いが繰り広げられました。
竹子は、辞世の
武士の猛き心にくらぶれば
数に入らぬ我が身ながらも
と詠んだ短冊を、薙刀に結びつけて奮戦しましたが、敵の銃撃に会い、壮烈な戦死をとげました。
竹子等をはじめ、会津戦争で亡くなった勇気ある女性たちは、後に娘子軍と称されました
現在竹子の墓は、会津坂下町の法界寺にあります。
殉節碑は、昭和13(1938)年に会津若松市神指町黒川の湯川橋に建てられました。
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興徳寺(こうとくじ)は、山号は瑞雲山、臨済宗妙心寺派の寺院です。
弘安10(1287)年、蘆名氏第5代蘆名盛宗が鎌倉より大円禅師を招き開山したと伝えられています。
その後、蘆名氏を滅ぼした伊達政宗が会津支配の仮館をおき、また豊臣秀吉が奥州仕置の御座所としました。
蒲生氏郷により城下町が整備され寺院が郭外に移された際も、その由緒と格式により唯一郭内に留まる事を許されました。
戊辰戦争により、堂宇(堂の建物)をことごとく焼失しました。
再建されたものの、昭和20(1945)年に神明通りが開通し、境内は縮小されてしまいました。
現在、寺内には、蒲生氏郷の五輪塔(墓)があり氏郷没後に子の蒲生秀行によって建立されたもので、病のため京都で亡くなった氏郷の遺髪がおさめられています。当時は御霊屋がありましたが、戊辰の兵火で焼失しました。
また、すぐ脇には氏郷の辞世の歌碑も残っています。会津史談会が昭和28(1953)年に氏郷公360年祭を記念して建てたものです。
「限りあれば 吹かねど花は散るものを 心みじかき春の山風」
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平成24年度の訪問↓
越後・会津・信濃紀行(1日目その3・会津若松の神指城周辺)
越後・会津・信濃紀行(1日目その4・会津若松市七日町付近の史跡)
越後・会津・信濃紀行(1日目その5・会津若松城のライトアップと夜の会津若松史跡めぐり)
越後・会津・信濃紀行(2日目その1・秀長寺、長岡藩士殉節の碑、光明寺)
越後・会津・信濃紀行(2日目その2・会津藩主松平家墓所〔院内御廟〕、天寧寺)
越後・会津・信濃紀行(2日目その3・恵倫寺、建福寺、善龍寺)
越後・会津・信濃紀行(2日目その4・会津若松城とその周辺)
越後・会津・信濃紀行(2日目その5・御薬園と飯盛山)
越後・会津・信濃紀行(2日目その6・会津若松の美酒で乾杯)
越後・会津・信濃紀行(3日目その1・佐川官兵衛顕彰碑、会津武家屋敷)
越後・会津・信濃紀行(3日目その2・會津藩校日新館)
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自転車 | 日記
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2014/05/21 00:29:33