百済寺は山号は釈迦山、天台宗の寺院です。
推古天皇14(606)年、百済人のために創建と伝えられています。
創建当初の御本尊は、太子御自作の「植木の観音」で、御堂は百済国の梵閣「龍雲寺」を模して建てられ、開闢に当たっては高句麗の僧恵慈を咒願とし、その後の供養には百済の僧が任ぜられました。
平安時代になると比叡山に天台宗が開創されると、当山も天台宗となり「湖東の叡山」と称されたほど壮大な寺院となりました。
明応7(1498)年、自火により本堂付近の建物を焼失し、文亀3(1503)年には戦乱による災厄に遭い、古建築の多くを焼失しました。
元亀元(1570)年、佐々木六角義治等が織田信長に抗し、鯰江備前守貞景、定春(森備前守)が義治を奉じ、鯰江城に入ると当山衆徒は寺内にその妻子を預かり、兵糧を送り援護したため、天正元(1573)年織田信長に焼打されました。
御本尊等数体の主な仏像と、重要な経巻は奥ノ院西ケ峰に遷座守護し辛うじて難を免れました。
天正12(1584)年、堀秀政により仮本堂を建てられ、慶長7(1602)年、146石5斗の地を寺領として免除され、復興に向かいました。
その後、寛永年間には天海大僧正の高弟、亮算入寺し伽藍の再興を計り勅許を仰ぎ、寛永14(1637)年には明正天皇が綸旨を下し、改建を勅許されました。
井伊直孝の周旋により、土井利勝・酒井忠勝・栄勝院局・春日局の喜捨を得て、甲良豊後守宗広より金子500両が寄進され、慶安3(1650)年、本堂・仁王門・山門等が竣工しました。これが現在の建築物です。
喜見院の庭園は、天下遠望の名園といわれ、近江の歴史舞台を一望できます。喜見院は、元々千手坊と称していたものを、寛永11(1634)年、山門三院執行探題大僧正天海の高弟、亮算が千手坊仙重の後任として入寺すると、千手坊を喜見院と改めました。元文2(1737)年、仁王門の側に移転改築されました。
昭和15(1940)年、仁王門側より再度移転改築され、これに伴い庭園も拡大移築されました。
池泉廻遊式かつ観賞式で旧庭園と同様、山上眺望のパノラマ庭園です。
東方の山々を借景に、庭石は旧庭園のものを移し、山内の谷川から運んだ巨石を組み合わせて作庭されたもので、書院正面中央の池畔に置かれた平な石を「拝石」とし、その正面の渓流の源に見える巨石が「不動石」です。
湖東の平野、比叡山に連なる湖西の山々を眺望でき、さらに西方に渡来人の母国百済国を偲ぶことができます。
また、城砦寺院の遺構である石垣は安土城築城の際「石曳」されましたが、小石を積み上げた石垣の部分は破壊されず、戦国時代のまま残っています。
(パンフレットなどより)
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2014/11/24 21:10:24