次は、阪奈道路を降り、東大阪市の若江を目指します。
若江城は、南北朝時代に河内国守護の畠山基国が幕府の命令により築城しました。現在は、若江公民分館横には説明の案内板が、道路を挟んで反対側に石碑があります。
若江城の近くには
若江鏡神社があります。若江城城主だった畠山政長より三好左京大夫源義継までの代々城主の崇敬を集めた神社です。ここは大坂の陣の時焼失したそうです。
さて、第二寝屋川を南に下がると八尾市に入ります。東大阪市と八尾市の市境、幸公園には
木村重成の墓があります。木村重成は豊臣秀頼の小姓として育ち、大坂の陣では西軍の武将として活躍しました。
大坂冬の陣で初陣をし、今福砦攻防戦で活躍しました。また、和議に際して郡良列とともに豊臣方の代表の一人として望み、徳川家康の血判が鮮明でなかったことを咎め、明瞭な血判を要求したエピソードが知られています。元和元(1615)年の大坂夏の陣で、この若江付近で藤堂高虎の先鋒、藤堂新七郎良勝・藤堂玄蕃良重を破った後、井伊直孝軍と戦い、奮戦しましたが、力尽き井伊直孝の武将庵原助左衛門に討ち取られました。首は徳川家康の家臣で後に紀州藩付家老になった安藤直次の甥、安藤長三郎がもらい受けたそうです。
幸公園から第二寝屋川を挟んで北側すぐの所には、
山口重信の墓もあります。山口重信は山口重政の嫡男で、慶長18(1613)年に大久保忠隣の養女(石川忠義の娘)と嫡男重信が勝手に縁組したことを咎められて重政は改易されました。大名に復帰しようと、重政は大坂の陣の時に豊臣秀頼暗殺を徳川家康に提案しますが、拒絶され井伊直孝軍に属して若江の戦いに参加しました。重信も参戦し、木村重成方の飯島三郎右衛門など5騎を討つなど活躍しましたが、武運拙く26歳で戦死しました。
寛永5年(1628年)に重政、重信の武功により、山口重政に牛久1万5千石が与えられ、念願の大名に復帰しました。ひときわ大きい墓なのでかなり目立ちます。
再び幸公園に戻ると、西側入口付近に
「此附近木村重成奮戦地」という石碑を見つけました。
さて、このあたりに木村重成の銅像があるということで、少し探してみました。なかなか見つからず苦労しました。探していると木村重成の位牌のあるお寺、
蓮城寺を見つけました。
何とか
木村重成本陣跡にある木村重成銅像を見つけることができました。蓮城寺の近く、東大阪若江南郵便局の南側にアスファルト駐車場がありますが、なんとその奥の無道路地の空き地に建っています。これは見つけるのが難しいはずです。
後世にもその爽やかな戦いぶりが人気がある木村重成の古戦場。地元でも大事にされているのを感じます。
このあたりは狭い道が多いので、車で行くときは駐車場所の確保に苦労しました。
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ドライブ | 日記
Posted at
2007/02/26 20:51:03