次は人取橋古戦場を目指して、二本松市から本宮市に南下します。
最初に
安達太良神社を訪れました。安達太良神社は安達郡の総鎮守として、久安2(1146)年に創建された神社です。「本宮」の地名はこの神社に由来しています。この付近は本宮城、鹿子田舘、菅森舘、愛宕舘などが築かれ、伊達政宗も何度か本宮城に本陣を置いています。現在の社殿は文化13(1816)年に再建されたものです。
日輪寺は、伊達政宗が人取橋の戦いで本陣を構えたところです。
境内墓地には樹齢約200年の「日輪寺のシダレザクラ」があります。
シダレザクラの案内看板はありますが、人取橋合戦の案内看板等はないようです。
人取橋古戦場は、天正13(1585)年11月17日、常陸の佐竹、会津の蘆名、白川、石川、二階堂、岩城、相馬の連合軍約三万と伊達政宗の軍勢七千余が戦った所です。
この年の10月、伊達政宗は二本松城を攻めましたが、風雪のため兵を引きました。二本松畠山氏の急を聞いた佐竹、蘆名は政宗は仙道(中通り)を奪われることを恐れ、白川、石川、二階堂、岩城、相馬の諸氏と須賀川で合流して前田沢南の原に陣をとりました。
これを知った政宗は、小浜より岩角に出て高倉城に援軍を送り、本宮、玉井に兵を配して後方に備え、伊達成実を高倉街道小山(桝形)の下に置き、自らは本宮観音堂山(日輪寺山)を本陣とし、青田原に軍勢を配して高倉に備えました。
合戦は、高倉から始まりました。荒井を経て伊達の本陣を目指す佐竹勢と人取橋(現在の会津街道名倉橋東)を挟んだ戦いは熾烈を極め、乱戦中鬼庭左月良直が討死しました。
伊達の本陣はもとより、成実の陣も激戦となり、舟橋(山田橋西方)付近では伊場野遠江が討死しましたが、日没で双方兵を引きました。
その夜、佐竹の軍師佐竹義政(義重の叔父)が家僕に刺殺され、優勢だった連合軍は本宮を攻略することなくその夜の内に撤退しまし
た。
伊達方の死傷者は420人あまりにのぼり、この地にある「攻士壇」に合葬されています。また、文政11(1828)年、鬼庭左月(石碑には鬼庭氏が後に茂庭氏に改姓したため「茂庭左月藤原良直墓」となっています)の墓が子孫により建立されています。大河ドラマ「独眼竜政宗」で今はなきいかりや長介が鬼庭左月を演じていたことを思い出しました。
次は東に向かい、三春町を目指します。
三春城(舞鶴城)は、この地の豪族であった田村義顕により、永承元(1504)年に築かれたといわれています。
田村清顕は伊達政宗に娘愛姫を嫁がせましたが、男子がなく、甥の宗顕が継ぎましたが豊臣秀吉の奥州仕置により、小田原に参陣しなかった田村氏は改易されました。
以後、三春は会津領となり、蒲生氏・上杉氏・加藤氏の支配地となりました。
寛永4(1627)年には会津藩主加藤嘉明の次男明利が三万石で入城し三春藩を立藩しました。翌年には加藤氏の与力大名松下長綱が入り、正保2(1645年)年に秋田俊季が五万五千石で入城した後は、十一代続いて明治に至りました。
せっかく三春に来たと言うことで根尾谷の淡墨桜(岐阜県本巣市)、実相寺の神代桜(山梨県北杜市)と並ぶ日本三大桜とされる
三春滝桜を見に行きました。
開花時期ではありませんが、天下に名高い桜とあって一度その姿を見てみたいということで訪れました。樹勢の盛んなのには感心しました。
一度桜が咲き誇っているシーズンに訪れてみたいものです。
三春は歴史的な雰囲気が残る町のようでもう少しゆっくり見てみたかったです。しかし、まだまだ行きたいところが他にもあるので先を急ぎます。次は郡山から猪苗代方面を目指します。
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2007/07/14 23:08:28