年末、冬の北信ドライブです。
目的は大河ドラマ「風林火山」も終わったということもあり、川中島の戦いが繰り広げられたエリアの史跡めぐりです。
長野自動車道「麻績インター」を降り、
青柳氏館のあった清長寺へ向かいます。青柳氏館(あおやぎしやかた)は代々青柳氏の居館でした。
青柳氏は筑摩郡の土豪、麻績氏の一族でした。現在の筑北村の内、旧坂北村と本城村の一部を領地にしていたようです。
青柳氏は青柳城を詰めの城とし、平時はここに居館を構えていたようです。
現在の清長寺(せいちょうじ)がその場所です。
清長寺は天正元(1573)年、青柳城主青柳伊勢守頼長が父・清長の菩提を弔うために創建した寺院です。
小笠原氏が青柳氏を滅亡させた後、居館跡の現在地に寺を移して整備しました。
寺の入口付近に石碑がありました。
青柳氏館から詰めの城の
青柳城へ車で向かいます。
青柳城は中世の山城で、現在の筑北町の内、旧坂北村全部と本城村の大部分を本領にしていた青柳氏の城でした。
信濃守護小笠原長時が武田晴信に敗れ、小笠原氏に臣従していた青柳頼長は武田氏に従いました。晴信は川中島への拠点として改修し天文22(1553)年にここに10日間泊まっています。同年9月には第1次川中島の戦いが勃発。長尾景虎は更級郡から筑摩郡へ進出し、青柳城に放火し、苅谷原城、麻績城を攻め落としました。
平成19(2007)年の大河ドラマ風林火山の第39回「川中島!龍虎激突」で、このあたりの話が描かれていました。
武田氏滅亡後は青柳氏は小笠原貞慶に従い、また川中島への拠点とし、天正11(1583)年4月から翌年までの1年間小笠原貞慶と上杉景勝との間で、ここと麻績城の取り合いが4回繰り返されました。天正15(1587)年に青柳頼長は深志城(松本城)で誅殺され、青柳氏は滅亡しました。その後は小笠原氏の家臣の松林氏が在番しています。その後、文禄から慶長年間には廃城になったと見られています。
実戦の行われた数少ない城のうちの一つで、武田・小笠原の改修により、各時代の特色が残っています。
現在は青柳城址公園として整備され、車でのアクセスも可能です。
模擬城門、曲輪、堀切など遺構もよく残っています。
一の曲輪への入口です。
一の曲輪には小笠原貞慶時代の石の線が横に通っているような積み方の布目積みの石垣を見ることができます。
一の曲輪からの北アルプスの風景は絶景です。
青柳城近くの林道(ダート)には結構積雪がありました。
次は、
麻績城へ向かいます。麻績城は、城山(標高940m)と呼ばれる山頂一帯に、戦国時代初期に築かれたと推定される規模の大きな山城で、周辺の要地に数個の支城を持っています。
戦国時代、服部清信は居館を建てた西側の虚空蔵山城の守備を補強するために麻績城を築きました。山頂は主郭までは細い尾根道が続き防衛上有利です。尾根道の間に三本の堀があり、最西端の主郭とその東の二郭の間の堀は中でも幅が広く深くて山腹まで広がっています。主郭の西側の虚空蔵山城の間に何段かの帯郭(おびぐるわ)が設けられて、主要な防衛線だったと想像されます。
東に連なる「のろし山」は上杉、武田軍も使用されたと推定されます。
麻績城では天文22(1553)年から天正17(1589)年にかけて、上杉、武田、小笠原氏の豪族の間で争奪戦が繰り広げられました。
ちなみに、諏訪頼重の娘で武田信玄の側室となり、武田勝頼の母となった諏訪御料人(由布姫、湖衣姫)の母が小見氏(麻績氏)ですがこの城と関係があるのでしょうか?
ブログ一覧 |
ドライブ | 日記
Posted at
2007/12/30 22:45:21