• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+
イイね!
2007年12月29日

冬の北信ドライブ(2日目その1・前日に続き川中島古戦場巡りなど)

前日に引き続き、川中島の戦いに関連する史跡などを巡ります。
横田城は、平安時代末ごろの築城で、養和元(1181)年木曽義仲が越後の城氏の軍と戦った時に利用し、また北陸を攻め上がるについても、この城を根拠地の一つにしました。
室町時代の応永7(1400)年には、信濃守護小笠原長秀が、無から三視や大文字一揆らと戦った大塔合戦の時も、長秀はこの城にこもっています。
川中島の戦いの時は武田方の原大隅守虎吉が籠もったと伝えられています。原大隅守虎吉は、原隼人佑昌胤と同族で、川中島の武田信玄、上杉謙信の一騎打ちの際、謙信の馬を槍で突いたといわれています。
外堀は南北約180m、東西約230mの短形をなし、その内部がいわゆる環濠集落になっています。内城の部分は約55m四方で殿屋敷と言われ、その西北隅に南北10m、東西12m、高さ3mの土塁が残り、古殿稲荷社が祀られています。稲荷社の北には近年まで6m以上の掘があった。この殿屋敷の部分が本郭です。
外堀内の西半分を宮内(くねうち・郭内の意)といい、東半分を古町といいます。
大和地方の環濠集落によく似た屋敷割が見られます。
土塁の南に馬出しの地名があり、東には土居沢の地名があります。
稲荷社のところに説明看板があります。


地蔵寺です。原大隅守の墓がある寺院で、守将として任に就いた横田城近くにあります。
原大隅守虎吉は、「甲陽軍艦」では、永禄4(1561)年9月10日の第四回川中島の戦いで、八幡原の信玄本陣に単騎乗り込んだ上杉謙信に向けて槍を繰り出して信玄の窮地を救った人物として書かれています。
同書によると、原大隅守は横目衆の一人で、中間頭として描かれ、一人で三十人宛ての頼子を持ち、大手の番、甲州口方面の奉行を務めたとされます。
「原大偶守」とかかれた位牌も地蔵寺にあるそうです。


勘助宮は、現在石碑のある南長野運動公園の地より北東約100メートルの位置にありました。勘助宮はもともとは北小森集落の氏神で、建御名方神を祭る諏訪社であした。遠い戦国の世、上杉・武田両軍の数度にわたる戦いがあり中でも永禄4(1561)年の第三次川中島の戦いで武田の軍師山本勘助の献策した「きつつき戦法」が失敗して武田軍は苦戦に陥り、責任を感じた勘助は奮戦して諏訪社のあった付近で討死したと言われています。
その後、土地の者はこの諏訪社を勘助宮と呼ぶようになったそうです。欅の老木、鎧掛けの松、鞍掛けの松などと呼ばれた老樹がうっそうと繁り、明治末期に神社併合で今の東福寺神社に合祀されるまで北小森集落で祀ってきました。
現在、山本勘助が戦死した地付近は長野オリンピックスタジアムを含む、南長野運動公園になっています。現在は南長野運動公園の南西側駐車場の西側に石碑が建っているのみです。
碑は平成7(1995)年南長野運動公園建設のため、勘助宮跡に残った碑をここに移設したものです。
碑文は文学博士南條文雄先生が、書は元帥寺内正毅が揮毫したものです。


耕心庵は、永禄4(1561)年の第四次川中島の合戦で最初に武田信玄が本陣を構えた茶臼山南東側斜面にあります。第四次川中島の合戦が終わった後、この地方は武田方に属しました。
合戦が終わった10月に武田信玄はこの地に立ち寄り、川中島合戦場を見下ろして、この處はまさに景勝地であると感嘆し、ここに禅寺を建立し、法性山甲信庵と名づくべしと高坂弾正に命じました。寺が完成し、青面金剛を本尊としてまつり、四十六貫文の土地を興えて、玄峰院二世宗益を住職にむかえました。
本堂には信玄寄進と伝えられる青面金剛像があるそうです。また、境内には「信玄桜」という大きな桜の木があります。


茶臼山武田信玄本陣跡です。武田信玄と上杉謙信による川中島の合戦の中でも最激戦となった、永禄4(1561)年の第四次川中島の戦いで、信玄が甲斐から出陣して最初に本陣を置いたのがここ茶臼山です。
8月中旬、上杉謙信は1万3千の兵を引き連れ春日山城を出発し、海津城(松代城)の南を押し通り妻女山へ陣を置きました。上杉軍出陣の知らせを受けた信玄は、今こそが上杉謙信を倒す絶好の機会だと、8月18日、1万の兵と共に躑躅ヶ崎の館を出発し、途中南信濃、東信濃の兵を合流させ1万8千となって川中島へ来ましたが、すぐには海津城へ入らずにここ茶臼山へ陣を置きました。ここでしばらく妻女山にいる上杉謙信の動きをうかがっていましたが、謙信が動かないのを見た信玄は海津城へ入って兵を2万とし、9月10日のあの両雄一騎討ちで有名な川中島の激突となりました。
本陣跡は信里小学校近くの頂上付近に石碑と、説明看板、旗塚が残っています。


雨宮の渡しは、往時北国街道の要衝にあって、千曲川渡船場として川中島平の死命を制するほどの重要な拠点でもあり、戦術戦況を左右する場でした。
史上名高い川中島の戦いは、天文22(1553)年から永禄7(1564)年までの間に、戦いは5回ありましたが、その最大の激戦の第四次の永禄4 (1561)年戦いで、9月9日夜半、妻女山に本陣を置いた上杉政虎(謙信) は敵武田信玄の策略を事前に察知し、人馬ともに声なく鞭声粛々とこの雨宮渡を渡り川中島平に兵を展開し、主力同士の戦いを行いました。両雄一騎打ちで知られる八幡原の戦いです。
幕末の儒学者頼山陽が詠んだ「川中島」で雨宮渡は有名になりました。
鞭聲肅肅夜過河 (鞭聲肅肅夜河を過る)
曉見千兵擁大牙 (曉に見る千兵の大牙を擁するを)
遺恨十年磨一劍 (遺恨なり十年一劍を磨き)
流星光底逸長蛇 (流星光底に長蛇を逸す)

当時の要衝雨宮渡も江戸時代の河川改修で千曲川の流れも約800メートル北に移り、往事の面影はありません。
現在は公園として整備され、謙信奇襲の川中島合戦を詠んだ頼山陽の直筆による碑を建立し、渡河地点を保存しました。


会津比売神社は、信濃国造・建五百建命の妃で、諏訪大神の後裔といわれる会津比売命を主祭神とする妻女山の麓にある神社です。
永禄4(1561)年の第四次川中島の戦いで妻女山に本陣を構えた上杉政虎(謙信)が必勝祈願をしましたが、境内にその際に乗馬の鞍を掛けたという松がありました。しかし、松は枯れてしまい、昭和57(1982)年に植えられた後継の松があります。松の下には、上杉謙信槍先の清水と呼ばれる湧き水があります。


上杉謙信槍尻之泉は、第4次川中島の戦いで上杉謙信が妻女山に本陣をかまえたとき、槍の尻で地面を突いたところ、水が湧き、泉ができたといわれているそうです。
妻女山へ登る林道の一つ目のヘアピンカーブ、上信越自動車道の薬師山トンネル入口付近にあります。


妻女山は川中島の戦いの中でも4回目の永禄4(1561)年に上杉政虎(謙信)が、本陣を構えたことで有名です。
この合戦は、武田信玄と政虎が一挙に勝敗を決すべく、両軍合わせて3万3千もの軍勢が激突した凄まじい戦いでした。
上杉軍は8月16日に海津城の向かい妻女山に1万3千の陣を置き、武田軍は茶臼山から8月29日に海津城に入り兵力を2万とした。武田軍は山本勘助の案により軍を二隊に分け、一隊が夜陰にまぎれて妻女山に進み奇襲攻撃をかけ、上杉軍が山を下るのを残る一隊が待ち受けて八幡原で撃つ「きつつき戦法」を実行したが、上杉軍はそれを見破って、9月9日の夜ひそかに山を下って雨宮から千曲川を渡り、9月10日の八幡原の激戦となりました。
現在、妻女山上は松代藩が戊辰戦争による犠牲者を祀った神社が建立されています。このあたりの平坦地を陣場平といい、一段低くなっている所を千人窪といい、政虎が武田軍の攻撃に備えて千人の将兵を潜ましていた場所といいます。
また、展望台には「毘」「龍」の旗が掲げられ、川中島が一望できます。


清野氏居館〔古峰神社〕です。清野氏は村上氏の一族で、全盛期は西条、清野、岩野、森、倉科など9ヶ村の領主でした。居館の南側の鞍骨城を詰めの城としていたものと考えられています。
松代城(海津城)にも清野氏の居館があったそうです。
天文22(1553)年、武田晴信に敗れた村上義清と共に清野清重も長尾景虎(上杉謙信)を頼りました。信州先方衆として川中島にも出陣したそうです。
その後、清野氏は上杉氏と共に会津に移住しました。
江戸時代、火災など災害に見舞われたこの地区の住民が、旧領主清野氏を蔑ろにするから災害が起こると言うことで清野氏の館跡であった古峰神社に、弘化3 (1846)年、松代藩家老の鎌原重賢(鎌原桐山)の撰文で「清野氏遺愛之碑」を建立しました。鎌原重賢は、山本勘助の墓を柴の阿弥陀堂に建立したことでも知られています。


高源寺跡・真田信之供養塔です。清野氏館(古峰神社)のすぐ側に「真田信之供養塔」と書かれた案内板を見つけて、訪れました。観音堂があり、左手に供養塔と説明の石碑がありました。
ここに明治初年まであった清涼山高源寺の境内上方山腹にあった供養塔を平成9(1997)年ここに移し旧態に復したものです。
高源寺は承応2(1653)年松代初代藩主真田信之の二女見樹院が、この地にあった西迎寺(西光寺)を再興新築して高源寺と改めました。
見樹院は甥の大学(2代藩主真田信政3男)の菩提を弔うために建立したもので、その法名を寺の名としたものです。
見樹院は、寛文13(1673)年79歳で没し、母大蓮院(小松姫)の菩提寺である松代町の大英寺に葬られました。
写真左が大鋒院(真田信之)供養塔の笠塔婆で、万治元(1658)年建立のものです。
右の宝篋印塔は、高源院(真田大学)二百回忌供養塔で天保15(1844)年建立のものです。


信州柴阿弥陀堂跡・山本勘助〔道鬼〕の墓です。信州柴阿弥陀堂は、親鸞聖人(見真大師)真筆の「十字名号」を本尊として、文明年間(1469年~1486年)に吉池彦四郎重行(法名行西)によってこの地に開基されました。
永禄4(1561)年の第四次川中島の戦いの後、武田信玄は武運長久を祈念していた当堂に陣小屋を寄進・改築し、冑中の守護仏「善光寺如来御分身仏」を奉安して両軍の戦死者を祀りました。それを聞いた上杉謙信は家臣を遣わして礼拝しました。当堂は歴代藩主に崇拝庇護され、安永8(1779)年には松代藩の援助により改築されました。全国各地から多くの人々が参詣に訪れ、地域の人々から「お柴様」と親しまれていました。
その後、昭和初期の千曲川築堤により移転を余儀なくされ、現在はこれより東方約300メートル、国道403号線沿いに移築されています。
かつての柴阿弥陀堂の境内にあったのが、山本勘助(道鬼)墓です。永禄4(1561)年9月10日の激戦において、信玄に勧めた「きつつきの戦法」を謙信に見破られ、武田軍は一時苦戦に陥り、勘助は責任を感じ奮戦の後、討死しました。勘助の墓は初め、この南、陣ヶ瀬の東、勘助塚にあったが、千曲川の流れにより荒廃していく姿を憂い、元文4(1739)年松代藩家老鎌原重栄・原正盛が、信玄ゆかりの信州柴阿弥陀堂に遺骨とともに移し、墓碑を建立しました。文化6(1809)年には孫の鎌原重賢が、末永く墓を守るために更に石積みし、今の姿となりました。
大河ドラマの主人公だけに、ボランティアの方に丁寧に説明していただきました。
墓碑に刻まれている漢文の読み下し文が説明されていましたので、転記します。
(北面)
山本道鬼入道は三州牛久保の産也、壮年
武術を為し霜辛雪苦幾十年、既に四十四歳にして
武田玄君に仕う、君之を奇とし称えて軍師と為し且つ道鬼の号を賜ふ蓋し其の公の
機鋒日月の上に出て、無辺の心量天地の外を包む、
故に兵を用うれば権柄手にあり抑揚褒貶与奪殺活自在たり
時に臨んで天下計る能はず、就中戸石の合戦に摩利支天を称するを
見るもの天下皆人に知らる、焉んぞ痩くさん哉、然る後此の地、甲越一戦の
(東面)
時白刃交わり両軍蹙(ちかず)く玄君危急の秋能く
危亡を顧みず単刀直入声江河を折河勢雷電を崩す是の故に越
軍丕に敗る、然れども君の為忠死せり、実に永禄四年辛酉秋
九月十日也、古墓今陣ヶ瀬東高畑中に在りて半ば有る無しなり
古詩に曰く古墓犁れて田と作る誠なるかな、是の言誰か見るに忍びんや、
爰に原正盛英士曾て武田軍の軍術を探り淵源に深徹す
其の徒鎌原帯刀重孝英士深く道鬼の武功に感じ
(南面)
新に石表を促さんと雖も不幸に短命にして卒す、其の孝子重栄英重
慈父の志を続け世財を抛って、石碑を造立し、地を柴村に移し
永く高名を仰ぐ、其の厚志至れり尽くせり、戯原、鎌原左祖に
依らずんば能く公の古墓の再改を観んや、三僧不才を愧じず之が為に
碑文並びに銘を賦して、後世に貽して曰く
嗚呼道鬼 武功忠義 古(いにしえ)又之を憶う
今複(また)是を想う

元文四年巳未年 朧月二日
寒松山僧補※叟誌(※は山に喬)


広瀬の渡しは、武田信玄が甲斐から海津城に入るとき、海津城を出て八幡原に陣を構える時に渡った千曲川の渡しです。
江戸時代には全国から参詣に来た人々が信州柴阿弥陀堂を経て善光寺へ至るときに渡りました。
信州柴阿弥陀堂・山本勘助〔道鬼〕の墓から千曲川へ向かって歩くと説明看板が建っています。


大鋒寺は、松代初代藩主真田信之の隠居所に建てられた寺院です。
信之は明暦2(1656)年隠居し、翌3年7月、柴の隠居所に移りました。
万治元(1658)年10月17日、93歳の天寿を全うして没し、遺命により隠居所を寺とし、信之の院号から真田林大鋒寺と号しました。
信之の館をそのまま寺にしたとも、館の材を用いて改築したのともいわれています。
2代信政は父より先に没したので、3代幸道の時、伽藍が建てられました。霊屋は書院の場所に建てられ、信之の信仰していた阿弥陀三尊を本尊としました。
大鋒寺は、真田信之の霊屋の他に、墓もあります。墓碑は高さ3.3mの宝篋印塔で、塔身の正面に、「大鋒寺殿徹巌一当大居士」、その下の基礎石正面に三行書きで、中央に「骨頭片片即法身」、右に「万治元戌年」左に「十月十七日烏」と陰刻されています。信之は、隠居館のこの地で荼毘に付し、その灰塚の地に墓碑が建てられました。


霞城は、大室城ともいい、大室古墳群の中にあります。
小笠原氏の一族で、このあたりの豪族大室氏の居城です。
大室氏は村上氏に従っていましたが、村上義清が越後に逃れると、武田氏に臣従しました。武田氏滅亡後は、上杉氏の配下となりました。
霞城は上杉氏が会津に移封された後、大室氏も会津に移ったため、城も廃城になりました。
城は登城口が少しわかりにくいですが北東側から登り口があります。
登山道もすこしわかりにくいですが、主郭部は見事に石垣が残っています。


大堀館〔大塚館・町田氏屋敷〕です。弘治元(1555)年7月19日、第二次川中島の戦いで、お互いに小競り合いを続けるも決定的な戦いは行われることはなく、約200日に及ぶ対陣の結果、今川義元の仲介で和議を結び、両軍は閏10月に撤退しました。この戦いで武田晴信(信玄)の本陣となったのが大堀館とされています。大堀館は別名「町田氏屋敷跡」ともいわれ、地元の土豪、町田氏の居館跡であったといわれています。町田兵庫正之は武田氏の割ヶ嶽城攻略の時、城将山崎七郎を討ち取りました。正之、子息の光直と二代にわたり信玄、勝頼に仕え、武田氏滅亡後はこの地に帰農したそうです。
更北中学校の南側に石碑と説明看板があります。


安養寺は、永禄10(1567)年に浄土宗総本山・増上寺10世感誉存貞が開山となって綱島に創建された寺院です。このあたりを本拠とした綱島氏の開基といわれています。
天明7(1787)年の洪水によって流失し、現在の大塚の地に移されました。
大堀館、現在の更北中学校の南側にあります。武田信玄奉納と伝えられる守護仏、不動明王が安置されているそうです。


長徳寺はこの附近の豪族町田氏の菩提寺です。長徳寺の南側の大堀館が居館でした。
町田兵庫正之は武田氏の割ヶ嶽城攻略の時、城将山崎七郎を討ち取りました。正之、子息の光直と二代にわたり信玄、勝頼に仕え、武田氏滅亡後はこの地に帰農したそうです。
本堂の左手の墓所に町田兵庫の墓があるとのことですが、どれかよくわかりませんでした。墓地には町田姓のお墓が多く、今もこの附近には末裔の方が多くお住まいのようです。


諸角豊後守の墓です。諸角(両角、室住、諸住とも)豊後守昌清(虎定)は武田信玄の曽祖父信昌の六男で、武田家の譜代の重臣として信虎、信玄の二代にわたり仕えた旗本五十騎持ちの剛勇な侍大将でした。
また信玄の弟、典厩信繁を幼少時から支えてきた傅役でした。
永禄4(1561)年の第四次川中島の戦いでは本陣前線右翼を担い八十一歳の高齢で出陣しました。
「啄木鳥戦法」を見破られて武田軍の劣勢に兄信玄の危急を救わんと、副将信繁は上杉軍に切り込み壮烈な討死をしました。諸角豊後守は、信繁の討死の知らせに激怒し、「もはや我が武運の尽きる時、我もお供つかまつらん」と、一途に主君信繁の後を追うように僅かな手勢で敵陣へ突入し奮戦の末壮烈な最期を遂げました。
ここを死に場所とした老将、諸角豊後守の無念さや心情に心を寄せた里人たちの哀れみ深さと思いやりが今でも人々の心に生き続け、この地では「もろずみさん」の愛称で親しまれており、塔之腰集落挙げて「諸角講」の人々により、供養のため、江戸時代の頃より毎年春、秋二回の祭典が行われています。


境福寺は弘治2(1556)年、善誉誾公上人により創立されました。
浄土宗法蔵寺の末寺であり、この地区やこの地区にゆかりのある九十戸ばかりの人達によって守られています。
途中住職不在の時代もあったりして現在まで続いています。
川中島の戦いの際、武田信玄が水を求め立ち寄った際、当時はごく小さな庵であったこの寺を「境福寺」と命名したものとされています。信玄公の直筆の寺名が宝物として本堂内に飾られています。
当時、この地は鯨沢川を境に氷鉋郷と、斗女郷の境に位置していたことから、「境」という一字を使い、この辺りに「福」をもたらす寺であって欲しいという信玄公の願いが込められています。
信玄公がのどをうるおした「信玄公ゆかりの井戸(深さ6~7m)」は寺の前庭にあり、泉のように湧き出して干上がったことはなく、近くの村から水をもらいに来たほどだったそうです。それを聞きつけた信玄公が戦いの最中にここに水を求めてきたそうです。


幕張の杉です。永禄4(1561)年9月、大激戦といわれた第四次川中島の戦いを前に、この地の用水管理支配をしていた青木家当主次左衛門は、川中島西部六ヶ村(中氷鉋、上氷鉋、戸部、今井、今里、岡田)の代表を伴い信玄、謙信の両将に、耕地、人家に戦火の及ばぬようにと決死の覚悟で申し入れました。
農民たちの切なる願いに両将も心を動かされこれを諒承したといわれています。青木次左衛門は、自邸(通称「堀之内」)東側の二本の杉に幕を張り、戦場との境界の標としました。
激戦となった九月十日、約束は固く守られ、これより西方へは一兵の侵入もなかったと伝えられています。以後幕を張ったことからこの杉を「幕張の杉」と呼ぶようになりました。
合戦当時の杉は老木となり、惜しくも終戦後間もなく伐採されました。昭和56(1981)年、屋敷内の杉を二代目と定め、青木家同族により「幕張の杉記念碑」が建立されました。その後二代目の「幕張の杉」も平成10(1998)年9月の台風第七号の被害で倒れてしまいました。


八幡宮〔陣場・勝鬨神社、青木神社〕です。陣場の八幡宮は「幕張の杉」のある青木次左衛門家の近くにあります。
この地を開拓した青木家祖が勧請した青木神社は、永禄4(1561)年の第四次川中島の戦いの後、合戦が一段落した武田軍は、この神社の前で勝鬨をあげたそうです。それ以来、地名を陣場、青木神社を「勝鬨神社」と呼ぶようになりました。
この附近の六ヶ村の住民は、両軍が引き揚げた9月28日、戦場として荒らされずに済んだ感謝として、青木神社に、平和のよみがえった慶びの神楽を奉納し、相撲大会を催して豊年祭りとして祝いました。この祭りは江戸時代に一度中断した時もありましたが、今日まで継承されています。


昌龍寺は、天文21(1552)年、武田晴信に属し、川中島の抑えとして築かれた広田砦の守将になった、大日方(おびなた)佐渡守直長ゆかりの寺院です。
子の大日方山城守直家がは、武田氏滅亡後は、上杉家に仕えましたが、慶長3(1598)年の上杉家の会津移封には同行せず、信濃国水内郡小川村に帰農しました。
昌龍寺は大日方直家が父直長の菩提を弔うため、広田砦の一角に建立し、直長を開基とした寺院です。境内には直長の墓もあるとのことです。



広田城〔広田砦・東昌寺〕です。
東昌寺の地は、かつては広田城(広田砦)があった場所で、室町時代、応永7(1400)年頃、広田氏が現在の広田、藤牧の地を領し、その館としたのが始まりといわれています。その後、藤牧氏が引き継ぎ、室町時代末期、藤牧弥之助氏が中野市桜沢へ移り、館跡を天文21(1552)年頃、武田方の砦として広田城としました。堀で囲み、現在も残る土塁を巡らせたのはその時であるといわれています。
江戸時代になり、軍事的に必要が無くなると、砦跡に、元文4(1739)年に一宇(観音堂)を建立し、宝暦9(1759)年、長国寺十四世密峰静雲大和尚禅師を開山として招き、真田氏の開基により禅宗寺院として曹洞宗の佛日山東昌寺が創建されました。塀に囲まれ、土塁を巡らした地形の寺院でしたが、昭和 48(1973)年、堀は埋め立てられ、4メートル幅員の道路になりました。
平成7(1995)年、現存する土塁と、砦、堀跡の供養の為、お地蔵様を建立しました。この近郊で現存する土塁としては、唯一だそうです。


狐丸塚は、武田信玄に仕えた小笠原若狭守長詮の家臣、桑山茂見の墓です。
永禄4(1561)年の戦いで、主君の身代わりになり討死しました。
合戦後、里人は桑山の死を哀れんで、彼の死骸と戦場に散乱した武具をかき集め、塚を築き墓を建てて手厚く弔いました。
ところが、不思議なことに、夜ごとにこの塚にたくさんの狐が集まって鳴き騒ぐという噂が立ちました。そこで若狭守がこの塚を掘らしたところ、屍の間から若狭守が桑山に与えた佩刀狐丸が出てきました。それ以来、この塚を「狐丸塚」、「狐塚」と呼ぶようになりました。
墓はリンゴ畑の中に、古い五輪塔が2基並んでいます。


この後は、善光寺を目指して移動します。
ブログ一覧 | ドライブ | 日記
Posted at 2008/01/07 23:37:37

イイね!0件



今、あなたにおすすめ

ブログ人気記事

プチカスタムでイメチェン検討中…
やっぴー7さん

今日の昼飯は〜😋👍
一時停止100%さん

カナリア諸島にて
avot-kunさん

庭仕事のたのしみ😃
mimori431さん

都知事選…お手上げですね🤷
伯父貴さん

6/24 月曜日の朝‼️
ミッキーたんさん

この記事へのコメント

2008年1月8日 0:38
武田典厩信繁は二四将の中でももっとも人気のある武将の一人ですね。

多くの文献で彼の生き方、処世術を読んでいくと、真田昌幸が幸村が生まれた時、信玄に乞うて、「信繁」と命名した気持ちがわかります。実際、江戸時代にも武士のあるべき姿としてしばしば藩校の教科書などで取り上げられたようです。

 もっとも、幸村もその後、典厩信繁に負けない武将として成長していく訳ですが・・・。

 山本勘助については近年まで実在を疑問視する向きもありましたが、最近では実在していたとする説が有力だそうです。

 ただ、「風林火山」よりは新田次郎の「武田信玄」に出てくる勘助の方がイメージとしては近いようです。
 彼の戦術や築城術なんかを見ていると、楠流兵学や墨氏の影響を強く受けているように思えるのですが・・・。

コメントへの返答
2008年1月8日 22:16
武田信繁は人気、実力があり、またその生き方が魅力がありますね。
戦国時代、身内が敵になる場合が多く、また、兄弟は家督を巡って争うケースが多いのに、信繁は兄弟の分をわきまえ、あくまでも補佐役に徹したということで、江戸時代も理想的な「弟」として称えられたのでしょうね。
豊臣秀吉の弟、秀長もそういう生き方をしていましたが、二人とも長生きしておれば、両家の運命は変わっていたのかも知れませんね。
山本勘助、軍師としての存在は疑問視されていますが、使者として使わされるくらいですから、身分の高い武士だったことは間違いないようです。また、川中島にかかわらず、各地方でこれだけ伝承が残っているのですから、実在していた人物だと思いたいです。
武田流の築城術にも興味があるので、もっと色々な城を回ってみたいです。
2008年1月8日 8:41
おめでとうございます、今年も楽しみに見せていただきますデス!

黒豆はこのあたり、ドボンしに良くウロウロしています。
今度はプリントアウトしてしっかり見てきます、何時もために成る情報有難う。
コメントへの返答
2008年1月8日 22:19
おめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
温泉いいですね。信玄の隠し湯も入ってみたかったのですが、今回は大室温泉まきばの湯くらいしか入っていません。
また、富山も行ってみたいです。温泉情報もいつも楽しみにしています。

プロフィール

「[整備] #PCX バッテリー交換(3回目) https://minkara.carview.co.jp/userid/157690/car/1646340/7327912/note.aspx
何シテル?   04/30 18:24
ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2024/6 >>

      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30      

リンク・クリップ

沖縄県編 
カテゴリ:お勧めスポット都道府県別リンク
2021/08/26 23:05:24
 
鹿児島県編 
カテゴリ:お勧めスポット都道府県別リンク
2021/08/22 08:03:34
 
JAFステッカー 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2020/04/21 06:50:32

愛車一覧

スバル レヴォーグ スバル レヴォーグ
H27.3レガシィBPより乗り換え
ホンダ PCX ホンダ PCX
H26.3購入しました。
スバル レガシィツーリングワゴン スバル レガシィツーリングワゴン
H18.3アコードワゴンから乗り換えました。
ホンダ スペイシー100 ホンダ スペイシー100
2ストのリード100から乗り換え。 少しパワー不足でした。
ヘルプ利用規約サイトマップ

あなたの愛車、今いくら?

複数社の査定額を比較して愛車の最高額を調べよう!

あなたの愛車、今いくら?
メーカー
モデル
年式
走行距離(km)
© LY Corporation