次は新城市へ向かいます。
野田城は、永正5(1508)年に菅沼定則が築城したと伝えられています。その後、子の菅沼定村、孫の菅沼定盈がここを居城としました。
城郭は南北に長く、北より三の丸、二の丸、本丸と続くいわゆる連鎖式の山城で、東西両側は谷になっており、当時は自然の川をせき止めて堀を形成していました。
戦国時代、この城は今川氏、武田氏、徳川氏などによって幾度も争奪戦が繰り返されました。
元亀4(1573)年1月、武田信玄は上洛を目指し野田城を攻めました。甲州の金堀人足を使って水脈を切り、城内の水を竜作戦に出ました。城主菅沼定盈は徳川家康の援軍も来ないので、城の運命もこれまでと判断し、城を明渡しました。この城攻めが武田信玄生涯最後の城攻めとなりました。
天正18(1590)年、菅沼定盈が関東へ移封されたため、野田城は廃城となりました。
現在も遺構として土塁や空堀が確認できます。
法性寺の境内は、野田城の西側の堀の役割を果たしていたと考えられ、低地にあります。
西側は再び高台になっています。境内入ってすぐの左側に階段があり、登っていくと「伝説 信玄が撃たれた場所」があります。
元亀4(1571)年、野田城を攻めた武田信玄が、月夜の宵、城内から流れる笛の名手村松芳休の吹く音色に誘われこの地に姿を現し、城内の一角から菅沼定盈配下の鳥居半四郎に鉄砲で狙撃されたという伝説があります。
大野田城は建武の新政の頃、富永氏の出城で、後の応永年間(1394~1427)の頃は城所浄古斎の砦でした。永禄3(1560)年、今川義元が桶狭間で討死すると、野田城の菅沼定盈は今川から離れて徳川家康についたため、義元の子今川氏真は翌年の永禄4(1561)年に菅沼定盈を攻めました。定盈は衆寡敵せず、一旦は和議を結んで野田城を明け渡したが、永禄5(1562)年再度野田城を奪い返しました。
この戦いで野田城が大破したので修復のため、定盈は浄小斎の旧砦を利用して本丸とし、更に二の丸。三の丸を北側に拡大して、その名も大野田城としました。
元亀2(1571)年武田信玄は足助城を陥れ、作手から大野田城を攻め、定盈は城に火を放って豊川を渡り、西郷(豊橋市)へ退却し廃城となりました。
現在も本丸の土塁や空堀の跡はよく残り、中市場池は明治の頃、本丸を切り崩して造られた農業用の溜池です。
中市場池側に案内看板があります。城跡は雑木が生い茂っていて遺構は確認しづらいです。
新城城は、長篠の戦いの翌年の天正4(1576)年、戦いの功績により加増された奥平信昌が長篠城に変わる居城として築城しました。
豊川を南側に、北、東、西側を空堀と土塁で囲む形の城でした。
家康の関東移封後には、池田照政(輝政)の領地となり、一時廃城となった後、江戸時代には、天領となり、慶長11(1606)年に水野文長が城主となりました。その子元綱の代に移封され、一時天領となった後、慶安元(1648)年に菅沼定実の所領となり(陣屋)、明治維新に至ります。
城跡は、新城小学校の敷地になっています。運動場の南東隅には土塁が残り、石碑が建っています。
そして、今回のドライブの目的の1つでもある長篠、設楽原古戦場です。ここには以前にも訪れたことがありますが、今回はもっと深く掘り下げていきたいと思い訪れました。
織田信長本陣・極楽寺跡です。天正3(1575)年5月18日、設楽原に到着した織田信長は、まず、上平井の極楽寺山に本陣を定めました。そして、この地で軍議を開きました。
徳川四天王の一人、酒井忠次は、信長の所望で軍議の席でえびす舞を舞い、士気を高めたそうです。
そして、酒井忠次が、武田軍の鳶ヶ巣砦への奇襲を信長に献策すると、信長は陣中から戦略が漏れることを恐れ激怒して見せました。
しかしその後、すぐに酒井忠次は信長に呼ばれ、先ほどの鳶ヶ巣山への奇襲の策を褒め、この戦いに重要な役割を果たした鳶ヶ巣山砦の奇襲を実施しました。
極楽寺は現在残っていません。平井神社と水路を挟んだ北東にあります。
織田信長旗本地跡です。平井神社は、長篠、設楽原の戦いでは、織田信長が旗本陣として「信長ここにあり」と幟旗や旗指物を林立させたところであり、神社の清め水の奥に「織田信長旗本陣跡」の石碑があります。
平井神社は、古くから八剣神社としてこの地に祀られており、明治41(1908)年、恵美酒村の八剣神社に、上平井村の白鳥神社、下平井村の素盞嗚神社(天一天王社)の二社が合祀され、平井村の村名に合わせて「平井神社」と改称されました。祭神は、八剣神社の「大穴貴命」、白鳥神社の「倭姫命・日本武尊」、素盞嗚神社の「素盞嗚命」の四神で、本殿の中には三社が祀られています。
織田信長本陣極楽寺跡の南西すぐの所です。
織田信忠本陣地跡です。織田信長の嫡男、織田信忠の本陣は天神山の野辺神社境内にあります。
岡崎信康の本陣の西側、北畠信雄の本陣の東側にあります。
神社の階段右手に石碑があります。
羽柴秀吉陣地です。羽柴秀吉の陣地は茶臼山の織田信長の本陣北側、大宮川上流にあります。
織田・徳川連合軍の最左翼になります。
狭い道を山側に上っていくと「木下秀吉陣地」の石碑の右隣に「羽柴秀吉陣地」の石碑が建っています。
高坂源五郎昌澄之碑です。羽柴秀吉の陣地は茶臼山の織田信長の本陣北側、大宮川上流にあります。
高坂昌澄は、武田の四天王といわれた高坂弾正忠昌信の子です。
設楽原の戦いでは、25才の若さで兵2千を率いる隊将として戦いました。
昌澄は始め長篠城の監視隊長として戦っていましたが、武田勝頼本陣から設楽原前線の信玄南坂に転戦を命ぜられ、悪戦苦闘の末、今はこれまでと単身連吾川を越え、徳川の本陣めがけて斬り込んだが徳川の将、稲生次郎左エ門との戦いにここで敗れました。
稲生は家康の指示もあって、ここに埋葬し里人にも語り弔ったといわれています。
大久保兄弟陣地です。
大久保忠世、忠佐兄弟は織田徳川連合軍の右翼として、武田軍左翼の山県昌景隊と激戦を繰り広げました。連吾川の西側に石碑といろはかるた看板が建っています。
川路城は正和元(1312)年に設楽氏が築城しました。天正18年(1590年)の徳川家康の関東移封まで設楽氏の居城でした。
長篠、設楽原の戦いでは川路城主設楽貞通は、鳶ヶ巣山砦を奇襲攻撃する酒井忠次を支援するため、豊川南岸の樋田に布陣しました。
城跡は木製の標柱が建っています。あと、「お鷹井戸」といわれる井戸が残っているそうです。
勝楽寺前激戦地です。
勝楽寺前激戦地は、武田軍の最左翼で勝楽寺に布陣した山県昌景隊が徳川軍の大久保忠世・忠佐隊と激戦を繰り広げた場所です。山県隊は、馬防柵の裏側から徳川軍の背後に回り込もうと戦いました。
広瀬の渡し〔鳥居勝商上陸地〕です。
広瀬の渡しは、鳥居強右衛門勝商が長篠城から脱出した際に豊川を下り、上陸した場所です。
また、酒井忠次率いる軍隊が鳶ヶ巣砦を奇襲すべく進む途中、この広瀬付近で豊川を渡りました。
伝山本勘蔵信供の墓です。
山本勘蔵信供は武田24将の一人で、武田の軍師といわれた山本勘助晴幸の子として弘治2(1556)年、山梨県高根で生まれました。
天正3(1575)年5月、設楽原の戦いでは、信供は、最初は高坂昌澄らとともに、長篠城監視隊として、寒狭川沿いに備えていましたが、武田勝頼本陣から全軍設楽原に終結し、決戦することを指示され竹広の山形高地に転戦しました。
しかしこの時既に遅く、味方の軍勢は総くずれとなり、信供は単騎で徳川本陣めざし斬り込み、渡辺半蔵守綱との戦いに敗れ、20才の若さで討死にしました。
戦後、守綱は家康に話し、勝楽寺前に石を建て弔ったといわれています。後に一石五輪塔がまつられました。
竹広激戦地です。
竹広激戦地は、徳川家康と山県昌景の陣地の間に位置し、長篠、設楽原の戦いの中でも最も激しい戦いが繰り広げられたところです。山県昌景は、最初は大久保忠世、忠佐の隊を突破し、家康の背後に回り込もうとしましたが、阻止されたため、家康本陣を正面突破しようと試みたそうです。
長篠役設楽原決戦場碑です。
東郷中学校の東側、家康物見塚へ上がっていく麓に「長篠役設楽原決戦場」の碑が建っています。
家康物見塚です。
東郷中学校の東側、「長篠役設楽原決戦場」の碑の上には断上山古墳があり「家康物見塚」の碑があります。
徳川家康本陣地の南東に位置し、設楽原の景色がよく見える場所です。
小幡上総介信貞の墓です。
小幡信貞は、小幡虎盛(小畠虎盛)・昌盛・景憲などの甲州小幡氏とは別系統の上野国の武将で、国峰城主です。
長篠の戦いにも参戦していますが、戦死はせず、武田氏滅亡後は北条氏に仕え、北条氏滅亡後は武士を辞めて真田昌幸の元で余生を送りました。
この古戦場に墓があるのは?です。父の小幡憲重が戦死したそうなので、後世に混同された物なのでしょうか?
原隼人佐昌胤之碑です。
原昌胤は父・昌俊の跡を継いで陣場奉行を勤めた、武田24将の1人です。
平時は優れた土木技術者として治水工事で業績を残したそうです。
長篠の戦いでは、陣場奉行として勝頼に撤退を進言したが容れられず、内藤昌豊らと共に中央隊に属して徳川本隊を目指し、銃弾を浴びて討死しました。
信玄塚の近くに石碑が建っています。
信玄塚です。
長篠、設楽原の戦いの後、竹広の村人たちは大小二つの塚を築いて葬り、「信玄塚」と名づけそれぞれに松を植え、北の方を大松、南の方を小松と呼ぶようになりました。そこから信玄塚の大きいほうは大塚、小さいほうは小塚と呼ばれています。
大松は昭和34(1959)年の伊勢湾台風で被害を受け、その5年後に枯れてしまい、小松は昭和51(1976)年に雌松が枯れ、昭和56(1981)年に雄松が枯れてしまい2代目の松になっています。信玄塚には山梨県の人々により建てられた宝篋印塔、供養塔や地元の人に建てられた四百年祭供養塔などがあります。毎年8月15日の夜この地で戦死者の霊を弔う「火おんどり」が行われます。
武田信玄はすでに亡くなっているのに「信玄塚」と名づけられたのは信玄の偉名がとても大きかったことを物語っています。
設楽原歴史資料館のすぐ南側にあります。
山県昌景陣地です。
山県三郎兵衛昌景は武田24将の一人です。
長篠の戦いでは左翼から徳川軍を突破しようと奮戦しましたが、両腕を失い、それでもなお口に軍配をくわえ、 奮戦したそうです。しかし、敵の弾丸に馬を撃たれ落馬し、配下の志村又右衛門が胴切山の中腹に昌景を運びましたが亡くなりました。
陣地跡には山県三郎兵衛昌景、山県甚太郎昌次、従士名取又左エ門道忠、高坂又八郎助宣の墓があります。その少し下側には「山県昌景陣地」の石碑もあります。
丸山〔先佐久間信盛・後馬場信房陣地〕です。
織田方の武将、佐久間信盛は馬防柵の外の丸山に布陣していました。これに対し、武田軍の右翼、馬場信房(馬場信春)は攻撃を加え、丸山を占領しました。
上州沼田産矢立硯発見地です。
昭和39(1964)年春、この看板の位置より60メートル程南の下流に堰堤が造られましたが、その工事中に青みがかった小さな硯が発見されました。これは「矢立硯」と言って、筆や小刀などとともに桧扇型の硯箱に収め、矢を差し入れておく箙や鎧の引き合いに入れて携行したものです。
そして主に陣中において武士たちの戦功を記録させるために用い、時には歌や句の詠草や手紙をしたためるのに使いました。
この発見場所は、設楽原の戦いの中でも有名な激戦地、真田信綱・昌輝兄弟を始め多くの上州武者が討死していることを思えば、矢立硯は400年間地中に埋もれていた「物言わぬ戦いの証人」ともいえるものです。
硯は現在、長篠城址史跡保存館にあるそうです。
丸山や大宮前古戦場の近くに説明看板が建っています。
大宮前激戦地です。
武田家の左翼と徳川軍の激戦地が勝楽寺前激戦地と竹広激戦地とすれば、大宮前激戦地は武田軍右翼と織田軍の激戦地です。馬場信春が佐久間信盛の丸山陣地を奪った後は、真田信綱、昌輝兄弟が突撃し、織田軍の滝川一益と羽柴秀吉とも川迫院を繰り広げ、激戦となったところです。
馬防柵です。
織田・徳川軍の馬防柵が資料館近くの連吾川沿いに復元されていました。
天下無敵とうたわれた武田の騎馬隊をこの柵で防ぎ止め、その内側にあって鉄砲で狙い撃ちにするために造られたもので、その長さは2kmに及んでいました。
決戦の正面となったこの連吾川沿いに三重の柵を構え、背後のの弾正山を越えた西側を流れる大宮川沿いには、さらに一重の柵を設けて万一に備えていました。
甘利郷左衛門尉信康之碑です。
甘利信康は板垣信方と共に若き日の武田信玄を支え上田原の戦いで討死した甘利虎泰の息子です。兄の昌忠も名将として知られましたが、長篠の戦い当時には亡くなっていたため、信康が甘利家を継いでいました。
長篠、設楽原の戦いでは、織田・徳川軍に攻め込み、一時は柵を破る勢いでしたが、押し戻され天王山の麓で立ち腹を切ったそうです。
内藤昌豊陣地です。
内藤昌豊は武田二十四将の一人で、箕輪城主です。正しくは内藤昌秀というそうです。長篠の戦いではこの天王山に布陣し、織田、徳川連合軍に激しく攻撃を加えましたが、犠牲が増えたため退却し、この天王山で戦死したそうです。
陣地には内藤修理亮昌豊の墓、横田備中守綱松の墓、武田勝頼公指揮の地の碑などがあります。
信玄祖師堂跡です。
信玄祖師堂はかつて戦没者の慰霊牌を祀ったところだそうです。
現在は跡地に「いろはかるた看板」が建っています。
土屋右衛門尉昌次の碑です。
土屋右衛門尉昌次の碑(土屋右エ門尉直村(昌次)の墓、従士温井左近昌国の墓)は武田勝頼観戦地(才の神)の近くにあります。
ちなみに討死した場所は馬防柵近くに石碑が建っています。
武田勝頼観戦地です。
才ノ神の武田勝頼観戦地です。武田勝頼は長篠城近くの医王寺から清井田の武田勝頼戦地本陣地を経て、この才ノ神に陣を進めました。戦いではこの地で指揮をとったと思われます。「観戦地」ですが、現在は木に覆われており、設楽原の眺望はよくありません。
名高田前激戦地です。
名高田前激戦地は、武田軍の最右翼で浜田に布陣した馬場信春(馬場信房)と織田軍の最左翼が激戦を交えた場所です。
石碑はありませんが、「いろはかるた看板」が建っています。
馬防柵左端です。
馬防柵左端は浜田に布陣した馬場信房(馬場信春)率いる武田軍右翼の攻撃を防ぐために織田軍最左翼に設けられたものと思われます。
石碑はありませんが、「いろはかるた看板」が建っています。
樋口兼周の墓です。
樋口下総守兼周は武田軍の武将です。
池波正太郎の小説「真田太平記」では、樋口角兵衛という人物が登場しますが、武田家の武将樋口下総守鑑久と真田昌幸の正妻山手殿の妹、久野との間に生まれたこということになっていますが、関連はあるのでしょうか?
墓は真田兄弟の墓の近くにあります。
真田源太左衛門尉信綱之碑、真田兵部丞昌輝之碑です。
真田幸隆(幸綱)の嫡男、信綱と弟の昌輝の墓です。
長篠、設楽原の戦いでは馬場信房(馬場信春)らと共に右翼に陣取り、丸山の佐久間信盛と交戦しましたが、奮戦するも兄弟とも討死しました。
真田家の家督は武藤家を継いでいた弟の真田昌幸が継ぎました。
また、禰津甚平是広、鎌原筑前守之網、常田図書春清の墓もあります。
堀無手右衛門の墓です。
堀無手右衛門は武田家の武将です。
真田兄弟の墓の近くに墓がありました。
伝武田諸将訣盃ノ池です。
長篠、設楽原の戦いの前に武田方の武将である馬場信春、山県昌景、内藤昌豊、土屋昌次の4人が最後の盃を交わしたという話がありますが、武田勝頼戦地本陣地南側のこの池がその場所といわれているようです。この話の信憑性についてはよくわかりません。
その他にも候補地はあるようで、医王寺の本陣近くの大通寺やもう少し西側にも候補地があるようです。
現地には説明看板などはありません。設楽原歴史資料館で入手した地図で場所を特定してたどり着きました。
武田勝頼戦地本陣跡です。
天正3(1575)年5月、武田勝頼は織田、徳川連合軍との決戦を前に長篠の医王寺で軍議を開き、この清井田へ進撃し、ここを戦地本陣としました。
21日未明、ここから勝頼は設楽原に向けて総攻撃を命じましたが、戦いの結果は武田軍の惨敗に終わりました。
現地は石碑と説明看板があります。説明看板の奥に古い石碑があります。
民有地のようですが、農作業をされている方に許可を得て見ました。
信長賞詞地〔コロミツ坂〕です。
長篠、設楽原の戦いが終わった後、織田信長は長篠城を死守した奥平貞昌に対し、この有海のコロミツ坂で戦功を称え、杯を与えると共に信の偏諱を与えました。貞昌は奥平信昌と改名し、徳川家康からは名刀・大般若長光を授けると共に娘の亀姫を娶り重用されました。長篠の戦い当時はまだ21歳だったそうです。
鳥居強右衛門磔死之碑です。
天正3(1575)年、武田勝頼に包囲され落城寸前となった長篠城から、城主奥平貞昌(信昌)の命を受けた鳥居強右衛門と鈴木金七は川伝いに城を抜け出し、家康のいる岡崎城へ援軍の要請に向かいました。家康と信長に会い、城内の様子を伝えた強右衛門は、「援軍来たる」の返事を持って一足先に城へと向かいました。かんぽう山で合図の「ノロシ」をあげた強右衛門は、城中へ戻る途中、有海の篠場野で武田軍に捕らえられました。
強右衛門は、武田方から「"援軍は来ない"と言えば助ける」と言われ、城中が見渡せるこの地へ連れてこられました。しかし、城兵を前にして強右衛門は「援軍は来る」と大声で叫びました。
勝頼は「勇気の士」としてその行動を称えましたが、武田の将兵によって、この地で磔となりました
鳶ヶ巣山陣地です。
鳶ヶ巣山陣地は長篠、設楽原の戦いの武田軍敗北のきっかけを作った鳶ヶ巣の戦いの起こった場所です。
天正3(1575)年5月、長篠城を攻撃した武田軍は長篠城包囲態勢の一環として、乗本側に5つの砦を築き守兵1千を配して包囲の一環としました。君ヶ伏床には和田兵部、姥ヶ懐には三枝勘解由守友兄弟、鳶ヶ巣には主将武田兵庫頭信実(河窪信実)、中山には名和無理之助並びに五味与惣兵衛、久間山には浪合民部等がこれにより堂々のの陣を張っていました。
5月20日の夜、徳川の臣酒井忠次は4千の兵と500丁の鉄砲隊を引き連れ、吉川の松山峠を越えひそかに5砦の背後に迫っていました。21日の払暁、酒井軍は鉄砲を合図に閧の声を挙げ一斉に攻め込んで来ました。武田軍は狼狽しながらもよく防戦し、特に鳶ヶ巣では、壮烈な争奪戦を三度も繰り返しましたが、ついに衆寡敵せずして、信実以下ことごとくここに戦死を遂げました。この戦いで退路を脅かされた武田勝頼は、設楽原に陣を進め、決戦へ向かいました。
現在、陣跡には戦没将士の墓や、明治7(1874)年の台風によって倒れ昭和12(1937)年頃枯死した「天正の杉」の枯木の残骸が残っています。
松平伊忠戦死之地です。
松平伊忠は、徳川軍の武将で深溝松平家の当主です。
酒井忠次とともに鳶ヶ巣砦攻撃に参戦しました。しかし、敗走する武田軍を深追いしてしまい、小山田昌行から反撃を受けて戦死しました。
戦死の地には石碑が建っています。
山本信供戦死之地です。
山本勘蔵信供は、山本勘助の子です。
勝楽寺前で戦死し、その近くに墓が別にありますが、長篠城近くの寒狭川沿いのこの地にも「山本信供戦死之地」と刻まれた石碑があります。
戦死の地にも諸説があるということでしょうか。
信供は長篠城監視隊として寒狭川沿いに陣を構えていたとことです。
馬場美濃守信房之碑〔馬場美濃守信房の墓、同彦五郎勝行の墓〕です。
馬場信房(馬場信春)は武田二十四将の1人で、長篠、設楽原の戦いでは武田軍右翼にいましたが、敗北が決まると殿をつとめ、勝頼が落ち延びるのを見届けて追撃の織田軍と戦い、戦死しました。戦死の地は寒狭川のもう少し上流にありますが、この地は「馬場美濃守信房の墓」「馬場彦五郎勝行の墓」があります。馬場彦五郎勝行は、馬場美濃守の叔父にあたるそうです。
なお、馬場信房の墓は長篠城近くにもあります。
橋詰殿戦場です。
橋詰殿戦場は、長篠、設楽原の戦いで敗北を喫した武田勝頼を無事に本国へ帰還させるため、馬場信春が殿となって織田・徳川軍連合軍と最後の戦いを繰り広げた場所です。寒狭川の上流の道路沿いにあります。馬場美濃守信房戦死之地はここから少し山を登ります。
馬場美濃守討死之地です。
長篠、設楽原の戦いで、馬場美濃守は敗走する主君勝頼を助けながら勇敢に戦い勝頼が逃げのびるのを見届けた後、この緒巻桜の下にて敵に自ら首を与えたと伝えられています。
「馬場美濃守討死之地」と書かれた石碑と緒巻桜「ふぢう道」と刻まれた石碑が建っています。
医王寺です。
長篠山医王寺は永正11(1514)年に創立され、曹洞宗で薬師如来を本尊とし、克補契嶽大和尚によって開山された寺院です。現在7つの末寺があるそうです。
天正3(1575)年の長篠、設楽原の戦いの時、武田勝頼が背後の医王寺山に本陣を置きました。境内の弥陀が池には、勝頼の設楽原出撃を諌めたアシが、勝頼の勘気にあって切りつけられ、片葉になったという「片葉のアシ」が生えています。境内には「武田勝頼公本陣跡」の石碑が建っています。
医王寺山武田勝頼陣所です。
医王寺の背後の山が医王寺山で武田勝頼が長篠城攻略に際し、本陣を置いた所です。遺構は明確ではありませんが、曲輪が残っています。また、物見櫓が再現されており、長篠城方面を眺めることができます。医王寺から徒歩10分程度で登ることができます。
天神山陣地です。
天神山陣地は、医王寺山の武田勝頼の本陣より南側の山で、長篠城攻略の際には一条信龍、真田信綱、昌輝兄弟、土屋昌次ら二千の軍が陣地を置いたところです。東方に長篠城を望み、西方に設楽原方面を監視できる要衝です。
元禄11(1698)年、旗本一色氏が旧領から荏柄天神社をこの所に移しました。それより天神山と言うようになったそうです。
大通寺です。
達磨山大通寺は応永18(1411)年の創立と伝えられていますが、天正時代の兵乱で焼失し、後に琴室契音大和尚に改宗し、地蔵大菩薩を本尊として草創開山しました。
天正3(1575)年の長篠、設楽原の戦いにおいて武田軍の長篠城攻略時には、武田軍の武将馬場信房、武田信豊、小山田昌行らの陣地となりました。
天正3(1575)年の長篠、設楽原の戦いにおいて武田軍の長篠城攻略時には、武田軍の武将馬場信房(馬場信春)、武田信豊、小山田昌行らの陣地となりました。
境内には盃井戸(杯井)があります。設楽原に出撃して織田・徳川の連合軍と決戦することになった時、馬場信房は決戦回避を主張して果たせなかった内藤昌豊、山県昌景、土屋昌次ら諸将を自らの陣大通寺山に同道し、この日の軍議を嘆き、このような事態になった上は一命を賭して戦おうと今生の別れとしてこの寺の井戸に集まり、馬柄杓で汲み寄せ、その水をかわし合って訣別の盃として出陣して行ったという話があり、このことから盃井戸と呼ばれています。
長篠城です。
長篠城は、永正5(1508)年に菅沼元成が築城しました。その後も長篠菅沼氏の居城でしたが、元亀2(1571)年、武田軍に攻められ、菅沼正貞は城を開城しました。
天正元(1573)年、今度は武田信玄が亡くなった隙をついて、徳川家康が長篠城を攻略。菅沼正貞は城を開城し、徳川氏のものとなりました。
そして、武田氏を離れ、徳川氏に味方した奥平貞昌(信昌)が城主となります。
天正3(1575)年に武田勝頼が500の手勢で守る長篠城を包囲し、長篠、設楽原の戦いが始まります。
結果、織田・徳川連合軍が武田軍を破りましたが、城は大きく損壊を受けたため、信昌は新城城を築城し、長篠城は廃城となりました。
昭和4(1929)年、国の史跡に指定されました。また、平成18(2006)年には日本100名城に選定されました。
城には資料館もあります。
鳥居強右衛門の墓です。
長篠城は、永正5(1508)年に菅沼元成が築城しました。その後も長篠菅沼氏の居城でしたが、元亀2(1571)年、武田軍に攻められ、菅沼正貞は城を開城しました。
天正元(1573)年、今度は武田信玄が亡くなった隙をついて、徳川家康が長篠城を攻略。菅沼正貞は城を開城し、徳川氏のものとなりました。
そして、武田氏を離れ、徳川氏に味方した奥平貞昌(信昌)が城主となります。
天正3(1575)年に武田勝頼が500の手勢で守る長篠城を包囲し、長篠、設楽原の戦いが始まります。
結果、織田・徳川連合軍が武田軍を破りましたが、城は大きく損壊を受けたため、信昌は新城城を築城し、長篠城は廃城となりました。
昭和4(1929)年、国の史跡に指定されました。また、平成18(2006)年には日本100名城に選定されました。
城には資料館もあります。
鳥居強右衛門の墓です。
鳥居強右衛門磔死之碑の近く、新昌寺の境内に鳥居強右衛門の墓があります。
子孫は作手の城主となった松平忠明に仕えたため、亀山城(作手城)近くの甘泉寺にも墓があります。
姥ヶ懐陣地〔三枝兄弟の墓・武田浪人組陣地〕です。
姥ヶ懐は長篠、設楽原の戦いにおいて長篠城包囲体勢の一環として三枝勘解由守友が陣地を置きました。
5月21日の早朝、徳川軍の別働隊を率いた酒井忠次は鳶ヶ巣山陣地など5つの砦に奇襲を掛けました。三枝兄弟も奮戦しましたが壮絶な討死を遂げました。
姥ヶ懐には三枝守友、三枝守義の墓があり、横には武田浪人組陣地と刻まれた石碑があります。
ここで日没近くなりました。この日の宿は豊川です。本当は初日に作手付近も行ってみるつもりだったのですが・・・やはり欲張りすぎですね。長篠、設楽原古戦場もかなり回ることができましたが、地図を見るとまだまだ行き残したところがあるようです。