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ピズモのブログ一覧

2016年10月22日 イイね!

川越

喜多院
喜多院 (1)
喜多院 (1) posted by (C)pismo

喜多院
喜多院 posted by (C)pismo

喜多院 (2)
喜多院 (2) posted by (C)pismo

喜多院 (3)
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喜多院 (4)
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喜多院 (5)
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喜多院 (6)
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喜多院 (7)
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喜多院 (8)
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仙波東照宮
仙波東照宮
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仙波東照宮 (1)
仙波東照宮 (1) posted by (C)pismo

川越城
川越城 (1)
川越城 (1) posted by (C)pismo

川越城
川越城 posted by (C)pismo

時の鐘
時の鐘
時の鐘 posted by (C)pismo

山崎美術館は、江戸時代より、代々和菓子店「亀屋」を営む山崎家のコレクションを展示。日本画の革新者・橋本雅邦画伯の作品を中心に公開展示をしています。
江戸から明治に活躍した橋本雅邦の作品を山崎家4代目故「山崎豊」翁は画伯から受けた作品をすべて大切に保管し、これを子孫に伝承しました。
山崎美術館は、翁の生誕150年を記念し昭和57(1982)年11月3日に開館しました。
井戸のある休憩所では茶菓子もいただけます。
和菓子屋の蔵の建物といい、良い雰囲気です。
山崎美術館
山崎美術館 posted by (C)pismo

旧山崎家別邸は、川越の老舗菓子屋「亀屋」の五代目である山崎嘉七氏の隠居所として建てられました。
上棟は大正13(1924)年、完成は大正14(1925)年、設計は保岡勝也が担当しました。
敷地内には、木造モルタル仕上げ洋瓦葺の洋館と数寄屋造りの和室を備えた和館で構成された和洋折衷の母屋、広々とした庭園、我前庵の写しの茶室があります。
かつては陸軍大演習などで川越付近を訪れた皇族方がご宿泊されたこともあり、川越の迎賓館的な役割を果たしました。
建物は平成12(2000)年4月に川越市指定文化財に、庭園は平成23(2011)年2月に国の登録文化財名勝地に指定されています。
(現地説明板などより)
旧山崎家別邸
旧山崎家別邸 posted by (C)pismo

旧山崎家別邸 (1)
旧山崎家別邸 (1) posted by (C)pismo

旧山崎家別邸 (2)
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旧山崎家別邸 (3)
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旧山崎家別邸 (4)
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旧山崎家別邸 (5)
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旧山崎家別邸 (6)
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旧山崎家別邸 (7)
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旧山崎家別邸 (8)
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旧山崎家別邸 (9)
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旧山崎家別邸 (10)
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旧山崎家別邸 (11)
旧山崎家別邸 (11) posted by (C)pismo

旧山崎家別邸 (12)
旧山崎家別邸 (12) posted by (C)pismo

蓮馨寺は、山号は孤峰山。院号は宝池院、浄土宗の寺院で本尊は阿弥陀如来です。
天文18(1549)年、時の川越城主大道寺駿河守政繁が、母の蓮馨尼を追福するために感誉上人を招いて開山しました。
慶長7(1602)年、浄土宗関東十八檀林の制が設けられると、この寺もその一つに列せられ、 葵の紋所が許されるなど檀林(僧侶の大学)として栄えました。
しかし、明治26(1893)年に鐘楼及び水舎を残して全焼してしまい、現在の堂は、 その後の再建になっています。入口正面の呑龍堂は大正初期の建築で、民衆から慈悲と崇められた呑龍上人の像が安置されています。
また、元禄の銅鐘(市指定文化財)は、入口向かって右手前の鐘楼に掛かっている鐘で、 元禄8(1695)年、鋳工木村将監の作です。
この寺は室町末期の創建ですが、本尊である木造阿弥陀如来座像は、明らかに鎌倉時代の様式がみられるので胎内銘にある弘安時代の作と思われます。
(現地説明板などより)
蓮馨寺
蓮馨寺 posted by (C)pismo
Posted at 2016/11/30 23:58:39 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2016年10月21日 イイね!

鴻巣

勝願寺は、山号は天照山、院号は良忠院、浄土宗の寺院です。
元は登戸(鴻巣市)に鎌倉時代、鎌倉の光明寺開山の良忠に登戸の地を寄進し、一宇を建立した事に始まります。
しかし、戦乱により衰退しましたが、天正元(1573)年現在の地に清巌上人が再興しました。
文禄2(1593)年、鷹狩の際に勝願寺を訪れた徳川家康はニ世住職円誉不残上人に深く感銘を受け帰依し、三つ葉葵紋使用を許可し、庇護をしました。
結城秀康が越前に移封されると結城の地は天領となり、不必要になった結城城内の建物、御殿、台所、太鼓櫓などを徳川家康が寄贈しました。
慶長11(1606)年、円誉不残上人は後陽成天皇から僧の最高位である紫の紫衣を与えられ、やがて壇林として隆盛し、寛文年間には関東十八壇林の一つとして定められたました。
しかし、徳川幕府崩壊後に衰退し、明治3(1870)年、台風により結城城から移された結城御殿が倒壊し、明治15(1882)年の火災により堂宇の大部分が火災により失われてしまいました。現在の堂宇は明治・大正期に再建されたものです。
境内には真田小松姫、真田信重夫妻、仙石秀久、伊奈忠次、丹後田辺城主・牧野家累代の墓があります。
小松姫は元和6(1620)年、病の療養のため江戸から草津に向かう途中、2月24日にここ鴻巣で亡くなりました。享年48歳。遺骸は火葬され上田市の芳泉寺に葬られ、鴻巣の勝願寺、沼田市の正覚寺に分骨されました。当山とは生前中興二世の貫首円誉不残上人に深く帰依したことにより元和7(1621)年、一周忌に際し信之の二女松姫(見樹院)が当山に分骨造塔したことによります。
真田信重は、慶安元(1648)年2月23日に鴻巣で病没し、母の小松姫の縁で勝願寺に埋葬されました。信重の妻は鳥居左京亮忠政の6女で慶安2(1649)年12月9日に没しました。長野市松代町の西楽寺には夫妻の霊屋があり位牌が安置されています。
仙石秀久は、慶長19(1614)年江戸から小諸への帰路、ここ鴻巣で病没し、遺名により長野県上田市の本廟から勝願寺に分骨されました。
牧野氏は、天正18(1590)年、牧野康成げ石戸領5000石を領し、その子信成は加増により大名に列し、石戸藩主となりました。後に関宿に転じた信成嫡子親成は、京都所司代を勤めた後、寛文8(1668)年、丹後田辺城主3万5千石の譜代大名として、約200年続き明治維新を迎えました。ここには歴代の当主夫妻が眠っています。
勝願寺 (4)
勝願寺 (4) posted by (C)pismo

勝願寺 (5)
勝願寺 (5) posted by (C)pismo

勝願寺 (6)
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勝願寺 (7)
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勝願寺 (8)
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勝願寺 (9)
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勝願寺 (10)
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勝願寺 (11)
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勝願寺 (12)
勝願寺 (12) posted by (C)pismo

勝願寺 (13)
勝願寺 (13) posted by (C)pismo

鴻巣御殿は文禄2(1593)年徳川家康によって鷹狩や領内視察などの宿泊や休憩所として建てられ、その敷地は一町四反歩(約1.4ha)に及びました。
その後、秀忠、家光の三代に渡って将軍家の鷹狩の際の休泊所として利用されましたが、寛永7(1630)年頃を最後として以後使用されなくなりました。
明暦3(1657)年の江戸大火後は、その一部を解体され江戸城に運ばれ、天和2(1682)年頃には残りの建物も腐朽して倒壊し、元禄4(1691)年には御殿地に東照宮を祀り除地としました。
その東照宮も明治30(1897)年代に鴻神社に合祀され、旧御殿地はその後民有地となりました。
最近まで鴻巣御殿の比定地も明らかではありませんでしたが、平成6(1994)年の試掘調査によってその一部が確認されました。
鴻巣御殿は「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)に描かれ、その様子を知ることができます。
(現地説明板などより)
鴻巣御殿 (1)
鴻巣御殿 (1) posted by (C)pismo

鴻巣御殿 (2)
鴻巣御殿 (2) posted by (C)pismo

Posted at 2016/11/30 21:10:15 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2016年10月09日 イイね!

吹屋・備中松山城

吹屋ふるさと村は、高梁市吹屋伝統的建造物群保存地区として国選定重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
標高550mの山嶺に塗込造りペンガラ格子の堂々たる町家が建ち並んでいるのは,江戸時代から明治にかけて中国筋第一の銅山町に加えて江戸末期からベンガラという特産品の生産がかさなり,当時の鉱業地として大いに繁昌した面影です。幕末から明治にかけて吹屋はむしろ「弁柄の町」として全国に知られていた。しかも吹屋街道の拠点として、鋼や,中国産地で生産される砂鉄,薪炭,雑穀を集散する問屋も多く備中北部から荷馬の行列が吹屋に続き,はたご屋,飲食店の立ち並ぶ山間の市場町として吹屋の繁昌を保っていました。これらの鋼や鉄,弁柄は吹屋から更に荷馬に負わされ成羽へ運ばれ,それから高瀬舟で玉島港に集められ,そこから上方や四国へ輸送されました。江戸時代から成羽や玉島の繁栄は吹屋の鉱工業に負うところ大きいと云われています。
 当時の俗謡に
    吹屋よいとこ金吹く音が 聞こえますぞえ 窓坂え
    吹屋よいとこ金掘るところ 掘れば掘るほど金がでる
これらの俗謡は当時の状況を唄ったものです。
吹屋ふるさと村
吹屋ふるさと村 posted by (C)pismo

郷土館の建物は、弁柄窯元片山浅治郎家の総支配人片山喜平(当時吹屋戸町)が分家され、明治7(1874)年頃より企画し、本家の材木倉より良材を選び(当時、片山家は職業柄千余町歩の山持ちなり)、石州の宮大工、島田綱吉の手により、明治12(1879)年3月に完成された物です。当時の模様がもっともよく保存されているので、当主片山恵資氏に請い、郷土館としています。
間口5間、奥行き16間、中級の商家の定型で、店より通り庭で母屋の奥に味噌蔵、米倉を配し、母屋の採光のため中庭をとっています。

土台と外側の柱はすべて栗の角材を使い、縁敷居は桜の巨材を使っています。
この家の特徴は木組みは巨材を使い、細部は巧緻というほかなく、ことに座敷の書院周りは生漆と弁柄で塗り上げ、それぞれに飾り金具を用いています。専門家も「これほどの良材と大工の手の揃った家は世に少ない。」と感嘆しています

旧片山家住宅です。
片山家は、宝暦9(1759)年の創業以来、200年余りにわたって、吹屋弁柄の製造・販売を手掛けた老舗です。
宝永4(1707)年にはじまったとされる吹屋の弁柄生産は、宝暦11(1761)年頃に緑碁を原料とする製法が確立されて本格化しました。早くから弁柄製造を手がけた片山家(胡屋)は、窯元として弁柄仲間の株を永く保ち、大塚・広兼・長尾家とともに苗字帯刀を許されるまでになりました。
安政2(1855)年には緑碁の製造にも乗り出して、最盛期には3つの工場を経営し、その製品は建材や家具の塗料、陶磁器や漆器の顔料として国内に広く流通しました。しかし、昭和26(1951)年に緑碁の生産が途絶えると、弁柄製造は次第に衰退します。その後も合成された硫酸鉄を原料として生産が続けられましたが、片山家は昭和46年(1971)に弁柄屋を廃業、その3年後には田村家も弁柄工場を開鎖して、260年余クリにわたリー世を風靡した吹屋弁柄はその幕を閉じました
その家屋は、弁柄屋としての店構えを残す主屋とともに、弁柄製造にかかわる付属屋が立ち並ぶ、「近世弁柄商家の典型」と高く評価され、平成18(2006)年12月、国の重要文化財に指定されました。
吹屋ふるさと村・郷土館 (1)
吹屋ふるさと村・郷土館 (1) posted by (C)pismo

吹屋ふるさと村・郷土館 (2)
吹屋ふるさと村・郷土館 (2) posted by (C)pismo

吹屋ふるさと村・郷土館
吹屋ふるさと村・郷土館 posted by (C)pismo

吹屋ふるさと村・郷土館 (3)
吹屋ふるさと村・郷土館 (3) posted by (C)pismo

吹屋ふるさと村・郷土館 (4)
吹屋ふるさと村・郷土館 (4) posted by (C)pismo

吹屋ふるさと村・郷土館 (5)
吹屋ふるさと村・郷土館 (5) posted by (C)pismo

吹屋ふるさと村・郷土館 (6)
吹屋ふるさと村・郷土館 (6) posted by (C)pismo

旧片山家住宅は、平成14(2002)年に所有者から、成羽町(現高梁市)へ寄贈を受け、重要伝統的建造物群保存地区の中核的な建物として、平成15(2003)年から、保存修理を行っていますが、主屋部分の修理完了を期に、平成17(2005)年8月から、広く一般に公開しています。
旧片山家住宅 (1)
旧片山家住宅 (1) posted by (C)pismo

旧片山家住宅 (2)
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旧片山家住宅 (3)
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旧片山家住宅
旧片山家住宅 posted by (C)pismo

旧片山家住宅 (4)
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旧片山家住宅 (5)
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旧片山家住宅 (6)
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旧片山家住宅 (7)
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旧片山家住宅 (8)
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旧片山家住宅 (9)
旧片山家住宅 (9) posted by (C)pismo

旧片山家住宅 (10)
旧片山家住宅 (10) posted by (C)pismo

旧片山家住宅 (11)
旧片山家住宅 (11) posted by (C)pismo

旧片山家住宅 (12)
旧片山家住宅 (12) posted by (C)pismo

旧片山家住宅 (13)
旧片山家住宅 (13) posted by (C)pismo

吹屋ふるさと村 (1)
吹屋ふるさと村 (1) posted by (C)pismo

吹屋ふるさと村 (2)
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吹屋ふるさと村 (3)
吹屋ふるさと村 (3) posted by (C)pismo

弁柄はローハ(硫酸鉄)を原料として江戸中期の宝永4(1707)年、全国で始めて吹屋で生産されて以来安永6(1777)年から工業化し,早川代官の指導による株仲間をつくりその特権と合理制,製品の特異性により江戸末期、明治、大正と大いに繁昌を続け、吹屋町並みの基礎を作りました。
弁柄は赤色顔料で古くから九谷焼,伊万里焼,京焼などの陶磁器の赤絵,能登,輪島などの漆器,衣料の下染,家屋,船舶の塗料など色々の方面に使われました。
吹屋を繁栄させた弁柄産業も、昭和47(1972)年の銅山の閉山に続いて昭和49(1974)年にその製造を終えました。
ベンガラ館は日本でただ1ヵ所の特産地として栄えた吹屋ベンガラ工場跡で,昭和51(1976)年度吹屋ふるさと村整備事業,さらに昭和61(1986)年度リフレッシュふるさと推進モデル事業として明治の頃の弁柄工場を当時の姿に復元したものです。当時のベンガラ製造工程がよくわかるように,残された製造用器具とともに保存展示されています。
ベンガラ館 (1)
ベンガラ館 (1) posted by (C)pismo

ベンガラ館
ベンガラ館 posted by (C)pismo

ベンガラ館 (2)
ベンガラ館 (2) posted by (C)pismo

ベンガラ館 (3)
ベンガラ館 (3) posted by (C)pismo



吉岡(吹屋)銅山は、大同2(807)年に発見されたと伝えられ、古書に備中の産物に関する記載がありますが、吹屋の銅山としての記録は、戦国時代尼子氏と毛利氏の争奪戦以来、江戸時代初期一時、成羽藩の支配下にあったが、大部分の間は、天領幕府直轄地で代官の支配下で稼いでいた。長い歴史のなかで繁栄期は、次の三期でした。
元禄年間(1690年頃)  経営者・泉屋(住友) 継続年数=35年
享保~天保年間(1716~1842)  経営者・福岡屋(大塚) 継続年数=2回で107年。
明治~昭和年間(1873~1930)  経営者・三菱(岩崎)継続年間=57年。

江戸時代の採掘は手掘りで、鉱区も小範囲でしたが、坑内の排水が非常に困難であり水抜き坑道を掘り抜いた時期が繁栄しました。
明治以後三菱金属株式会社の経営になり、附近の小山を吸収合併し、自家発電所を設け、削岩機を使い精錬等の作業を機械化し日本で初めて洋式溶鉱炉を造り、日本三大鉱山の一つとなりました。
この鉱山は笹畝と称し支山でしたが、後年は地下で本坑道(坂本)と連絡しています。
ここでは、黄銅鉱、磁硫鉄鉱(硫化鉄鉱)が産出された。特に江戸時代にはこの地から馬の背に乗せて成羽町下原の総門まで運ばれ、高瀬舟で玉島港まで行き、海路を利用し大坂の銅役所へ運ばれました。
笹畝坑道は、吹屋銅山の採掘風景を当時のままに再現した観光坑道です。
ヘルメットをかぶって入りました。
吉岡(吹屋)銅山笹畝坑道 (1)
吉岡(吹屋)銅山笹畝坑道 (1) posted by (C)pismo

吉岡(吹屋)銅山笹畝坑道 (2)
吉岡(吹屋)銅山笹畝坑道 (2) posted by (C)pismo

吉岡(吹屋)銅山笹畝坑道 (3)
吉岡(吹屋)銅山笹畝坑道 (3) posted by (C)pismo

吉岡(吹屋)銅山笹畝坑道
吉岡(吹屋)銅山笹畝坑道 posted by (C)pismo

楼門づくりで城郭にも劣らない石垣が見事な広兼邸です。
広兼氏は大野呂の庄屋で、同家2代元治が享和、文化の頃小泉銅山とローハ製造(ベンガラ)を営み巨大な富を築き、徳川末期に建てられた楼門づくり城郭にまがうばかりの石垣は、今もそのままに当時の富豪を偲ばせています。
二階建ての母屋、土蔵3棟、楼門、長屋、石垣は文化7(1810)年の建築で庭園には水琴窟が設けられており、規模、構造とも雄大な城郭を思わせる構えです。
邸宅の向いには明治初期、天広神社が建てられ、広兼個人の神社として祭られた。社務所もあり、境内には花木が植えられ、池・築山がつくられ、形の整った石灯籠数基がおかれ、狛犬もあり、全体的には庭園風となっており衆楽園と呼んでいます。
離れは大正の建築でお茶室、化粧部屋、客間、風呂等をそなえたお座敷で、当主の結婚式に一度使用しただけで以後は使用されていません。
映画「八つ墓村」のロケが昭和52(1977)年と平成8(1996)年の二度にわたり行われ、全国に放映されました。
楼門づくりで城郭にも劣らない堂々たる石垣が見事です。
広兼邸 (1)
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広兼邸
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広兼邸 (2)
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広兼邸 (3)
広兼邸 (3) posted by (C)pismo

広兼邸 (4)
広兼邸 (4) posted by (C)pismo

広兼邸 (5)
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広兼邸 (6)
広兼邸 (6) posted by (C)pismo

広兼邸 (7)
広兼邸 (7) posted by (C)pismo

そして、久し振りに備中松山城を訪れました。
真田丸のオープニングにでてくる画像は、実は山は群馬県の岩櫃城、そして建物は備中松山城をCGで加工したものです。
昔は訪れる人もまばらでしたが、現在は麓の駐車場に車を止めてから中腹までシャトルバスに移動。そして結構マニア以外にはきついと思われる山道を登ると、たどり着けます。小ぶりですが、現存天守一高いところにあるお城。断崖絶壁の天然岩の上に皿に積まれた石垣。
備中松山城
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備中松山城 (1)
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備中松山城 (2)
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備中松山城 (3)
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備中松山城 (4)
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備中松山城 (5)
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備中松山城 (6)
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備中松山城 (7)
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備中松山城 (8)
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備中松山城 (9)
備中松山城 (9) posted by (C)pismo



そして天守を超え、臥牛山方面には戦国時代の山城が残る「大松山城跡」など見どころたくさん。
備中松山城 (10)
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備中松山城 (11)
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備中松山城 (12)
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備中松山城 (13)
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備中松山城 (14)
備中松山城 (14) posted by (C)pismo

下城したときはシャトルバスの最終時刻を過ぎて歩いて降りる羽目に。でも楽しいお城でした。

その後は少し離れた場所にある「備中松山城展望台」へ。もちろん寒い日のの早朝じゃなければ見ることはできませんが、遠いところから見る備中松山城の天守もなかなかいいものです。
備中松山城展望台
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備中松山城展望台 (1)
備中松山城展望台 (1) posted by (C)pismo

備中松山城展望台 (2)
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備中松山城展望台 (3)
備中松山城展望台 (3) posted by (C)pismo
Posted at 2016/11/29 22:48:54 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2016年10月08日 イイね!

「日本のいちばん長い日」に登場する下村宏(海南)の邸宅跡・海南荘跡

平成27(2015)年に上映された「日本のいちばん長い日」。昭和天皇や閣僚たちが御前会議において降伏を決定した昭和20(1945)年8月14日の正午から宮城事件、そして国民に対してラジオ(日本放送協会)の玉音放送を通じてポツダム宣言の受諾を知らせる8月15日正午までの24時間を描いていた映画です。情報局総裁として下村宏という人が登場しました。玉音放送実現に向けて尽力し、天皇の聖断が吹き込まれた玉音盤を守り抜いた人ですが、西宮市に邸宅を構えていました。苦楽園四番町公園に下村宏(海南)の碑が立っています。
下村海南は、大正から昭和前期にかけての新聞人、官僚です。
また、佐々木信綱門下の歌人、随筆家です。台湾総督府民政長官を経て、大正10(1921)年、朝日新聞社に入社しました。我が国の新聞の近代化に多大の功績を残しました。後、貴族院議員、日本放送協会会長を歴任しました。昭和20(1945)年、国務大臣兼情報局総裁として、第二次世界大戦の終結に尽力したことで知られています。昭和32(1957)年12月9日、82歳で亡くなりました。
海南は、故郷の和歌山を見晴らすこの地をこよなく愛し、大正10(1921)年、この宏大な土地に邸宅を構え、「海南荘」と称し、約15年間ここに住みました。その間、佐々木信綱や川田順、九条武子、中村憲吉、土岐善麿など多くの歌人や文化人を招いて、歌会や各種集会を催し、苦楽園に文化の華を咲かせました。
この歌碑は、海南が東京へ転居したあと海南荘を買い取った堀抜義太郎氏によって昭和12(1937)年に海南荘の庭内に建てられたものです。碑には海南自筆の歌が刻まれています。
眼ざむれば 松の下草刈る鎌の 音さやに聞ゆ 日和なるらし
海南荘はその後、昭和28(1953)年3月、大阪市交通局保険組合苦楽山荘として使われ、平成7(1995)年1月に阪神・淡路大震災により休止、平成12(2000)年3月閉鎖されました。平成17(2005)年には売却され、現在は苦楽園四番町公園の中に歌碑や説明板が立っています。
また、苦楽園四番町公園には、徳川大坂城六甲採石場の石が展示されています。ここにある石は、分銅形刻印が刻まれており、出雲松江23万5千石を領地とする堀尾家(堀尾山城守忠晴)のもので、松江城石垣にも見いだせる刻印です。
海南荘跡(苦楽園四番町公園) - 01
海南荘跡(苦楽園四番町公園) - 01 posted by (C)pismo

海南荘跡(苦楽園四番町公園) - 02
海南荘跡(苦楽園四番町公園) - 02 posted by (C)pismo

海南荘跡(苦楽園四番町公園) - 03
海南荘跡(苦楽園四番町公園) - 03 posted by (C)pismo

海南荘跡(苦楽園四番町公園) - 04
海南荘跡(苦楽園四番町公園) - 04 posted by (C)pismo
Posted at 2016/11/24 22:06:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史・城 | 日記
2016年10月01日 イイね!

西本願寺の伝灯奉告法要記念ライトアップと京都タワー

西本願寺の伝灯奉告法要ということで、記念行事が開催されていました。伝灯奉告法要は、浄土真宗の教え(法灯)が25代となる専如門主に伝えられたことを、仏祖の御前に告げられるとともに、お念仏のみ教えが広く伝わることを願う行事です。
世界文化遺産である西本願寺史上初めてライトアップを行い、夜間特別公開を行うということで行ってきました。
飛雲閣は秀吉、秀次の聚楽第の建物を移築したといわれる建造物です。外観を見るのが初めてです。いつか、内部もじっくりと見たいものです。
西本願寺
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西本願寺 (1)
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西本願寺 (2)
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西本願寺 (3)
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西本願寺 (4)
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西本願寺 (5)
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西本願寺 (6)
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西本願寺門前町
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京都タワーは、京都の玄関口に佇み、白くほっそりとしたフォルムは海のない京都の街を照らす灯台をイメージしています。
京都タワーができる前はこの場所には京都中央郵便局がありました。昭和28(1953)年に移転が決定後、京都の玄関口ともいえる場所に産業・文化・観光の一大センターを確立しようと「株式会社京都産業観光センター」が設立されました。
昭和39(1964)年12月25日にタワービルが全館竣工。その3日後である12月28日にタワー展望室が開業しました。開業日から年始にかけて1日約5,000人の来塔者で賑わいました。
平成25(2013)年、平成26(2014)年の開業50周年に向けたエレベーター改修工事や外壁の塗り直しを実施し、エレベーターは京都を代表するお寺をイメージした金色と銀色をそれぞれベースとして、金色ベースには京都の名所のシルエットを装飾し、銀色ベースには京都三大祭のシルエットを装飾しました。
エッフェル塔や東京タワーなどと違い、モノコック構造(応力外皮構造)という鉄骨を使わない構造です。
京都市街で一番高く、地上100メートルにある展望室からは東山三十六峰に囲まれた古都京都の市街地が360度見渡せます。
登るのは自分でもびっくりするくらい初めてでした。
京都タワー (4)
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京都タワー (2)
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京都タワー (3)
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京都タワー (5)
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Posted at 2016/11/23 23:51:20 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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