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ピズモのブログ一覧

2016年10月01日 イイね!

東福寺光明院・東福寺・雲龍院・詩仙堂

光明院は東福寺の塔頭です。
明徳2(1391)年、金山明昶の開創です。
方丈前の庭園は「波心庭」といい、昭和の作庭家、重森三玲の作です。
池泉式の枯山水で、州浜型の枯池に三尊石組を配し、背後にサツキやツツジを雲紋になぞらえて刈り込み、雲の上に茶亭蘿月(らげつ)庵があり、月が昇る姿を形どっています。入り口には雲嶺の庭があります。
東福寺光明院 (4)
東福寺光明院 (4) posted by (C)pismo

東福寺光明院 (5)
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東福寺光明院 (6)
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東福寺光明院 (7)
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東福寺光明院 (8)
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東福寺光明院 (9)
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東福寺光明院 (10)
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東福寺
東福寺 (1)
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東福寺 (2)
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東福寺 (3)
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東福寺
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東福寺 (4)
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東福寺 (5)
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東福寺 (6)
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東福寺 (7)
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東福寺 (8)
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東福寺 (9)
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東福寺 (10)
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東福寺 (11)
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東福寺 (12)
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東福寺 (13)
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東福寺 (14)
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明治になってから諡号、陵墓が定められた仲恭天皇九條陵です。
仲恭天皇は鎌倉時代の天皇で、順徳天皇の第一皇子です。建保6(1218)年に生まれ、承久3(1221)年に譲位され4歳で践祚しました。そして、祖父の後鳥羽上皇、父順徳上皇などが承久の乱で流罪となり、皇位を廃されました。仲恭天皇の在位78日間は、歴代天皇の中で最短です。
天福2(1234)年17歳にて崩御され、即位式も大嘗祭も行われなかったため諡号・追号がされず、九条廃帝、承久の廃帝、半帝、後廃帝と呼ばれていました。
明治3(1870)年、仲恭天皇の諡号が行われました。
陵は、京都府京都市伏見区深草本寺山町にある九條陵が明治22(1889)年に九条家ゆかりの地に円丘墳として治定されています。
また、別に京都府京都市東山区本町にある宮内庁の東山本町陵墓参考地が、仲恭天皇が被葬候補者に想定されています。
仲恭天皇九條陵 (1)
仲恭天皇九條陵 (1) posted by (C)pismo

雲龍院は、真言宗泉涌寺派の別格本山です。
応安5(1372)年後光厳法皇が竹巌聖皐律師を招いて菩提所として建立されたのがこの寺のはじまりで、その後、歴代天皇の信仰があつく、たびたびこの寺に行幸されています。
特に後円融天皇(在位1371~82)は勅願として如法写経会をはじめられ、この法会は現在まで続いています。寺は応仁の兵火によりいったん焼失しましたが、後柏原天皇より後土御門天皇使用の御殿の寄進をうけ、本堂として再建しました。
江戸時代には寛永16(1639)年に中興の祖である如周正専が後水尾上皇の援助で写経の道場を現在の場所に再建しました。現在は重要文化財である本堂として龍華殿と呼ばれています。
江戸時代は寺領も多く、来り学ぶ僧侶も多数にのぼり寺運はもっともさかんでした。後光厳天皇をはじめ歴代天皇の尊牌をまつる霊明殿は明治初年に完成しました。
宝物には、この寺の歴史にゆかりのふかい土佐光信筆の後円融天皇宸影(重要文化財)をはじめ歴代天皇の宸筆など文書、絵画多数を蔵しています。
なお、裏山には、仁孝天皇二皇女、孝明天皇二皇女の陵墓が営まれています。
蓮華の間は、障子窓を覗くと、椿、灯籠、楓、松が見え4枚の絵のように見えていて情緒があります。
雲龍院 (2)
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雲龍院 (3)
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雲龍院 (4)
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雲龍院 (5)
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雲龍院 (6)
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雲龍院 (7)
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雲龍院 (8)
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雲龍院 (9)
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詩仙堂は、正しくは、六六山詩仙堂丈山寺と号する曹洞宗の寺院です。
徳川家の家臣であった江戸時代の文人石川丈山が、寛永18(1641)年に隠棲のため建立した山荘で、凹凸かとも呼ばれています。
丈山は、三河国(愛知県)の人で、徳川家康に仕えていましたが、禄を辞して京都に住み、詩作に励むとともに林羅山ら一流の文化人とも交わり、茶道においては奥義を極めました。
晩年は当地で悠々自適の生活を行い、寛文12(1672)年89歳で没しました。
建物は、詩仙堂、嘯月楼(ちょうげつろう)など十の区画からなり、詩仙堂には、狩野探幽筆による中国の三十六詩人の肖像と詩を描いた額が掲げられています。庭園は、東には滝を、前庭には躑躅、皐月の苅込みを配した枯山水庭園で、庭の奥からの丈山愛好の僧都(鹿おどし)の音が風情を添えています。
毎年5月23日には、丈山忌が営まれます。
詩仙堂 (2)
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詩仙堂 (3)
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詩仙堂 (4)
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詩仙堂 (5)
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詩仙堂 (6)
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詩仙堂 (7)
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詩仙堂 (8)
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Posted at 2016/11/22 22:09:55 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2016年09月24日 イイね!

宇治

萬福寺は、山号は黄檗山、黄檗宗の大本山です。承応3(1654)年、中国福建省から渡来された隠元隆琦禅師が後水尾法皇や徳川四代将軍家綱公の尊崇を得て、寛文元(1661)年に開創された代表的禅宗伽藍の寺院です。
隠元隆琦禅師は、中国明代末期の臨済宗を代表する費隠通容(ひいんつうよう)禅師の法を受け継ぎ、臨済正伝32世となられた高僧で、中国福建省福州府福清県の黄檗山萬福寺(古黄檗)の住持でした。日本からの度重なる招請に応じて、承応3年(1654)、63歳の時に弟子20人他を伴って来朝され、のちに禅師の弟子となる妙心寺住持の龍渓禅師や後水尾法皇そして徳川幕府の崇敬を得て、宇治大和田に約9万坪の寺地を賜り、萬福寺を創建しました。
その後、幕府の政策等により、宗派を黄檗宗と改宗し現在に至ります。日本でいう「禅宗」は、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三宗に分類されています。
境内全体に中国・明時代末期の雰囲気で造られ、他の日本の寺院とは雰囲気が異なります。
中国風の精進料理である普茶料理もいただくことができるそうです。
萬福寺
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萬福寺 (1)
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萬福寺 (2)
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萬福寺 (3)
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萬福寺 (4)
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萬福寺 (5)
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萬福寺 (6)
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萬福寺 (7)
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萬福寺 (8)
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萬福寺 (9)
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萬福寺 (10)
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萬福寺 (11)
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萬福寺 (12)
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萬福寺 (13)
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萬福寺 (14)
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萬福寺 (15)
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萬福寺 (16)
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萬福寺 (17)
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三室戸寺
。花の寺として有名ですが、この時期はあまり咲いている花はないようです。
三室戸寺 (1)
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三室戸寺
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三室戸寺 (2)
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三室戸寺 (3)
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三室戸寺 (4)
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三室戸寺 (5)
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三室戸寺 (6)
三室戸寺 (6) posted by (C)pismo

宇治神社は莵道稚郎子命を祀る神社で、近くの宇治上神社と一対の神社で、明治維新前は両方を合わせて宇治離宮明神、八幡社と呼ばれ、宇治上神社は上社・本宮とするのに対し、宇治神社を下社・若宮と呼ばれています。本殿は三間社流造り桧皮葺きの社殿で、鎌倉時代初期の建築です。
宇治神社 (1)
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宇治神社
宇治神社 posted by (C)pismo

宇治上神社(うじがみじんじゃ)は菟道稚郎子命(うじのわきのいらつこのみこと)・応神天皇・仁徳天皇を祀る神社です。近くに宇治神社があり、明治維新前は両方を合わせて宇治離宮明神、八幡社と呼ばれ、宇治神社を下社・若宮とするのに対して、宇治上神社は上社・本宮と呼ばれています。
宇治上神社の本殿は現存するわが国最古の神社建築。拝殿は鎌倉初頭のもので、寝殿造りの建築物です。いずれも国宝に指定されています。
「古都京都の文化財」として、平成6(1994)年に世界遺産に登録されました。
宇治上神社 (1)
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宇治上神社
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宇治上神社 (2)
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宇治上神社 (3)
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仏徳山は標高131mの山で、宇治市街を一望できる展望台です。
大吉山展望台(仏徳山)
大吉山展望台(仏徳山) posted by (C)pismo

平等院
平等院 (1)
平等院 (1) posted by (C)pismo

平等院 (2)
平等院 (2) posted by (C)pismo

平等院 (3)
平等院 (3) posted by (C)pismo

平等院
平等院 posted by (C)pismo
Posted at 2016/11/20 23:28:12 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2016年09月11日 イイね!

恭仁京跡・海住山寺・笠置寺

恭仁京は、奈良時代の天平12(740)年、疫病や戦乱に見舞われ世上不安の中聖武天皇によって新都として定められたものです。
しかし、天平16(744)年、わずか4年余りで廃都されてしまいました。宮域は大極殿を中心に山城国分寺として再利用されることになりました。恭仁宮の大極殿をそのまま用いた金堂跡を中心に南北三町(約330m)、東西二町半(約275m)の広大な寺域をもつ寺でした。山城国分寺跡(恭仁宮跡)には、現在も金堂跡(大極殿跡)基壇と塔跡基壇が地表に残されています。
恭仁小学校の北側が大極殿跡、東側が史跡公園として整備されています。
恭仁京跡(山城国分寺跡) (1)
恭仁京跡(山城国分寺跡) (1) posted by (C)pismo

恭仁京跡(山城国分寺跡)
恭仁京跡(山城国分寺跡) posted by (C)pismo

海住山寺は、恭仁京のあった瓶原(みかのはら)地区を見下ろす三上山(海住山)の中腹にある真言宗智山派の寺院です。
天平7(735)年、聖武天皇の勅願により東大寺の良弁僧正が開創したと伝えられています。当初は藤尾山観音寺という名でしたが、承元2(1208)年、解脱房貞慶が、この寺を中興した際に補陀洛山海住山寺と改めました。
五重塔は、鎌倉時代の建保2(1214)年のもので国宝に指定されています。
海住山寺 (1)
海住山寺 (1) posted by (C)pismo

海住山寺
海住山寺 posted by (C)pismo

海住山寺 (2)
海住山寺 (2) posted by (C)pismo

笠置寺は、真言宗智山派の仏教寺院で山号は鹿鷺山と号します。
創建は大海人皇子(天武天皇)とも、大友皇子(弘文天皇)とも伝えられていますが、諸説あって定かではないようです。
東大寺の開山で初代別当(寺務を統括する僧)であった良弁や、その弟子で「お水取り」の創始者とされる実忠により笠置山の大岩石に仏像が彫刻され、笠置山一帯が一代修験行場として栄えました。
永承7(1052)年以降、末法思想の流行とともに笠置寺の大磨崖仏は天人彫刻の仏として非常な信仰を受けました。
建久2(1191)年、藤原貞慶(後の解脱上人)が日本の宗教改革者としてその運動を笠置寺から展開するとき、笠置山は宗教の山、信仰の山として全盛を極めたときでした。
元弘元(1331)年8月、鎌倉幕府打倒を企てていた後醍醐天皇は御所を脱出して笠置山に篭り、挙兵しましたが、9月に落城し、後醍醐天皇は隠岐島に流されました。この戦乱で寺は炎上し、再建されましたが、その後も焼失と復興を繰り返しました。
近世末には衰退して明治時代初期には無住となってしまい、現在の寺は明治9(1876)年に再興されたものです。
写真上は弥勒大磨崖仏で、高さ15.6m・幅15mの花崗岩に刻まれた弥勒菩薩ですが、数度の火災により、現在では後背を残すのみとなってしまいました。写真下は、高さ12m・幅7mの花崗岩に、虚空蔵菩薩が彫られています。
笠置寺
笠置寺 posted by (C)pismo

笠置寺 (1)
笠置寺 (1) posted by (C)pismo

笠置寺 (2)
笠置寺 (2) posted by (C)pismo

笠置寺 (3)
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笠置寺 (4)
笠置寺 (4) posted by (C)pismo

笠置寺 (5)
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笠置寺 (6)
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笠置寺 (7)
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笠置寺 (8)
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笠置寺 (9)
笠置寺 (9) posted by (C)pismo

笠置寺 (10)
笠置寺 (10) posted by (C)pismo

笠置寺 (11)
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笠置寺 (12)
笠置寺 (12) posted by (C)pismo
Posted at 2016/11/14 23:50:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2016年09月11日 イイね!

般若寺と当尾の里ウォーク

般若寺は、山号は法性山、真言律宗の寺院です。
飛鳥時代に高句麗の慧灌法師により開かれました。
天平7(735)年、聖武天皇が平城京の鬼門を守るため「大般若経」を基壇に納め卒塔婆を建てられたのが寺名の起こりとされます。そして平安の頃には学問寺として千人の学僧を集めて栄えましたが、治承4(1180)年、平家の南都焼き討ちにより伽藍は灰燼に帰しました。
鎌倉時代に入って廃墟のなかから、十三重石宝塔をはじめ七堂伽藍の再建が行われ寺観は旧に復しました。
なかでも金堂本尊には西大寺叡尊上人により丈六の文殊菩薩がまつられ信仰の中心となりました。
その後、室町戦国の兵火、江戸の復興、明治の廃仏毀釈と栄枯盛衰を経ながらも、真言律宗の法灯をかかげ今にいたっています。
また、「平家物語」や「太平記」「宮本武蔵」など文学の舞台としても知られ、古都の風情を今に残しています。
9月から10月にかけて30年ほど前から一隅に植えられていたコスモスが、現在では境内を埋め尽くすほどになり、本堂や石塔を始め、元禄時代作の西国三十三観音の石仏などを取り囲むように咲き乱れます。その他、梅、アセビ、ツバキ、レンギョウ、ヤマブキと春の花々、アジサイ、サザンカ、スイセンなど四季折々の花が古寺の庭に彩りと風情を添えています。
般若寺 (2)
般若寺 (2) posted by (C)pismo

般若寺 (3)
般若寺 (3) posted by (C)pismo

般若寺 (4)
般若寺 (4) posted by (C)pismo

般若寺 (5)
般若寺 (5) posted by (C)pismo

般若寺 (6)
般若寺 (6) posted by (C)pismo

般若寺 (7)
般若寺 (7) posted by (C)pismo

般若寺 (8)
般若寺 (8) posted by (C)pismo

岩船寺から浄瑠璃寺にかけての当尾(とうのお)の里は、石仏が点在するスポットとして有名です。
のどかな田舎の里に、石仏が点在する風景は、ゆったりとした時の流れを感じさせます。
岩船不動明王磨崖仏は、一つだけ一生懸命お願いをすれば、かなえて下さるというので「一願不動」とも呼ばれています。
「於岩船寺僧口口之会造立、弘安10年(1287)」の銘があります。
岩船不動明王磨崖仏(一願不動) (2)
岩船不動明王磨崖仏(一願不動) (2) posted by (C)pismo

内ノ倉不動明王磨崖仏は、唐臼の壷から奥まったところにあります。
建武元(1334)年1月4日の銘があります。風化が進んでいて、磨崖仏の判別が難しい状態にあります。
内ノ倉不動明王磨崖仏 (2)
内ノ倉不動明王磨崖仏 (2) posted by (C)pismo

内ノ倉不動明王磨崖仏 (3)
内ノ倉不動明王磨崖仏 (3) posted by (C)pismo

からすの壺二尊は、一つの岩に舟形向背を持つ定印の阿弥陀仏、向かって左側に地蔵菩薩立像がおられます。
阿弥陀仏の横に線彫の灯籠、火袋をに灯明を供えることができます。
からすの壺二尊 (1)
からすの壺二尊 (1) posted by (C)pismo

からすの壺二尊 (2)
からすの壺二尊 (2) posted by (C)pismo

唐臼の壺
唐臼の壺 posted by (C)pismo

あたご燈籠は、三叉路に建つ形式にとらわれない変わり燈籠で、愛宕神は火の神様(火伏せ)を司っていま す。
当尾ではお正月にここからおけら火を採り雑煮を炊く風習があったそうです。
あたご灯籠 (1)
あたご灯籠 (1) posted by (C)pismo

藪の中三尊磨崖仏は、藪の中の岩に舟形の光背を彫りくぼめ、正面に地蔵菩薩と向かって右に十一面観音、左の岩には阿弥陀如来坐像を配する非常に珍しい配置の石仏です。作者は橘派の橘安縄、当尾の石仏中最古弘長2(1262)年の作です。
やぶの中三尊 (1)
やぶの中三尊 (1) posted by (C)pismo

やぶの中三尊 (2)
やぶの中三尊 (2) posted by (C)pismo

首切地蔵は当尾の在銘石仏中最古の弘長2(1262)年の作で、首のくびれが深くきれて見えるためともまた、処刑場にあったからともいわれています。
首切地蔵 (1)
首切地蔵 (1) posted by (C)pismo

首切地蔵 (2)
首切地蔵 (2) posted by (C)pismo

大門石仏群は、竹藪の中や細い山道にあった石仏、石塔などを集めて安置しなおしたもので、双体仏や石龕仏、六字名号板碑や五輪板碑などがあり、変化に富んでいます。
大門石仏群 (2)
大門石仏群 (2) posted by (C)pismo

大門石仏群 (3)
大門石仏群 (3) posted by (C)pismo

大門石仏群 (4)
大門石仏群 (4) posted by (C)pismo

大門の仏谷(如来形磨崖仏)は、当尾の石仏群中、最大の磨崖仏です。像名に関して、阿弥陀如来、弥勒如来、釈迦如来などの諸説があり、まだ確定しきれていません。また製作時期に関しても奈良時代から鎌倉中期までの諸説があり、今後の研究課題を与えてくれる大きな仏さまです。かつては真下まで行ける道があったのですが、現在は草に埋もれてしまい、谷を隔てた道が拝所となります。
大門の仏谷(如来形磨崖仏) (1)
大門の仏谷(如来形磨崖仏) (1) posted by (C)pismo

やけ仏(阿弥陀三尊石仏)のあった場所は古くは辻堂という屋形がありましたが度々の火事で消失し、阿弥陀石仏も火災で痛々しいお姿になっています。
銘文から元亨3(1323)年6月8日に造立されたことが判明しました。
やけ仏 (1)
やけ仏 (1) posted by (C)pismo

たかの坊地蔵は、西小区公民館の敷地にあります。小さな石仏群の中でひときわ立派な船形光背の矢田型の地蔵尊で、鎌倉中期に彫られたもので、他の小石仏群は、室町時代に彫られてます。
たかの坊地蔵 (1)
たかの坊地蔵 (1) posted by (C)pismo

たかの坊地蔵 (2)
たかの坊地蔵 (2) posted by (C)pismo

西小墓地石仏群には、埋没や盗難などを防ぐため、かつては周辺に散在していた無縁墓や石仏が集められています。当尾では数多く見られる石仏群ですが、それぞれ小石仏ながらこれ程まとまった石仏群には圧倒されます。西小墓地入口には二基の西小五輪塔があり、当初はこの墓地の総供養塔として建てられました。向かって左側の反花座は、側面を三区に分けた格狭間と呼ばれる装飾が入り、右側は反花座のみとなっています。
どちらも重要文化財に指定されています。
西小墓地石仏群 (1)
西小墓地石仏群 (1) posted by (C)pismo

浄瑠璃寺道丁石笠塔婆
浄瑠璃寺道丁石笠塔婆 posted by (C)pismo

長尾阿弥陀磨崖仏は、美しい連弁の台座に座り、両手を腹部の前で上品上生の定印を結んだ阿弥陀坐像です。
徳治2(1307年)からここで人々の往来を見守ってきました。像の頭上に斜めに割れ目が走っていますが、後方の山から巨岩が続き、前面もコンクリートで固めているので、これ以上割れる心配はないそうです。
長尾阿弥陀如来像 (1)
長尾阿弥陀如来像 (1) posted by (C)pismo

浄瑠璃寺道三体磨崖仏は、元は磨崖仏だったものを、府道拡張工事に伴い移動されたもので、その際一部が破損してしまいました。右側には錫杖を持った地蔵菩薩坐像が彫られています。
浄瑠璃寺道三体磨崖仏 (1)
浄瑠璃寺道三体磨崖仏 (1) posted by (C)pismo

浄瑠璃寺
浄瑠璃寺
浄瑠璃寺 posted by (C)pismo

浄瑠璃寺 (1)
浄瑠璃寺 (1) posted by (C)pismo

浄瑠璃寺 (2)
浄瑠璃寺 (2) posted by (C)pismo

浄瑠璃寺 (3)
浄瑠璃寺 (3) posted by (C)pismo

浄瑠璃寺 (4)
浄瑠璃寺 (4) posted by (C)pismo

眠り仏(地蔵石仏)は、わらい仏の向かって左脇に、半身を土のお布団にくるまれて心地よくすやすやと眠るお地蔵さまです。
長い間土の中で休んでおられたため、いつの間にか「眠り仏」の名がつきました。
やすらかにお休みください。(現地説明板などより)
眠り仏・わらいぼとけ
眠り仏・わらいぼとけ posted by (C)pismo

眠り仏 (1)
眠り仏 (1) posted by (C)pismo

わらい仏(岩船阿弥陀三尊磨崖仏)は、当尾の代表的な石仏の一つです。蓮台を持つ観音菩薩と合掌する勢至菩薩を従えた阿弥陀仏です。永仁7(1299)年の銘文があり、上部の屋根石が廂となっているので、風蝕の影響も少なく保存状況は良好です。
特に夕陽の中にたたずむ、やさしい微笑みをたたえた姿は微笑ましいものがあります。
わらいぼとけ (1)
わらいぼとけ (1) posted by (C)pismo

わらいぼとけ (2)
わらいぼとけ (2) posted by (C)pismo

四面地蔵石仏
四面地蔵石仏 posted by (C)pismo

みろくの辻弥勒磨崖仏は、山際の巨岩に高さ2.5mほどの仏さまが線彫りされています。これは笠置寺本尊の弥勒磨崖仏(現在は焼失し、光背が残るのみ)をかなり忠実に模写したもので笠置に近い当尾で弥勒信仰を物語る貴重な作例と言えます。文永11(1274)年、伊末行の作です。
弥勒磨崖仏 (1)
弥勒磨崖仏 (1) posted by (C)pismo

弥勒磨崖仏 (2)
弥勒磨崖仏 (2) posted by (C)pismo

ミロクの辻から岩船寺への旧道の途中の岩肌に、長方形の龕を彫りくぼめ、三体の地蔵菩薩が厚肉彫りされています。三体とも左手に宝珠、右手に錫杖を持っています。過去、現在、未来をそれぞれ割り当てたもので、六地蔵信仰以前の地蔵信仰の一形態といわれています。
三体地蔵磨崖仏 (2)
三体地蔵磨崖仏 (2) posted by (C)pismo

三体地蔵磨崖仏 (3)
三体地蔵磨崖仏 (3) posted by (C)pismo

Posted at 2016/11/14 00:01:23 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2016年08月27日 イイね!

伊予・土佐(2日目その4・宿毛・愛南)

宿毛市立宿毛歴史館は、宿毛の町の歴史や宿毛市ゆかりの人物を、模型や映像、パネル、遺品をはじめとした貴重な展示品によって、わかりやすく紹介したふるさとの歴史館です。
「歴史展示室」では、城下町として栄えた江戸時代の宿毛の町並みを模型で展示し、パネルや映像など様々な資料で宿毛の偉人などを紹介しています。
宿毛市立宿毛歴史館
宿毛市立宿毛歴史館 posted by (C)pismo

宿毛合立社を設立するなど民権運動に力を注いだ林包明邸跡です。
林包明(かねあき・ほうめい)は、嘉永5(1852)年宿毛に生まれました。
自由民権運動が盛んになる中、宿毛合立社を設立しました。愛国社再興会議への参加や、自由党の結成時の幹事就任など、民権運動に力を注ぎました。
(現地説明板などより)
宿毛市立坂本図書館・宿毛歴史館の敷地の北東側に石碑と説明板が立っています。
林包明邸跡
林包明邸跡 posted by (C)pismo

宿毛城は宿毛市を北東に流れる松田川の西側の小山にあり、元来は松田城と称しました。創築時期は不明です。
松田兵庫が城主だった時期もありましたが、天正3(1575)年、長宗我部元親の軍勢が土佐一条氏を攻め、その勢力下にあった当城を陥落させたときの城主は依岡伯耆守でした。
長宗我部政権下になると一族の長宗我部右衛門大夫が入城し、四国西南地域の拠点となりました。
慶長6(1601)年、山内一豊の土佐国入封に際し、軍事的要所にある当城には、一豊の甥の山内可氏が周辺のおよそ6千石の知行地を与えられて入城しました。
元和元(1615)年、一国一城の幕令により城は破壊されましたが、可氏はふもとの土居(屋敷)を改築し、宿毛統治を続けました。
可氏以降も子孫が代々ここで宿毛を治め、これを中心に城下町も形成しました。延宝8(1680)年頃の絵図には、土居の様子や町割り、土佐藩奉行野中兼山の治水事業による河戸堰、宿毛総曲輪(堤)などがみてとれます。
土佐藩内には同様の経緯で各地の土居に重臣が点在し、これらは「土居付家老」といわれて藩士の中でも上位の家格をほこりました。
明治維新にともない、11代当主山内氏理は姓を「伊賀」と改め、当地を離れて東京に移住しました。土居は遺構も含め現存せず、城郭は城壁を若干みることができます。城下町については、嘉永7(1854)年の地震後の再開発によって整理された町割りが、その面影を今に残しています。
宿毛城(松田城)
宿毛城(松田城) posted by (C)pismo

宿毛城(松田城) (1)
宿毛城(松田城) (1) posted by (C)pismo

宿毛領主山内氏が居住した伊賀邸跡です。
慶長6(1601)年、土佐藩祖山内一豊が土佐に入国するにともない、一豊の姉の子である可氏に宿毛六千石をあたえました。
可氏はまず松田城に入城しますが、一国一城令によってとり壊され、その後は松田城があった小山のふもとに邸宅をかまえて、そこで政治を行いました。その後代々子孫に受け継がれ、明治初年、姓を伊賀に改め東京に移住しました。
伊賀邸跡
伊賀邸跡 posted by (C)pismo

桂浜の坂本龍馬像で有名な本山白雲邸跡です。
本山白雲は、彫刻家高村光雲の門下生となり、更に長沼守敬について洋風彫塑を学びました。
政治家、実業家、軍人の銅像を数多く作製し、昭和3(1922)年、高知市桂浜に坂本龍馬像を完成させました。(現地説明板などより)
本山白雲邸跡
本山白雲邸跡 posted by (C)pismo

文久3(1863)年、学問所の講授館を物産方役所内に移して文館と改めました。
読書、習字、算術、作文の四課を設けました。
慶応元(1865)年には岩村通俊が文武頭取を務めています。
(現地説明板などより)
文館跡
文館跡 posted by (C)pismo

親子二代で政治家、実業家を輩出・竹内綱・明太郞・吉田茂邸跡です。竹内綱は、吉田茂の実父で板垣退助を援けて自由党を結成しました。
衆議院議員となる一方で、遊泉寺銅山の経営など実業家としても活動しました。
竹内明太郞は、竹内綱の長男で、父の事業を継承する中で、小松鉄工所(現在のコマツ)を開業しました。早稲田大学理工学部の新設に協力し、高知工業高校も創立しました。
吉田茂は、竹内綱の五男で吉田健三の養子となり、5度吉田内閣を組織し、サンフランシスコ講和条約の締結など戦後復興に尽力しました。
(現地説明板などより)
竹内綱・明太?・吉田茂邸跡
竹内綱・明太?・吉田茂邸跡 posted by (C)pismo

日新館は、慶応3(1867)年、講授館から文館へ移ってきた学問所をさらに日新館として新設しました。
明治7(1874)年、宿毛小学校になりました。司法大臣になった岩村道世もここで学びました。
(現地説明板などより)
日新館跡
日新館跡 posted by (C)pismo

「人恋ふはかなしきものと平城山に・・・」の「平城山」で有名な歌人・北見志保子生誕地〔北見志保子邸〕です。
北見志保子は、本名川島朝野、宿毛小学校の教員を経て文学を志して上京しました。
やがて「草の実」「月光」などの歌誌や歌集を世に出しました。
北見志保子生誕地〔北見志保子邸〕
北見志保子生誕地〔北見志保子邸〕 posted by (C)pismo

人民の平等を目指して活動した大江卓邸跡です。
大江卓は、維新の志士として活躍し、明治になると人民の平等を目指して「部落解放令」の成立に力を注ぎました。衆議院議員としても活動しますが、晩年出家、全国を行脚して部落解放のために身を捧げました。
(現地説明板などより)
大江卓邸跡
大江卓邸跡 posted by (C)pismo

東福院は、山号は南泉山、宿毛市にある臨済宗東福寺派の寺院です。
草創は不明ですが、山内可氏が再興し、宿毛山内氏(伊賀氏)の菩提寺となり南泉山東福寺と号しました。
明治4(1871)年廃寺となりますが、明治12(1879)年再興され、東福院となりました。
境内には宿毛山内氏(伊賀家)の墓地があります。
初代山内可氏は、山内一豊の姉の子にあたります。父は美濃北方城主安東郷氏で、11歳の時に北方城が攻められ、郷氏が戦死し、3年後に可氏は長浜城主になった一豊に迎えられ、山内の姓を与えられました。一豊の土佐入国後、土佐国の西の要所、宿毛6千石が与えられ、その子孫も代々山内の姓を名乗って宿毛を治めました。
また、その間宿毛城のあった丘陵の麓に土居(屋敷)を構え、それを中心に小規模城下町をつくりあげ、佐川の深尾氏や安芸の五藤氏とともに、土居つき家老として、明治維新を迎えるまで土佐藩の重責を担いました。
その他境内には野中兼山遺族の墓地があります。野中兼山は江戸時代初期に土佐藩の奉行職として、班内の治水事業など多くの治績をあげた有名な政治家ですが、一方でその強大な政治力が政敵を生み、藩主・忠義の隠居後、失脚、その後半年で病死しました。
しかし、兼山への反発心はなおも消えず、寛文4(1664)年3月2日遺子8名に対して罪が下り、宿毛へ幽閉されました。竹矢来で二重に囲まれた家の中で幽閉されること40年、その間によね・清七・欽六・希四郎が病死し末子貞四郎は自害しました。
男系が絶えたので、残った寛・婉・将の3人の娘ははじめて許され、婉は高知に帰り、寛と将は宿毛に残って余生を送りました。宿毛の西山墓地には、よねと婉を除く他の遺子たちの墓と共に正妻・市、その母・よめの墓があります。
(現地説明板などより)
東福院
東福院 posted by (C)pismo

東福院 (1)
東福院 (1) posted by (C)pismo

東福院 (2)
東福院 (2) posted by (C)pismo

東福院 (3)
東福院 (3) posted by (C)pismo

東福院 (4)
東福院 (4) posted by (C)pismo

東福院 (5)
東福院 (5) posted by (C)pismo

野中兼山の一族が幽閉された地である宿毛小学校にある野中兼山遺族幽閉地碑です。
野中兼山は江戸時代、土佐藩(今の高知県全域)の奉行で、藩内の政治のリーダーでした。兼山は新田を開発したり、港を築いたり、お米の値段を調整したり、次々と新しい仕事を実行しました。
宿毛でも、河戸堰や宿毛総曲輪(堤防)を築いたり、沖ノ島や篠山でおきた国境争いを解決しました。しかし、兼山のやり方はとても強力だったので、各地で反発を生み、結局、奉行を辞めて隠居します。そしてその直後、49歳で死去してしまいました。
ところが、それでも反発の声はやみません。兼山の政治が土佐藩の人々を苦しめたといって、兼山の子供たちに、その罪を負わせることになったのです。親の罪が子にも及ぶ時代でした。
兼山の子供八人は宿毛に送られ、今の宿毛小学校のプールの場所に幽閉されました。一番幼い貞四郎は、まだ二歳でした。
竹で囲まれた家での外には出られない生活の間に、子供たちは成長し、そして次々に亡くなりました。四女の婉は、兄、姉を失う悲しみを和歌を詠みます。
つらなりし 梅の立枝 枯れゆけば のこる梢の 涙なりけり
「つらなる梅の立枝が枯れていくと、のこる小枝は涙を流すばかりだ。(梅の立枝…先立つ兄、姉  梢…残された弟や妹)」
約40年という長い長い年月が過ぎ、男子の全員が亡くなると、寛、婉、将の三人の女子だけが、ようやく釈放されました。釈放された三人の内、婉は今の高知市朝倉に移って医者になったということです。この婉の生涯は、高知県出身の大原富枝の小説「婉という女」で紹介され、大きな反響を呼びました。
現在宿毛には、婉と長女米以外の、幽閉された子供たちと母親の墓が残されています。
幽閉地は現在の宿毛小学校のプール付近で、学校敷地内に碑が建立されています
(現地説明板などより)
野中兼山遺族幽閉地碑
野中兼山遺族幽閉地碑 posted by (C)pismo

岩村通俊、林有造、岩村高俊の父・岩村英俊邸跡です。岩村英俊は、岩村通俊、林有造、岩村高俊の父です。
貝塚にいましたが、嘉永の地震の後、ここに邸宅を構えました。
英俊自身も文武両道の人として知られ、礫水(れきすい)と号しました。
通俊、高俊の胸像の礎石が残っています。
(現地説明板などより)
岩村英俊邸跡
岩村英俊邸跡 posted by (C)pismo

岩村英俊邸跡 (1)
岩村英俊邸跡 (1) posted by (C)pismo

岩村英俊邸跡 (2)
岩村英俊邸跡 (2) posted by (C)pismo

宿毛出身の政治家父子、林有造・譲治邸です。
林有造は、岩村英俊の次男で、林茂次平の養子となりました。
国政に参画し、逓信大臣、農商務大臣に就任しましたが、晩年は宿毛に帰り、新田の開発など郷土の発展に尽力しました。
林譲治は、林有造の次男で宿毛町長、高知県会議員を経て衆議院議員に11回当選し、衆議院議長や厚生大臣、副総理などを務めました。
現在の家は明治22(1889)年譲治が生れた年に建てられたものです。
(現地説明板などより)
林有造・譲治邸 (1)
林有造・譲治邸 (1) posted by (C)pismo

林有造・譲治邸
林有造・譲治邸 posted by (C)pismo

藤林寺は、山号は見立山、曹洞宗の寺院です。
土佐一条氏の当主、一条房家の菩提寺です。房家は関白・一条教房の次男として誕生し、父・教房のとき所領の土佐国幡多郡に下向しました。房家の時に土佐一条氏は最盛期を迎え、長宗我部兼序が本山氏などに攻められた際、その子国親を保護し、成人した際に父の居城だった岡豊城を再び国親に与えたことで知られています。
天文8(1539)年に中村御所で亡くなり、藤林寺に葬られました。法名は藤林寺殿正二品東泉大居士です。
藤林寺・一条房家の墓
藤林寺・一条房家の墓 posted by (C)pismo

一条兼定が寵愛したお雪入水の地です。
土佐一条氏第四代一条兼定は平田の美人お雪を寵愛し、お雪御殿と呼ばれる家を建て、狩りと称しては平田に通いました。
しかし、元亀3(1572)年に筆頭家老土居宗珊が諫言したため、兼定は手打ちにしたため人望を失い、羽生・為松・安並の三家老の合議によって天正元(1573)年にその子内政が擁立され、兼定は隠居を強制されました。
そして翌年、追放されて岳父の大友宗麟を頼って豊後に追放されたため、お雪は入水自殺してしまいました。
かつては川淵だったそうですが、現在は耕地整理で藤林寺近くの水田の中にあります。
お雪入水の地
お雪入水の地 posted by (C)pismo

お雪入水の地 (1)
お雪入水の地 (1) posted by (C)pismo

延光寺は、山号は赤亀山、院号は寺山院、真言宗智山派の寺院です。
四国八十八箇所霊場の第三十九番札所です。
寺伝によれば聖武天皇の勅命により神亀元(724)年に行基が薬師如来を刻んで本尊とし、本坊ほか12坊を建立、当初は亀鶴山施薬院宝光寺と称したといいます。その後桓武天皇の勅願所となり、空海(弘法大師)が来錫して再興、脇侍の日光・月光菩薩を刻んで安置、本堂脇に眼病に霊験のある「目洗い井戸」を掘ったといわれています。
伝説によれば延喜11(911)年、赤い亀が境内にある池からいなくなりましたが、やがて銅の梵鐘を背負って竜宮城から戻ってきため、現在の山号、寺号に改めたといいます。
延光寺 (1)
延光寺 (1) posted by (C)pismo

延光寺 (2)
延光寺 (2) posted by (C)pismo

延光寺
延光寺 posted by (C)pismo

久良天嶬鼻砲台は、高野長英築造の台場で、昭和25(1950)年10月10日、愛媛県の指定史跡になっています。
幕末の蘭学者高野長英は「夢物語」を書き、幕府に捕らえられましたが、火事にまぎれて脱獄し、追われる身になりました。8代宇和島藩主伊達宗城は長栄を宇和島にかくまいました。その頃、国交のない我が国に対し、諸外国は軍艦を派遣し、開国を迫っていました。幕府は海岸防備を各藩に命じました。
宇和島藩は、海岸の要地深浦湾の入り口、天嶬に砲台を築くことになり、伊藤瑞渓と名を変えた長英に設計を命じました。
長英は設計書を作り、工事にかかりましたが、幕府の手が伸びてきたのを知り、嘉永2(1849)年宇和島を去り、翌年幕吏に追われて自殺しました。宇和島藩最初のこの砲台が完成したのは、嘉永3(1850)年5月頃といわれています。
砲台は、海面から30m余りの断崖の上に土塁を築き、2門の趯発砲(シャクリウチホウ・火縄使用)でしたが、後に慶応2(1866)年、鵞菅打ち砲(雷管使用)に改良されました。
宇和島伊達文化保存会所蔵の「久良サザレ鼻新築砲台之図」及び「趯発砲(火縄使用)の目的地点と試射結果図」によると久良砲台の砲は2門で、試射の結果、10発の中9発が標的近くに命中しており、優秀な砲台であったことが分かります。
天嶬の砲台場石塁は、高野長英築造台場の付帯施設の一部で、砲術師、番人の屋敷を防護する目的で築かれたものです。
全長100m、高さ2.5m、二段構築で前段は犬走りとなっています。
(現地説明板などより)
久良天嶬鼻砲台(高野長英築造の台場)
久良天嶬鼻砲台(高野長英築造の台場) posted by (C)pismo

久良天嶬鼻砲台(高野長英築造の台場) (1)
久良天嶬鼻砲台(高野長英築造の台場) (1) posted by (C)pismo

久良天嶬鼻砲台(高野長英築造の台場) (2)
久良天嶬鼻砲台(高野長英築造の台場) (2) posted by (C)pismo

久良天嶬鼻砲台(高野長英築造の台場) (3)
久良天嶬鼻砲台(高野長英築造の台場) (3) posted by (C)pismo

久良天嶬鼻砲台(高野長英築造の台場) (4)
久良天嶬鼻砲台(高野長英築造の台場) (4) posted by (C)pismo

久良天嶬鼻砲台(高野長英築造の台場) (5)
久良天嶬鼻砲台(高野長英築造の台場) (5) posted by (C)pismo

観自在寺は、山号は平城山、院号は薬師院、真言宗大覚寺派の寺院です。
四国八十八箇所の第四十番札所です。
大同2(807)年、平城天皇の勅願により、空海(弘法大師)によって開かれたといい、本尊の薬師如来、脇持の阿弥陀如来、十一面観世音菩薩は一本の霊木から空海が刻んだと伝えられています。
江戸時代初期の寛永15(1638)年に京都の空性法親王が巡拝、薬師院の号を受けました。その後、宇和島藩主伊達宗利の勅願所になったという歴史をもつ。一時は七堂伽藍を持ち四十の末寺を有しましたが、火災で消失しました。
延宝6(1678)年に再建されましたが、昭和34(1959)年に失火で本堂を焼失し、現在の本堂はその後に建立されました。
観自在寺 (1)
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観自在寺
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Posted at 2016/11/08 23:12:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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