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ピズモのブログ一覧

2016年08月07日 イイね!

真田丸紀行(3日目その2・高崎市〔旧群馬町〕〜前橋市〔旧大胡町・旧粕川村〕〜桐生市〔旧新里村含む〕)

伝、箕輪城主長野業盛の墓です。
長野業盛は、戦国時代の西上州の要であった箕輪城の長野氏最後の城主です。
永禄9(1566)年武田信玄の攻撃を受け落城し、自害しました。
その遺骸は当地の僧法如らによってこの井出の地に葬ったとされています。
長野業盛の墓
長野業盛の墓 posted by (C)pismo

長野業盛の墓 (1)
長野業盛の墓 (1) posted by (C)pismo

保渡田古墳群は、昭和60(1985)年9月3日に国の史跡に指定されています。
榛名山東南の麓、群馬県高崎市(旧群馬町)保渡田・井出にある3つの前方後円墳の総称です。いずれも墳丘の長さ100m級の大型古墳です。5世紀後半に、二子山古墳→八幡塚古墳→薬師塚古墳の順で相次いで造られ、この地に有力な豪族がいたことを示しています。
八幡塚古墳は、南東1kmにある三ツ寺Ⅰ遺跡(巨大な館)に住み、榛名山東南麓・井野川流域を治めた豪族の墓です。当時、群馬県地域(上毛野)は国内でも有力な地域でした。八幡塚古墳の被葬者は、古墳の充実度からみて、この頃、上毛野各地に勢力を持った豪族達のなかでも代表的な人物であったと考えられています。
墳丘は全長96mで3段に造られ、斜面は葺石で飾られています。周囲には、内堀・外堀・外周溝が巡り、それらの間には内提・外提が設けられています。
墓域の長さは約190mに及ぶ。内堀の中には4つの島(中島)があり、この古墳の特徴となっています。
この古墳には、たくさんの埴輪が並べられていました。外界との垣根である円筒埴輪は、幾重にも列をなして並べれ、その数6000本と推定されています。内提上の2ヶ所には人物・動物埴輪を置く区画(A区・B区)があり、各50体以上が並んでいたと考えられています。これは、一つの古墳では最多級の量で、かつ配列状態もわかる重要な資料です。
遺体を納めた施設は、後円頂部に2ヶ所存在しました。後円部の中心には、舟形石棺が据えられていました。古墳を築いた豪族本人の棺と思われます。その脇には竪穴式石槨(木棺を石で囲んだもの)も発見されました。近親者の埋葬移設と思われます。
八幡塚古墳はかつては、大きく削られていました。そのため史跡公園の全体計画にあたり、この古墳に限って造られたときの姿に復元し、活用することが決定されました。
5ヶ年にわたる発掘調査結果を基に、古墳に保存用の土を厚く盛って、築造時の姿に復元しました。
平成28(2016)年6月17日の歴史秘話ヒストリア「コーフン!古墳のミステリー」に登場しました。
(現地説明板などより)
保渡田八幡塚古墳
保渡田八幡塚古墳 posted by (C)pismo

保渡田八幡塚古墳 (1)
保渡田八幡塚古墳 (1) posted by (C)pismo

保渡田八幡塚古墳 (2)
保渡田八幡塚古墳 (2) posted by (C)pismo

保渡田八幡塚古墳 (3)
保渡田八幡塚古墳 (3) posted by (C)pismo

保渡田八幡塚古墳 (4)
保渡田八幡塚古墳 (4) posted by (C)pismo

保渡田八幡塚古墳 (5)
保渡田八幡塚古墳 (5) posted by (C)pismo

保渡田八幡塚古墳 (6)
保渡田八幡塚古墳 (6) posted by (C)pismo

大胡城は、南北に走る丘陵上にある平山城で、本丸を中心に二ノ丸を囲郭的に配し、北に北城(越中屋敷)、近戸曲輪、南に三、四ノ曲輪があり、東は荒砥川が流れ、その間に根小屋、西には西曲輪の平野部が附加され、南北670m、東西最大幅310mの規模を測り、桝形門、水ノ手門虎口、空堀り、土塁等の跡が良く残っています。
城主は、大胡氏および牧野氏でした。大胡氏は秀郷流藤原氏の一族で、東毛の豪族です。
天正18(1590)年徳川家康の関東入部により牧野氏が大胡藩2万石に封ぜられ、その居城となりました。元和2(1616)年に長嶺へ転封後、前橋藩領となり、酒井氏時代には城代が置かれましたが、寛延2(1749)年、姫路へ転封し廃城となりました。
(現地説明板などより)
大胡城 (0)
大胡城 (0) posted by (C)pismo

大胡城 (1)
大胡城 (1) posted by (C)pismo

大胡城 (2)
大胡城 (2) posted by (C)pismo

大胡城 (3)
大胡城 (3) posted by (C)pismo

大胡城 (4)
大胡城 (4) posted by (C)pismo

大胡城 (5)
大胡城 (5) posted by (C)pismo

大胡城 (6)
大胡城 (6) posted by (C)pismo

大胡城 (7)
大胡城 (7) posted by (C)pismo

膳城は、兎川と湧水による湿潤な谷地の間の丘陵性台地の先端部に位置しています。南北約550m、東西約300mほどの範囲の中に濠や土塁をめぐらし、本丸の他、数区画からなる郭を形成しています。
この城の築城年代は不明ですが、鎌倉時代の文書に既に「善」氏の名が見えます。しかし、この膳城に居城していたかについては明らかではありません。その後、室町時代から戦国時代にかけての文書にも「善」氏は度々登場します。
戦国時代には、関東地方の覇権をめぐる北条、上杉、武田の戦記物に度々「膳」の名が現れます。
現在見ることのできる膳城の姿が形成されたのは、この戦国時代末期と考えられています。特に天正8(1580)年の武田勝頼による東上州進攻の際の、膳城をめぐる攻防戦は「膳城素肌ぜめ」として著名です。
天正8(1580年)年、御館の乱のなかで武田勝頼は上杉景勝を支持、上杉景虎派の厩橋城を制圧しそのまま赤城山南麓の大胡城・山上城・伊勢崎城を攻略していました。攻略後、武田勝頼軍は人心安定のため平服のまま各地を視察し、膳城付近を通過しました。当時膳城では酒宴が行われ玉村五郎兵衛という侍が、渋川主膳正と口論を始め喧嘩沙汰も起きており、武田軍を見た一部城兵が激高、武田軍の倉賀野秀景に攻撃を仕掛けてしまいました。この結果、武田勝頼軍の反撃を受けて膳城は落城、河田備前守や城代・大胡民部左衛門が討ち取られてしまいました。 これを「膳城素肌攻め」といいます。
膳城はこの戦いの後、廃城となったと伝えられています。本丸周辺の濠、土塁等は当時の姿を良く残しています。
(現地説明板などより)
膳城
膳城 posted by (C)pismo

膳城 (1)
膳城 (1) posted by (C)pismo

膳城 (2)
膳城 (2) posted by (C)pismo

膳城 (3)
膳城 (3) posted by (C)pismo

膳城 (4)
膳城 (4) posted by (C)pismo

膳城 (5)
膳城 (5) posted by (C)pismo

膳城 (6)
膳城 (6) posted by (C)pismo

膳城 (7)
膳城 (7) posted by (C)pismo

膳城 (8)
膳城 (8) posted by (C)pismo

山上城は田原藤太といわれた藤原秀郷の流れをくむ、藤姓足利氏の一族、山上五郎高綱によって築城されたといわれます。
高綱の子、高光は源頼朝に仕えました。その子孫も代々この地域を領し、上杉氏が関東管領の頃は東上州のなかでも、特に重きをなしたと伝えられます。しかし、北条・武田・上杉などの群雄が割拠した、戦国時代動乱のなかで、やがて16世紀末ころに廃城になりました。
城の構造は、並郭構造といわれるように、北から南へ笹郭・北郭・本丸・二の丸・三の丸・南郭と一直線に並んでいます。なお、南郭には物見台の跡が残っています。南北は650m、東西は220mの細長い形をしており、平坦な郭構造ではなく、高い郭を持つことから丘城ともいわれています。城下町の名残として、元町・鍛冶屋などの地名が残っています。
(現地説明板などより)
城跡は、山上城跡公園となっており、敷地内にある新里郷土文化保存伝習館では説明のパンフレットなども配布しています。
山上城
山上城 posted by (C)pismo

山上城 (1)
山上城 (1) posted by (C)pismo

山上城 (2)
山上城 (2) posted by (C)pismo

山上城 (3)
山上城 (3) posted by (C)pismo

山上城 (4)
山上城 (4) posted by (C)pismo

山上城 (5)
山上城 (5) posted by (C)pismo

彦部家は第40代天武天皇の皇子高市親王で、臣籍降下し高階姓を賜り、高階家第14代惟章(1053~1107)は武士として下野国佐久山館(栃木県太田原市)に下向、この地を統治しました。そして、その娘と奥州征伐途上の源義家との間に生まれた惟頼(1089~1140)が高階姓を継ぎ、これによって源氏の血脈が高階氏につながることになります。惟頼は奥州検断職を命ぜられいわきに赴任。惟頼の後、数代この地で過ごし高階家第21代光朝(1216~77)の代、奥州斯波郡彦部郷に移りこの地を領有して土地名をもって彦部姓を名乗りました。
従四位以下雅楽頭11代彦部晴直は、足利家第10代義稙・第11代義澄・第12代義晴・第13代義輝の4代の将軍に仕えました。晴直の母は近衛関白政家の娘で、政家の室は足利家第8代義政の姫になります。
そして、戦国時代に関東下向した近衛前嗣親子が上杉謙信に追随し、桐生城入りしましたが、それに同道した彦部信勝は、近衛親子の帰京後も桐生市広沢に留まりました。
関ヶ原の合戦には屋敷から竹竿380本を、旗絹とともに献納、それによって桐生領54ヶ村は賦役御免になったといいます。
彦部家屋敷は平成4(1992)年、主屋・長屋門・冬住み・文庫倉穀倉の5棟と、宅地20,600平方メートルが重要文化財彦部家住宅として指定を受けました。
屋敷構えは、背後を戦時の砦となる手臼山、残る三方を壕や土塁で固め、中世武士館のたたずまいを残しています。南側は大手口(正面)に長屋門を構え、両脇を玉石で覆った土塁が築かれています。東側は高く積み上げた土居と、約4m下の水路がかつての壕の面影を残しています。東北隅には櫓台、この西脇に溺手口(裏門)を設けています。ここから西へ深い空壕が直線状に続き、西北隅には竹が岡八幡宮・稲荷神社・弁財天等を屋敷神として奉っています。また、庭園は手臼山の借景を自然に取り入れた竹林・果樹園、そして室町風池泉回遊式庭園へと続いております。
主屋は17世紀初頭の建築で、敷地のほぼ中央に建ち、南東に19世紀前半建築の冬住み(隠居屋)、後方には幕末の建築である文庫倉・穀倉が並んで配置されています。この他、編物業を営んでいた時の従業員寄宿舎(大正期)・医務所(昭和期)等々が時代の変遷を伝えています。
郭外には西部に手臼山砦跡、西北部に菩提所福厳寺、南部に一族屋敷跡、北部に譜代屋敷跡がみられます。
(現地説明板などより)
彦部家住宅
彦部家住宅 posted by (C)pismo
Posted at 2016/09/21 00:01:07 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2016年08月07日 イイね!

真田丸紀行(3日目その1・吹割の滝周辺と名胡桃城)

沼田万鬼斎顕泰に仕えた重臣・金子美濃守の墓です。金子美濃守は、沼田万鬼斎顕泰に仕えた重臣でした。顕泰の側室は金子美濃守の妹で、沼田平八郎景義は、甥にあたります。
顕泰は家督を三男の朝憲に譲り、景義と共に天神城に移りましたが、景義を沼田氏の後継者にしようと朝憲を天神城で謀殺しました。朝憲の妻子、家臣らは朝憲の妻の父である厩橋城代北条高広の加勢を得て天神城を攻め、顕泰と景義は会津に落ち延びました。
沼田城は城主不在となり、金子美濃守は上杉氏、北条氏、真田氏に次々と従いました。
沼田平八郎景義が天正9(1581)年に沼田城奪回のために挙兵しましたが、真田昌幸から恩賞を約束されて、景義を謀殺するよう命じられた金子美濃守は、「沼田城を明け渡す」と景義を欺き、城内に招き入れ殺害しました。しかし、その後昌幸から遠ざけられ、失意のまま生涯を終えたそうです。
墓所は大平観音堂の隣にあります。執権北条氏時代から、天正年間に至るまで利根郡追貝村金子の地に住み、地方豪族として活躍していた金子一族の墓所で、金子美濃守はここに葬られたかははっきりしませんが、金子氏の霊と共にここに眠っているといわれています。
(現地説明板などより)
金子美濃守の墓
金子美濃守の墓 posted by (C)pismo

吹割の滝は、高さ7m、幅30mに及び、ごうごうと落下・飛散する姿から東洋のナイアガラとも呼ばれています。
凝灰岩、花崗岩の川床上を流れる片品川の清流が、岩質の軟らかい部分を浸蝕し、多数の割れ目を生じ、あたかも巨大な岩を吹き割れたように見えるところから、「吹割の滝」の名が生まれました。
周辺には遊歩道も整備されており、「鱒飛の滝」の壮絶な景観や「獅子岩」と呼ばれる岩壁群、「般若岩」などの奇景、歴史ある「浮島観音堂」、「浮島橋」や「観瀑台」からの眺めなど、独特の渓谷美に彩られた多くの見所が存在します。
昭和11(1936)年12月16日に天然記念物に指定されました。
平成12(2000)年の大河ドラマ「葵徳川三代」のオープニングにも登場しました。
吹割の滝 (1)
吹割の滝 (1) posted by (C)pismo

吹割の滝 (2)
吹割の滝 (2) posted by (C)pismo

吹割の滝 (3)
吹割の滝 (3) posted by (C)pismo

吹割の滝
吹割の滝 posted by (C)pismo

吹割の滝 (4)
吹割の滝 (4) posted by (C)pismo

吹割の滝 (5)
吹割の滝 (5) posted by (C)pismo

吹割の滝 (6)
吹割の滝 (6) posted by (C)pismo

吹割の滝 (7)
吹割の滝 (7) posted by (C)pismo

吹割の滝 (8)
吹割の滝 (8) posted by (C)pismo

吹割の滝 (9)
吹割の滝 (9) posted by (C)pismo

吹割の滝 (10)
吹割の滝 (10) posted by (C)pismo

吹割の滝 (11)
吹割の滝 (11) posted by (C)pismo

吹割の滝 (12)
吹割の滝 (12) posted by (C)pismo

高平の書院は、慶安2(1649)年沼田城主真田信政が、新田開発・宿割等を行なったおりに設置され、その後は城主の沼田領内見回りや鷹狩の際の休憩所として利用されました。
その当時、敷地内には7棟の建物が配置され、書院はその一部と伝えられています。
木造平屋造(151平方メートル)、県内の書院図造りとして貴重なものです。
床及び脇床、平書院を備える8畳の主室と間口2間の床を備える8畳の次の間を中心とし、二方に1間幅の畳縁をめぐらし、次の間の奥に2階をもつ4畳半ならびに6畳の2室を設けています。
主室の床柱に丸柱を用い、長押、天井棹縁に面皮材を用い、格式ある数寄屋風書院の様式を呈している。襖絵、脇床、天袋子襖絵、釘隠の意匠は見るべきものがあります。
書院の五葉マツは、推定樹齢約400年、高さ約18m、目通り2.5m。慶安2(1649)年高平の宿割の際、沼田城主の書院の庭木として植樹されたものと伝えられています。五葉マツとしては、この地方まれにみる巨樹で、樹勢も旺盛です。品種は南方系(四国系)に属し、この地方にあることは珍しいことです。
昭和44(1969)年5月6日、書院の五葉マツは群馬県指定天然記念物に、昭和59(1984)年7月3日、高平の書院は群馬県指定重要文化財に指定されています。
(現地説明板などより)
高平の書院 (1)
高平の書院 (1) posted by (C)pismo

高平の書院 (2)
高平の書院 (2) posted by (C)pismo

高平の書院
高平の書院 posted by (C)pismo

南に赤城山、北に谷川連峰、東西を山に囲まれたこの利根・沼田地方は、鎌倉時代より戦国時代にかけて沼田氏が支配していました。沼田氏の全盛期には一族や重臣たちを各地に配して勢力の拡大を図りました。名胡桃氏・小川氏・石倉氏・川田氏らです。
名胡桃城は、湯舟沢の断崖の上に築かれた山城で、室町時代に沼田氏の一族と言われる名胡桃氏が、館(般若郭・現在の駐車場)を築いたのが始まりといわれています。
戦国時代の天文の頃、小田原の北条氏が赤城山を越えて利根に進行し、沼田氏を追放して利根沼田一帯は北条氏の支配となりました。
永禄3(1560)年越後から上杉謙信が三国峠を越えて進出し、名胡桃城をはじめ山城や砦を攻略し、北条氏の城となっていた沼田城を手中にし、更に前橋・武蔵へと進み北条氏と対峙しました。
上杉謙信の利根沼田地方の支配は10年余も続きましたが、天正6(1578)年謙信が春日山城内で急死すると、北条氏は沼田に進攻し再び北条氏の支配となりました。
謙信の没した翌天正7年(1579)には、勝頼の命を受けた真田昌幸が信濃から吾妻・利根に進攻し、点在する山城・砦を手中にして、小川城の小川可游斎とともに名胡桃館を攻略しました。そして沼田城を手中にする前線基地として、隣りに名胡桃城を築いたのです。
天正8(1580)年念願としていた沼田城を調略しました。その後沼田城をめぐって真田氏と北条氏の間で攻防が続きました。
真田昌幸は沼田城の支城の名胡桃城に鈴木主水を入れていましたが、天正17(1589)年、関白豊臣秀吉は沼田を北条領とし、真田昌幸に沼田城を明け渡させましたが、「名胡桃は墳墓の地」と主張する真田昌幸に配慮し、名胡桃を真田領とする裁定を下しました。
しかし、北条方の沼田城代・猪俣邦憲の謀略により名胡桃城が奪取され、鈴木主水は責任を感じ、切腹しました。この名胡桃事件に激怒した秀吉により北条討伐が命ぜられ、天正18(1590)年、小田原攻めが始まりました。小田原城開城後は沼田・名胡桃領は真田氏に与えられました。
大正12(1923)年名胡桃城址保存会が地元の有志によって設立され、本丸址に昭和2(1927)年、徳富蘇峰の書になる「名胡桃城址之碑」が建立されました。
昭和24(1949)年12月、群馬県指定史跡になりました。
国道17号沿いというアクセスの良さもさることながら、駐車場もありますし、発掘調査も十分にされ、また土塁などの遺構も比較的よく保存されており、歴史好きの方にかなりおすすめできる城だと思います。
平成28(2016)年の大河ドラマ「真田丸」の第22回「裁定」の「真田丸紀行」で紹介されました。
名胡桃城
名胡桃城 posted by (C)pismo

名胡桃城 (1)
名胡桃城 (1) posted by (C)pismo

名胡桃城 (2)
名胡桃城 (2) posted by (C)pismo

名胡桃城 (3)
名胡桃城 (3) posted by (C)pismo

名胡桃城 (4)
名胡桃城 (4) posted by (C)pismo

名胡桃城 (5)
名胡桃城 (5) posted by (C)pismo

名胡桃城 (6)
名胡桃城 (6) posted by (C)pismo

名胡桃城 (7)
名胡桃城 (7) posted by (C)pismo

名胡桃城 (8)
名胡桃城 (8) posted by (C)pismo

名胡桃城 (9)
名胡桃城 (9) posted by (C)pismo

名胡桃城 (10)
名胡桃城 (10) posted by (C)pismo

名胡桃城 (11)
名胡桃城 (11) posted by (C)pismo

名胡桃城 (12)
名胡桃城 (12) posted by (C)pismo

名胡桃城 (13)
名胡桃城 (13) posted by (C)pismo

名胡桃城 (14)
名胡桃城 (14) posted by (C)pismo

名胡桃城 (15)
名胡桃城 (15) posted by (C)pismo

Posted at 2016/09/10 23:46:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2016年08月06日 イイね!

真田丸紀行(2日目その3・沼田城)

グリーンベル21は沼田市の再開発ビルです。
沼田市の市街地再開発事業に三井生命保険が参画して建設され、平成5(1993)年4月16日に開業しました。
核店舗やテナントの相次ぐ撤退などで、平成27(2015)年1月7日、沼田市が100%市有化したと発表しました。
平成28(2016)年3月20日から平成29(2017)年3月31日まで、上州沼田真田丸展が1Fで開催されています。
グリーンベル21(上州沼田真田丸展)
グリーンベル21(上州沼田真田丸展) posted by (C)pismo

グリーンベル21(上州沼田真田丸展) (1)
グリーンベル21(上州沼田真田丸展) (1) posted by (C)pismo

グリーンベル21(上州沼田真田丸展) (2)
グリーンベル21(上州沼田真田丸展) (2) posted by (C)pismo

正覚寺は、山号は法蔵山、浄土宗の寺院です。
創建は不詳ですが当初は現沼田市榛名町(旧根岸村)付近にあったとされ永禄3(1560)年に沼田城主沼田万鬼斎顕泰によって現在地に移されました。
天正17(1589)年には真田家の重臣で名胡桃城代鈴木主水が北条家の侵攻により城を奪われた事を恥じ正覚寺の境内で自刃し当寺に葬られています。
慶長17(1612)年、初代沼田藩主真田信之の正室である小松姫から改めて現在地が境内として認められ、以後、沼田藩からの庇護の対象となりました。
元和6(1620)年、小松姫が江戸で病気となり療養する為、草津温泉に行く途中、武蔵国鴻巣で息を引き取りその地で火葬され鴻巣の勝願寺に埋葬され、その後、勝願寺と正覚寺、芳泉寺(長野県上田市)(霊廟は信之が松代藩に移封の際、松代の大英寺に移築されました。)に分骨されました。
江戸時代には百体観音の信仰が広がり縁日には数多くの参拝者が訪れ賑いました。慶応2(1866)年の火災により堂宇が焼失し、明治6(1873)年に本堂が再建されています。
正覚寺
正覚寺 posted by (C)pismo

正覚寺 (1)
正覚寺 (1) posted by (C)pismo

正覚寺 (2)
正覚寺 (2) posted by (C)pismo

妙光寺は、山号は慶寿山、院号は本隆院、日蓮宗の寺院です。
元和年間(1615~23)に日守聖人が創建し、沼田藩主2代真田河内守信吉の側室慶寿院が寛文7(1667)年に本隆寺を改築して慶寿山妙光寺と寺名を改め、自ら開基となりました。
慶寿院は、信吉が没した翌年の寛永12(1635)年遺児を生みました。喜内と名付けられたが改名し、慶寿院とともに月夜野小川の城へ移り、その後、沼田藩主5代真田伊賀守信利となりました。慶寿院は寛文9(1669)年5月27日に没しました。
境内には慶寿院の墓があります。墓は芝付の正面幅76.35cmに対し総丈311cmと比較的高さがあり、相輪と屋蓋の間には鮮やかな彫刻の蓮華台をつけた華麗な形態の宝篋印塔です。正面に「慶寿院殿妙久日栄大姉尊位」の刻銘があります。
(現地説明板などより)
妙光寺
妙光寺 posted by (C)pismo

妙光寺 (1)
妙光寺 (1) posted by (C)pismo


舒林寺は山号は慈眼山、曹洞宗の寺院です。
宝徳元(1449)年に大友長忠を開基、心華乗芳禅師を開山としてみなかみ町後閑に創建されました。その後幾度かの災難・火災に遭い、寛文8(1668)年十四世言礼和尚が沼田に再建したといわれています。
境内には真田信守の墓があります。沼田藩四代藩主真田信政の二男で沼田に生まれ、正保2(1645)年6月23日 弟信武(信政の三男、異母兄)と論争の末、城内で殺害し自刃しました。沼田記には「正保二年六月二十三日、夜裏門二階にて弟大学および佐久間善八を害し自害す」とあります。信政は信守の菩提を弔うため、改愚和尚を招き照光寺を創建しましたが、明暦2(1656)年に信政が松代藩主になった為、明暦3(1657)年に改めて松代に雲龍山照光寺を創建しています。沼田の照光寺の境内跡には寛文8(1668)年に舒林寺(沼田市)が移って来た事により信守の墓碑は舒林寺が引き継いでいます。
(現地説明板などより)
舒林寺
舒林寺 posted by (C)pismo

舒林寺 (1)
舒林寺 (1) posted by (C)pismo

天桂寺は、山号は月宮山、曹洞宗の寺院です。
室町時代中期に開山とされ、釈迦如来を本尊としています。
真田河内守信吉の墓は本堂を右手に進み、川を渡って左に進んだ先の墓地の中にあります。
真田信吉は、真田初代沼田藩信幸(之)の嫡子で母は大蓮院です。
元和2(1616)年に信幸が上田へ移った後、二代沼田藩主を継ぎ、寛永11(1634)年には真田家と領内の安泰を祈り、城鐘(県指定重要文化財)を鋳造しました。
同年江戸屋敷で没し遺骸は沼田へ送られ迦葉山で火葬、天桂寺に葬られました。享年40歳でした。法名は天桂院殿前河州大守月岫浄珊大居士。墓は総丈297cmの宝篋印塔で、翌寛永12(1635)年に建てられました。塔身から基礎上段の正面に「天桂院殿 前河州大守」、右側面に「滋野朝臣 真田信吉」、左側面に「月岫浄珊 大居士墓」、後面に「寛永十一申戌 歳十一月念八日」の刻名があります。特に蓮華二段、反花を刻み屋蓋との対照的荘厳さを見せている。正方形に近い塔身の端正な姿、その下の基礎の高さ49cmに対し幅55cmで壮重な形をしている基礎下段の蓮華文の彫りは厚く、高さに比して幅が広く、全体の重量をがっしりと支え、揺るがぬ安定感を与えています。
屋蓋正面に真田の紋「六連銭」を刻み、沼田藩主の墓らしい威厳と風格があります。
(現地説明板などより)
天桂寺
天桂寺 posted by (C)pismo

天桂寺 (1)
天桂寺 (1) posted by (C)pismo

三光院は、山号は晴雲山、天台宗の寺院です。
応永13(1406)年に群馬郡国分の村上出羽守なるものが利根に攻め入り、沼田氏の支城の川田、名胡桃両城を攻略しました。怒った沼田氏八代景朝は、兵を率いて村上を攻め亡ぼしこの十一面観世音菩薩を持ち帰り、観音堂を建てて安置し今に伝えられたといいます。
また、観音堂前には沼田真田氏5代真田信利が献納したという石灯籠が二基あり、また、観音堂内には信利の夫人が奉納したという木彫りの白馬2体があります。
三光院
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三光院 (1)
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三光院 (2)
三光院 (2) posted by (C)pismo

沼田城は、利根川や薄根川・片品川の結節点の交通の要衝の崖上に、天文元(1532)年、沼田万鬼斎顕泰が築城したと伝えられています。
その後、 天正8(1580)年真田昌幸が攻略しました。翌年昌幸は沼田城の奪還に来攻した沼田平八郎景義を謀殺し、沼田氏は滅亡しました。
その後は北条氏との間で攻防を繰り返しましたが、北条氏滅亡後は真田氏のものとなり、天正18(1590)年、昌幸の長子信幸が沼田領2万7千石の領主となり城主となりました慶長年間に五十の天守閣建造しました。
真田氏は信吉、熊之助、信政、信利と5代続きました。
慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いの時、西軍についた真田昌幸が孫に会いたいと沼田城を訪れた折、東軍についた真田信幸の妻、小松姫は、城門を開かず追い返したエピソードは有名です。
しかし、5代信利は、天和元(1681)年、失政などを理由に改易され、城は破却されました。
天領となった後は、元禄16(1703)年本多正永が城主となり、旧沼田領一七七ケ村のうち四六ケ村・飛地領合わせ四万石の藩主として入封し、幕府の交付金で城を再興し三の丸に屋形を建てました。
次いで、本多氏(3代)の後、再び天領、黒田氏(2代)となった後は、寛保2(1742)年には土岐頼稔が城主となり、土岐氏が幕末まで城主でした。現在は沼田公園となっています。
公園内には平成27(2015)年12月10日「真田信之と小松姫の像」が建てられました。
沼田城
沼田城 posted by (C)pismo

沼田城の鐘楼は、明治20(1887)年旧沼田町役場敷地内に建てられたのが起源です。当初は柳町歓楽院の梵鐘を借りて時の鐘としていましたが、10年後に修復されたとき、平等寺で保存されていた寛永11(1634)年真田河内守信吉に鋳造された城鐘に架け替えました。
昭和39(1964)年、市庁舎改築で取り壊されましたが、昭和58(1983)年沼田公園内に復元されました。
沼田城 (1)
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沼田城 (2)
沼田城 (2) posted by (C)pismo

沼田城 (3)
沼田城 (3) posted by (C)pismo

平八石は、沼田平八郎景義の首級を載せた石です。
平八郎は沼田城(蔵内城)を築いた沼田氏12代顕泰の側室の子で、摩利支天の再来とまでいわれた勇将です。
顕泰は城を嫡子朝憲に譲り、平八郎を連れ川場村天神城へ隠居しましたが、側室とその兄金子美濃守らにそそのかされて、永禄12(1569)年正月、朝憲を呼びよせて謀殺しました。そのため顕泰、平八郎は沼田勢に追われ会津へ逃げました。
平八郎は12年の後、沼田城奪還の兵を挙げて沼田に迫りました。真田昌幸は戦って平八郎に勝てないと知り、城中にいた金子美濃守をだましました。貪欲な美濃守は己が栄進したいがため平八郎に会い武装を解き、こっそり城内に入れて「お前が必ず城主になれるようにしてやる」と偽り、城内へ誘い入れて殺害しました。
時に天正9(1581)年3月14日(一説には15日)42歳でした。
平八郎の首級は昌幸が首検の後、この石の上に置きました。亡骸は町田町の小沢城址に葬り、沼田大明神として祀ったが首級は此処から亡骸を埋めたところまで飛んで行ったといわれています。
(現地説明板などより)
沼田城 (4)
沼田城 (4) posted by (C)pismo

沼田城 (5)
沼田城 (5) posted by (C)pismo

沼田城 (6)
沼田城 (6) posted by (C)pismo


グリーンベル21前の歩道に、天王石があります。天正18(1590)年、真田信幸が沼田城主となり、市場を開かせるに当たり、見世頭吉澤将監がこの地に天王の宮社殿を建て牛頭天王(素戔嗚尊)を祀りました。
慶長17(1611)年、真田信幸が沼田城の改築にあたり、本町の町割を行い社殿を中町に(現在の須賀神社)遷座し、旧宮地の印にこの石「天王石」を置いて祀りました。
同時にこれより南を鍛冶町としました。
以来、天王さまのお祭りには、神輿をこの石祠の所に安置しましたので、御旅所といい、「天王石」又は「天王様の腰かけ石」と呼ばれました。天王宮は明治元(1868)年、須賀神社と改称されました。
(現地説明板などより)
天王石
天王石 posted by (C)pismo

戸鹿野八幡宮は沼田氏十二代で最初に沼田城を築城した沼田顕泰が享禄3(1530)年8月15日に後閑八幡宮を迎えて現在地に祀り城の守護神としたのが始まりとされています。
以降沼田城主代々の守り神でした。城主が苦戦した際に、山鳩多数が敵陣上空を舞い敵を混乱させて勝利をおさめた地とも言われています。
天正8年(1580)に真田昌幸が出陣に際して祈願して以来、代々武神として崇敬されました。現在の神社本殿は三間社流造、竣工時の棟札によれば、万治元(1658)年に五代沼田藩主真田信澄(信利)により建てられたものです。拝殿内には市指定重要文化財の武術に関連した特徴ある絵馬群が奉納されています。
境内には信州伊那郡上戸村の石工による亀甲積みの石垣・大鳥居をはじめとした多くの石造物があります。
(現地説明板などより)
戸鹿野八幡宮
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戸鹿野八幡宮 (1)
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戸鹿野八幡宮 (2)
戸鹿野八幡宮 (2) posted by (C)pismo

川田城は、沼田氏の一族川田氏が築いたと伝えられ、下川田町字五段田にあります。
崖端城ですが本丸を崖端に寄せることなく、本丸は東西100m、最大幅75mの五角形をなし、濠をめぐらし、帯曲輪を構えた特異な構造です。
東に半月形の小郭がつき薬師堂があり、加沢平次左衛門の墓もあります。沼田氏系図には沼田景久-川田景信-信光-信清-光清-光行とあり、天文21(1552)年北条氏沼田進攻により滅亡したと思われます。
城主は山名信濃守義季から祢津幸直となり、沼田城西の守りとして真田勢、北条勢の激戦地となり山名主水ほか地侍が多く討死しました。
天正18(1590)年、真田信幸が沼田城主となり、一領国一城により廃城となりました。
後に真田氏家臣の小林文右衛門が住み、真田伊賀守改易後は、家臣の加沢平次左衛門がこの一角に住み生涯を送りました。
(現地説明板などより)
川田城
川田城 posted by (C)pismo

小沢城は三浦系・沼田景朝が応永12(1405)年に荘田城から移り、小沢川の崖端に築いた城です。
永正16(1519)年に幕岩城へ移るまでの4代114年間の居城でした。
東南は小沢川の崖、西北は内外に二重に堀を構え、追手(おうて)は北に開き、東側の「折(おり)」で側防されています。
京都の禅僧・万里集九(ばんりしゅうく)の旅行記には、「長享二(1488)年九月三十日、沼田館に着き鍛冶屋に宿る」とあります。小沢城は沼田館・沼田城とも呼ばれていた。堀・土居等が随所に残されており、中世の城跡としてきわめて貴重です。
城跡は法城院となっています。
法城院天正9(1581)年僧行芝によって開創され、当初は法喜庵と称しました。平八郎の死を悼み、供養するために、その遺骸を僧行芝が引き取って、小沢城本丸に葬り「沼田大明神」としてまつりました。その折に建立した庵室が法城院の起源です。
宝暦8(1758)年、僧高眼により旧庵を庫裡とし本堂が建てられ、平八郎の法号を法城院と改め、沼田氏の菩提寺・法城院となりました。
(現地説明板などより)
小沢城
小沢城 posted by (C)pismo

小沢城 (1)
小沢城 (1) posted by (C)pismo

小沢城跡にある沼田平八郎景義之墓です。沼田景義は沼田城主12代顕泰の側室の子で沼田氏最期の主将です。兄朝憲は13代となり、景義は父顕泰、母ゆのみと川場村天神城に移りました。
永禄12(1568)年正月ゆのみの兄金子美濃守らの策を用い顕泰は朝憲を天陣城に招き謀殺しました。
このため沼田城兵に攻められ天神城を焼き、尾瀬を越え会津城主葦名氏の許へ走るりましゆのみは凍死。顕泰も会津で客死しました。73歳でした。
景義は後、勢多郡女渕城に移り、その間沼田城は、上杉謙信没後北条氏那が奪い、さらに真田昌幸が所領しました。
景義は12年後の天正9(1581年)年3月挙兵し、城奪還直前の同月14日昌幸の謀計に乗った伯父金子に欺かれ、沼田城内水の手曲輪に入り金子らに殺害されました。
景義42歳、沼田氏は滅びました。
昌幸は甲府より来て首実検し、沼田氏旧臣の離反を恐れ、景義の遺骸を此所に葬り沼田大明神として祀りました。また法喜庵(のちの法城院)を建て霊を弔いました。
同寺には景義の像と沼田氏系譜があり、これは金子一族の子孫、利根村大原金子重右衛門照泰らにより作られ、安永7(1780年)年納められたものです。
(現地説明板などより)
沼田平八郎景義之墓(沼田大明神)
沼田平八郎景義之墓(沼田大明神) posted by (C)pismo

沼田平八郎景義之墓(沼田大明神) (1)
沼田平八郎景義之墓(沼田大明神) (1) posted by (C)pismo

真田昌幸は、小田原北条氏が藤田信吉に守らせていた沼田城を天正8(1580)年6月、手中に収め、真田一族の海野能登守輝幸を二の丸、藤田を本丸城代に、金子美濃守を執事に据えて9月に甲府へ赴きました。輝幸の兄の幸光は岩櫃城代でした。
この兄弟をねたむ者の「海野は北条と通ずる」との讒言を信じた昌幸は、弟の信尹に命じて先ず幸光を急襲して討ち、直ちに沼田城に入りました。
輝幸は、「主家に二心無き証をたてん」と迦葉山を目ざす途中、岡谷地内で真田勢に追撃されました。輝幸は、真田の検視役・田口又左衛門と沼田一の豪者・木内八右衛門を一太刀で討ち、嫡男幸貞と「無益の殺生はこれまで」と刺し違えて自刃しました。父子をここに葬り、海野塚と称しました。
(現地説明板などより)
海野塚
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Posted at 2016/09/08 22:13:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2016年08月06日 イイね!

真田丸紀行(2日目その2・岩櫃城〜中之条町)

大河ドラマ真田丸で有名になった岩櫃山に登ります。
岩櫃山
岩櫃山 posted by (C)pismo

戦国時代の天正10(1582)年3月、甲斐の武田勝頼は織田・徳川の連合軍に攻められていました。軍議の席上、真田昌幸は岩櫃城に勝頼を迎え入れ、武田の再挙を図ることを提案して許されました。昌幸は急ぎ、帰国し、岩櫃山南面のこの地に勝頼を迎えるための御殿(現在は石垣が残るのみ)を三日間で造ったと言われています。
しかし、勝頼は吾妻の地に来ることがかなわず天目山で自刃してしまいました。このときに勝頼が吾妻に赴いていたならば、この戦乱の舞台として時代の中心的立場に置かれていたことも十分に推測されます。
急造された御殿は昌幸の一族である根津潜龍院と称して明治にいたり、明治17(1884)年にその護摩堂が原町顕徳寺の本堂となっています。
(現地説明板などより)
平成28(2016)年の大河ドラマ「真田丸」の第2回「決断」の「真田丸紀行」で紹介されました。


岩櫃城・潜龍院跡
岩櫃城・潜龍院跡 posted by (C)pismo

岩櫃城・潜龍院跡 (1)
岩櫃城・潜龍院跡 (1) posted by (C)pismo

岩櫃城・潜龍院跡 (2)
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岩櫃城・潜龍院跡 (3)
岩櫃城・潜龍院跡 (3) posted by (C)pismo


郷原城は、岩櫃城の出城とされています。
郷原城は岩櫃山から南東へ伸びた尾根の一つに築かれており、潜龍院跡から岩櫃山、岩櫃城に登る十二様通り(旧赤岩通り)沿いにあります。
馬出、土橋、主郭を兼ね備えた城です。
郷原城
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郷原城 (1)
郷原城 (1) posted by (C)pismo

郷原城 (2)
郷原城 (2) posted by (C)pismo

吾妻八景を代表する岩櫃山(標高802メートル)の中腹面にある岩櫃城は、年代は定かではありませんが、鎌倉時代初期のころ、吾妻太郎助亮により築城されたとも、15世紀初頭に斎藤憲行により築城されたともいわれています。
永禄6(1563)年武田信玄は上州侵略のため、真田幸隆に岩櫃城攻略を命じました。
時の城主は斎藤基国(または憲広)といわれ堅城を利して奮戦しましたが、ついに落城してしまいました。こうして岩櫃城は武田氏の手中に落ち、信玄は幸隆に吾妻郡の守護を命じました。
天正2(1574)年に幸隆が世を去り、岩櫃城主には長子の信綱が収まりましたが、翌年、長篠の戦いで信綱、昌輝兄弟が戦死したため、真田家は幸隆の三男、昌幸が相続しました。
真田昌幸は、織田信長による甲州攻めの際、武田勝頼を岩櫃城へ退き、再起を図らせようとして、勝頼のために居館などの用意をしたそうです。しかし、勝頼は小山田信茂のすすめで岩殿城を目指すことにしましたが、裏切りにあり、天目山の戦いで自刃しました。
その後、昌幸の長男信幸が支配し、信幸の弟幸村も少年時代をこの城で過ごしたといわれています。天正18(1590)年、北条氏の滅亡により、信幸は初代沼田城主となり、岩櫃城は沼田の支城として、重臣出浦対馬守を城代としました。そして、幾多のドラマの舞台となった岩櫃城も徳川家康が発した一国一城令(慶長20年:1615)によりより四百余年の長い歴史を残しその姿を消しました。
(現地説明板などより)
岩櫃城は城郭の規模が上州最大を誇り、 甲斐の岩殿城、 駿河の久能山城と共に武田三名城と称されました。岩櫃山は標高802mある山ですが、岩櫃城は北側から比較的本丸近くまで車で行くことができます。もちろん国道145号側から歩いても登山ができます。
平成28(2016)年の大河ドラマ「真田丸」の第2回「決断」の「真田丸紀行」で紹介されました。
岩櫃城
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岩櫃城 (1)
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岩櫃城 (2)
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岩櫃城 (3)
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岩櫃城 (4)
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岩櫃城 (5)
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岩櫃城 (6)
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岩櫃城 (7)
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岩櫃城 (8)
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岩櫃城 (9)
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岩櫃城 (10)
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岩櫃城 (11)
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岩櫃山は、標高802.6mの岩山で、吾妻八景を代表する景勝地として知られています。
南面は約200mの絶壁で、奇岩、怪石からなる切り立った山容は、中国の南画のような趣があり、「ぐんま百名山」にも選ばれています。山頂からの眺望は素晴らしく、眼下には東吾妻町や中之条町の市街地、眼前には上州の山々が広がり、晴れた日には遠く富士山も望めます。中腹には武田の三堅城のひとつ、戦国・真田氏の拠点だった岩櫃城があります。「沢通り」「尾根通り」「赤岩通り」「密岩通り」など登山ルートも複数あります。
岩櫃山 (1)
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岩櫃山 (2)
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岩櫃山 (3)
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岩櫃山 (4)
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岩櫃山 (5)
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岩櫃山 (6)
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岩櫃山 (7)
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岩櫃山 (8)
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岩櫃山 (9)
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岩櫃山 (10)
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岩櫃城 (12)
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小渕恵三の銅像は、生涯学習施設で学習センターと図書館を併設した中之条町ツインプラザ前にあります。
銅像は、半田富久氏の作品で平成14(2002)年5月11日、除幕式が行われました。
小渕恵三元総理は昭和12(1937)年中之条町生まれで、昭和38(1963)年、26歳の若さで選挙に出馬し初当選し、以来12回連続当選を果たしました。
平成10(1998)年自民党総裁に就任し、第84代内閣総理大臣に指名されました。平成12(2000)年4月1日
夜半首相公邸で突然の病に倒れ、翌5月14日62歳で亡くなりました。
小渕恵三の父、小渕光平が恵三と命名した名前の由来である三つの「恵み」である「天の時、地の利、人の和」が台座に刻んであります。
小渕恵三の銅像
小渕恵三の銅像 posted by (C)pismo


林昌寺は、山号は宝満山、曹洞宗の寺院です。
高崎市箕郷町富岡の長純寺の末寺です。
平安時代、長馨和尚により開かれたの天台宗の寺院でした。
一時衰退しましたが戦国時代に武田信玄の上州侵攻により当地が武田家の家臣真田家の領地となり、真田幸隆の弟、矢沢薩摩守頼綱が再興しています。
矢沢頼綱は上和泉の合戦の折、敗走の背に敵兵から矢を受けましたが、味方の一兵卒が身代わりとなって救いました。その後、頼綱の夢枕に地蔵菩薩が「我、遣いせし者なり」と身代わりになったのは菩薩だったことを告げました。
頼綱は隠居すると堂宇を再建し、地蔵菩薩像を祀り戦没者の供養と追想に暮れたと伝えられています。
その後、文禄2(1593)年には当初あった川原町から長岡に移し、さらに寛永16(1639)年に現在地に移っています。歴代沼田藩主真田家が庇護し、寺領の寄進や堂宇の改修が行われ、真田昌幸により寺紋の六連銭が許されました。以後信之、信吉、信政など沼田真田氏の保護の元に寺勢を伸ばしました。境内にあるシダレザクラは昭和63(1988)年に中之条町指定天然記念物に指定されている他、文永8(1271)年に建立され阿弥陀如来立像を刻印した板碑が昭和54(1979)年に中之条町指定重要文化財に指定されています。
(現地説明板などより)
林昌寺 (1)
林昌寺 (1) posted by (C)pismo

林昌寺 (2)
林昌寺 (2) posted by (C)pismo

林昌寺
林昌寺 posted by (C)pismo
Posted at 2016/08/31 22:48:36 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2016年08月06日 イイね!

真田丸紀行(2日目その1・上田市〜嬬恋村〜長野原町)

上田駅前に真田幸村(信繁)公の銅像があります。
真田幸村は本名信繁、上田城主安房守昌幸の二男で豊臣秀吉近侍し、従五位下左衛門佐任官しました。
関ヶ原合戦は西軍につき籠城東軍を撃破し、戦後紀州高野山に配流されました。
大阪の陣起こるや豊臣秀頼の招きで入城しました。
冬の陣は城外出丸で奮戦し、夏の陣は家康の本陣に突入しました。慶長20(1615)年5月7日に戦死しました。49歳でした。
この銅像は昭和58(1983)年に上田城築城400年を記念して、上田市出身の成沢定平氏より寄贈されました。幸村初陣の騎馬像だそうで、彫刻家の田村興造氏によって制作されました。
(現地案内板などより)
真田幸村公像 (4)
真田幸村公像 (4) posted by (C)pismo

真田幸村公像 (5)
真田幸村公像 (5) posted by (C)pismo

江戸時代、中山道高崎宿から、烏川沿いに遡って吾妻郡に入り、浅間山北麓を通って鳥居峠を越えて須坂方面、または上田方面に通じる街道を信州街道といいました。信州街道は関東と北信濃を結ぶ重要な街道で、各所に関所が設けられました。大笹関所はその一つで、寛文2(1662)年幕府から許可され、沼田藩主真田伊賀守により大笹宿西端鹿之籠川(小武沢)の崖に臨んだ位置に設けられました。
その後天和元年(1681)沼田藩は改易され、明治の廃関まで幕府の所轄となりました。
大笹関所は、一反五畝八歩(約450坪)とされ、中央に白洲を、それに向かって改所(取調所)など設置され、周囲は土塀や木柵で限られ、それぞれに北門(正門)、東門が設けられました。
現在再現された門は、昭和31(1956)年、廃関後土屋源三郎氏の先祖が払い下げ所蔵していたものを別の所に復元していましたが、御関所橋の架け替え工事に伴い現地に移転・再現したものです。
(現地説明板などより)
大笹関所 (1)
大笹関所 (1) posted by (C)pismo

鎌原城は、応永4(1397)年の築城と伝えられ、元和元(1615)年徳川幕府の「一国一城令」によって破却されるまでの218年間、鎌原氏の居城とされてきました。鎌原氏は滋野源氏、海野氏の一族で、平安時代末期より三原庄(嬬恋村)を支配する豪族下屋氏の末裔です。三原庄を開拓した下屋将監幸房(しもやしょうげんゆきふさ)の子孫幸兼(ゆきかね)が、浅間山麓の鎌原に居を構え、鎌原姓を名乗ったのが始まりとされています。
天和元(1681)年、沼田藩真田氏家老であった鎌原縫殿重継の「言上書」によると、「私の先祖は、三原を支配し、頼朝の時には鎌倉に勤め、その後は上杉氏の武士となり、次いで信玄に仕え、武田氏滅亡後は徳川幕府に属し、代々沼田の真田氏に仕えた」と記されています。
戦国時代の武田信玄による吾妻侵攻の際には、いち早く武田へ降り、鎌原城は武田氏の吾妻侵攻の拠点として常に重視されました。また、「加沢記」によると、永禄3(1560)、5(1562)、6(1563)年の上杉方と武田方の勢力争いで激しい争奪戦が繰り広げられたと記されています。
鎌原氏は天和元(1681)年の沼田藩改易後は、大笹関所(せきしょ)の関守となり、明治元(1868)年まで8代187年間、関番を務めました。
鎌原城は、南北約400m、東西約150mに広がる総面積約3万6千平米の城域を持っています。南から、三の丸、二の丸、本丸、東曲輪、笹曲輪の五郭に分かれており上城、下城、丸、陣場など城に関係する地名が残っています。各曲輪を区切る掘切は、現在は道や畑で明らかではありませんが、崖縁に堀型が残っているものもあります。
城の出入口である虎口は、三の丸の南堀切の中央部にあり、城の防御力を高める工夫がされた喰い違い構造であったと考えられています。鎌原城の構造や内部施設の多くは未だ不明ですが、中規模の梯郭式平城であったとされています。
(現地説明板などより)
鎌原城 (2)
鎌原城 (2) posted by (C)pismo

鎌原城 (3)
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鎌原城 (4)
鎌原城 (4) posted by (C)pismo

鎌原観音堂は、その名の通り観音菩薩を祀るお堂ですが、天明3(1783)年の浅間山の噴火を伝える遺跡です。
浅間山の噴火を伝える天明3(1783)年浅間山の噴火は、5月9日から始まったとされますが、8月3日からは一段と激しさを増し、ついに5日の午前にはクライマックスの状態に達しました。
午前10時30分頃、火口から噴き上げられた岩塊は、浅間山麓に落下し、付近の土石を巻き込んで雪崩のような状態で斜面を高速で流れ下りました。
鎌原村(現嬬恋村鎌原区)を中心とした浅間山麓の被害はこの時に発生しました。被害の中心となった鎌原村は、戸数百戸前後、人口570人ほどの浅間山麓の拠点的な集落でしたが、村は一瞬にして埋没し、被災死亡者は477人。火砕流に気づき、この観音堂にたどり着いた僅か93名のみが奇跡的に助かりました。
観音堂とその石段及び参道入り口に文化12(1815)年、被災者の菩提を弔うために建立された石碑は、この災害の実証的なものです。
観音堂の石段は昭和54(1979)年発掘調査され、その段数は全部で50段であり、そのうち35段が埋没し、その土石層の厚さは6メートル前後と判明しました。なお、その際2人の被災者が発見されました。
天明3(1783)年の浅間山の噴火は、群馬県内はもちろん全国的にも社会・経済・政治に大きな影響をもたらしましたが、本遺跡はその象徴的なものとして重要です。
昭和31(1956)年、天明三年浅間やけ遺跡として群馬県指定史跡に指定されています。
(現地説明板などより)
嬬恋郷土資料館
嬬恋郷土資料館 posted by (C)pismo

鎌原観音堂 (8)
鎌原観音堂 (8) posted by (C)pismo

鎌原観音堂 (9)
鎌原観音堂 (9) posted by (C)pismo

鎌原観音堂 (10)
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鎌原観音堂 (11)
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鎌原観音堂 (12)
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鎌原観音堂 (13)
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海野長門守の墓の墓碑は宝篋印塔で、総高2メートル、墓碑の三方に碑文が刻まれています。
右側、上野州我妻郡羽尾城主海野長門守同舎弟能登守従往者雖有遺跡没為水災故改之
正面、雲林院殿前長州洞雲全龍居士
左側、干時元文三年戌午七月朔日宗泉五世心叟再興之
海野長門守は、中世の頃、羽根尾を拠点に領地を所有していましたが、真田幸隆の岩櫃城攻略のとき、城主斉藤氏討伐に忠誠を尽くした功績で、永禄9(1566)年吾妻郡代となり、16年間激動の時代に城を守りました。天正9(1581)年、真田昌幸に逆心したということで、居館の岩櫃に攻め込まれ75才を一期に11月21日に自殺しました。
長門守の弟、能登守は沼田の女坂で壮烈な討死を遂げました。その墓は沼田市の史跡となっています。羽根尾は旧領だったため遺臣等がこの地に葬ったといわれています。墓の西に並んで2基の石塔があります。
一基は松沢死霊塔として松尾沢戦死者の霊を祀り、1基は海野長門守家来の霊として家臣を祀っています。
(現地説明板などより)
海野長門守の墓 (1)
海野長門守の墓 (1) posted by (C)pismo

羽根尾城は、海野氏の一族の滋野氏の末裔羽尾幸全入道によって築城されたといわれています。真田幸隆も一時天文年間に信濃を追われ、匿われたこともあるそうです。真田幸隆は武田方に味方してからは信州小県郡とこの上州吾妻郡を攻略し、羽根尾城も手に入れます。永禄6(1563)年長野原合戦では、海野兄弟は岩櫃城斉藤越前守方の大将として長野原城を攻略しました。
幸全の舎弟海野幸光(長門守)、輝幸(能登守)兄弟、ともに武勇を謳われた豪の者で、永禄9(1566)年真田幸隆により幸光は岩櫃城代、輝幸は沼田城代にそれぞれ任ぜられましたが、兄弟を妬む者の陰謀により真田昌幸の誤解を受け、幸光は岩櫃城で、輝幸は迦葉山の女坂で自刃して果てました。時に天正9(1581)年11月29日、幸光75歳、輝幸72歳でした。
海野兄弟を失った羽根尾城は天正11(1583)年昌幸の命により湯本三郎右衛門が在城するようになりましたが、いつ頃廃城になったか詳かではありません。
羽根尾城は梯郭式の城で僅かな平坦地が本丸で虎口は東南部にあり東側に腰曲輪がつきます。
本丸の南に二の丸、更に三の丸が続いています。
(現地説明板などより)
羽根尾城 (2)
羽根尾城 (2) posted by (C)pismo

羽根尾城 (3)
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羽根尾城 (4)
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羽根尾城 (5)
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Posted at 2016/08/30 22:05:54 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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