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ピズモのブログ一覧

2017年07月13日 イイね!

房総半島(1日目その2・千葉市)

大日寺は、山号は阿毘盧山、院号は密乗院、真言宗豊山派の寺院です。建長6(1254)年、松戸の馬橋に創建したものを、弘安7(1284)年頼胤の子胤宗によって千葉氏の菩提寺として千葉に移されたと伝えられています。
昭和20(1945)年の戦災で全山焼失にあい、千葉神社の南側、現在の通町公園から現在の地に移りました。
境内には、16基の五輪塔が整然と並んでいます。これらの五輪塔は、千葉常兼から胤将に至る千葉氏16代の墓碑と伝えられ、銘文は判読できませんが鎌倉時代から室町時代にかけての代表的なものです。五輪塔の各部の名称は、上から空輪、風輪、三段目の屋根状のものを火輪、四段目を水輪、五段目を地輪と呼んでいます。
なお、これ等の五輪塔とともに基部に「文安2(1445)年6月□日」の紀年銘をもつ室町時代の多層塔があります。
大日寺

大日寺

大日寺

大日寺

亥鼻城は、大治元(1126)年、千葉介常重が大椎城からこの地に移転して築城しました。
常重の子、常胤の時代の治承4(1180)年には源頼朝が伊豆で挙兵し石橋山合戦で敗北、安房に脱出した際に頼朝を助けました。
康正元(1455)年、前年に勃発した古河公方と鎌倉公方(堀越公方)の対立による騒乱(享禄の大乱)で千葉氏も内紛が勃発し、宗家・千葉介十四代胤直・胤宣父子を一族の馬加城主・馬加康胤、小弓城主・原胤房らが急襲したため落城し、千葉胤直父子は志摩城・多古城にて自刃したため千葉氏の宗家は滅亡しました。亥鼻城は千葉宗家を継いだ康胤の孫、輔胤により廃され本佐倉城に移りました。
現在は、亥鼻公園となっており、昭和42(1967)年に鉄筋コンクリート構造で建設された千葉市立郷土博物館が建っています。
亥鼻城(千葉市立郷土博物館)

亥鼻城(千葉市立郷土博物館)

千葉市立郷土博物館は昭和42(1967)年4月9日に開館した「千葉市郷土館」を前身に、昭和58(1983)年4月に「千葉市立郷土博物館」と館名を改め、博物館として登録されました。
亥鼻城があった地にあり、古代から中世にかけて下総国を中心に活躍し、今日の千葉市の礎を築いたとされる千葉氏や郷土の歴史・民俗に関する展示・調査研究ならびに市史編纂事業を行っています。

亥鼻城(千葉市立郷土博物館)

亥鼻城(千葉市立郷土博物館)

亥鼻城(千葉市立郷土博物館)

亥鼻城(千葉市立郷土博物館)

亥鼻城(千葉市立郷土博物館)

御茶屋御殿は、徳川家康が東金への鷹狩りのために休息所として造営したものです。このような御殿は千葉市のほかに御成街道の起点である船橋に「船橋御殿」、お狩場である東金には「東金御殿」が設営されましたが、寛文年間(1661~72)に取り払われて、その跡地も現在大きく改変されています。この御茶屋御殿もほぼ同じ頃取り払われたものと考えられますが、跡地は良く旧態を止めています。
御殿跡は一辺約110mの方形で、周囲に幅約5mの薬研堀の空堀と高さ約2.5mの土塁をめぐらし、南北2ヶ所に出入口があって、その内側に桝形土塁ますがたどるいが構築されていました。内部の遺構については発掘調査により、主殿と思われる基壇部分のほか、長大な掘立柱建物跡群や井戸跡の他、17世紀中葉の陶器などの遺物も発見されています。
御茶屋御殿

御茶屋御殿

御茶屋御殿

御茶屋御殿

生実陣屋は、北小弓城(生実城)の跡に江戸時代、生実藩主1万石の森川氏が構えた陣屋です。
ここ生実の地は、千葉氏が安房の里見氏や上総の武田氏に対峙する重要な拠点であったため、古くから幾多の争奪戦が繰り広げられました。生実城(北小弓城)は、天文8(1539)年千葉氏の重臣・原胤清が、ここ生実神社一帯に築城したとされています。天正18(1590)年原胤清が、徳川家家臣・酒井家次との「野田十門字野の戦い」で戦死するまでの52年間存続しました。その後、一時幕府の直轄領となりましたが、寛永4(1627)年森川出羽守重俊が生実藩一万石の藩主となり、明治初期まで生実城の一郭に陣屋を構えていました。
生実城跡の南側を通過する都市計画道路の整備に伴う発掘調査により、戦国時代から近世に至る多量の遺構・遺物が検出され、いままで文献のみでしか知ることができなかった生実城の素顔が明らかになってきました。これまでに戦国時代から近世まで使われた堀跡、4体の人骨を埋葬した地下式礦(墓)・井戸跡・建物跡などの遺構と、「享禄4年」(1531年)銘のある庚申待板碑や多数の陶磁器などの遺物が検出されています。
生実神社の境内に土塁や空堀が残っています。また境内に説明板も建てられています。
北小弓城の一角にあった生実神社は、崇道天皇や藤原広嗣など朝廷により冤罪をかけられた人々の霊を祭神としておりもとは御霊神社と呼ばれていました。天文年間(1532~1555年)に小弓城主の原氏が祀ったとされています。後年、城内に陣屋を構えた森川氏は当社を崇敬し、4代俊胤の宝永4(1707)年に武運長久の祈願を行い、同7(1710)年に社殿を造営しました。
明治4(1871)年には北生実305戸の鎮守となり、更に明治43(1910)年に村内の諸社を境内に移して合祀し、生実神社と社名を改めました。祭礼は10月10日ですが、宵宮(前日の夜)に湯立神事が行われています。(現地説明板などより)
生実陣屋(生実神社)

生実陣屋(生実神社)

生実陣屋(生実神社)

千葉氏は上総方面の備えに小弓城を築き、重臣原氏に守らせていました。その後、後北条氏と小弓公方足利義明・里見氏との勢力の拮抗する所となりました。
天文7(1538)年、第1次国府台合戦に勝った後北条方の原氏は、領地を取り返し、新たに北小弓城を築き、ここを本拠地としました。
天正18(1590)年、後北条氏は滅亡し、この城は徳川家康のものとなり、西郷家員が支配するところとなりました。寛永4(1627)年、生浜地区を中心に1万石の大名となった森川重俊は、生実城の一画に陣屋を築き、この付近を治めるようになり11代243年続きました。
城は、鎌取方面から東京湾に向かって東西に延びる台地の先端に築かれ、北と南側は谷、西は生実池によって囲まれ、東は北から入りこんだ浅い谷に堀切を入れて台地を区切り、その規模は600m四方に及んでいます。森川氏は、城の一画に陣屋を構えたので、主郭部はそのまま残っていましたが、45年の団地造成により土塁・空堀等の施設は消滅しました。
平成3(1991)年の発掘調査で、享禄4(1531)年銘のある庚申待板碑が井戸用テラスの床面下から出土したことから、この城の築城、または改築の時期を知る資料として注目されます。
(現地説明板などより)
本城公園に説明板が建っています。
北小弓城(生実城)

北小弓城(生実城)

重俊院は山号は森川山、釈迦如来を本尊としている曹洞宗の寺院で生実藩主森川氏の菩提寺です。
初代・森川重俊は徳川秀忠の近侍でしたが、軍功により寛永4(1627)年に1万石の大名として小弓に封ぜられ、北小弓城址に陣屋を構えました。その後、重俊は老中職に昇進しましたが、寛永9(1632)年正月、秀忠の逝去により報恩のため殉死しました。
2代・重政は重俊の霊を弔うため、幕府に願い出てこの寺を建立しました。寺域の正面に建つ仏堂の裏山には、森川氏13代の墓碑が並んでいます。初代・重俊の墓碑は舟形をし、高さ2.8m、巾1m、厚さ30㎝で、歴代の碑は初代の碑にならい船形をしており、一族併せて46基が建立されています。(現地説明板などより)
重俊院

重俊院

重俊院

重俊院

千葉城築城の頃に小弓城も千葉城の南部の守りの要衝として築かれ、重臣の原氏に守らせました。永正6(1509)年連歌師柴屋軒宗長は城主原胤高に招かれ、小弓館で猿楽や連歌に興じたことをその旅日記「東路あずまじの津登つと」に記しています。
永正15(1518)年10月15日、真里谷城(木更津市)の武田恕鑑は古河公方高基の弟足利義明を奉じて胤高の守る小弓城を落としました。ここを本拠にした義明は「小弓御所」とも「小弓公方」とも呼ばれるようになり、里見氏の支援を受け、後北条方の千葉・原氏と争った。天文7(1538)年国府台の戦いに義明は敗死し、再び原氏が入城しましたが、城を北西1.5㎞のところに新たに築き(北小弓城)、本拠地としました。
城は南と西側は水田で、北は支谷に、東は大百池にそれぞれ画された標高20~25mの台地一帯で、城跡の内外に古城・東堀・城出下など城郭に関係した地名が残され、ここが城跡であったことを示しています。現在でも、城の西北端(千葉市埋蔵文化財調査センター裏)と、南西端の墓地脇に土塁状のものが認められます。
(現地説明板などより)
小弓城
Posted at 2018/01/26 20:07:15 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記
2017年07月13日 イイね!

房総半島(1日目その1・佐倉市と印西市)

謙信一夜城は、永禄9(1566)年3月、越後の上杉謙信が北条方の原胤貞が守る臼井城を包囲した際に築いた陣城と伝えられています。佐倉城主の千葉胤富の援軍を得た臼井城はよく守ったため籠城戦は一ヶ月以上続き、上杉軍は本丸まで「堀一重」のところまで迫りましたが、臼井城からの決死の部隊が攻め手の上杉勢に襲いかかり、見事謙信を退却させました。
このとき、謙信は将軍より上洛を督促される書状を受け取っていたともいわれています。
現在、「一夜城公園」に石碑が建っています。臼井駅南土地区画整理組合が工事の一環として発掘調査を行ったところ、中世城郭の遺構が確認され、碑を建立したとのことです。
謙信一夜城
謙信一夜城
謙信一夜城
臼井城は、千葉氏の一族臼井六郎常康が臼井に居を構え、臼井氏の中興の祖といわれる興胤(14世紀中頃)の代に、この城の基礎がおかれたと伝えられています。
現在の遺構は15世紀以降のものと考えられていますが、城跡は本丸、二ノ丸を中心として、空堀、土塁等の旧態をよく残しています。
文明10(1478)年、境根原合戦で千葉自胤に敗北した千葉孝胤は、臼井教胤の養子となっていた一族の臼井持胤の守る臼井城に籠城し7ヶ月に及ぶ籠城戦の末、文明11(1479)年7月15日に包囲を緩めた様子を見た城方が打って出て、激戦となり、そして落城したと伝えられています。その時太田道灌の甥の太田資忠らが討ち死にし、現在も臼井城の土塁の上に太田資忠の墓が残されています。永禄4(1561)年臼井久胤の時、上杉謙信の小田原攻めに呼応した里見勢の上総大多喜城主正木信茂に攻められ臼井城は落城し、久胤は結城城の結城晴朝を頼って脱出、臼井氏は滅亡しました。永禄9(1566年)年には、上杉謙信と里見義弘に攻められ原胤貞らが臼井城に立て籠り、3月20日には落城寸前となったものの、原胤貞より指揮を受け継いだ軍師・白井浄三の知謀とその指示に基づいた北条氏側の松田康郷らにより謙信を撃退しました。
戦国時代の末期には原氏が城主でしたが、天正18(1590)年の小田原城落城により、千葉氏とともに滅びました。以後酒井家次3万石の居城となって、慶長9(1604)年の上野国高崎藩に転封されるまで使用されました。
臼井城
臼井城

臼井城

臼井城

臼井田宿内砦は臼井城の南にあり、洲崎砦・仲台砦・田久里砦・稲荷台砦等と共に臼井城の支城としての支城の一つであり、惣構えを構成する一部で、臼井城の南側を守る役割を担っていたと思われます。
現在は宿内公園となっており、曲輪や土塁が残っています。
臼井田宿内砦

臼井田宿内砦

臼井田宿内砦

師戸城は、千葉氏の一族であった臼井氏の居城である臼井城の支城として、14世紀に築かれたといわれています。その後、何度か改築され、現存するような形となったのは16世紀中頃と推定されています。
城主については明らかではありませんが、江戸時代初期に書かれた「臼井家由来抜書」に名前の見える臼井氏四天王の一人である師戸四郎がこの城に関係があったかとも考えられています。
印旛沼の対岸にある臼井城とは「渡(わたし)」で連絡され、臼井城の防御に大きな役割を果たしたと考えられています。永禄9(1566)年上杉謙信の臼井攻めにもよくその猛攻を防ぎましたが、天正18(1590)年、豊臣秀吉による下総攻略で落城し、臼井城と運命を共にしました。
本丸、二の丸、三の丸、道場台の四つの郭、外敵を防ぐための土塁、空濠などがみられ、中世城郭としての様式をよく残すと共に千葉県の歴史を知る上で価値の高い城跡です。
現在は、千葉県立印旛沼公園となっています。地元の人は龍ヶ谷城ともいうそうです。
師戸城

師戸城

師戸城

師戸城

師戸城

師戸城

師戸城

師戸城

師戸城

師戸城

師戸城

師戸城
Posted at 2018/01/25 21:53:57 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ(レンタカー) | 日記
2017年07月10日 イイね!

京都

修学院離宮

以前の訪問記→修学院離宮

修学院離宮

修学院離宮

修学院離宮

修学院離宮

修学院離宮

修学院離宮

修学院離宮

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修学院離宮

修学院離宮

修学院離宮

修学院離宮

修学院離宮

修学院離宮

修学院離宮

修学院離宮

修学院離宮

赤山禅院

以前のブログ→南禅寺順正の湯豆腐(円通寺~鷺森神社~曼殊院~赤山禅院~南禅寺順正)
赤山禅院

赤山禅院

赤山禅院

赤山禅院

赤山禅院

赤山禅院

曼殊院
曼殊院

曼殊院

円通寺
円通寺

円通寺

円通寺

円通寺

実相院
以前の訪問記 →岩倉の実相院

実相院

実相院

実相院

建仁寺は山号を東山(とうざん)と号する臨済宗建仁寺派の大本山です。
建仁2(1202)年、臨済宗の開祖である栄西禅師により創建され、寺名は年号をとって名付けられました。
正嘉2(1258)年には円爾弁円(えんにべんえん)、正元元(1259)年には、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が住んだことで、禅宗寺院として確立し、室町時代には、京都五山の第3位を占めました。
度々火災にありましたが、天正14(1586)年ごろ、安国寺恵瓊により再興されました。
建仁寺

建仁寺

建仁寺

建仁寺

建仁寺

建仁寺

建仁寺

建仁寺

建仁寺

建仁寺

建仁寺

建仁寺

建仁寺

建仁寺

建仁寺

建仁寺
Posted at 2018/01/24 23:33:41 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2017年06月24日 イイね!

平泉寺白山神社

Posted at 2018/01/17 23:48:55 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2017年06月24日 イイね!

鳥越城

久し振りに加賀一向一揆の拠点の城、鳥越城を訪れました。



以前の訪問記
加賀〜越前ドライブ(その1・白山市)

鳥越城

鳥越城

鳥越城

鳥越城

鳥越城

鳥越城
Posted at 2018/01/17 23:40:47 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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何シテル?   04/01 22:18
ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
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