近江八幡の水郷は、琵琶湖八景の一つ「春色・安土八幡の水郷」に数えられています。ヨシは春に芽吹きはじめ、夏になると青々と4m近くに成長し、秋が深まるにつれ葉を落とし黄金色に変化、冬にはヨシ原で刈り取り風景が見られます。また芽吹きを良くするため、3月上旬頃に行われる「ヨシ焼き」は水郷の早春の風物詩となっています。
近江八幡は豊臣秀吉が甥の豊臣秀次に命じて、廃城となった安土に変わり近江の国支配の中心地として八幡山城を築かせたことに始まります。秀次は琵琶湖を行き来する全ての船を城の内堀ともいうべき八幡堀に引き入れることで近江国の経済の中心地となり、後の近江商人発祥につながりました。。
水郷めぐりは秀次が宮中の舟遊びに似せて、豊年橋から広がる水郷地帯へと近従と共に船めぐりをしたのが発祥といわれています。
近江八幡水郷めぐり (1) posted by
(C)pismo
近江八幡水郷めぐり (2) posted by
(C)pismo
近江八幡水郷めぐり (3) posted by
(C)pismo
近江八幡水郷めぐり posted by
(C)pismo
近江八幡水郷めぐり (4) posted by
(C)pismo
近江八幡水郷めぐり (5) posted by
(C)pismo
近江八幡水郷めぐり (6) posted by
(C)pismo
近江八幡水郷めぐり (7) posted by
(C)pismo
近江八幡水郷めぐり (8) posted by
(C)pismo
近江八幡水郷めぐり (9) posted by
(C)pismo
近江八幡水郷めぐり (10) posted by
(C)pismo
近江八幡市立八幡小学校は、大正9(1920)年に田中松三郎氏の設計で建てられた校舎です。NHK朝の連続ドラマ「はっさい先生」の収録に使用されました。
近江八幡市立八幡小学校 posted by
(C)pismo
アメリカ人のウィリアム・メレル・ヴォーリズは、明治38(1905)年にキリスト教の伝道を目的に、現在の八幡商業高校に英語の教師として来日しました。
その後は、建築家として、「建築物の品格は人間の人格と同じく、その外装よりもむしろ内容にある」との考えをもとに、建築活動を展開しました。
池田町洋風住宅街(ヴォーリズ建築群)は、ヴォーリズが大正期に手がけた初期の作品で、アメリカ開拓時代を象徴するコロニアルスタイルと呼ばれる建物です。
以後、東京お茶の水の「山の上ホテル」、「大丸心斎橋店」、「関西学院大学」など、全国に約1600に及ぶ建築を手がけました。そんな彼を内村鑑三は、「ヴォーリズ君は世に希に見る建築術の天才であり、また深く正しく日本を解し、これを愛する米国人の一人であります」と評価しています。
ヴォーリズは、建築の他にも、メンソレータム(現メンターム)を日本に輸入したことでも知られ、伝導・医療・学校教育・出版・社会教育・商業など、多方面に渡って活躍した人物で、近江八幡市民の名誉市民第一号に選ばれています。
池田町洋風住宅街(ヴォーリズ建築群) posted by
(C)pismo
池田町洋風住宅街(ヴォーリズ建築群) (2) posted by
(C)pismo
池田町洋風住宅街(ヴォーリズ建築群) (3) posted by
(C)pismo
本願寺八幡別院は、浄土真宗本願寺派の寺院です。
創建は永禄元(1558)年、顕如上人(本願寺第11世)が開基となり開いたのが始まりと伝えられています。
当初は金台寺と称し、蒲生郡蒲生野にありましたが天正8(1580)年に織田信長が安土城の築城に際しその城下に移され、文禄元(1592)年に豊臣秀次が八幡城を築いた際現在地に移されました。
関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が宿営地として利用し、江戸時代には朝鮮通信使の宿泊所や休息所にもなりました。
享保元(1716)年に建てられた本堂、明和4(1767)年に建てられた表門、天明2(1782)年に建てられた裏門、文政8(1825)年に建てられた鐘楼が滋賀県指定文化財に指定されています。
本願寺八幡別院 (1) posted by
(C)pismo
本願寺八幡別院 posted by
(C)pismo
近江八幡市立資料館では、「郷土資料館」「歴史民俗資料館」「旧西川家住宅」の3施設を管理・公開しています。また、公益財団法人八幡教育会館の管理する、市指定文化財「旧伴家住宅」もあわせて公開しています。
郷土資料館は、かつて海外で活躍した近江商人・西村太郎右衛門邸跡に昭和49(1974)年3月1日に開設され、旧市街地の中心・新町通りに位置し、八幡商人のふるさととしての歴史を伝えています。
建物は、明治19(1886)年八幡警察署として建設され、昭和28(1953)年大幅に改築され、現在の形になりました。この時改築の設計をヴォーリズ建築事務所が行っています。
館内には、市内の考古・民俗・美術工芸・文書などが常時展示されており、年に数回、特別展も開かれます。
歴史民俗資料館は、森五郎兵衞の控宅で、江戸時代末期の民家を修復し昭和54(1975)年に開館しました。近江八幡の商人が使用した道具類を展示したり、当時の生活ぶりをそのまま再現しています。
近江八幡市立資料館(郷土資料館・歴史民俗資料館) (1) posted by
(C)pismo
近江八幡市立資料館(郷土資料館・歴史民俗資料館) posted by
(C)pismo
近江八幡市立資料館(郷土資料館・歴史民俗資料館) (2) posted by
(C)pismo
近江八幡市立資料館(郷土資料館・歴史民俗資料館) (3) posted by
(C)pismo
旧伴家住宅は、江戸時代八幡町の中でも一等地であった京街道と新町通の角地に建つ八幡商人の隆盛を物語る建物の一つです。
伴庄右衛門家は江戸時代初期から活躍した八幡商人の一人で、屋号を「扇屋」といい、主に畳表・蚊帳を商い豪商となりました。5代目の伴庄右衛門資芳は隠居後京都で暮し、伴蒿蹊と称して国学の道に進みました。当時のベストセラーとなった「近世畸人伝」でも知られています。
今に残る旧伴家住宅は7代目が文政10(1827)年より天保11(1840)年の10数年をかけて建築したものです。当時としては珍しい三階建ての極めて規模の大きな建物で、地震に耐えうる堅固な建物を目指して建てたとの記録が残っています。
隆盛を誇った伴家でしたが、江戸時代の末期から急速に家運が衰え明治期には商家をたたみ、現在は子孫も途絶えています。
後、明治になって当時の八幡町に譲渡してから小学校・役場・女学校として利用されました。戦後は近江兄弟社図書館となり、のち近江八幡市立図書館として親しまれていました。平成16(2004)年4月より現在の形で公開しています。なお、管理・公開は公益財団法人八幡教育会館が行っています。
旧伴家住宅 posted by
(C)pismo
旧伴家住宅 (1) posted by
(C)pismo
旧伴家住宅 (2) posted by
(C)pismo
森五郎兵衛邸は、新町通にある近江商人の屋敷の一つです。
初代五郎兵衛は、伴傳兵衛家に勤め、別家を許され、煙草や麻布を商いました。やがて、呉服・太物など取り扱い商品を増やし、江戸日本橋や大阪本町にも出店するなど活躍しました。「昭和6年:1931年」村野藤吾設計により東京日本橋室町に地上7階の「近三ビル」(屋号:近江屋の「近」、三左衛門の「三」より命名)を建築し、現在も近三商事として健在です。なお、市立資料館の一部である歴史民俗資料館は森家の控宅で、昭和54(1979)年に市へ寄贈されたものです。
森五郎兵衛邸 posted by
(C)pismo
現在も歴史的建造物を活用して営業している
西川庄六邸です。
2代目西川利右衛門の子「庄六」を初代とし、蚊帳・綿・砂糖・扇子などを商いました。
3代目の頃になると、江戸日本橋4丁目にも出店し、薩摩藩島津氏の指定御用商人になるなど本家(西川利右衛門)に次ぐ豪商となりました。
8代目は文人墨客との関わりも深く、一燈園「西田天香」氏らとの交流もありました。
現在も、東京、大阪、京都に本支店を持つ「メルクロス株式会社」として営業中です。
当建物は江戸中期の建物で間口は13.0m、奥行は14.9mあります。左側には座敷部分が張りだし、他にも「でみず間」「化粧間」「板塀」「表土蔵」などがある大変規模の大きな町家です。
観光シーズンの土日祝には扇子、数珠、押絵のギャラリー&ショツプが営業しています。
西川庄六邸 posted by
(C)pismo
西川庄六邸 (1) posted by
(C)pismo
西川家は屋号を大文字屋と称して蚊帳や畳表を商い、江戸、大坂、京都に店を構えた近江八幡を代表する近江商人の一人です
西川家の家訓は「先義後利栄・好富施其徳」。
人として行うべき正しい道を第一とし、利益追求を後回しにすることが商売繁盛となり、得られた富に見合った人間形成を行えと説いています。
昭和5(1930)年に後継者が無いまま11代目徳浄氏が亡くなり、約300年にわたって活躍した西川家は終焉を迎えました。そして、分家の西川庄六家の厚意により市に土地建物共に寄贈されたものです。
現在資料館として入館できる施設は3代目によって宝永3(1706)年に建てられたものです。
また蔵は天和年間(1681〜1683)に建てられた全国的にも珍しい三階建て土蔵(三階蔵)となっており、当時の西川家の隆盛を偲ばせます。
昭和58(1983)年1月に国の重要文化財に指定され、昭和60(1985)年10月より33ヶ月の工期を経て、市立資料館の一部として開館されています。
旧西川家住宅 (1) posted by
(C)pismo
旧西川家住宅 posted by
(C)pismo
旧西川家住宅 (2) posted by
(C)pismo
八幡堀は、八幡城を築いた豊臣秀次が、琵琶湖を往来する荷船をすべて八幡に寄港させるため造られました。
近江商人の活躍と近江八幡の繁栄に八幡掘は大きな役割を果たしました。
しかし、昭和になり運河の機能を失った堀は、川底にヘドロが堆積し、悪臭を放つようになったため、埋め立ての計画が持ち上がりました。近江八幡青年会議所の努力で「よみがえる近江八幡の会」が設立され、浚渫工事や石垣の復元が行われました。
堀に沿って、白壁の土蔵や旧家が立ち並び、華やかだった当時の様子が伝わってきます。時代劇のロケなどにもよく使われているそうです。
八幡堀 (1) posted by
(C)pismo
八幡堀 (2) posted by
(C)pismo
八幡堀 (3) posted by
(C)pismo
八幡堀 (4) posted by
(C)pismo
八幡堀 posted by
(C)pismo
白雲館は明治10(1877)年に八幡東学校として建築された建物です。
八幡商人や地域住民の人々の熱意と協力により当時6千円の費用をかけて建設されました。
学校として使用された後は、役場、郡役所、信用金庫などを経て、平成6(1994)年に建設当時の姿に復元されました。白雲館の名称は藤原不比等の和歌
「天降の 神の 誕生の 八幡かも 比牟礼の杜に なびく白雲(あまふりのかみのみあれのはちまんかも ひむれのもりになびくしらくも)」から名付けられた説や、鎌倉時代の臨済宗の僧白雲彗暁(はくうんえいぎょう)の徳を偲んだことによるとの説があります。
現在は近江八幡観光物産協会の施設として、観光案内所などに活用されています。
白雲館 posted by
(C)pismo
日牟禮八幡宮は、誉田別尊(応神天皇)、息長足姫尊(神功皇后)、比賣神を祭る神社です。近江商人の信仰を集めている神社として知られています。
成務天皇が高穴穂の宮に即位の時、武内宿禰に命じてこの地に大嶋大神を祀ったのがはじまりとされています。その後応神天皇が奥津嶋神社から還幸の時、社の近辺に御座所が設けられ休憩した後、その仮屋跡に日輪の形を2つ見るという不思議な現象があり、祠を建て、日群之社八幡宮と名付けられたといわれています。
正暦2(991)年)、一条天皇の勅願により、八幡山(法華峰)上に社を建立し、宇佐八幡宮を勧請して、上の八幡宮を祀り、更に寛弘2(1005)年、遥拝社を山麓に建立し、下の社と名付けました。
天正13(1585)年に豊臣秀次が八幡山城を築城するため、上の八幡宮を下の社に合祀しました。
3月の中旬の土日に行われる「左義長まつり」と4月中旬に行われる「八幡まつり」は有名です。「左義長まつり」は、織田信長が安土城下で毎年正月に盛大に行い、自ら異粧華美な姿で踊ったという奇祭で、信長亡き後、豊臣秀次が八幡山城を築き、安土から移住した人々によって城下町が開町された時、町民は日牟禮八幡宮例祭「八幡まつり」の荘厳さに驚き、これに対抗して、町開町による新進気鋭の喜びと感謝の意を込め、厄除・火防の由緒ある御神徳を仰ぎ、左義長を奉納したと云われています。
日牟禮八幡宮 posted by
(C)pismo
日牟禮八幡宮 (1) posted by
(C)pismo
八幡城〔八幡山城〕は、天正13(1585)年豊臣秀吉の甥で養子の豊臣秀次が近江43万石を与えられ、琵琶湖に臨む標高271.9mの八幡山に築城しました。秀次は琵琶湖から水を引いた八幡堀をめぐらし、安土城から住民を移し城下町の建築にも力を注ぎました。天正18(1590)年、秀次は尾張・伊勢を与えられ、清洲に移ると、京極高次が近江八幡に入りました。高次は大津城を築き、八幡城は廃城となりました。
八幡山ロープーウェイで登ることができます。眺望が素晴らしく、二の丸付近からは近江八幡の城下町や安土城、観音寺城を見ることができ、北の丸付近からは長命寺山や琵琶湖を見ることができます。
八幡山城 (1) posted by
(C)pismo
八幡山城 (1) posted by
(C)pismo
八幡山城 (2) posted by
(C)pismo
八幡山城 (3) posted by
(C)pismo
八幡山城 (4) posted by
(C)pismo
八幡山城 posted by
(C)pismo
八幡山城 (5) posted by
(C)pismo
八幡山城 (6) posted by
(C)pismo
旧八幡郵便局は大正10(1921)年に建てられたヴォーリズ建築の建物です。
郵便局として使われなくなった後は、民間の手に移り、長らく空き家として放置されていましたが、平成9(1997)年にまちづくり団体「一粒の会」が保存再生に取り組み、平成16(2004)年に復元されました。
旧八幡郵便局 (1) posted by
(C)pismo
旧八幡郵便局 posted by
(C)pismo
アンドリュース記念館は、近江兄弟社の創立者ウイリアム.メレル.ヴォーリズ(日本名 一柳米来留)の大学時代の親友であり、ヴォーリズに導かれてキリスト教信者となり、若くして召天した故ハーバート・アンドリュースを記念して、アンドリュース家から贈られた資金を基にしてヴォーリズ氏が自らの貯蓄金全部を捧げて、自らが設計し、明治39(1906)年9月24日に京都の木曾田梶之助請負師に総工費3,600円で発注し、明治40(1907)年2月10日に建てられたヴォーリズ建築最初の建物です。尚、760㎡(230坪)の土地は、西 幸次郎氏、千貫久次郎氏が提供してくれたものです。会館はアンドリュース氏を記念して、「ハーバート・アンドリュース記念近江八幡基督教青年会館(YMCA)」と称しました。
現在の会館は、昭和10(1935)年6月15日に、最初の建物の位置から12m東側に、移築したものであり、外部デザインは一部変更されているが全体の面積は同じです。同会館に存する記念室は、祈りの部屋と呼ばれ、設立当時にヴォーリズが、過ごした一続きの書斎と小部屋は当時のままを保存しており、この部屋で捧げられた創立者たちの熱い祈りから近江兄弟社は生まれました。この部屋は以前2階にありましたが、同じ方角の1階に移されています。この会館は、近江兄弟社が創設された原点の記念すべき建物ですが、本来学生基督教青年会館として建てられたもので、永年この会館を中心にこの地方の基督教青年会運動が進められ、社会の先駆的役割も果たしてきました。
昭和62(1987)年にYMCA会館としての使命が終わり、会館が使用されなくなり20年が経ち、相当傷んでいましたが、平成19(2007)年2月10日に会館竣工100周年を迎えるところから、「近江兄弟社創立100周年記念事業」として、(株)近江兄弟社の寄付などにより、会館の保存再生を図りました。
今後、会館は、高齢者・障害者等の介護予防拠点や、キリスト教の伝道その他地域活動支援施設として、近江兄弟社創立者W.M.ヴォーリズ(一柳米来留)の創立の精神を継承しつつ、キリストを模範とした社会奉仕活動に使用する予定です。
(現地説明板などより)
アンドリュース記念館 posted by
(C)pismo
旧近江兄弟社地塩寮は、昭和15(1940)年6月に近江兄弟社の独身青年社員宿舎としてヴォーリズ氏により建てられました。寮の名は「あなたがたは地の塩である」という聖書の言葉に由来します。1階は社員の語らいの場であったロビーと5つの個室、2階も同様の個室を有します。住む人の健康な生活を願い、各室は南側の庭に面し、太陽の光を十分に取り入れるなどの工夫がなされています。
昭和59(1984)年、近江兄弟社と関係の深い近江八幡教会が取得し、翌年改築されました。現在、1階は教会の集会や会議に使われ、2階は牧師家族の住居として用いられています。外観は現在も建築当時のままの姿を残しています。
旧近江兄弟社 地塩寮 posted by
(C)pismo