中村家の初代中村正範は源範頼の末裔の武士で大和国広瀬郡中村郷に住んでいました。文明13(1481)年には、14代正實が今川氏に招かれ、遠江国磐田郡大橋郷に領地を賜り、その後、敷知郡和田、平松、宇布見、山崎、大白須の五か荘が与えられ、文明15(1483)年に宇布見に屋敷を構えました。16世紀の今川氏の時代には、同氏の家臣で代官を勤め、浜名湖の軍船を支配しています。
永禄11(1568)年に徳川家康が遠江に入国した時、18代正吉は船を出して迎えるなどの御用を果たし、徳川氏に仕え今切軍船兵糧奉行や代官を勤めました。こうした関係から天正2(1574)年2月8日に徳川家康の側室お万の方が家康の第二子である於義丸(後の結城秀康)を当屋敷で出産し、その時の胞衣(後産)を埋めた胞衣塚が現存しています。
天正18(1590)年、徳川家康が関東へ移った時に、18代中村源左衛門正吉は宇布見村に残りました。江戸時代には庄屋を務めていましたが、藩祖を結城秀康とする越前福井藩や津山藩からは士分格として扱われ、越前松平家一門や浜松藩主から、於義丸誕生の御殿や胞衣塚の修繕を目的として、金銀が下賜されていました。
また徳川御三家、老中、大阪城代、京都所司代の諸大名たちや越前松平家一門の大名が東海道を通行するときには、中村家の歴代当主がお目見えをするのが恒例となっていました。
このように徳川氏との関係で格式の高い家柄であるため、一般の庄屋たちとは異なり、浜松城主と単独で拝謁できるほど、古くからの独礼庄屋でした。
明治維新時の28代貞則は、討幕軍を警護する遠州報国隊の結成に尽力し、郷社の神官を勤め、五等郵便局を開設しました。29代東海は神職となり当地方の精神的な支柱として住民の尊敬を集め、東海様とよばれました。
30代正輔は服部、中村養鼈場をはじめ、明治35(1902)年には三等郵便局長に就任しています。31代幸八は昭和24(1949)年から衆議院議員として長く政界で活躍しました。
中村家住宅は、重要文化財に指定されているのは主屋で、約3,000平方メートルの屋敷のほぼ中央に、正面を南に向けて建っています。平成12(2000)年、雄踏町は主屋など建物の寄附を受け、平成13(2001)年度から平成15(2003)年度にかけて解体修理を行い、その際の調査で建築当初の姿とその変遷が明らかになり、当初の姿に復元されています。
主屋の建築年代は、建築素材など大棟の瓦葺に使われていた鳥衾(現在も棟に使用中)と、貞享5(1688)年の篦書きがある鬼瓦の取合いが一致したことから、その頃と考えられています。
特徴的なのは、棟通りと梁間方向中央の柱通りを揃え、これを境として、桁行方向に部屋が食い違いの配置になっているという特徴があります。
主屋の構造は、側柱(外回りの柱)は省略がなく、部屋境は2箇所を除いて柱を1間ごとに、楚石の上に直接立て、おもに貫で相互の連結がはかられています
以上のほか、主屋の特徴としては、柱の面取りに規則性があること、3間四方の部屋が南側と北側にそれぞれあること、納戸構、押板、格子窓といった古民家に共通するものを備えることがあげられます。
長屋門は江戸時代、式台や玄関と同じように、一定の格のある家に建てられたもので、安永4(1775)年、屋敷南側に建築されたもので、浜松市指定文化財になっています。
胞衣塚も浜松市指定文化財になっています。徳川家康の次男於義丸(後の結城秀康)がこの中村家で生まれその胞衣(後産)を埋めた塚ですが、塚上の梅の木は、徳川家康のお手植えと伝えられ、数代を経ています。
(パンフレットなどより)
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蜂前神社(はちさきじんじゃ)は、応神天皇の時代、八田毛止恵が勅命によって遠江国に下向して開墾し、八ヶ前の地に本社勧請したのが始まりだといわれています。脇宮二社は十九代允恭天皇の御代に勧請され、その頃から社号は鳥飼明神、羽鳥大明神と称えられ、延長5(927)年蜂前神社と改め古名に復しました。延喜式神名帳に記載されている式内社であり旧社格は郷社です。
神社の前に広がる平野もかつては今川家の家臣として井伊家の領地でした。
この一帯をかつては刑部郷といい、これは奈良時代からつづく古い地名です。
井伊直盛の代に今川義元に謀反を疑われた一族の直満・直義が殺害され、直満の子・亀之丞は信州に身を隠し、許嫁だった直盛の娘も出家してしまいます。
弘治元(1555)年に帰還した亀之丞は名を直親と改め、神社のある祝田村に住みました。
桶狭間で主君・義元とともし直盛が戦死すると直親が家督を継ぎましたが、今川家から徳川家への謀反を疑われて謀殺されます。
存亡の危機を迎えた井伊家は、出家していた直盛の娘を当主としました。
女性として井伊谷領主を継いだ井伊直虎に対して、永禄9(1566)年、今川氏真は井伊谷及び祝田・都田の地域に徳政令(貸借関係の破棄)を命じました。
直虎は独自の判断で、徳政令の実施を2年間押しとどめています。
蜂前神社には、その時の経過がわかる古文書が残っています。直虎の花押が記された唯一の古文書「井伊直虎関口氏経連署状」で、浜松市博物館に保管されています。
平成29(2017)年の大河ドラマ「おんな城主直虎」の第14回「徳政令の行方」の直虎紀行で紹介されました。
(現地説明板などより)
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初山宝林寺は、江戸時代の初期の寛文4(1664)年、旗本金指近藤家2代目近藤登之助貞用の招きに応じた明国の僧で黄檗宗開祖隠元禅師と共に来朝した独湛禅師が開創した黄檗宗の寺院です。
以来宝林寺は、金指近藤、気賀近藤両家の菩提寺として寺領100石を有し黄檗禅の専門道場として遠州地方の黄檗文化の中心地として栄えました。
創建当時は七堂伽藍も整い、その建物の多くは中国明朝風の建築様式でした。明治になると近藤家の庇護を失った当山は、廃仏毀釈の波に飲込まれ数多くのお堂が倒壊しましたが、現存するお堂の中には創建当初の面影を色濃く残すものが数多く含まれ、仏殿・方丈は黄檗宗伝来初期の中国明朝風様式を現代に伝る大変貴重な建物で国の重要文化財に指定されています。
初山宝林寺、龍潭寺、方広寺、摩訶耶寺、大福寺を湖北五山と言います。
(パンフレットなどより)
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大平城(おいだいらじょう)は、南北500m、東西400mの南北朝時代の山城(尾根式複郭型山城)です。
現在、樹木に覆われているため、外観では普通の山にしか見えませんが、山の南側は複雑に谷が入っており、北側と西側は断崖となっています。また、城の南側前方には灰ノ木川が流れ、天然の堀になっています。東側は尾根続きとなっているため、大規模な堀割が造られています。
城は、自然地形を利用して、曲輪を縄張しており、南城と北城の二区画に区分され、一城別郭の形態を成し、北城が中枢部で、南城は二次的機能を持っていたと考えられています。
大平城は、南朝側についた引佐町にある三嶽城を本拠とする井伊氏の支城の一つとして築かれました。井伊氏は、三嶽城を中心に、南を浜松市の鴨江城、西を三ヶ日町の千頭峯城、東を大平城と支城を固めました。
井伊氏は、南朝の後醍醐天皇の皇子の宗良親王を迎え、遠江国の南朝勢力の中心となりました。大平城の南朝軍と足利尊氏の命を受けた高師泰率いる北朝軍の攻防戦は、暦応2・延元4(1339)年から暦応3・興国元(1340)年にかけて繰り広げられました。
この時の戦いの様子は、三ヶ日町の大福寺に残る「瑠璃山年録残編裏書」に詳しく書かれています。
「暦応二年己卯七月廿二日 為井責越後殿下 大平ニ向給 尾張殿浜名手向給 カモヘノ城廿六日追落畢 同十月卅日 千頭峯城追落畢 同次正月卅日 ミタ□城追落畢 同次年八月廿四日夜 大平城□落□□。但当国守護新木殿落給」
この資料を要約してみると暦応2(1339)年7月22日、北朝方の高師泰(越後殿下)の軍が大平城に侵攻し、高師兼(尾張殿)の軍は浜名方面に侵攻しました。
7月26日に鴨江城が落城し、10月30日に千頭峯城が落城しました。翌年の暦応3(1340)年正月三十日に三嶽城が落城しました。そして、8月24日に大平城が高師泰と遠江国守護の仁木義長の軍によって落城したことが書かれています。
こうして南朝方は、遠江国での拠点を失い、宗良親王は信濃国へ落ちていきました。その後、大平城は歴史の上にも、記録の上にも登場することはありませんでした。
(現地説明板などより)
五体力神社の石段を上り、更に奥に行くと城跡にたどり着きます。
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大菩薩坂は、本坂通にかかる字藤坂(うとうざか)の北側にある、平野から三方原大地に上る勾配の強い坂道です。
元亀3(1572)年12月、武田信玄が大軍を率いて三方原合戦に臨んだとき、天竜川を渡河し平野を横切り、欠下城跡南側の大菩薩坂を上り、大菩薩山に陣を構えたといわれています。
それ以前にも、今川家と井伊家の攻防で何度も舞台となっていました。永正年間の遠江は、尾張を拠点とした斯波氏と駿河を拠点とした今川氏による勢力争いが続いていました。
永正10(1533)年、斯波方に味方していた井伊領の深嶽(三岳)城を攻めるために、今川氏親軍は市野砦を経由してこの山に布陣しました。この戦いで今川方が勝利して遠江を手中にし、後に井伊家は今川方に仕えることになりました。浜名湖北側の東海道(姫街道)は、戦国時代を通じて軍事上の重要な交通路でした。
永禄6(1563)年、今川氏親の命で社山(現磐田市)に向けて出陣した井伊直平は、この付近の有玉旗屋(畑屋)宿(現有玉南町)で毒殺されたと井伊家の記録にあります。幼少の直政以外に後継の男子を失って存亡の危機を迎えた井伊家は、直虎を女性ながら後継としました。
(現地説明板などより)
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宗安寺は、山号は萬松山、室町時代末期に開創された曹洞宗の寺院です。
また、江戸時代初期、この地域の代官を務めた市野氏歴代の菩提寺として知られ、墓苑には初代惣太夫実久から以後4代までの歴代の墓が並んでいます。
永禄11(1568)年から徳川家康に仕え、慶長5(1600)年に馬役を命ぜられ、かたわら代官も務めるようになったといわれています。そして市野村をはじめ近隣の数か村をおさめていたと伝えられています。
境内にある三重の塔は、檀家である鈴木六郎氏が寄贈したものであり、聖観世音菩薩が祀られています。
(現地説明板などより)
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市野砦は、井伊家を攻めるために今川方が布陣した砦です。
宗安寺がある周辺は、市野町の本村にあたります。天竜川の本・支流が縦横に流れる土地のうちでは比較的安定しており、浜名湖北回りの東海道(後の姫街道)が通るこの地は古くからの要衝でした。遠江を支配地に加えようとする駿河の今川氏と、同じく遠江に勢力を伸ばそうとする斯波氏らが争っていた永正10(1513)年、斯波方に味方していた井伊領を攻めるために、今川軍が布陣した砦跡です。今川方の古文書では、この地の楞厳寺に布陣したと記されています。
楞厳寺は宗安寺の南側にあった寺院ですが、廃寺となり現在は工場と住宅となっています。また永禄7(1564)年には、桶狭間の戦い以降衰えた今川方に反攻した勢力を今川氏真が攻め、市野砦の攻防で論功があった武士を氏真がたたえています。
なお、今川氏は、この付近では万斛(現中郡町)の沢木屋敷を軍事拠点としている他、大瀬、有玉、小松、蒲などに兵を入れていると古記録にあります。
(現地説明板などより)
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頭陀寺は、山号は青林山、高野山真言宗の寺院です。
大宝3(703)年、文武天皇の正夢に薬師如来が現れ、「我は遠江国におり、我を奉安、祈念すれば、国家安穏、万民豊楽、万病退散するなり」とお告げになりました。帝の命を受け、僧圓空上人は行脚の途中で遠州灘の漁師の話を耳にしました。
さっそく天皇に奏上すると、帝は直ちに仏閣建立の命を下され、末代永く「国家安泰、万民豊楽、万病平癒」の勅願寺とされ、御宸書の勅額「青林山」を賜りました。
以後、青林山 頭陀寺と呼ばれ、大漁祈願、海上安全、五穀豊饒、商売繁盛、身心堅固、諸病平癒等の祈願、そして信仰の寺となり、「頭陀寺のお薬師様」として崇敬を集めています。
頭陀寺はかつて天竜川下流にあった広大な「川匂荘(かわわのしょう)」の現地荘官として、
四十六所明神 (現在は津毛利(つもり)神社と改称 ) とともに荘園の中核をなしました。
往時には多くの塔頭寺院をかかえ、寺域も広く、門前には市場もたちました。
当時の境内には戦国大名今川氏に仕えた武将松下之綱の屋敷があり、ここ一帯は別名頭陀寺城とも呼ばれました。松下屋敷には、少年時代の豊臣秀吉が天文20(1551)年から3年にわたり奉公していたと記録にあり、この寺の付近には鎌砥池(かまとぎいけ)や目刺橋(めざしはし)など秀吉にかかわる伝承地も残っています。
なお、松下氏の一族は井伊氏とも近く、父・直親を殺された幼少の井伊直政を匿い、母の再婚相手となった松下源太郎清景が直政を養子として、今川氏の追手から保護しました。
また、松下之綱の長女は柳生宗矩に嫁ぎ、剣聖柳生十兵衛を生んでいます。
その後今川氏に反攻した松下氏や飯尾氏らとの攻防で、永禄7(1564)年頭陀寺は炎上してしまいましたが、後年、縁のあった豊臣秀吉、徳川家康の寄進により復興しました。
平成29(2017)年1月22日、大河ドラマ「おんな城主直虎」の放送を受け、境内に頭陀寺にゆかりのある豊臣秀吉、徳川家康、井伊直政の「3公像」が建立されました。
(現地説明板などより)
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熊野神社は、江戸時代までは頭陀寺の境内にあり、頭陀寺の鎮守として祀られていましたが、明治の神仏分離令で境内から分離し、町の鎮守として祀られるようになりました。
明治11(1878)年頭陀寺再建の折に、本尊の宮殿を神社の御神体の宮殿として移築し現在に至っています。
(現地説明板などより)
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頭陀寺城〔松下屋敷〕
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鎌研ぎ池は、松下家の守護神だった小さな神社内にある池で、豊臣秀吉が少年の頃、近くの頭陀寺城主松下嘉兵衛に仕えていた頃、馬草を切る鎌を研ぎ試し切りのために池に生えた葦の葉を切ったという伝説があります。
秀吉がまだ木下藤吉郎と言った少年の頃、このを訪れ頭陀寺城主の松下嘉兵衛之綱に身をよせて、天文22(1533)年3月より永禄元(1558)年4月の間、下僕として奉公しました。この時馬草を刈るのに池のはたで鎌を研ぎ試し切りのために池に生えた葦の片方へ出ている葉のみを切ったので、それから片葉の葦が生えるようになったという説が「遠州七不思議」のひとつとして残されています。また松葉で手裏剣の練習をしたその松葉がメダカの目に刺さったので、池には片目のメダカが見られるようになったと言い伝えがあります。
天白神社は松下嘉兵衛之綱の守護神として、天文2(1535)年の頃、祭祀されました。藤吉郎も将来の武将を夢みて祈念したことと思われます。
(現地説明板などより)
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匂坂城(さぎさかじょう)は、遠江の国人領主匂坂氏の居城です。
天文元(1532)年匂坂筑前守六郎五郎長能は、社山城主を菅沼重左衛門定平と交替し、本領匂坂に城砦を構築しました。また社山城より若宮八幡社を匂坂城に移し鎮守としました。
永禄11(1568)年、長能の跡を継いでいた匂坂吉政は今川氏から離反し、はじめは武田信玄の重臣秋山虎繁(信友)に属そうと秋山の陣所を訪れました。ところが、兄政信の子政祐が「自分が匂坂の嫡流」だと売り込んだため、政祐を殺し、そのまま家康のもとに奔り、家康から本領を安堵され旗本の一人に加わりました。
その後、元亀元(1570)年6月28日、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が激突した近江姉川の戦いで、朝倉方の猛将真柄十郎左衛門を討ち取る武名をあげています。子孫は、徳川幕臣として続きました。
匂坂城は、元亀2(1571)年3月の武田信玄の高天神城攻めの際、3月6日信玄により小田松、匂坂、宮口の3城が落城しました。
遠江に進出した武田信玄は、匂坂城を落とした後は穴山梅雪を置いて守らせていました。この頃の匂坂城は、武田軍の二俣攻めに際し、掛川と浜松を分断する大きな役割を果たしていました。城跡は匂坂氏の館跡で宝暦年(1751)間、土地を鋤塚とし、槍、太刀等が出たので、若宮の内に納められました。
周囲は遺構らしきものはなく、石碑が建っているのみです。
(現地説明板などより)
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南北朝時代に宗良親王がその心境を三ヶ野橋に託してここを通ったときの歌が残されているようにこの辺りは歴史や地形上からも東西の交通の要衝でした。また武田軍の遠州侵攻のときは古戦場となりました。戦国時代のはじめ頃は、遠江地方は駿河の今川氏の支配下におさめられていましたが、今川氏滅亡後は今川氏に代って家康によって治められた。ところが、元亀3(1572)年上洛を目指す甲斐の武田信玄が遠江へ進出し、木原に陣を布きました。
これを迎え撃つため徳川勢は浜松城を出て、三ヶ野・見付宿・一言坂と戦いました。この
大日堂の高台には、本多平八郎物見の松と伝えられる大松が残されていました。
三ヶ野坂は、旧東海道の松並木・車井戸跡・鎌田薬師堂道標・立場茶屋跡等を見て隣接の桶ヶ谷沼・鶴ヶ池を廻る家族向けのハイキングコースとして好評を博しています。
東から三ヶ野橋を西進すると、標高38メートルある大日山の急斜面を這うように江戸時代の旧東海道と交差しています。
そこを200メートル西進して、北向きに明治27(1894)年築造のなだらかな坂道を降りると大正6(1917)年築造の道路と交差していて、その横は昭和30(1955)年築造の国道1号線となります。
交通量の増加で磐田バイパスが計画されて立体交差の袴道橋が平成2(1990)年に完成しました。国道の地下道を抜けると北側は桶ヶ谷沼に続きます。ここから見付に抜ける間道は、俗に言う質屋通いの隠れ道でした。時代別に順次作られた七つの道が1ヶ所にまとまって見られるのは珍しいです。
(現地説明板などより)
三ヶ野坂古戦場(大日堂古戦場) (1) posted by
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三ヶ野坂古戦場(大日堂古戦場) posted by
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