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ピズモのブログ一覧

2017年05月04日 イイね!

三河・遠江直虎紀行(2日目その1・横須賀城と高天神城周辺)

横須賀城は、天正2(1574)年高天神城を武田勝頼に奪われた徳川家康が、大須賀康高に命じて天正6(1578)年に築かせた城です。
江戸期は有馬、大須賀、能見松平、井上、本多、西尾氏が城主でした。明治元(1868)年20代城主西尾忠篤は明治維新の激動のなか、安房国花房(現千葉県鴨川市)に移され、横須賀藩領は徳川家達の領地となって静岡藩に含まれました。明治2(1869)年8月には横須賀城も廃城となりました。昭和46(1971)年には本丸一帯を宅地化する計画が持ち上がり、この城跡消滅の危機に住民から城跡保存の声が上がり、昭和56(1981)年5月8日付けで国史跡に指定されました。以降、土地公有化と遺構復原整備が進められています。
江戸時代中頃まで、城のすぐ前から北西裏にかけて遠州灘から深く入り込む入江があって、横須賀城を天然の要害としていました。入江には横須賀湊があり、大きな船も寄港し水上交通と物流の拠点となっていました。また、この入江と外堀を区切る形で中土居と呼ばれる土手があり、横須賀から袋井に通じる街道となっていました。小笠山を挟んで立地する掛川城が、陸の大動脈東海道の押さえであったのに対し、横須賀城は海辺の道と海上交通の要衝である遠州灘の押さえとして重要であったと考えられます。城前のこの入江は、宝永4(1676)年の宝永大地震による地盤隆起によって干し上がり、横須賀城周辺の様子は一変するとともに湊も使えなくなり、横須賀城と城下町は軍事と経済面で大打撃を受けたと考えられます。湊が使えなくなった以降は西方の太田川河口の福田湊まで運河が造られて小舟が行き来しました。
横須賀城 (1)
横須賀城 (1) posted by (C)pismo

横須賀城
横須賀城 posted by (C)pismo

横須賀城 (2)
横須賀城 (2) posted by (C)pismo

横須賀城 (3)
横須賀城 (3) posted by (C)pismo

横須賀城 (4)
横須賀城 (4) posted by (C)pismo

横須賀城 (5)
横須賀城 (5) posted by (C)pismo

横須賀城 (6)
横須賀城 (6) posted by (C)pismo

横須賀城 (7)
横須賀城 (7) posted by (C)pismo

横須賀城 (8)
横須賀城 (8) posted by (C)pismo

横須賀城 (9)
横須賀城 (9) posted by (C)pismo

横須賀城 (10)
横須賀城 (10) posted by (C)pismo

横須賀城 (11)
横須賀城 (11) posted by (C)pismo

横須賀城 (12)
横須賀城 (12) posted by (C)pismo


三井山砦は、高天神城包囲の砦として、徳川家康が天正7(1579)年10月に修築した六砦の一つです。
酒井与四郎重忠が守備したといわれていますが、前年から三井山周辺で戦いがあったことや縄張り配置等の特徴などから、最初の築城は更に遡るともいわれています。
現在は大浜公園の一部となっています。
三井山砦 (1)
三井山砦 (1) posted by (C)pismo

三井山砦 (2)
三井山砦 (2) posted by (C)pismo

三井山砦 (3)
三井山砦 (3) posted by (C)pismo

三井山砦
三井山砦 posted by (C)pismo

三井山砦 (4)
三井山砦 (4) posted by (C)pismo

中村城山砦は徳川家康が高天神城を攻略するために築かせた6つの砦の一つです。
横須賀城主大須賀康高が陣を敷いたといわれています。
若宮神社に城跡を示す標柱などがあります。
(現地説明板などより)
中村城山砦 (1)
中村城山砦 (1) posted by (C)pismo

中村城山砦 (2)
中村城山砦 (2) posted by (C)pismo

中村城山砦
中村城山砦 posted by (C)pismo

獅子ヶ鼻砦は徳川家康が天正8(1580)年6月に、高天神城を包囲攻撃するため笹ヶ峰御殿(小笠山砦)、中村砦、能ヶ坂砦、火ヶ峰砦、三井砦とともに築かれた6砦の一つで、大須賀康高が守っていたといわれています。
蓮池公園内にある菊川市営保養センター小菊荘の玄関前の階段を上っていくと、眺望の良いスポットが砦跡です。
(現地説明板などより)
獅子ヶ鼻砦
獅子ヶ鼻砦 posted by (C)pismo

獅子ヶ鼻砦 (1)
獅子ヶ鼻砦 (1) posted by (C)pismo

獅子ヶ鼻砦 (2)
獅子ヶ鼻砦 (2) posted by (C)pismo

獅子ヶ鼻砦 (3)
獅子ヶ鼻砦 (3) posted by (C)pismo


天正2(1574)年武田勝頼は、大軍を率いて高天神城を包囲しました。
勝頼うたた寝の松は、勝頼が軍を進め休憩した場所と伝えられています。昭和10(1935)年までは樹齢数百年の老松がたっていましたが、現在の松は3代目と伝えられています。掛川市立中小学校の外側にあります。
勝頼うたた寝の松
勝頼うたた寝の松 posted by (C)pismo


天正2(1574)年6月武田勝頼は大軍を率いてここに総勢の本陣を置いたため、惣勢山といわれるようになりました。道路の反対側の空き地には、本陣跡を示す石碑が立っています。
惣勢山本陣跡
惣勢山本陣跡 posted by (C)pismo

惣勢山本陣跡 (1)
惣勢山本陣跡 (1) posted by (C)pismo


千人塚は、天正9(1581)年3月高天神城が落城した時の戦死者の多数を埋葬した場所です。
田圃の中に塚があり、その上に木が植えられています。
(現地説明板などより)
千人塚 (1)
千人塚 (1) posted by (C)pismo

千人塚
千人塚 posted by (C)pismo

火ヶ峰砦は、高天神六砦の中でも最も高天神城に近い位置にある砦です。
高天神城跡の東北東約1.5㎞に位置し、掛川市中方・下土方・岩滑・中地区を境とする丘陵上にあります。天正8(1580)年6月に築かれ、大須賀康高が守備したと伝えられています。
砦の規模及び縄張り配置は定かではなく、砦の北側の主郭跡といわれている部分以外は消滅しています。
火ヶ峰砦
火ヶ峰砦 posted by (C)pismo

能ヶ坂砦は徳川家康が高天神城を攻略するために築かせた6つの砦の一つです。掛川市小貫と下土方地区の境の県道掛川大須賀線が通る西側丘陵上にあります。
徳川家康は、天正8(1580)年に砦を築かせ、本多豊後守が守備したとされています。現在は開発で消滅しています。
能ヶ坂砦 (1)
能ヶ坂砦 (1) posted by (C)pismo

能ヶ坂砦
能ヶ坂砦 posted by (C)pismo

高天神城は「高天神城を制するものは遠州を制する。」と云われた要衝の城です。武田信玄・勝頼と徳川家康がこの城の争奪戦を繰り広げたことで有名です。
典型的な山城です。
高天神城の築城時期は不明ですが、明応から文亀年間に、駿河の守護・今川氏が遠江の斯波氏への対抗のために築城したといわれています。
永禄11(1568)年、甲相駿三国同盟を破棄した武田信玄が駿河に乱入し、今川氏真を遠州掛川城に追うと、高天神城へは西から徳川家康が進出し占領し、今川方の属将であった小笠原長忠をそのまま城将としました。
元亀2(1571)年、信玄は遠江に侵攻し高天神城を攻めましたが、城の守りが堅いのを察し兵を引きました。
天正元(1573)年信玄が亡くなると、翌天正2(1574)年2月、武田勝頼は二万の大軍で高天神城を攻めました。小笠原長忠徳川家康に援軍を要請しましたが、家康も単独での軍事行動を無理と判断し、同盟国の織田信長に援軍を求めました。しかし、信長は援軍を出さなかったため、長忠は穴山信君の講和に応じて一ヵ月後に開城、長忠は武田に降り、大須賀康高らは家康を頼って浜松に落ち延びました。
翌天正2(1575)年長篠の戦いで武田軍が徳川・織田連合軍に大敗すると、家康は高天神奪還の行動を開始しました。
天正8(1580)年秋、城将・岡部元信は武田勝頼に援兵を求める密使を派遣しましたが、軍監・横田尹松は別便で勝頼に後詰を断りました。天正9(1581)年三月、援兵を断念した岡部元信は早暁に城門を開け放ち討って出ましたが戦死しました。勝頼に攻められ落城時に捕虜となった徳川氏の家臣・大河内源三郎正局がこの時七年ぶりに石牢から救出されています。 的場曲輪の後側には、「大河内政局の石牢」が残っています。
高天神城は落城後廃城になりました。
高天神城 (1)
高天神城 (1) posted by (C)pismo

高天神城 (2)
高天神城 (2) posted by (C)pismo

高天神城
高天神城 posted by (C)pismo

高天神城 (3)
高天神城 (3) posted by (C)pismo

高天神城 (4)
高天神城 (4) posted by (C)pismo

高天神城 (5)
高天神城 (5) posted by (C)pismo

高天神城 (6)
高天神城 (6) posted by (C)pismo

高天神城 (7)
高天神城 (7) posted by (C)pismo

高天神城 (8)
高天神城 (8) posted by (C)pismo

高天神城 (9)
高天神城 (9) posted by (C)pismo

高天神城 (10)
高天神城 (10) posted by (C)pismo

高天神城 (11)
高天神城 (11) posted by (C)pismo

高天神城 (12)
高天神城 (12) posted by (C)pismo

高天神城 (13)
高天神城 (13) posted by (C)pismo

高天神城 (14)
高天神城 (14) posted by (C)pismo

高天神城 (15)
高天神城 (15) posted by (C)pismo

高天神城 (16)
高天神城 (16) posted by (C)pismo

高天神城 (17)
高天神城 (17) posted by (C)pismo

高天神城 (18)
高天神城 (18) posted by (C)pismo

高天神城 (19)
高天神城 (19) posted by (C)pismo

高天神城 (20)
高天神城 (20) posted by (C)pismo

高天神城 (21)
高天神城 (21) posted by (C)pismo

高天神城 (22)
高天神城 (22) posted by (C)pismo

高天神城 (23)
高天神城 (23) posted by (C)pismo

高天神城 (24)
高天神城 (24) posted by (C)pismo

高天神城 (25)
高天神城 (25) posted by (C)pismo

高天神城 (26)
高天神城 (26) posted by (C)pismo


天正9(1581)年、元今川氏の家臣で武田勝頼に仕えていた岡部丹波守元信(真幸)は、高天神城の守将でしたが、徳川家康の攻撃により落城寸前になり、3月22日、徳川方の大久保忠世の陣に斬り込み、討死しました。板倉定重は、江戸初期の京都所司代板倉勝重の兄にあたります。勝重は幼少時に出家していたため、板倉氏は定重が継いでいました。定重は松平家忠の配下にありましたが高天神城の戦いで戦死しました。勝重は還俗し、板倉氏を継ぎました。
岡部・板倉の碑は高天神城の西側の林の谷池の北側にあります。右側の石碑には岡部丹波守討死碑と書かれており、左側には板倉喜蔵定重の墓と書かれています。
(現地説明板などより)
岡部・板倉の碑 (1)
岡部・板倉の碑 (1) posted by (C)pismo

岡部・板倉の碑
岡部・板倉の碑 posted by (C)pismo

小笠神社は、祭神は事解男尊、伊弉册尊、速玉男尊です。
文武天皇の勅願により大宝2(703)年3月18日、紀州熊野三社を勧請し創建されました。
藤原鎌足の孫宮子姫が子がないのを嘆かれ、紀州熊野社に詣で皇子誕生の際には東国に三宇の社を建てるとご祈願され、無事皇子を出産されました。後の聖武天皇です。
祈願成就により、公家奥野惟吉卿を東国に遣わし、横須賀を本宮、高松を新宮、そして小笠嶽を那智の宮地小笠神社と定めて、遷宮されました。
(現地説明板などより)
小笠神社 (1)
小笠神社 (1) posted by (C)pismo

小笠神社 (2)
小笠神社 (2) posted by (C)pismo

小笠神社
小笠神社 posted by (C)pismo

小笠山砦は、高天神城から北方約4kmの入山瀬に所在する標高約250mの小笠山山頂付近に築かれました。
徳川家康が永禄11(1568)年に、掛川城の今川氏真を攻めた時に陣を置いたとされます。
笹ヶ峰御殿という名も残されており、高天神城攻めに際しては再びここに砦を築きました。
遺構は、各曲輪や横堀・土塁などが残存しています。
(現地説明板などより)
小笠山砦 (1)
小笠山砦 (1) posted by (C)pismo

小笠山砦 (2)
小笠山砦 (2) posted by (C)pismo

小笠山砦 (3)
小笠山砦 (3) posted by (C)pismo

小笠山砦
小笠山砦 posted by (C)pismo

小笠山砦 (4)
小笠山砦 (4) posted by (C)pismo

小笠山砦 (5)
小笠山砦 (5) posted by (C)pismo

小笠山砦 (6)
小笠山砦 (6) posted by (C)pismo

小笠山砦 (7)
小笠山砦 (7) posted by (C)pismo
Posted at 2017/06/16 00:15:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2017年05月03日 イイね!

三河・遠江直虎紀行(1日目その4・浜松市・磐田市)

中村家の初代中村正範は源範頼の末裔の武士で大和国広瀬郡中村郷に住んでいました。文明13(1481)年には、14代正實が今川氏に招かれ、遠江国磐田郡大橋郷に領地を賜り、その後、敷知郡和田、平松、宇布見、山崎、大白須の五か荘が与えられ、文明15(1483)年に宇布見に屋敷を構えました。16世紀の今川氏の時代には、同氏の家臣で代官を勤め、浜名湖の軍船を支配しています。
永禄11(1568)年に徳川家康が遠江に入国した時、18代正吉は船を出して迎えるなどの御用を果たし、徳川氏に仕え今切軍船兵糧奉行や代官を勤めました。こうした関係から天正2(1574)年2月8日に徳川家康の側室お万の方が家康の第二子である於義丸(後の結城秀康)を当屋敷で出産し、その時の胞衣(後産)を埋めた胞衣塚が現存しています。
天正18(1590)年、徳川家康が関東へ移った時に、18代中村源左衛門正吉は宇布見村に残りました。江戸時代には庄屋を務めていましたが、藩祖を結城秀康とする越前福井藩や津山藩からは士分格として扱われ、越前松平家一門や浜松藩主から、於義丸誕生の御殿や胞衣塚の修繕を目的として、金銀が下賜されていました。
また徳川御三家、老中、大阪城代、京都所司代の諸大名たちや越前松平家一門の大名が東海道を通行するときには、中村家の歴代当主がお目見えをするのが恒例となっていました。
このように徳川氏との関係で格式の高い家柄であるため、一般の庄屋たちとは異なり、浜松城主と単独で拝謁できるほど、古くからの独礼庄屋でした。
明治維新時の28代貞則は、討幕軍を警護する遠州報国隊の結成に尽力し、郷社の神官を勤め、五等郵便局を開設しました。29代東海は神職となり当地方の精神的な支柱として住民の尊敬を集め、東海様とよばれました。
30代正輔は服部、中村養鼈場をはじめ、明治35(1902)年には三等郵便局長に就任しています。31代幸八は昭和24(1949)年から衆議院議員として長く政界で活躍しました。
中村家住宅は、重要文化財に指定されているのは主屋で、約3,000平方メートルの屋敷のほぼ中央に、正面を南に向けて建っています。平成12(2000)年、雄踏町は主屋など建物の寄附を受け、平成13(2001)年度から平成15(2003)年度にかけて解体修理を行い、その際の調査で建築当初の姿とその変遷が明らかになり、当初の姿に復元されています。
主屋の建築年代は、建築素材など大棟の瓦葺に使われていた鳥衾(現在も棟に使用中)と、貞享5(1688)年の篦書きがある鬼瓦の取合いが一致したことから、その頃と考えられています。
特徴的なのは、棟通りと梁間方向中央の柱通りを揃え、これを境として、桁行方向に部屋が食い違いの配置になっているという特徴があります。
主屋の構造は、側柱(外回りの柱)は省略がなく、部屋境は2箇所を除いて柱を1間ごとに、楚石の上に直接立て、おもに貫で相互の連結がはかられています
以上のほか、主屋の特徴としては、柱の面取りに規則性があること、3間四方の部屋が南側と北側にそれぞれあること、納戸構、押板、格子窓といった古民家に共通するものを備えることがあげられます。
長屋門は江戸時代、式台や玄関と同じように、一定の格のある家に建てられたもので、安永4(1775)年、屋敷南側に建築されたもので、浜松市指定文化財になっています。
胞衣塚も浜松市指定文化財になっています。徳川家康の次男於義丸(後の結城秀康)がこの中村家で生まれその胞衣(後産)を埋めた塚ですが、塚上の梅の木は、徳川家康のお手植えと伝えられ、数代を経ています。
(パンフレットなどより)
旧中村家住宅
旧中村家住宅 posted by (C)pismo

旧中村家住宅 (1)
旧中村家住宅 (1) posted by (C)pismo

旧中村家住宅 (2)
旧中村家住宅 (2) posted by (C)pismo

旧中村家住宅 (3)
旧中村家住宅 (3) posted by (C)pismo

旧中村家住宅 (4)
旧中村家住宅 (4) posted by (C)pismo

旧中村家住宅 (5)
旧中村家住宅 (5) posted by (C)pismo

旧中村家住宅 (6)
旧中村家住宅 (6) posted by (C)pismo

旧中村家住宅 (7)
旧中村家住宅 (7) posted by (C)pismo

旧中村家住宅 (8)
旧中村家住宅 (8) posted by (C)pismo

旧中村家住宅 (9)
旧中村家住宅 (9) posted by (C)pismo

蜂前神社(はちさきじんじゃ)は、応神天皇の時代、八田毛止恵が勅命によって遠江国に下向して開墾し、八ヶ前の地に本社勧請したのが始まりだといわれています。脇宮二社は十九代允恭天皇の御代に勧請され、その頃から社号は鳥飼明神、羽鳥大明神と称えられ、延長5(927)年蜂前神社と改め古名に復しました。延喜式神名帳に記載されている式内社であり旧社格は郷社です。
神社の前に広がる平野もかつては今川家の家臣として井伊家の領地でした。
この一帯をかつては刑部郷といい、これは奈良時代からつづく古い地名です。
井伊直盛の代に今川義元に謀反を疑われた一族の直満・直義が殺害され、直満の子・亀之丞は信州に身を隠し、許嫁だった直盛の娘も出家してしまいます。
弘治元(1555)年に帰還した亀之丞は名を直親と改め、神社のある祝田村に住みました。
桶狭間で主君・義元とともし直盛が戦死すると直親が家督を継ぎましたが、今川家から徳川家への謀反を疑われて謀殺されます。
存亡の危機を迎えた井伊家は、出家していた直盛の娘を当主としました。
女性として井伊谷領主を継いだ井伊直虎に対して、永禄9(1566)年、今川氏真は井伊谷及び祝田・都田の地域に徳政令(貸借関係の破棄)を命じました。
直虎は独自の判断で、徳政令の実施を2年間押しとどめています。
蜂前神社には、その時の経過がわかる古文書が残っています。直虎の花押が記された唯一の古文書「井伊直虎関口氏経連署状」で、浜松市博物館に保管されています。
平成29(2017)年の大河ドラマ「おんな城主直虎」の第14回「徳政令の行方」の直虎紀行で紹介されました。
(現地説明板などより)
蜂前神社
蜂前神社 posted by (C)pismo

初山宝林寺は、江戸時代の初期の寛文4(1664)年、旗本金指近藤家2代目近藤登之助貞用の招きに応じた明国の僧で黄檗宗開祖隠元禅師と共に来朝した独湛禅師が開創した黄檗宗の寺院です。
以来宝林寺は、金指近藤、気賀近藤両家の菩提寺として寺領100石を有し黄檗禅の専門道場として遠州地方の黄檗文化の中心地として栄えました。
創建当時は七堂伽藍も整い、その建物の多くは中国明朝風の建築様式でした。明治になると近藤家の庇護を失った当山は、廃仏毀釈の波に飲込まれ数多くのお堂が倒壊しましたが、現存するお堂の中には創建当初の面影を色濃く残すものが数多く含まれ、仏殿・方丈は黄檗宗伝来初期の中国明朝風様式を現代に伝る大変貴重な建物で国の重要文化財に指定されています。
初山宝林寺、龍潭寺、方広寺、摩訶耶寺、大福寺を湖北五山と言います。
(パンフレットなどより)
初山宝林寺 (1)
初山宝林寺 (1) posted by (C)pismo

初山宝林寺
初山宝林寺 posted by (C)pismo

初山宝林寺 (2)
初山宝林寺 (2) posted by (C)pismo

初山宝林寺 (3)
初山宝林寺 (3) posted by (C)pismo

初山宝林寺 (4)
初山宝林寺 (4) posted by (C)pismo

初山宝林寺 (5)
初山宝林寺 (5) posted by (C)pismo

初山宝林寺 (6)
初山宝林寺 (6) posted by (C)pismo

初山宝林寺 (7)
初山宝林寺 (7) posted by (C)pismo

大平城(おいだいらじょう)は、南北500m、東西400mの南北朝時代の山城(尾根式複郭型山城)です。
現在、樹木に覆われているため、外観では普通の山にしか見えませんが、山の南側は複雑に谷が入っており、北側と西側は断崖となっています。また、城の南側前方には灰ノ木川が流れ、天然の堀になっています。東側は尾根続きとなっているため、大規模な堀割が造られています。
城は、自然地形を利用して、曲輪を縄張しており、南城と北城の二区画に区分され、一城別郭の形態を成し、北城が中枢部で、南城は二次的機能を持っていたと考えられています。
大平城は、南朝側についた引佐町にある三嶽城を本拠とする井伊氏の支城の一つとして築かれました。井伊氏は、三嶽城を中心に、南を浜松市の鴨江城、西を三ヶ日町の千頭峯城、東を大平城と支城を固めました。
井伊氏は、南朝の後醍醐天皇の皇子の宗良親王を迎え、遠江国の南朝勢力の中心となりました。大平城の南朝軍と足利尊氏の命を受けた高師泰率いる北朝軍の攻防戦は、暦応2・延元4(1339)年から暦応3・興国元(1340)年にかけて繰り広げられました。
この時の戦いの様子は、三ヶ日町の大福寺に残る「瑠璃山年録残編裏書」に詳しく書かれています。
「暦応二年己卯七月廿二日 為井責越後殿下 大平ニ向給 尾張殿浜名手向給 カモヘノ城廿六日追落畢 同十月卅日 千頭峯城追落畢 同次正月卅日 ミタ□城追落畢 同次年八月廿四日夜 大平城□落□□。但当国守護新木殿落給」
この資料を要約してみると暦応2(1339)年7月22日、北朝方の高師泰(越後殿下)の軍が大平城に侵攻し、高師兼(尾張殿)の軍は浜名方面に侵攻しました。
7月26日に鴨江城が落城し、10月30日に千頭峯城が落城しました。翌年の暦応3(1340)年正月三十日に三嶽城が落城しました。そして、8月24日に大平城が高師泰と遠江国守護の仁木義長の軍によって落城したことが書かれています。
こうして南朝方は、遠江国での拠点を失い、宗良親王は信濃国へ落ちていきました。その後、大平城は歴史の上にも、記録の上にも登場することはありませんでした。
(現地説明板などより)
五体力神社の石段を上り、更に奥に行くと城跡にたどり着きます。
大平城 (1)
大平城 (1) posted by (C)pismo

大平城 (2)
大平城 (2) posted by (C)pismo

大平城
大平城 posted by (C)pismo

大平城 (3)
大平城 (3) posted by (C)pismo

大平城 (4)
大平城 (4) posted by (C)pismo

大平城 (5)
大平城 (5) posted by (C)pismo

大平城 (6)
大平城 (6) posted by (C)pismo

大菩薩坂は、本坂通にかかる字藤坂(うとうざか)の北側にある、平野から三方原大地に上る勾配の強い坂道です。
元亀3(1572)年12月、武田信玄が大軍を率いて三方原合戦に臨んだとき、天竜川を渡河し平野を横切り、欠下城跡南側の大菩薩坂を上り、大菩薩山に陣を構えたといわれています。
それ以前にも、今川家と井伊家の攻防で何度も舞台となっていました。永正年間の遠江は、尾張を拠点とした斯波氏と駿河を拠点とした今川氏による勢力争いが続いていました。
永正10(1533)年、斯波方に味方していた井伊領の深嶽(三岳)城を攻めるために、今川氏親軍は市野砦を経由してこの山に布陣しました。この戦いで今川方が勝利して遠江を手中にし、後に井伊家は今川方に仕えることになりました。浜名湖北側の東海道(姫街道)は、戦国時代を通じて軍事上の重要な交通路でした。
永禄6(1563)年、今川氏親の命で社山(現磐田市)に向けて出陣した井伊直平は、この付近の有玉旗屋(畑屋)宿(現有玉南町)で毒殺されたと井伊家の記録にあります。幼少の直政以外に後継の男子を失って存亡の危機を迎えた井伊家は、直虎を女性ながら後継としました。
(現地説明板などより)
大菩薩坂
大菩薩坂 posted by (C)pismo

宗安寺は、山号は萬松山、室町時代末期に開創された曹洞宗の寺院です。
また、江戸時代初期、この地域の代官を務めた市野氏歴代の菩提寺として知られ、墓苑には初代惣太夫実久から以後4代までの歴代の墓が並んでいます。
永禄11(1568)年から徳川家康に仕え、慶長5(1600)年に馬役を命ぜられ、かたわら代官も務めるようになったといわれています。そして市野村をはじめ近隣の数か村をおさめていたと伝えられています。
境内にある三重の塔は、檀家である鈴木六郎氏が寄贈したものであり、聖観世音菩薩が祀られています。
(現地説明板などより)
宗安寺
宗安寺 posted by (C)pismo

宗安寺 (1)
宗安寺 (1) posted by (C)pismo

市野砦は、井伊家を攻めるために今川方が布陣した砦です。
宗安寺がある周辺は、市野町の本村にあたります。天竜川の本・支流が縦横に流れる土地のうちでは比較的安定しており、浜名湖北回りの東海道(後の姫街道)が通るこの地は古くからの要衝でした。遠江を支配地に加えようとする駿河の今川氏と、同じく遠江に勢力を伸ばそうとする斯波氏らが争っていた永正10(1513)年、斯波方に味方していた井伊領を攻めるために、今川軍が布陣した砦跡です。今川方の古文書では、この地の楞厳寺に布陣したと記されています。
楞厳寺は宗安寺の南側にあった寺院ですが、廃寺となり現在は工場と住宅となっています。また永禄7(1564)年には、桶狭間の戦い以降衰えた今川方に反攻した勢力を今川氏真が攻め、市野砦の攻防で論功があった武士を氏真がたたえています。
なお、今川氏は、この付近では万斛(現中郡町)の沢木屋敷を軍事拠点としている他、大瀬、有玉、小松、蒲などに兵を入れていると古記録にあります。
(現地説明板などより)
市野砦
市野砦 posted by (C)pismo

頭陀寺は、山号は青林山、高野山真言宗の寺院です。
大宝3(703)年、文武天皇の正夢に薬師如来が現れ、「我は遠江国におり、我を奉安、祈念すれば、国家安穏、万民豊楽、万病退散するなり」とお告げになりました。帝の命を受け、僧圓空上人は行脚の途中で遠州灘の漁師の話を耳にしました。
さっそく天皇に奏上すると、帝は直ちに仏閣建立の命を下され、末代永く「国家安泰、万民豊楽、万病平癒」の勅願寺とされ、御宸書の勅額「青林山」を賜りました。
以後、青林山 頭陀寺と呼ばれ、大漁祈願、海上安全、五穀豊饒、商売繁盛、身心堅固、諸病平癒等の祈願、そして信仰の寺となり、「頭陀寺のお薬師様」として崇敬を集めています。
頭陀寺はかつて天竜川下流にあった広大な「川匂荘(かわわのしょう)」の現地荘官として、
四十六所明神 (現在は津毛利(つもり)神社と改称 ) とともに荘園の中核をなしました。
往時には多くの塔頭寺院をかかえ、寺域も広く、門前には市場もたちました。
当時の境内には戦国大名今川氏に仕えた武将松下之綱の屋敷があり、ここ一帯は別名頭陀寺城とも呼ばれました。松下屋敷には、少年時代の豊臣秀吉が天文20(1551)年から3年にわたり奉公していたと記録にあり、この寺の付近には鎌砥池(かまとぎいけ)や目刺橋(めざしはし)など秀吉にかかわる伝承地も残っています。
なお、松下氏の一族は井伊氏とも近く、父・直親を殺された幼少の井伊直政を匿い、母の再婚相手となった松下源太郎清景が直政を養子として、今川氏の追手から保護しました。
また、松下之綱の長女は柳生宗矩に嫁ぎ、剣聖柳生十兵衛を生んでいます。
その後今川氏に反攻した松下氏や飯尾氏らとの攻防で、永禄7(1564)年頭陀寺は炎上してしまいましたが、後年、縁のあった豊臣秀吉、徳川家康の寄進により復興しました。
平成29(2017)年1月22日、大河ドラマ「おんな城主直虎」の放送を受け、境内に頭陀寺にゆかりのある豊臣秀吉、徳川家康、井伊直政の「3公像」が建立されました。
(現地説明板などより)
頭陀寺 (1)
頭陀寺 (1) posted by (C)pismo

頭陀寺 (2)
頭陀寺 (2) posted by (C)pismo

頭陀寺 (3)
頭陀寺 (3) posted by (C)pismo

頭陀寺
頭陀寺 posted by (C)pismo

熊野神社は、江戸時代までは頭陀寺の境内にあり、頭陀寺の鎮守として祀られていましたが、明治の神仏分離令で境内から分離し、町の鎮守として祀られるようになりました。
明治11(1878)年頭陀寺再建の折に、本尊の宮殿を神社の御神体の宮殿として移築し現在に至っています。
(現地説明板などより)
熊野神社
熊野神社 posted by (C)pismo
頭陀寺城〔松下屋敷〕
頭陀寺城〔松下屋敷)
頭陀寺城〔松下屋敷) posted by (C)pismo

頭陀寺城〔松下屋敷) (1)
頭陀寺城〔松下屋敷) (1) posted by (C)pismo

鎌研ぎ池は、松下家の守護神だった小さな神社内にある池で、豊臣秀吉が少年の頃、近くの頭陀寺城主松下嘉兵衛に仕えていた頃、馬草を切る鎌を研ぎ試し切りのために池に生えた葦の葉を切ったという伝説があります。
秀吉がまだ木下藤吉郎と言った少年の頃、このを訪れ頭陀寺城主の松下嘉兵衛之綱に身をよせて、天文22(1533)年3月より永禄元(1558)年4月の間、下僕として奉公しました。この時馬草を刈るのに池のはたで鎌を研ぎ試し切りのために池に生えた葦の片方へ出ている葉のみを切ったので、それから片葉の葦が生えるようになったという説が「遠州七不思議」のひとつとして残されています。また松葉で手裏剣の練習をしたその松葉がメダカの目に刺さったので、池には片目のメダカが見られるようになったと言い伝えがあります。
天白神社は松下嘉兵衛之綱の守護神として、天文2(1535)年の頃、祭祀されました。藤吉郎も将来の武将を夢みて祈念したことと思われます。
(現地説明板などより)
鎌研ぎ池
鎌研ぎ池 posted by (C)pismo

鎌研ぎ池 (1)
鎌研ぎ池 (1) posted by (C)pismo

鎌研ぎ池 (2)
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鎌研ぎ池 (3)
鎌研ぎ池 (3) posted by (C)pismo

匂坂城(さぎさかじょう)は、遠江の国人領主匂坂氏の居城です。
天文元(1532)年匂坂筑前守六郎五郎長能は、社山城主を菅沼重左衛門定平と交替し、本領匂坂に城砦を構築しました。また社山城より若宮八幡社を匂坂城に移し鎮守としました。
永禄11(1568)年、長能の跡を継いでいた匂坂吉政は今川氏から離反し、はじめは武田信玄の重臣秋山虎繁(信友)に属そうと秋山の陣所を訪れました。ところが、兄政信の子政祐が「自分が匂坂の嫡流」だと売り込んだため、政祐を殺し、そのまま家康のもとに奔り、家康から本領を安堵され旗本の一人に加わりました。
その後、元亀元(1570)年6月28日、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が激突した近江姉川の戦いで、朝倉方の猛将真柄十郎左衛門を討ち取る武名をあげています。子孫は、徳川幕臣として続きました。
匂坂城は、元亀2(1571)年3月の武田信玄の高天神城攻めの際、3月6日信玄により小田松、匂坂、宮口の3城が落城しました。
遠江に進出した武田信玄は、匂坂城を落とした後は穴山梅雪を置いて守らせていました。この頃の匂坂城は、武田軍の二俣攻めに際し、掛川と浜松を分断する大きな役割を果たしていました。城跡は匂坂氏の館跡で宝暦年(1751)間、土地を鋤塚とし、槍、太刀等が出たので、若宮の内に納められました。
周囲は遺構らしきものはなく、石碑が建っているのみです。
(現地説明板などより)
匂坂館(匂坂城)
匂坂館(匂坂城) posted by (C)pismo

南北朝時代に宗良親王がその心境を三ヶ野橋に託してここを通ったときの歌が残されているようにこの辺りは歴史や地形上からも東西の交通の要衝でした。また武田軍の遠州侵攻のときは古戦場となりました。戦国時代のはじめ頃は、遠江地方は駿河の今川氏の支配下におさめられていましたが、今川氏滅亡後は今川氏に代って家康によって治められた。ところが、元亀3(1572)年上洛を目指す甲斐の武田信玄が遠江へ進出し、木原に陣を布きました。
これを迎え撃つため徳川勢は浜松城を出て、三ヶ野・見付宿・一言坂と戦いました。この大日堂の高台には、本多平八郎物見の松と伝えられる大松が残されていました。
三ヶ野坂は、旧東海道の松並木・車井戸跡・鎌田薬師堂道標・立場茶屋跡等を見て隣接の桶ヶ谷沼・鶴ヶ池を廻る家族向けのハイキングコースとして好評を博しています。
東から三ヶ野橋を西進すると、標高38メートルある大日山の急斜面を這うように江戸時代の旧東海道と交差しています。
そこを200メートル西進して、北向きに明治27(1894)年築造のなだらかな坂道を降りると大正6(1917)年築造の道路と交差していて、その横は昭和30(1955)年築造の国道1号線となります。
交通量の増加で磐田バイパスが計画されて立体交差の袴道橋が平成2(1990)年に完成しました。国道の地下道を抜けると北側は桶ヶ谷沼に続きます。ここから見付に抜ける間道は、俗に言う質屋通いの隠れ道でした。時代別に順次作られた七つの道が1ヶ所にまとまって見られるのは珍しいです。
(現地説明板などより)
三ヶ野坂古戦場(大日堂古戦場) (1)
三ヶ野坂古戦場(大日堂古戦場) (1) posted by (C)pismo

三ヶ野坂古戦場(大日堂古戦場)
三ヶ野坂古戦場(大日堂古戦場) posted by (C)pismo
Posted at 2017/06/14 23:48:39 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2017年05月03日 イイね!

三河・遠江直虎紀行(1日目その3・三ヶ日・湖西市)

大福寺は山号は瑠璃山、本尊は薬師如来、高野山真言宗の寺院です。
初山宝林寺、龍潭寺、方広寺、摩訶耶寺、大福寺を湖北五山と言います。
貞観17(875)年、名僧教待上人が鳳来山(扇山)に開創し、幡教寺と号しました。
300年後の承元3(1209)年、大中臣朝臣時定卿が所領250町歩を寄附し現在地に移しました。その時土御門天皇から勅額を下賜されて大福寺と改称しました。
裏山の斜面を利用して前面に池を配した回遊式の庭園(静岡県指定名勝)は室町時代の築庭と思われ浄土苑と称します。元禄時代の茶人山田宗偏が愛した庭で、池は福助池といいます。宝物殿「聚古館」には、国指定重要文化財、南北朝時代の古文書・瑠璃山年録残編を所蔵しています。
ここで作られる大福寺納豆は、足利七代将軍義勝をはじめ、今川義元、豊臣秀吉、徳川家康以下歴代将軍に献上された歴史があります。10月から翌年3月までに境内に咲く冬咲きの「半蔵桜」も有名です。
大福寺 (1)
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大福寺 (2)
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大福寺 (3)
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大福寺
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大福寺 (4)
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大福寺 (5)
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大福寺 (6)
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大福寺 (7)
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大福寺 (8)
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大福寺 (9)
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大福寺 (10)
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大福寺 (11)
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千頭峯城(せんとうがみねじょう)は、大福寺の古い文書「瑠璃山年録残篇」によると、南北朝時代に宗良親王を奉じて奮戦した井伊氏の西方における最大の拠点でした。
南北朝時代の典型的な鶴翼型の山城で、曲輪、空堀、土塁などが今も残っています。この本城の周りには鯉山砦、中千頭砦、長岩砦、池田峠曲輪、隠尾曲輪なども設けられ、一大砦群を形成していました。
当時の守将は井伊氏一族の奥山朝藤といわれ南朝方の廷臣や浜名神戸庄庄官県氏、大江氏をはじめ勤王の将士数百名で籠城しましたが、北朝方の武将、高師兼の大軍の攻撃に耐えかね、3ヶ月の攻防の末、暦応2(1339)年10月30日落城しました。
この千頭峯城は、戦国時代に砦として再利用された形跡もありますが、長い間詳細が解明されることはありませんでした。
近年になって、三ヶ日町内の郷土史家や地元の千頭峯城史蹟保存会の会員の研究、保存活動のおかげで中世の代表的な城塞群として、昭和56(1981)年3月16日、静岡県指定史跡に指定されました。(現地説明板などより)
千頭峯城 (1)
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千頭峯城 (2)
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千頭峯城 (3)
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千頭峯城
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千頭峯城 (4)
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千頭峯城 (5)
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千頭峯城 (6)
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千頭峯城 (7)
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摩訶耶寺は、山号は大乗山、院号は宝池院、高野山真言宗の寺院です。初山宝林寺、龍潭寺、方広寺、摩訶耶寺、大福寺を湖北五山と言います。
神亀3(726)年、行基によって引佐町奥山の富幕の山中に在って真萱堂と称し、新達寺として開創されました。
富幕山に開創された新達寺は平安時代に千頭ヶ峯の観音岩と呼ばれる場所に移り名を真萱寺へと変え、やがてマカヤ寺と呼ばれるようになり、平安時代末期に一条天皇の勅願により今の場所へと移転しました。
御本尊の厄除正観世音菩薩(秘仏)は奈良時代から今日まで、度重なる兵火・天災から僧たちによって守られ、受け継がれています。
古くから厄除けの寺として知られ、袋井の法多山、祝田の善明寺の観音様と三姉妹観音で、その長女が摩訶耶寺の御本尊です。
元亀4(1573)年の武田信玄の遠江・三河侵攻により焼失し、現在の本堂は江戸時代、寛永9(1632)年に近藤用行により建造、入母屋造り5間4面、総ケヤキの巨財をもって造作され、格天井には法橋関中の筆になる極彩色の花鳥が配されています。
庭園は平安末期から鎌倉初期の日本の中世庭園を代表するもので、座視鑑賞式池泉庭です。昭和43(1968)年の学術調査の結果、鎌倉時代前期に作庭されたものと推定され、日本の中世庭園を代表する庭園だと言われています。
不動明王像(平安時代末期の作)と千手観音像(藤原時代初期の作)は国の重要文化財に指定され、また阿弥陀如来像(平安時代末期の作)は県の重要文化財に指定されています。
摩訶耶寺 (1)
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摩訶耶寺 (2)
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摩訶耶寺 (3)
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摩訶耶寺
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摩訶耶寺 (4)
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摩訶耶寺 (5)
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摩訶耶寺 (6)
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摩訶耶寺 (7)
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摩訶耶寺 (8)
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摩訶耶寺 (9)
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摩訶耶寺 (10)
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摩訶耶寺 (11)
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摩訶耶寺 (12)
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摩訶耶寺 (13)
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摩訶耶寺 (14)
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摩訶耶寺 (15)
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宇津山城は、永正3(1506)年から大永7(1527)年頃にかけて今川氏によって正太寺の裏山を利用して築城されたとされます。
宇津山城は、三河国への侵攻をはかる今川氏親が、浜名湖を利用した舟運の支配と三河国と遠江国との国境を見張る目的で築いた城です。
永禄3(1560)年、今川義元が桶狭間の戦いで討死すると、反今川を明らかにした徳川家康の遠江国への侵攻を防ぐために改修が行われ、高山に物見ができる簡単な曲輪が造られました。その後宇津山城をめぐって今川方と徳川方の攻防が繰り広げられる中で今川方の最前線基地として整備されますが、永禄12(1569)年、徳川方の酒井忠次の攻撃によって落城しました。城を守っていた小原鎮実は城に火を放ち、船で浜名湖の対岸まで逃げたと言われています。
そして今川氏の滅亡によって三河・遠江国境の押さえとしての意味合いが薄れ、宇津山城の戦略的地位は低下しました。
ところが、元亀2(1571)年、武田信玄と徳川家康との対立が表面化すると、再び宇津山城の戦略的地位が注目されました。国境北部から侵入する武田軍に備えるため、西に偏った防御ライン深く掘り込まれた掘切、湖岸線までに達する竪堀など、宇津山城最後の構えが整備されました。
しかし、天正3(1575)年の長篠の戦いで武田軍が敗れると、宇津山城の戦略的意味合いも失われ、宇津山城の歴史は閉じられました。
(現地説明板などより)
宇津山城 (1)
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宇津山城 (2)
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宇津山城
宇津山城 posted by (C)pismo

新居関所は、江戸時代には今切関所といわれ、慶長5(1600)年に設置されました。
創設当初は浜名湖の今切口に近い位置にありましたが、元禄12(1699)年、宝永4(1707)年と度重なる災害により、わずか7年の間に西北へと2度移転を繰り返しました。関所は常に浜名湖岸に建ち、構内には東海道の新居・舞坂を結ぶ今切渡しの渡船場があり、浜名湖を往来する旅人の監視と「入鉄砲と出女」を取り締まりました。
関所は慶長5(1600)年から江戸幕府が管理していましたが、元禄15(1702)年以降は三河国吉田藩に移管されました。明治2(1869)年正月の行政官布告で全国の関所は廃止されることとなりました。約270年間江戸の防衛を目的とした関所はその役割を終え、以後小学校や役場として使われました。
 現存している関所建物は安政2(1855)年から5年かけて建てかえられたものです。昭和30(1955)年国の特別史跡に指定され、昭和46(1971)年には解体修理を行い、今では全国で唯一現存する関所建物として大切に保存し、公開しています。
平成14(2002)年には護岸石垣、渡船場をはじめ面番所への通路の一部、平成19(2007)年には面番所前、平成26(2014)年には大御門を復元しました。今後も船会所、女改め長屋などの復元整備を計画しています。併設の関所史料館では関所ゆかりの資料や街道・交通史関係資料などを常設展示するほか、企画展示を年6~7回、イベントも開催しています。
新居関所
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新居関所 (1)
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新居関所 (2)
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新居関所 (3)
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新居関所 (4)
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新居関所 (5)
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新居関所 (6)
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新居関所 (7)
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新居関所 (8)
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旅籠紀伊国屋は新居宿で営業を始めた時期ははっきりしません。
記録では、元禄16(1703)年に徳川御三家の一つ紀州藩の御用宿となっており、これは新居宿・新居関所の現在地への「惣町移転」の前ですから、宿内の老舗であったことは確かです。正徳6・享保元(1716)年に「紀伊国屋」の屋号を掲げました。
その後延享2(1745)年までに、帯刀、五人扶持を認められ、御用宿としての地位を固めました。
敷地内に紀州藩七里飛脚の役所を置いたこともあります。
主は紀州の出身で、江戸初期に新居に移り住み茶屋を営んだといわれます。
のち、代々疋田弥左衛門を名乗り、昭和30年代に廃業するまで約250年にわたり、旅館業を続けました。江戸時代後期の紀伊国屋は、間口五間(約九メートル)の平屋造りで、部屋数12、
裏座敷2、総畳数63と、25軒前後あった新居宿の旅籠の中で最大規模を誇りました。
浪花講など各種の講の定宿ともなり、紀州藩関連以外の一般客の確保にも力を入れました。
明治7(1874)年の大火により焼失、二階建てに建て替えられ一部増築もなされましたが、江戸後期の旅籠建築様式は随所に残され、廃業時まで保存されました。
建物は明治初めの再建ですが、随所に江戸期の建築様式を色濃く残し、平成13(2001)年に解体修理を行いました。今回の整備では、旅籠の形態と、そこに散見される街道宿場文化を伝える施設として、許される限り旧来の部材を使い再生することに努めました。
紀伊国屋 (1)
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紀伊国屋 (2)
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紀伊国屋 (3)
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紀伊国屋 (4)
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紀伊国屋
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Posted at 2017/06/14 23:24:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2017年05月03日 イイね!

三河・遠江直虎紀行(1日目その2・新城)

満光寺は、山号は青龍山、本尊は十一面観世音菩薩、奥三河七観音霊場の曹洞宗の寺院です。
貞観2(860)年、平安時代に天台宗の寺院として創建されました。
明応9(1500)年、戦乱により廃墟となりましたが、天文9(1532)年、この地一帯の領主鈴木長門守重勝によって、曹洞宗の寺として現在地に再建されました。
寛文8(1688)年に客殿と衆寮が、天和3(1680)年に大庫裏が、貞享2(1685)年頃には薬師堂、土蔵、車屋、馬屋、大門塀が建てられ盛大になりました。
更に宝永4(1707)年、現存する三門が建てられましたが、天明2(1782)年火災によって、諸堂が焼けてしまい、山門だけが残りました。
天明4(1784)年伽藍が復興されましたが、かっての面影はなく、今は本堂と山門だけが残っています。
さらに、明治になり排仏の動きが高まり、多くの仏像や寺が失われ、満光寺も多くの末寺が廃寺にされましたが、田沢村の檀家に守られて、廃寺を免れました。
現在、本堂と書院の間の座敷を田沢寮と名ずけて記念しています。
庭園は、愛知県指定文化財に指定され、小堀遠州流で鶴亀蓬莱式の回遊林泉庭園です。東庭200平方メートル、北庭800平方メートル、高くそびえる裏庭の斜面を利用し、書院に迫るように築かれています。
また、この寺院は若き日の徳川家康のエピソードが残されています。元亀年間、家康が若い頃、武田信玄の軍勢に追われて逃げる途中、満光寺に一泊し、一番ドリが鳴いたら起こせと頼んで寝ました。ところがその夜半に突然ニワトリが鳴いたので、住職が家康一行を起こしました。一行は大急ぎで闇の中を出発しました。夜明けと共に武田軍が寺を包囲したが、家康一行は危機一髪命拾いしました。
家康はこの恩返しとして、満光寺のニワトリに3石の扶持を与えられました。その後、慶安2(1649)年、徳川家光から寺領20石が与えらましれた。
「山の吉田の満光寺さまのとりになりたや、にわとりに」と、今でも民謡として歌いつがれています。
(現地説明板などより)
平成29(2017)年の大河ドラマ「おんな城主直虎」第13回「城主はつらいよ」の直虎紀行で紹介されました。
満光寺 (1)
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満光寺 (1)
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満光寺 (3)
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満光寺
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柿本城は、遠江井伊谷の井伊家被官だった鈴木長門守重勝が、三河遠江国境を扼するため、永禄11(1568)年に徳川家康の命により築城を開始したとされています。
本城は、標高190mの子路山山頂付近の端部に所在し、規模は約150m四方にわたり、南北90mで東西約55mの長方形を呈する主郭と、その東西部の一段低い場所に腰曲輪が配置されます。土塁などの遺構は認められず、防備の基本は、堀や柵を立て並べるものだと思われ、山城としてのその構築は、長篠の戦いの天正3(1575)年以後と思われます。
重勝の嫡子の鈴木三郎太夫重時(山吉田)と、菅沼次郎右衛門忠久(都田)、近藤石見守康用は、三河者で知勇に優れ、同じ井伊家に仕えて仲が良く、井伊谷三人衆と呼ばれました。家康の永禄11(1568)年の遠江侵攻の際の道案内役を務めた後、柿本城を築城して、井伊谷と山吉田を共同して守るよう家康から命を受けました。
井伊家15代当主の井伊直盛(直虎の父)が永禄3(1560)年の桶狭間の戦いで亡くなると、養子(従弟)の井伊直親が16代当主となりましたが、直親の母親が鈴木長門守重勝の娘であったことから、井伊家を支えるために山吉田・鈴木家が奔走したことが推測されます。
元亀3(1572)年10月には徳川家康との盟約が破れた武田信玄は2万5千の兵を率いて遠江攻略に出陣し、三河に進出してきた武田軍の内、山県昌景の5千の兵は、井伊谷方面に出るため、作手の奥平、田峯の菅沼、長篠の菅沼の山家三方衆の道案内で、500ばかりの兵が守る柿本城へ押し寄せました。軍勢を率いて、5百ばかりの兵が守る柿本城に押し寄せました。本丸が完成したところで攻撃を受けたため、城を守るのは困難な状態でした。15歳の城主の鈴木平兵衛重好(重時の嫡子)は、満光寺玄賀和尚らの仲介によって戦闘を回避すべく和議を結んで開城し、引佐町・伊平小屋山砦に向かい入ることができました。
その後鈴木重好は、親譲りの剛勇と知謀を兼ね備えていて、後に徳川四天王の一人と呼ばれた17代井伊直政に仕え、「関ヶ原の戦い」など各合戦に従軍、数々の戦功を挙げました。元和4(1618)年、水戸藩初代徳川頼房(家康の末子)の附家老となり、その子孫代々において水戸城代家老あるいは執政等、水戸藩政の要路にたって忠勤に抜きんでて、万石以上の格式を充てられました。
一方柿本城は、家康の遠江平定後は、宇利城主の近藤康用がここに居城を移したとされています。
(現地説明板などより)
城跡は、道の駅鳳来三河三石から満光寺にむけて登っていきそこから登城ルートが整備されていました。平成29(2017)年の大河ドラマ「おんな城主直虎」第13回「城主はつらいよ」の直虎紀行で紹介されました。
柿本城
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柿本城 (1)
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柿本城 (2)
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柿本城 (3)
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柿本城 (4)
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柿本城 (5)
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柿本城 (6)
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柿本城 (7)
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柿本城 (8)
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柿本城 (9)
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宇利城は、連郭式と螺旋式を併用した山城で、文明年間(1469~87年)、今川方の熊谷重実が築城しました。
東三河は今川氏の勢力範囲でしたが、氏輝の代になるとその力も失われ、松平清康はこの機会に東三河を手に入れようとしました。享禄2(1529)年、11月4日、3千余の軍勢を率いて宇利城を攻めました。吉田、田原、牛久保、作手、田峯、野田、西郷、伊奈、設楽などの城主は清康に従いましたが、宇利城主の熊谷実長は今川氏との盟約を固守したため、宇利城に向けて攻撃を開始しました。
野田城主菅沼定則を案内に、東上(一宮町)で豊川を渡り、八名井の今水寺で休息し、宇利に向かいました。城の大手には松平右京亮親盛(清康の叔父)、松平内膳正信定(親盛の弟)が、搦手には清康の旗本が攻撃にあたり、作手の奥平貞勝が先導しました。城郭の前面や側面が沼田で、裏手を山で囲まれた天然の要害であった宇利城の戦況は熾烈を極めました。
この戦いで城方370余名、松平方90名が死傷し、大手の激戦では松平右京亮が戦死しました。
清康は苦戦しましたが、城内の松平方に通じた岩瀬庄右衛門が、城に火をつけた為、熊谷実長は裏山伝いに落ち延び、ついに落城しました。
その後天文14(1545)年、今川義元の攻撃を受け、今川氏に仕えた近藤満用らが在城しました。
永禄11(1568)年、家康側に寝返った近藤氏は武田軍の攻撃に耐え、その後居城を柿本城に移したといいますが、その後の宇利城の状況は定かではありません。
登城ルートの途中には松平右京亮親盛の墓もあります。
(現地説明板などより)
宇利城
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宇利城 (1)
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宇利城 (2)
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宇利城 (3)
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宇利城 (4)
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宇利城 (5)
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宇利城 (6)
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宇利城 (7)
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宇利城 (8)
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Posted at 2017/06/14 22:36:57 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2017年05月03日 イイね!

三河・遠江直虎紀行(1日目その1・作手)

古宮城は、新城市(旧作手村)にある城です。
武田信玄が三河進出の拠点とするとともに、山家三方衆の奥平貞能・貞昌(信昌)父子の監視のため馬場美濃守信春に命じ、元亀2(1571)年に築城したと言われています。
しかし、天正元年(1573)年に奥平・徳川連合軍の手によって落城しました。
現在は白鳥神社が建立されていますが、神社の北側を更に登っていくと主郭部にたどり着きます。東側の主郭部と西側の主郭部の間に大きな竪濠が残っています。土塁もその姿を留めています。
城域は南北約200メートル、東西約250メートルの独立した小山全体からなっています。当時は南東北の三面が湿地になっており、西方は塞ノ神城に通じ、主要部が東西に分かれた一城別郭式の要害堅固な城でした。北側から南側にかけて中央部に全長140メートルの豪壮な竪濠があり、東域と西域に分離しています。この竪濠の北方下端には井戸址と、三方を高さ1.5メートルの土塁で囲んだ約2.5アールの溜池があります。 西域の本曲輪は約4.2アールでその東側土塁には左右2か所の虎口を設けているのが特徴です。
また西域北側には5重の濠を擁し、西方からの攻撃に備えています。 東域は頂部において幅約4メートルの通路で西域とつながり約3.8アールの本曲輪と並んで二の曲輪があり、その北部には多数の曲輪が見られます。東側下端は長さ150メートル、最大幅30メートルの馬場を備えており、愛知県内で唯一甲州流築城術を見ることが出来る、山城好きには見応えのある城です。
(現地説明板などより)
古宮城
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古宮城 (1)
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古宮城 (2)
古宮城 (2) posted by (C)pismo

古宮城 (3)
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古宮城 (4)
古宮城 (4) posted by (C)pismo

古宮城 (5)
古宮城 (5) posted by (C)pismo

古宮城 (6)
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古宮城 (7)
古宮城 (7) posted by (C)pismo

古宮城 (8)
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古宮城 (9)
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古宮城 (10)
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古宮城 (11)
古宮城 (11) posted by (C)pismo

奥平氏は上野国甘楽郡奥平郷の出身で、天授年間、奥平貞俊の代に三河国設楽郡の作手地方に移住しました。当初は、川尻城に本拠を置きましたが、応永31(1424)年に亀山城を築き移りました。その後、奥平氏は貞久・貞昌・貞勝・貞能・貞昌(信昌)と続き、天正元(1573)年に古宮城の武田勢を破り、天正3(1575)年に長篠城に移ります。この年の長篠の戦いで長篠城を死守した後の、信昌は新城城を築き移りました。
亀山城は慶長7(1602)年に信昌の四男の松平忠明が1万七千石にて入封しますが、慶長15(1610)年に伊勢の亀山城に移封され、その後は元和5(1619)年頃の数年間、初期の三河代官として小川又左衛門氏綱が居城した後元和年間に廃城になりました。
土塁や石垣、空堀など遺構もよく残り、「土の城」の中世城郭の姿を現在も留めています。
亀山城 (1)
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亀山城 (2)
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亀山城 (3)
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亀山城
亀山城 posted by (C)pismo

亀山城 (4)
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亀山城 (5)
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亀山城 (6)
亀山城 (6) posted by (C)pismo

亀山城 (7)
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亀山城 (8)
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亀山城 (9)
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石橋城は奥平二代目貞久の二男、弾正久勝が最初の城主です。
地名「石橋」を称し、三代貞昌の家臣となりました。
久勝の子、石橋弾正繁昌は天文6年(1537)9月、主君への謀反が露見し、4代目奥平貞勝の命を受けた土佐定雄に屋敷を攻められて敗北し、郎党40人余が討死にしました。死骸は一穴に埋められ、奥平弾正宮と呼ばれています。現在でも西方土塁の腰に石祠を確認することができます。
その後、徳岩明和尚が繁昌と一族の死を哀れみ亀山城主貞勝に願い出、石橋城跡に「石橋山慈昌院」を建立しました。
現在も慈昌院が建っています。道の駅つくで手作り村の国道301号を挟んで向かい側にあり、木製の標柱が建っています。
石橋城
石橋城 posted by (C)pismo

石橋城 (1)
石橋城 (1) posted by (C)pismo

石橋城 (2)
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石橋城 (3)
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Posted at 2017/06/14 22:13:20 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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