• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

ピズモのブログ一覧

2015年08月22日 イイね!

横浜・八丈島・東京(4日目その1・伝馬町・根岸・上野・谷中・田端)

伝馬町牢屋敷は、慶長年間、常盤橋際から移って明治8年(1875)、市ケ谷囚獄ができるまで約270年間存続し、この間に全国から江戸伝馬町獄送りとして入牢したものは数十万人を数えたといわれています。
現在の大安楽寺、身延別院、村雲別院、十思小学校、十思公園を含む一帯の地が伝馬町牢屋敷跡です。当時は敷地総面積が2618坪、四囲に土手を築いて土塀を廻し南西部に表門、北東部に不浄門がありました。牢舎は揚屋敷、揚屋、大牢、百姓牢、女牢の別があって、揚屋敷は旗本の士、揚屋は士分僧侶、大牢は平民、百姓牢は百姓、女牢は婦人のみでした。
今大安楽寺の境内の当時の死刑場といわれる所に地蔵尊があり、山岡鉄舟筆の鋳物額に「為囚死群霊離苦得脱」と記されています。
牢屋敷の役柄は牢頭に大番衆石出帯刀、 死刑場役は有名な山田浅右衛門、それに同心78名、獄丁46名、外に南北両町奉行から与力1人月番で牢屋敷廻吟味に当たったといいます。
伝馬町獄として未曾有の大混乱を呈した安政5(1858)年9月から同6年12月までの1年3ヶ月の期間が、すなわち安政の大獄で吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎など50余人獄に下し、そのほとんどを刑殺しました。その後もここで尊い血を流した者は前者と合わせて96士に及ぶといいます。
なお、村雲別院境内には勤皇志士96名の祠と木碑が建てられています。
十思公園には、「松陰先生終焉之地」、「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」と刻まれた「吉田松陰辞世の碑」、「吉田松陰顕彰碑」、「忠魂碑(乃木希典書)」、「表忠碑(鈴木荘六書)」、「石町時の鐘」などの他、発掘された牢屋敷の石垣を移築復元しています。
(現地説明板などより)
伝馬町牢屋敷跡(十思公園) - 01
伝馬町牢屋敷跡(十思公園) - 01 posted by (C)pismo

伝馬町牢屋敷跡(十思公園) - 02
伝馬町牢屋敷跡(十思公園) - 02 posted by (C)pismo

伝馬町牢屋敷跡(十思公園) - 03
伝馬町牢屋敷跡(十思公園) - 03 posted by (C)pismo

伝馬町牢屋敷跡(十思公園) - 04
伝馬町牢屋敷跡(十思公園) - 04 posted by (C)pismo

伝馬町牢屋敷跡(大安楽寺) - 05
伝馬町牢屋敷跡(大安楽寺) - 05 posted by (C)pismo

小野照崎神社の祭神は、平安初期の漢学者・歌人として有名な小野篁です。
創祀の年代は不明ですが、次のような伝承があります。
篁は上野国司の任期を終え、帰洛の途についた際、上野照崎(忍岡、現在の上野公園付近)の風光を賞しました。仁寿2(852)年篁が亡くなったとき、その風光を楽しんだ地に彼の霊を奉祀しました。
その後、江戸時代をむかえ、寛永2(1625)年忍岡に東叡山寛永寺を創建するにあたり、当社を移転することとなり、坂本村の長左衛門稲荷社が鎮座していた現在地に遷した、というものです。また、一説には、忍岡から孔子聖廟が昌平橋に移った元禄4(1691)年頃に遷座したのではないかともいわれています。
現在の社殿は慶応2(1866)年の建築で、関東大震災や東京大空襲などを免れました。また、境内には、富士浅間神社・御嶽神社・三峰神社・琴平神社・稲荷神社・織姫神社、さらには庚申塔が現存しています。
例大祭は5月19日で、3年に一度、本社の神輿渡御が行われます。
境内には「下谷坂本の富士塚」があります。
模造の富士山で、文政11(1828)年の築造と考えられています。
富士山信仰は室町末期頃に起り、江戸時代中期には非常に盛んになり、江戸をはじめとして富士講があちこちで結成されました。それにともない、模造富士も多数築かれ、江戸とその近郊の富士塚は50有余を数えるに至りました。しかし、いまに伝わる塚は少ないです。
この富士塚は高さ約5m、直径約16mあり、塚は富士の熔岩でおおわれ、東北側一部が欠損しているものの、原形がよく保存されています。
昭和54(1979)年5月21日、国の重要有形民俗文化財に指定されています。
(現地説明板などより)
小野照崎神社 - 01
小野照崎神社 - 01 posted by (C)pismo

小野照崎神社 - 02
小野照崎神社 - 02 posted by (C)pismo

小野照崎神社 - 03
小野照崎神社 - 03 posted by (C)pismo

小野照崎神社 - 04
小野照崎神社 - 04 posted by (C)pismo

小野照崎神社 - 05
小野照崎神社 - 05 posted by (C)pismo

小野照崎神社 - 06
小野照崎神社 - 06 posted by (C)pismo

東京で晩年を暮らした正岡子規の家・子規庵です。
残念ながら、閉まっていました。
正岡子規(1867~1902)は俳人・歌人・随筆家です。幼名は升、本名は常規、別号を獺祭書屋主人(だっさいしょおくしゅじん)、竹の里人などといいました。伊予国藤原新町(現・愛媛県松山市)に生まれ、俳句・短歌の革新を唱え、また写生文を提唱しました。
新聞「日本」及び俳誌「ホトトギス」により活動、子規庵での句会には森鴎外、夏目漱石も訪れ、歌会には伊藤左千夫、長塚節等が参加、歌誌「アララギ」の源流となります。
 著書には、俳論「俳諧大要」「俳人蕪村」、歌論「歌よみに与ふる書」、歌集「竹の里歌」、随筆「墨汁一滴」「病牀六尺」「仰臥漫録」など多くあります。
子規はこの場所に明治27(1894)年2月から住み、明治35(1902)年9月19日病のため没しました。母八重、妹律は子規没後もここに居住し、其の後は子規の門弟寒川鼠骨が庵を守りつづけました。
昭和20(1945)年戦災によって平屋造り家屋は焼失しましたが、昭和25(1950)年鼠骨らにより旧規の通り再建され現在に至っています。
史跡に指定されている土地の面積は405.6平方メートルあります。
(現地説明板などより)
子規庵 - 01
子規庵 - 01 posted by (C)pismo

子規庵 - 02
子規庵 - 02 posted by (C)pismo

寛永寺は山号は東叡山、東叡山寛永寺円頓院と号する元和8(1622)年、徳川幕府2代将軍秀忠が、上野の地を天台宗の僧天海に寄進したことから、寛永寺の歴史は始まります。
本坊は寛永2(1625)年に竣工。根本中堂の完成は元禄11(1698)年のことです。
江戸末期までの寛永寺は、いまの上野公園をはじめ、その周辺にも堂塔伽藍や子院が立ち並ぶ文字通りの巨利であり、徳川将軍ゆかりの寺にふさわしい威容を誇っていました。
慶応4(1868)年明治維新の際の上野戦争で大半が炎上し、その後明治政府の命令で境内も大幅に縮小され(約3万坪、江戸時代の10分の1ほど)現在に至っています。
旧本堂(根本中堂)は、現在の東京国立博物館前の噴水池あたりにありましたが、彰義隊の兵火で焼失し、明治9(1876)年から明治12(1879)年にかけて、埼玉県川越市の喜多院の本地堂が移築され、寛永寺の本堂になりました。寛永15(1638)年の建造といわれています。
(現地説明板などより)
徳川将軍家の菩提寺で徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠っています。現在は上野公園の北東側にひっそりとありますが、彰義隊の戦いで焼失するまでは上野公園全域が寛永寺だったので、いかに大寺院であったかがわかります。ここは江戸の鬼門にあたることから、京都の鬼門を守る比叡山延暦寺の徳川家版ということがいえるでしょう。
西の叡山に対し「東叡山」寛永寺と名乗り代々の山主に皇室から親王を迎えていたことからも、幕府創設当初の徳川家の天皇家に対する対抗意識が垣間見えます。
寛永寺 - 01
寛永寺 - 01 posted by (C)pismo

寛永寺 - 02
寛永寺 - 02 posted by (C)pismo

東京都台東区谷中谷中霊園は、都立谷中霊園の他に天王寺墓地と寛永寺墓地で構成されています。
寛永寺墓地には、徳川慶喜の墓があります。寺院の敷地ですが、神式の墓です。
徳川慶喜(1837〜1913)は、水戸藩主徳川斉昭の第七子で、初め一橋徳川家を継ぎ、後見職として将軍家茂を補佐しました。
慶応2(1866)年、第15代将軍職を継ぎましたが、翌年大政を奉還し慶応4(1868)年正月に鳥羽伏見の戦を起こして敗れ、江戸城を明け渡しました。復活することはなく、慶喜は江戸幕府のみならず、武家政権最後の征夷大将軍となりました。
駿府に隠棲し、余生を過ごしますが、明治31(1898)年には、大政奉還以来30年ぶりに明治天皇に謁見しています。明治35(1902)年には公爵を受爵しました。徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許され、貴族院議員にも就任しています。大正2(1913)年11月22日に77歳で没しました。
お墓は、間口3.6m、奥行4.9mの切石土留を囲らした土壇の中央奥に径1.7m、高さ0.72mの玉石垣の基壇を築き、その上は葺石円墳状を成しています。
墓所内には、正室一条美賀子、女中頭(側室)一色須賀、側室中根幸、新村信と徳川慶喜家の墓があります。
谷中霊園・徳川慶喜の墓 - 01
谷中霊園・徳川慶喜の墓 - 01 posted by (C)pismo

谷中霊園・徳川慶喜の墓 - 02
谷中霊園・徳川慶喜の墓 - 02 posted by (C)pismo

谷中霊園・徳川慶喜の墓 - 03
谷中霊園・徳川慶喜の墓 - 03 posted by (C)pismo

谷中墓地には幕末の老中、阿部正弘の墓もありました。
谷中霊園・阿部正弘の墓 - 04
谷中霊園・阿部正弘の墓 - 04 posted by (C)pismo


大龍寺は、山号は和光山、真言宗霊雲寺派の寺院です。
この寺の創立は明らかではありませんが、慶長年間(1596~1615)に不動院浄仙寺が荒廃していたのを、天明年間(1781~1789)になって、湯島霊雲寺光海の高足光顕が中興して「大龍寺」と改称したと伝えられています。
この寺の境内には、俳人正岡子規のほか、宮廷音楽家E・Hハウス、柔道の横山作次郎、子規を短歌の師と仰いだ鋳金家の木村芳雨などの墓があります。正岡子規は、「静かな寺に葬って欲しい」と、日頃から弟子に話しており、武蔵野台地の端にあり、林に囲まれて静かなこの寺が選ばれたそうです。
「子規居士之墓」の右に母「正岡八重墓」、左に「正岡氏累世之墓」、左側の前には生前自ら選んだ墓碑銘碑があり、松山藩士の子であることや、陸羯南の日本新聞から貰っていた月給が三十円であったことまで書かれています。
「正岡子規又ノ名ハ虎之助又ノ名ハ升又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人又ノ名ハ竹ノ里人伊豫松山ニ生レ東京根岸ニ住ム父隼太松山藩御馬廻加番タリ卒ス母大原氏ニ養ハル日本新聞社員タリ明治三十□年□月□日没ス享年三十□月給四十圓」
竹ノ里人の号に因んで植えたのか、墓の後ろには竹が茂っています。
大龍寺 - 01
大龍寺 - 01 posted by (C)pismo

大龍寺 - 02
大龍寺 - 02 posted by (C)pismo

大龍寺 - 03
大龍寺 - 03 posted by (C)pismo

大龍寺 - 04
大龍寺 - 04 posted by (C)pismo
Posted at 2015/10/04 19:13:43 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2015年08月22日 イイね!

横浜・八丈島・東京(3日目その2・品川・田町など夜の史跡めぐり)

八丈島から飛行機で東京に戻ります。この日の宿は品川。
夜は少しばかり散策を兼ねて、史跡めぐりを。

台場小学校などになっている御殿山下台場〔砲台〕です。
嘉永6(1853)年アメリカ合衆国のペリーが4隻の軍艦(黒船)を率い、日本に開国を求めるため浦賀に来航しました。鎖国をしていた当時の日本は大騒動になり、徳川幕府は江戸の町を守る為急いで品川沖から深川洲崎にかけて11の台場を造ることにしたのです。
伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍がオランダの書物をもとに砲台造りの指導にあたり、第1から第三台場と第五・第六台場は完成させましたが、残りの第四・第七は中途で工事を中止し、第8以下は着工にも至らなかったのです。その代わりとして、陸続きで五角形の砲台を造ることになりました。これが御殿山下台場(砲台)です。明治になると埋立てられ姿を消しましたが、幸いな事に台場の輪郭は道として残り、今でもその位置と形を知ることが出来ます。跡地に建つ台場小学校の敷地はこの台場の半分程の面積を占めています。
台場跡からは石垣が発見され、小学校にはその石垣を使った記念碑が建てられました。石垣の上に立つ灯台は、明治3(1870)年日本で3番目の洋式灯台として第二台場に造られた品川灯台を模したものです。現在、品川灯台は国の重要文化財として愛知県犬山市の博物館明治村に移設されています。
(現地説明板より)
台場小学校の入口付近に説明看板が立っています。
御殿山下台場〔砲台〕跡 - 01
御殿山下台場〔砲台〕跡 - 01 posted by (C)pismo

長州藩士たちが英国公使館焼き討ち事件の密議を凝らした土蔵相模跡です。
旅籠屋を営む相模屋は、外壁が土蔵のような海鼠壁だったので、「土蔵相模」と呼ばれていました。
文久2(1862)年、品川御殿山への英国公使館建設に際して、攘夷論者の高杉晋作や久坂玄瑞らは、この土蔵相模で密議をこらし、同年12月12日夜半に焼き討ちを実行しました。幕末の歴史の舞台となったところです。
(現地説明板などより)
現在は、ファミリーマート北品川店のあるNICハイム北品川というマンションの前に説明板が立っているだけです。
土蔵相模跡 - 01
土蔵相模跡 - 01 posted by (C)pismo

土蔵相模跡 - 02
土蔵相模跡 - 02 posted by (C)pismo

嘉永6(1853)年、黒船4隻によるペリー艦隊来航の折、坂本龍馬は藩からの許可を得て剣術始業中でした。
土佐藩は立会川河口付近にあった土佐藩品川下屋敷の近くにあった浜川砲台の警護にあたるため、江戸詰の武士を動員し、龍馬もその中に加わりました。
同年9月には「異国船処々来り候へば、軍(いくさ)も近き内と存じ奉り候、其節は異国の首を打取り・・」と父親に手紙を書いています。
立会川は後に海運貿易の亀山社中の設立、薩長同盟の斡旋など、近代を切り拓いた龍馬が志を立てたゆかりの地といえます。
北浜川児童遊園には地元有志、品川龍馬会の人々のはたらきで、桂浜にあるものと同じ姿のプラスチック製の龍馬像が高知市の寄贈により設置されていましたが、平成22(2010)年11月15日、東京京浜ロータリークラブが関係者と共にブロンズ像の二十歳の龍馬像として建立されました。
なお、この像には平成11(1999)年修復時の高知県桂浜の像の金属片が溶かし込んであります。龍馬像の履物はブーツではなく草履で、土佐藩の下屋敷にいた頃の龍馬を表しています。
(現地説明板などより)
立会川駅
立会川駅 posted by (C)pismo

立会川 二十歳の龍馬像 - 01
立会川 二十歳の龍馬像 - 01 posted by (C)pismo

立会川 二十歳の龍馬像 - 02
立会川 二十歳の龍馬像 - 02 posted by (C)pismo

浜川橋のたもとから立会川が海にそそぐところまでが、土佐藩抱屋敷でした。幕府への「差出」によると869坪が抱屋敷の広さです。(抱とは拝領と異なり買入れ、借用していたものです。)
ここは土佐から送られて来る物資の荷揚げ地であり、立会川から荷を陸上に上げていました。
ペリー来航の嘉永6(1853)年土佐藩は砲台築造の「願」を幕府に提出し許可を得て、翌年、砲台を造りました。浜川砲台といわれました。
砂浜のやわらかい土地を、石、土砂で埋め立て、2300坪に拡大させています。砲台は8門を設置していました。警備陣は品川下屋敷を宿所としてこの砲台に配置されていました。浜川砲台と品川下屋敷を結ぶ、連絡路は現在の立会川商店街の道路であり、その距離、約200mです。
若き日の坂本龍馬も警備陣に加わっており、この道を毎日歩いていました。
(現地説明板などより)
土佐藩鮫州抱屋敷跡・浜川台場跡 - 01
土佐藩鮫州抱屋敷跡・浜川台場跡 - 01 posted by (C)pismo

土佐藩鮫州抱屋敷跡・浜川台場跡 - 02
土佐藩鮫州抱屋敷跡・浜川台場跡 - 02 posted by (C)pismo

西郷南洲・勝海舟会見之地です。
慶応4(1868)年3月14日、旧幕府の陸軍総裁、勝海舟が西郷隆盛と会見し、江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所です。
この蔵屋敷の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元から船で送られてくる米などは、ここで陸揚げされました。
現在は、明治5(1872)年鉄道も敷かれ更に埋め立てられて海までは遠くなりましたが、この付近は最後まで残った江戸時代の海岸線です。
また、人情噺で有名な「芝浜の革財布」は、この土地が舞台です。
「第一田町ビル」の前に西郷吉之助氏(西郷隆盛の孫)の揮毫による石碑が建てられています。
(現地説明板などより)
西郷南洲・勝海舟会見之地 - 01
西郷南洲・勝海舟会見之地 - 01 posted by (C)pismo

西郷南洲・勝海舟会見之地 - 02
西郷南洲・勝海舟会見之地 - 02 posted by (C)pismo

西郷南洲・勝海舟会見之地 - 03
西郷南洲・勝海舟会見之地 - 03 posted by (C)pismo

西郷南洲・勝海舟会見之地 - 04
西郷南洲・勝海舟会見之地 - 04 posted by (C)pismo

田町駅・西郷南洲・勝海舟会見の図 - 01
田町駅・西郷南洲・勝海舟会見の図 - 01 posted by (C)pismo
Posted at 2015/09/23 22:35:36 | コメント(1) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2015年08月20日 イイね!

横浜・八丈島・東京(1日目その3・竹芝桟橋から八丈島に向けて出発)

この日の夜、竹芝桟橋から八丈島に向けて出発です。
船の上からの東京湾の夜景です。
竹芝桟橋 - 01
竹芝桟橋 - 01 posted by (C)pismo

竹芝桟橋 - 02
竹芝桟橋 - 02 posted by (C)pismo

東京湾 - 01
東京湾 - 01 posted by (C)pismo

東京湾 - 02
東京湾 - 02 posted by (C)pismo

東京湾 - 03
東京湾 - 03 posted by (C)pismo

東京湾 - 04
東京湾 - 04 posted by (C)pismo

東京湾 - 05
東京湾 - 05 posted by (C)pismo

東京湾 - 06
東京湾 - 06 posted by (C)pismo
Posted at 2015/09/19 22:14:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2015年08月20日 イイね!

横浜・八丈島・東京(1日目その2・横浜歴史散歩)

山下公園は、横浜市中区にある公園です。
関東大震災の復興事業として、横浜市助役だった楢岡徹らが瓦礫などを使って海を埋め立て造成して、昭和5(1930)年3月15日に開園しました。
昭和10(1935)年には復興記念横浜大博覧会が開催されています。
昭和36(1961)年、再整備され、岸壁に氷川丸が係留することになりました。
「水の守護神」、童謡で馴染みの深い「赤い靴はいてた女の子像」、「かもめの水兵さんの歌碑」などがあります。
山下公園 - 01
山下公園 - 01 posted by (C)pismo

山下公園 - 02
山下公園 - 02 posted by (C)pismo

山下公園 - 03
山下公園 - 03 posted by (C)pismo

開港広場にある日米和親条約調印の地碑〔日米和親条約締結碑〕です。
安政元(1854)年2月から3月にかけて、日米代表が横浜村の海岸で会見、和親条約を結びました。これは、神奈川条約ともいわれ、日本の開国を促し、横浜市の誕生の遠因となりました。歴史的舞台となった応接所のあとは、現在の神奈川県庁の付近です。現在、横浜開港資料館が建っているすぐそばの、「開港広場」と呼ばれている場所に地球儀の形をした、日米和親条約調印の石碑が立っています。
日米和親条約締結の地 - 01
日米和親条約締結の地 - 01 posted by (C)pismo

開港にともない、関税と外交事務を扱う神奈川運上所が、今の神奈川県庁所在地に設けられ、神奈川奉行の支配に属していました。
慶応2(1866)年類焼、翌年新築、横浜役所と称しました。
明治元(1868)年、明治政府に移管され明治5(1872)年横浜税関に改められました。
神奈川県庁の南東隅に石碑と説明板が立っています。
神奈川運上所跡 - 01
神奈川運上所跡 - 01 posted by (C)pismo

戸部役所と呼ばれ、内国司法・行政の事務を取り扱った神奈川奉行所跡です。
横浜開港にともない安政6(1859)年6月4日、開港場建設の事務に当たった外国奉行酒井忠行・水野忠徳・村垣範正・堀利熙・加藤則著の5名に神奈川奉行兼帯の命があり、青木町(神奈川区)に会所、戸部村宮ヶ崎(西区)に奉行役所を置き、又横浜村(中区)の中央に運上所を置いて事務を執りました。
この地にあった奉行役所は戸部役所と呼ばれ、内国司法・行政の事務を取り扱い、運上所では、関税及び外務全般の事務を取り扱いました。
万延元(1860)年神奈川奉行は専任となり松平康直・都筑峰暉が任命されました.
明治元(1868)年3月、明治政府は新たに横浜裁判所を置きましたが、4月神奈川裁判所と改め、これを2つに分け横浜裁判所・戸部裁判所とし、運上所並びに戸部役所の業務を引継ぎ、神奈川奉行所は廃止されました。その後明治3(1870)年神奈川県庁と改称されました。
神奈川県立青少年センター入口付近に石碑と説明板が立っています。
神奈川奉行所跡 - 01
神奈川奉行所跡 - 01 posted by (C)pismo

掃部山公園にある井伊掃部頭直弼の像です。江戸時代まで、この戸部の丘は「不動山」と呼ばれる海に面した高台でした。明治初期には、日本初の鉄道開通に携わった外国人技師の官舎が建てられ、鉄道事業の拠点となりました。鉄道開業後もこの山の地下水が鉄道用水に使われたことから「鉄道山」と呼ばれるようになりました。明治17(1884)年、旧彦根藩士らが一帯を買いとり庭園化し、井伊家に寄贈したことから、井伊掃部頭直弼にちなみ「掃部山」となりました。
明治42(1909)年7月、横浜開港50周年記念に際して、旧彦根藩有志が藩主の開港功績の顕彰のため、大老井伊掃部頭直弼の銅像を建立しました。銅像の左側にある水飲み施設はその時に直弼の子で与板藩井伊氏を嗣いだ子爵井伊直安より寄付されたものです。
大正3(1914)年には井伊家よりこの地は横浜市に寄付され、植樹、設備を整え、掃部山公園として開園しました。
掃部山公園には現在約200本の八重桜が植えられ、明治以来の桜の名所としても知られています。震災や戦災で焼けた後も、市民の献木運動で桜や梅が植えられるなど、地域の人から大切に守られてきました。また、昭和40(1965)年からは、毎年8月に、伝統芸能や茶道に通じた文化人である井伊直弼を偲び、野点や琴、尺八の演奏などを楽しむ「虫の音を聞く会」が開催され、長きにわたり夏の風物詩として親しまれています。
平成8(1996)年、横浜能楽堂が公園の一角に移転されました。これは、旧加賀藩の藩主前田斉泰の屋敷にあったものが移された、本格的な能楽の舞台です。2階の展示廊には、能装束や楽器などの能楽資料が展示されています。
井伊直弼の当初の銅像は藤田文蔵、岡崎雪声によって製作され、その姿は「正四位上左近衛権中将」の正装で、高さ3.6mを測りました。しかし、当初の銅像は、昭和18(1943)年に戦時中の金属回収によって撤去されましたが、現在の銅像は、昭和29(1954)年横浜市の依頼により慶寺丹長が製作したもので、その重量は約4トンあります。
なお、台座は妻木頼平の設計で、高さ6.7mあり、創建当初のものが使用されています。
(現地説明板などより)
掃部山公園・井伊直弼の銅像 - 01
掃部山公園・井伊直弼の銅像 - 01 posted by (C)pismo

掃部山公園・井伊直弼の銅像 - 02
掃部山公園・井伊直弼の銅像 - 02 posted by (C)pismo

掃部山公園・井伊直弼の銅像 - 03
掃部山公園・井伊直弼の銅像 - 03 posted by (C)pismo

生麦事件の記念碑・生麦事件碑です。
文久2年8月21日(西暦1862年9月14日)勅使大原重徳を奉じて幕政改革の目的を達し、江戸を出発した薩摩藩島津久光の一行は、東海道沿いの生麦村で騎乗のイギリス人4名と遭遇、行列の通行を妨害したとして護衛の薩摩藩士がイギリス人1名を殺害、2人に深手を負わせました(生麦事件)。この事件は、翌年に薩英戦争を引き起こしました。
明治16(1883)年、鶴見の黒川壮三は、イギリス商人リチャードソンが落命した場所に、教育学者中村敬宇に撰文を依頼し遭難碑を建てました。

(表)
 舊蹟
 文久二年壬戌八月二十一日英国人力査遜
 殞命于此處乃鶴見人黒川荘三所有之地也
 荘三乞余誌其事因為之歌歌日
 君流血兮此海壖我邦変進亦其源強藩起兮
 王室振耳目新兮唱民権擾々生死疇知聞萬
 国有史君名傳我今作歌勒貞珉君其含笑于
 九原
 明治十六年十二月 敬宇中村正直撰
 (裏)
 彫刻師 飯島吉六


(訳文)
 文久二年壬戌八月二十一日英国人力査遜(リチャードソン)此処に殞命(いんめい)す
 乃ち鶴見の人黒川荘三所有の地なり
 荘三余に其事を誌さんことを乞う
 因て之が為に歌う、歌ひて曰く
 君此の海壖(かいぜん)に流血す
 我邦の変進も亦其れを源とす
 強藩起って王室振るう
 耳目新たに民権を唱う
 擾々(じょうじょう)たる生死疇(たれ)か聞いて知る
 万国に史(ふひと)有り君が名を伝う
 我れ今歌を作って貞珉(ていびん)に勒(きざ)む
 君其れ九原に含笑せよ
 明治十六年十二月    敬宇中村正直撰
(現地説明板などより)
※平成22(2010)年12月から平成28(2016)年末まで、横浜環状北線建設工事のため、本来の場所から西へ150mほど西に移設されています。
生麦事件碑 - 01
生麦事件碑 - 01 posted by (C)pismo

生麦事件碑 - 02
生麦事件碑 - 02 posted by (C)pismo

生麦事件碑 - 03
生麦事件碑 - 03 posted by (C)pismo

生麦事件は、文久2(1862)年8月21日、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近で、薩摩藩主の父・島津三郎久光の行列と遭遇した騎乗のイギリス人4名を、供回りの藩士が殺傷した事件です。(1名殺害、2名深手)
生麦事件の発生現場に、民家の塀に説明板が立っています。


文久二年八月二十一日辛未晴天

島津三郎様御上リ異人
四人内女壱人横浜与来
リ本宮町勘左衛門前ニ
而行逢下馬不致候哉異
人被切付直ニ跡ヘ逃去
候処追被欠壱人松原ニ
而即死外三人ハ神奈川
ヘ疵之儘逃去候ニ付御
役人様方桐屋ヘ御出当
村役員一同桐屋ヘ詰ル
右異人死骸ハ外異人大
勢来リ引取申候

生麦村名主
 関口日記ヨリ
(現地説明板などより)
生麦事件発生現場 - 01
生麦事件発生現場 - 01 posted by (C)pismo
Posted at 2015/09/19 21:16:09 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記
2015年08月20日 イイね!

横浜・八丈島・東京(1日目その1・三溪園)

この日から、八丈島を目的に関東へ旅行です。
八丈島は夜にフェリーで出発するため、朝に横浜に到着し、三溪園へ。

三溪園は生糸貿易により財を成した実業家原三溪によって、明治39(1906)年5月1日に公開された庭園です。175,000平方メートルに及ぶ園内には京都や鎌倉などから移築された歴史的に価値の高い建造物が巧みに配置されています。
三溪園の土地は、原富三郎三渓の養祖父である原善三郎が明治元(1868)年頃に購入したもので、三溪の手により明治35(1902)年頃から造成が始められ、大正3(1914)年に外苑、大正11(1922)年に内苑が完成しました。三溪が存命中は、新進芸術家の育成と支援の場となり、前田青邨の「神輿振」、横山大観の「柳蔭」、下村観山の「弱法師」など近代日本画を代表する多くの作品が園内で生まれました。
関東大震災と太平洋戦争中の横浜大空襲で大きな被害をうけ、一部の建造物を失いましたが昭和28(1953)年、原家から横浜市に譲渡・寄贈されるのを機に、財団法人三溪園保勝会が設立され、復旧工事を実施し現在に至っています。旧燈明寺本堂、合掌造の旧矢箆原家住宅などは第二次大戦後に三溪園に移築したものです。
平成元(1989)年9月には内苑の御門そばに、原の業績に関する資料や原自筆の書画・原にゆかりのある作家の作品等を展示する三溪記念館が開館しました。平成12(2000)年には、鶴翔閣が復元されています。
現在は、旧紀州徳川家藩別邸だった臨春閣(3棟)、三室戸寺金蔵院より移築された月華殿、織田有楽斎の作といわれる春草廬、豊臣秀吉が母の長寿を祝って建てた旧天瑞寺寿塔覆堂、二条城内に建てられ、その後稲葉家江戸屋敷、二条家にあった聴秋閣、旧東慶寺仏殿、旧燈明寺三重塔と本堂、旧矢箆原(やのはら)家住宅、天授院の10件12棟が国の重要文化財建造物に、白雲邸、鶴翔閣、御門の3棟が横浜市指定有形文化財建造物に指定され、17棟の建築物を有しています。
三渓園 - 01
三渓園 - 01 posted by (C)pismo

三渓園・鶴翔閣(旧原家住宅) - 02
三渓園・鶴翔閣(旧原家住宅) - 02 posted by (C)pismo

三渓園 - 03
三渓園 - 03 posted by (C)pismo

三渓園 - 04
三渓園 - 04 posted by (C)pismo

三渓園 - 05
三渓園 - 05 posted by (C)pismo

三渓園・御門 - 06
三渓園・御門 - 06 posted by (C)pismo

三渓園・白雲邸 - 07
三渓園・白雲邸 - 07 posted by (C)pismo

三渓園・臨春閣 - 08
三渓園・臨春閣 - 08 posted by (C)pismo

三渓園・臨春閣 - 09
三渓園・臨春閣 - 09 posted by (C)pismo

三渓園・旧天瑞寺寿塔覆堂 - 10
三渓園・旧天瑞寺寿塔覆堂 - 10 posted by (C)pismo

三渓園・臨春閣 - 11
三渓園・臨春閣 - 11 posted by (C)pismo

三渓園・臨春閣 - 12
三渓園・臨春閣 - 12 posted by (C)pismo

三渓園 - 13
三渓園 - 13 posted by (C)pismo

三渓園・月華殿 - 14
三渓園・月華殿 - 14 posted by (C)pismo

三渓園・天授院 - 15
三渓園・天授院 - 15 posted by (C)pismo

三渓園・聴秋閣 - 16
三渓園・聴秋閣 - 16 posted by (C)pismo

三渓園・聴秋閣 - 17
三渓園・聴秋閣 - 17 posted by (C)pismo

三渓園・春草廬 - 18
三渓園・春草廬 - 18 posted by (C)pismo

三渓園・蓮華院 - 19
三渓園・蓮華院 - 19 posted by (C)pismo

三渓園・旧燈明寺三重塔 - 20
三渓園・旧燈明寺三重塔 - 20 posted by (C)pismo

三渓園・横笛庵 - 21
三渓園・横笛庵 - 21 posted by (C)pismo

三渓園・旧東慶寺仏殿 - 22
三渓園・旧東慶寺仏殿 - 22 posted by (C)pismo

三渓園・旧東慶寺仏殿 - 23
三渓園・旧東慶寺仏殿 - 23 posted by (C)pismo

三渓園・旧矢箆原家住宅 - 24
三渓園・旧矢箆原家住宅 - 24 posted by (C)pismo

三渓園・旧矢箆原家住宅 - 25
三渓園・旧矢箆原家住宅 - 25 posted by (C)pismo

三渓園・旧矢箆原家住宅 - 26
三渓園・旧矢箆原家住宅 - 26 posted by (C)pismo

三渓園・旧燈明寺本堂 - 27
三渓園・旧燈明寺本堂 - 27 posted by (C)pismo

三渓園 - 28
三渓園 - 28 posted by (C)pismo

三渓園 - 29
三渓園 - 29 posted by (C)pismo

三渓園 - 30
三渓園 - 30 posted by (C)pismo
Posted at 2015/09/10 23:19:42 | コメント(1) | トラックバック(0) | 旅行(ドライブ以外) | 日記

プロフィール

「[整備] #レヴォーグ レヴォーグBピラー静音化 https://minkara.carview.co.jp/userid/157690/car/1902122/8170099/note.aspx
何シテル?   04/01 22:18
ドライブで史跡巡りをやっています。 戦国時代の城・幕末がメインですが、史跡は全般的に好きです。 あとMacやデジタル製品など「新しいもの」も大好きです。
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/11 >>

      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30      

リンク・クリップ

沖縄県編 
カテゴリ:お勧めスポット都道府県別リンク
2024/06/26 22:49:38
 
鹿児島県編 
カテゴリ:お勧めスポット都道府県別リンク
2021/08/26 23:05:24
 
宮崎県編 
カテゴリ:お勧めスポット都道府県別リンク
2021/08/22 08:03:34
 

愛車一覧

スバル レヴォーグ スバル レヴォーグ
H27.3レガシィBPより乗り換え
ホンダ PCX ホンダ PCX
H26.3購入しました。
スバル レガシィツーリングワゴン スバル レガシィツーリングワゴン
H18.3アコードワゴンから乗り換えました。
ホンダ スペイシー100 ホンダ スペイシー100
2ストのリード100から乗り換え。 少しパワー不足でした。
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation