野間城は、源満仲に始まる多田源氏の一族の能勢(野間)高頼が築いたといわれています。
野間氏は能勢氏・余野氏とともに能瀬三惣領と言われ、天正年間(1573~92年)には野間豊後守資持が居城したと伝えられています。
城跡は、圓珠寺から登ります。圓珠寺の南東側の橋を南側に渡り、ノセクリーンセンターの脇から南に向かい、2つ目の角を東に向かい道なりに進みます。
塩ビでできた赤い鳥居が登城口です。
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能勢氏の陣屋跡・
地黄陣屋(地黄城)です。
平安時代、多田満仲の一族が能勢に入部して土豪化し、のち国基の代に能勢郡を領有しはじめて能勢氏を名乗り、地黄陣屋の西側の丸山城を本拠地としました。
戦国時代は能勢頼次が当主でしたが、天正10(1582)年の本能寺の変で明智光秀方に味方し、そのため秀吉配下の河原長右衛門宣勝の乱入を受けて丸山城など城下は焼け野原となりました。
頼次は能勢を離散し、以後能勢は高山右近などが治めた後、天正16(1588)年には島津義久の在京賄料として与えられました。
頼次は不遇の時期を過ごしましたが、関ヶ原の戦いで東軍に味方し、軍功により旧領・領地を併せて1万石を与えられました。
慶長7(1602)年、頼次は野間社(布留の宮)の再建を手始めに、地黄陣屋(地黄城)と城下町の構築に着手しました。
地黄陣屋は普請奉行山田彦右衛門の縄張りにより、東西75m、南北110m、面積8200㎡、さらに大手、搦手、裏には堀をめぐらし、四方には石垣を高く築き高塀が設けられました。
城内には御殿、官宅をはじめ拾数屋舎が配され、北隅には三層の楼閣がありました。完成は元和元(1615)年とされています。能勢氏は明治2(1869)年の版籍奉還まで旗本(4008石)として続きました。
明治後は、明治2(1869)年12月2日、上地され、以後会議所として使用された後、明治8(1875)年、第二番小学校(地黄小学校)が開設、明治12(1879)年から明治14(1881)年には能勢郡役所となりました。
昭和34(1959)年、能勢町立東中学校の敷地になり、現在に至っています。
石垣などの遺構がよく残っています。
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丸山城は、能勢氏の居城でした。
築城時期は不明ですが、長元年間(1028〜1037)に多田源氏の一族の能勢頼国により築かれたと云われています。
能勢氏は、天正10(1582)年の本能寺の変で明智光秀方に味方し、そのため秀吉配下の河原長右衛門宣勝の乱入を受けて丸山城など城下は焼け野原となりました。
関ヶ原の戦いで東軍に味方し、軍功により旧領・領地を併せて1万石を与えられ、地黄陣屋(地黄城)を築いたため、丸山城は廃城となりました。
城跡は、清普寺側の南側から登ります。大手口付近には石造九重塔と宝篋印塔がならんでいます。
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清普寺(せいふじ)は、山号は正行山、日蓮宗の寺院です。
慶長6(1601)年、能勢頼次が日蓮宗中興の祖とされる日乾上人の弟子、日然上人を開山に招き、父頼幸の菩提のために建設したのが始まりです。
本堂は「能勢家霊名簿」によると、元和2(1616)年の建設です。桁行7間、梁間5間、入母屋造茅葺で、日蓮宗方丈型の本堂としては府内で最も古く、当初材もよく残り貴重です。
又、能勢家累代の墓石群等は、周辺の緑の環境と一体化し、歴史的景観を形成しています。
庫裏は宝永4(1707)年〜享保2(1717)年に建設されました。
桁行12間、梁間4間半、本堂と棟通りを直角に南向きに配置されています。屋根は入母屋造茅葺で、主体部分は良好に残っており、本堂と一連の遺構として貴重です。
表門は桁行1間の切妻造本瓦葺の薬医門で、元文5(1740)年〜寛延2(1749)年の建設です。小規模で簡素な門ですが、本堂を中心とした伽藍構成施設として価値があります。
鐘楼は境内の南寄りの高い所に位置し、18世紀後半の建設といわれています。桁行、梁間とも3.3m余り、入母屋造茅葺の安定感のある鐘楼として細部意匠にも工夫がこらされており、伽藍の構成要素としても価値があります。
以上のように、清普寺は17世紀初めから18世紀後半にかけて順次建設された日蓮宗寺院の伽藍施設がよく残されています。
(現地説明板より)
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国指定天然記念物・
野間の大けやきです。
この大けやきを中心とする一画の地は、もと、「蟻無宮」という神社の境内で、この樹はその神の憑り代、すなわち御神体ともいうべき神木であったと思われます。
樹齢千年以上と推定されるこの樹は、目通りの幹回り約14m、高さ30m、枝張り南北38m、東西約42mあり、一樹にしてよく社叢をなし、けやきとして大阪府下で一番、全国的にも第4番目を誇る巨樹です。
古来よりこの大けやきにまつわる伝承を探れば、里人らは春先に出る新芽の出具合によって、この年の豊凶を占ってきたと伝えています。
また、社庭の砂を請い受けて持ち帰り、はたけもの(野菜)や屋内に散布すれば、蟻が退散するといい、その効験は遠くまで知れ渡っていました。おそらく社名蟻無(ありなし)によるものと考えられます。
さらに一説では、有無社は紀貫之を祭神としており、貫之が同じく三十六歌仙の一人である源公忠に贈った歌により社名を付したといわれています。
すなわち、
「手にむすぶ水にやとれる月影の あるかなきかの 世にこそありけれ」
又経房(つねふさ)遺書(安徳天皇ご潜幸の伝承)の一節に「・・・河合にいとおほきなる沢ありて水よどめり、さハの中じまに市女が笠てふものに似たるいとうるはしき木の紅葉せしあり・・・」(原文)、奥書きは、「建保五丑年」とあり、なにか大けやきを連想させるものがあります。
当社の創祀は、承久二庚辰三月十五日とあり、遠く鎌倉時代にさかのぼりますが、明治45(1912)年当社祭神は野間神社に合祀されました。以後、神木の保全、境内の清浄化に蟻無会(前身は蟻無講中)をはじめ、郷民こぞって奉仕してきたところです。
とくに最近樹勢回復のため治療を施し、ようやく往時の姿によみがえろうとしています。
(現地説明板より)
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Posted at 2014/12/20 20:45:04 | |
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