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ピズモのブログ一覧

2014年12月13日 イイね!

能勢の城

野間城は、源満仲に始まる多田源氏の一族の能勢(野間)高頼が築いたといわれています。
野間氏は能勢氏・余野氏とともに能瀬三惣領と言われ、天正年間(1573~92年)には野間豊後守資持が居城したと伝えられています。
城跡は、圓珠寺から登ります。圓珠寺の南東側の橋を南側に渡り、ノセクリーンセンターの脇から南に向かい、2つ目の角を東に向かい道なりに進みます。
塩ビでできた赤い鳥居が登城口です。
野間城 - 01
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野間城 - 02
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野間城 - 03
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野間城 - 04
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野間城 - 05
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野間城 - 06
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野間城 - 07
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野間城 - 08
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野間城 - 09
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野間城 - 10
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能勢氏の陣屋跡・地黄陣屋(地黄城)です。
平安時代、多田満仲の一族が能勢に入部して土豪化し、のち国基の代に能勢郡を領有しはじめて能勢氏を名乗り、地黄陣屋の西側の丸山城を本拠地としました。
戦国時代は能勢頼次が当主でしたが、天正10(1582)年の本能寺の変で明智光秀方に味方し、そのため秀吉配下の河原長右衛門宣勝の乱入を受けて丸山城など城下は焼け野原となりました。
頼次は能勢を離散し、以後能勢は高山右近などが治めた後、天正16(1588)年には島津義久の在京賄料として与えられました。
頼次は不遇の時期を過ごしましたが、関ヶ原の戦いで東軍に味方し、軍功により旧領・領地を併せて1万石を与えられました。
慶長7(1602)年、頼次は野間社(布留の宮)の再建を手始めに、地黄陣屋(地黄城)と城下町の構築に着手しました。
地黄陣屋は普請奉行山田彦右衛門の縄張りにより、東西75m、南北110m、面積8200㎡、さらに大手、搦手、裏には堀をめぐらし、四方には石垣を高く築き高塀が設けられました。
城内には御殿、官宅をはじめ拾数屋舎が配され、北隅には三層の楼閣がありました。完成は元和元(1615)年とされています。能勢氏は明治2(1869)年の版籍奉還まで旗本(4008石)として続きました。
明治後は、明治2(1869)年12月2日、上地され、以後会議所として使用された後、明治8(1875)年、第二番小学校(地黄小学校)が開設、明治12(1879)年から明治14(1881)年には能勢郡役所となりました。
昭和34(1959)年、能勢町立東中学校の敷地になり、現在に至っています。
石垣などの遺構がよく残っています。
地黄城 - 01
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地黄城 - 02
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地黄城 - 03
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地黄城 - 04
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地黄城 - 05
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地黄城 - 06
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地黄城 - 07
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地黄城 - 08
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丸山城は、能勢氏の居城でした。
築城時期は不明ですが、長元年間(1028〜1037)に多田源氏の一族の能勢頼国により築かれたと云われています。
能勢氏は、天正10(1582)年の本能寺の変で明智光秀方に味方し、そのため秀吉配下の河原長右衛門宣勝の乱入を受けて丸山城など城下は焼け野原となりました。
関ヶ原の戦いで東軍に味方し、軍功により旧領・領地を併せて1万石を与えられ、地黄陣屋(地黄城)を築いたため、丸山城は廃城となりました。
城跡は、清普寺側の南側から登ります。大手口付近には石造九重塔と宝篋印塔がならんでいます。
丸山城 - 01
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丸山城 - 02
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丸山城 - 03
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丸山城 - 04
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丸山城 - 05
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丸山城 - 06
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丸山城 - 07
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丸山城 - 08
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丸山城 - 09
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清普寺(せいふじ)は、山号は正行山、日蓮宗の寺院です。
慶長6(1601)年、能勢頼次が日蓮宗中興の祖とされる日乾上人の弟子、日然上人を開山に招き、父頼幸の菩提のために建設したのが始まりです。
本堂は「能勢家霊名簿」によると、元和2(1616)年の建設です。桁行7間、梁間5間、入母屋造茅葺で、日蓮宗方丈型の本堂としては府内で最も古く、当初材もよく残り貴重です。
又、能勢家累代の墓石群等は、周辺の緑の環境と一体化し、歴史的景観を形成しています。
庫裏は宝永4(1707)年〜享保2(1717)年に建設されました。
桁行12間、梁間4間半、本堂と棟通りを直角に南向きに配置されています。屋根は入母屋造茅葺で、主体部分は良好に残っており、本堂と一連の遺構として貴重です。
表門は桁行1間の切妻造本瓦葺の薬医門で、元文5(1740)年〜寛延2(1749)年の建設です。小規模で簡素な門ですが、本堂を中心とした伽藍構成施設として価値があります。
鐘楼は境内の南寄りの高い所に位置し、18世紀後半の建設といわれています。桁行、梁間とも3.3m余り、入母屋造茅葺の安定感のある鐘楼として細部意匠にも工夫がこらされており、伽藍の構成要素としても価値があります。
以上のように、清普寺は17世紀初めから18世紀後半にかけて順次建設された日蓮宗寺院の伽藍施設がよく残されています。
(現地説明板より)
清普寺 - 01
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清普寺 - 02
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清普寺 - 03
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清普寺 - 04
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清普寺 - 05
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清普寺 - 06
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清普寺 - 07
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国指定天然記念物・野間の大けやきです。
この大けやきを中心とする一画の地は、もと、「蟻無宮」という神社の境内で、この樹はその神の憑り代、すなわち御神体ともいうべき神木であったと思われます。
樹齢千年以上と推定されるこの樹は、目通りの幹回り約14m、高さ30m、枝張り南北38m、東西約42mあり、一樹にしてよく社叢をなし、けやきとして大阪府下で一番、全国的にも第4番目を誇る巨樹です。
古来よりこの大けやきにまつわる伝承を探れば、里人らは春先に出る新芽の出具合によって、この年の豊凶を占ってきたと伝えています。
また、社庭の砂を請い受けて持ち帰り、はたけもの(野菜)や屋内に散布すれば、蟻が退散するといい、その効験は遠くまで知れ渡っていました。おそらく社名蟻無(ありなし)によるものと考えられます。
さらに一説では、有無社は紀貫之を祭神としており、貫之が同じく三十六歌仙の一人である源公忠に贈った歌により社名を付したといわれています。
すなわち、
「手にむすぶ水にやとれる月影の あるかなきかの 世にこそありけれ」
又経房(つねふさ)遺書(安徳天皇ご潜幸の伝承)の一節に「・・・河合にいとおほきなる沢ありて水よどめり、さハの中じまに市女が笠てふものに似たるいとうるはしき木の紅葉せしあり・・・」(原文)、奥書きは、「建保五丑年」とあり、なにか大けやきを連想させるものがあります。
当社の創祀は、承久二庚辰三月十五日とあり、遠く鎌倉時代にさかのぼりますが、明治45(1912)年当社祭神は野間神社に合祀されました。以後、神木の保全、境内の清浄化に蟻無会(前身は蟻無講中)をはじめ、郷民こぞって奉仕してきたところです。
とくに最近樹勢回復のため治療を施し、ようやく往時の姿によみがえろうとしています。
(現地説明板より)
野間の大けやき - 1
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野間の大けやき - 2
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Posted at 2014/12/20 20:45:04 | コメント(0) | トラックバック(0) | ツーリング | 日記
2014年05月17日 イイね!

大阪散歩(その2・福島区)

大阪堂島川沿いの玉江橋北詰、朝日放送本社ビル脇に「豊前国中津藩蔵屋敷之跡」「福沢諭吉誕生地」の碑が建っています。
福沢諭吉は、天保5年12月12日(西暦1835年1月10日)この地にあった豊前中津藩蔵屋敷で生まれました。
父百助はは妻お順が、大きな瘠せて骨太な五番目の子を産んだ時「これはよい子だ、大きくなったら寺へやって坊主にする」と語ったと伝えられています。
百助は諭吉が1歳8か月のとき急死、そのため母につれられ中津へ戻りました。中津では儒学を学び、安政元(1854)年長崎遊学を終え江戸へ上る途中大坂の蔵屋敷へ立ち寄り、兄のすすめで翌年3月、緒方洪庵の適塾に入門し、後に塾頭になりました。
3度にわたる幕府の遣外使節に随行し、明治維新後は文明開化啓蒙思想家として活躍し、慶応義塾を開設しました。

中津藩蔵屋敷跡・福沢諭吉誕生地 - 1
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中津藩蔵屋敷跡・福沢諭吉誕生地 - 2
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中津藩蔵屋敷跡・福沢諭吉誕生地 - 3
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中津藩蔵屋敷跡・福沢諭吉誕生地 - 4
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蜆川(しじみがわ)にかかっていた橋・浄正橋跡です。浄正橋は、国道2号線となにわ筋の交わる浄正橋交差点から約 100メートルほど南に下った場所にあった橋です。
東西に「蜆川」が流れ、そこにかかっていた橋が「浄正橋」でした。
蜆川の両岸の町々は、明治42(1909)年の大火で焼け、土砂・瓦礫の山となったので、蜆川は埋め立てられました。
大正15(1926)年5月、福島史談会が「浄正橋跡」の碑を建てました。
浄正橋跡
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源義経と梶原景時が論争を繰り広げたとされる逆櫓の松跡です。
「平家物語」の逆櫓の段によれば、元暦2年/寿永4(1185)年2月、源義経は、平氏を討つため京都を出発し、摂津国の渡辺、福島から、四国の八島(屋島)を船で急襲しようとしました。
義経軍は、船での戦いはあまり経験がなかったので、皆で評議していると、参謀役の梶原景時が「船を前後どちらの方角にも容易に動かせるように、船尾の櫓(オール)だけでなく船首に櫓(逆櫓)をつけたらどうでしょう」と提案しました。しかし義経は「はじめから退却のことを考えていたのでは何もよいことがない。船尾の櫓だけで戦おう」と述べました。
結局逆櫓をつけることをせず、夜に入って義経は出陣しようとしました。折からの強風を恐れてか、梶原景時に気兼ねしてか、それに従ったのは200数艘のうちわずか5艘であったが、義経は勝利をおさめました。   
その論争を行った場所が、一説によればこのあたりといわれています。この地には、江戸時代の地誌「摂津名所図会」によれば、幹の形が蛇のような、樹齢千歳を越える松が生えていたといわれています。この松を逆櫓の松と呼んでいました。
逆櫓の松は、近代に入るころには、既に枯れてしまっていたそうです。
大正15(1926)年4月福島史談会が「逆櫓の松跡趾」の碑を建てましたが、昭和20(1945)年3月13日の大阪大空襲でその碑も一時行方不明になっていました。
昭和33(1958)年、ある運送会社が地ならしをしていたところ碑が出てきたので、その会社前の歩道上に建てられていたのを昭和49(1974)年5月地元有志によって、現在地に移設されました。
平成17(2005)年の大河ドラマ「義経」の第31回「飛べ屋島へ」の「義経紀行」で紹介されました。
(現地説明板などより)
逆櫓の松跡 - 1
逆櫓の松跡 - 1 posted by (C)pismo

逆櫓の松跡 - 2
逆櫓の松跡 - 2 posted by (C)pismo

野田城は享禄4(1531)年頃に浦上村宗によって築かれ、後に畿内一円に勢威をふるった三好一党が改築したのではないかと推測されています。
元亀元(1570)年、織田信長は、石山本願寺を攻め10年にもおよぶ石山合戦が始まりました。
天正4(1576)年、石山本願寺を包囲した織田軍に対し、石山本願寺と同盟を結ぶ三好一党は、野田城に立てこもり織田軍と戦いましたが、落城しました。
天正6(1578)年、木津川口の戦いで毛利水軍と戦う織田軍の重要な拠点になりましたが、都市化により遺構は残っていません。
明治の初め、「弓場」「城之内」などという地名が玉川付近に残されていたことからも、このあたりに野田城があったのではないかと推測されています。
城域は、北は玉川四丁目交差点(旧名城の内)より東は恵比須神社の東側(旧名弓の町)迄といわれていています。
極楽寺の門前と玉川4丁目11番地交差点付近の2つに石碑が建ってます。
極楽寺は、天文2(1533)年8月9日に野田城を訪れた本願寺第十世証如上人が、六角定頼に包囲されたときに、蓮如上人の教化を受けていた野田福島の念仏者が証如上人を守護せんとして、二十一人が殉教され、これらの討死衆の菩提寺として建立されたのが寺院です。本願寺南御堂の掛所となり、野田御坊と名付けられ今日に至っています。
野田城 - 1
野田城 - 1 posted by (C)pismo

野田城 - 2
野田城 - 2 posted by (C)pismo

野田城 - 3
野田城 - 3 posted by (C)pismo

証如上人を救った門徒衆の碑・二十一人討死の碑です。天文元(1532)年、本願寺第十世証如上人は、山科本願寺を六角定頼により焼き討ちされ、石山本願寺に移りました。
天文2(1533)年8月9日に証如上人は福島・野田を訪れた際、六角定頼に包囲されました。その際野田・福島の門徒の百姓衆が鋤・鍬・鎌を持って敵兵に立ち向かい、証如上人を護るために命をかけて戦い紀州に逃しましたが、信徒21人が犠牲になりました。
後に、このことを知った証如上人は、お礼を御書にしたため、犠牲者の菩提を弔いました。
玉川コミュニティセンターの前に石碑が建っています。
二十一人討死の碑
二十一人討死の碑 posted by (C)pismo
Posted at 2014/06/22 22:32:32 | コメント(0) | トラックバック(0) | ツーリング | 日記
2014年05月17日 イイね!

大阪散歩(その1・天王寺区)

萬福寺は、山号は慶立山、浄土宗の寺院です。
文禄3(1594)年、前田利家の弟の前田次郎兵衛利信と僧開導によって開創されました。
幕末には将軍徳川家茂の大坂城滞在の際や、大坂の不穏な倒幕運動を取り締まるため、新選組が京より大坂に出張することがありました。
その際に使用された旅宿の一つが、萬福寺です。例えば、幹部の1人島田魁の日記によれば慶応元(1865)年、徳川家茂の3度目の上洛の際、新選組は大坂市中取締を命ぜられ、萬福寺を屯所として使用しました。
萬福寺の現存の建物の内、庫裏や山門などは幕末期から現存している建物です。
観光寺院ではないため、内部の拝観は出来ませんでしたが、門前に「新選組 大坂旅宿跡」と刻まれた石碑と説明板が建っています。
萬福寺 - 1
萬福寺 - 1 posted by (C)pismo

萬福寺 - 2
萬福寺 - 2 posted by (C)pismo

大阪市立美術館で開催されている「山の神仏-吉野・熊野・高野」を見ました。
世界遺産に指定された「紀伊山地の霊場と参詣道」に指定された三つの霊場、修験道の「吉野・大峯」、熊野信仰の中心「熊野三山」、真言密教の根本道場「高野山」の神と仏の姿、そこにある神道と、仏教の日本独自の融合の形がわかりやすく展示さて射ていました。
大阪市立美術館 - 1
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大阪市立美術館 - 2
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慶沢園は、住友家がこの地に移った際、約10年をかけて本邸(茶臼山邸)とともに造営した庭です。大名庭園をモデルとした林泉式回遊庭園で、山県有朋の無鄰菴なども手がけた庭師小川治兵衛の作庭です。
住友家15代吉左衛門(春翠)は明治28(1895)年から この地の用地買収を始め、同41(1908)年に着工した。大正4(1915)年にはまず本邸を鰻谷から移転しましたが、 その間、春翠は庭園を「恵沢園」と命名し、大正7(1918)年の完工時に「慶沢園」と改めました。
大正14(1925)年、住友家は神戸住吉に本邸を移し、翌昭和元年(1926)に敷地12,940坪を大阪市へ寄贈しました。
昭和9(1934)年に一般公開されました。ちなみに旧住友邸の跡地が大阪市立美術館です。
最近は、「逆さハルカス」が見ることができるスポットとしても人気です。
慶沢園 - 01
慶沢園 - 01 posted by (C)pismo

慶沢園 - 02
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慶沢園 - 03
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慶沢園 - 04
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慶沢園 - 05
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慶沢園 - 06
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慶沢園 - 07
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慶沢園 - 08
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旧黒田藩蔵屋敷長屋門は、江戸時代中期の蔵屋敷遺構です。
現在の中之島三井ビル付近にあったものを移築したものです。昭和8(1933)年、三井ビル建設に際し大阪市に寄贈され、天王寺公園内に移築されました。
旧黒田藩蔵屋敷長屋門 - 1
旧黒田藩蔵屋敷長屋門 - 1 posted by (C)pismo
Posted at 2014/06/18 21:41:51 | コメント(0) | トラックバック(0) | ツーリング | 日記
2014年04月13日 イイね!

篠山の高蔵寺

高蔵寺(こうぞうじ)は、山号は宝橋山、天台宗の寺院です。
孝徳天皇の時代の大化2(646)年、播磨国法華山一乗寺を草創してこの地を訪れた法道仙人が、黒頭峰の嶺にかかる金銀珠玉の雲の架橋を見て宝橋山と号したことに始まりといわれます。
往年、黒頭峯の堂之尾と呼ばれる山の中腹には、七堂伽藍二十一ヶ坊の堂宇を誇っていましたが天正年中明智軍の兵火に遭い、焼失しました。
その時氷上郡袖津村の人が雑兵にまぎれて守り奉ったのが、現存の本尊十一面観世音(秘佛)と伝えられています。この十一面観世音菩薩は、稽文会・稽首勲両佛師の作で、大和長谷寺の観音と同木同作と伝承され、普段は日歩仏として宮殿の中にお祀りされていますが33年に1度開帳されます。
兵火に遭った後、本堂は、正徳2(1712)年の建立で、本尊脇侍の龍王権現と雨法童子は、共に永禄10(1568)年の作です。
平成13(2001)年に阿弥陀堂が建立されました。
春は桜、夏は紫陽花、秋は紅葉、冬は椿と四季を通じて花の寺として知られています。平成25(2013)年からは、文保寺、大国寺と共に「丹波篠山もみじ三山」となりました。
高蔵寺 - 01
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高蔵寺 - 02
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高蔵寺 - 15
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高蔵寺 - 16
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高蔵寺 - 17
高蔵寺 - 17 posted by (C)pismo
Posted at 2014/04/20 21:17:43 | コメント(0) | トラックバック(0) | ツーリング | 日記
2014年04月13日 イイね!

篠山、細工所城と波々伯部氏の城(淀山城・東山城・南山城)

この日はPCXの慣らしを兼ねてツーリング。
篠山方面へ向かいます。
桜がきれいなところが多い、良い季節です。
波田橋付近(三田市藍本)の桜 - 1
波田橋付近(三田市藍本)の桜 - 1 posted by (C)pismo

波田橋付近(三田市藍本)の桜 - 2
波田橋付近(三田市藍本)の桜 - 2 posted by (C)pismo

波田橋付近(三田市藍本)の桜 - 3
波田橋付近(三田市藍本)の桜 - 3 posted by (C)pismo

細工所城は、天文年間末(1550年)頃に荒木山城守氏香が築き、約900平方メートルもの本丸をもつ立派な山城で、荒木城・井串城とも呼ばれます。
波多野秀治に属し「丹波の荒木鬼」と恐れられましたが、天正5(1577)年、明智軍の猛攻をうけ落城しました。
東細工所に城館跡が、その東に明智勢が大砲を打った鉄砲丸という峰があります。
氏香は東本荘の館に隠退し、子の氏清ら一族は光秀に従い天正10(1582)年の本能寺・山崎合戦・坂本籠城にも参加しています。
細工所城 - 01
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細工所城 - 02
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細工所城 - 03
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細工所城 - 04
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細工所城 - 05
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細工所城 - 06
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細工所城 - 07
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細工所城 - 10
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細工所城 - 12
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細工所城 - 14
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細工所城 - 15
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細工所城 - 16
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淀山城は、波々伯部氏の居城です。
波々伯部氏は、家譜によると源義家の末裔で、房光が篠山に来たと言われています。その後、次郎左衛門為光が、足利尊氏に仕え、軍功により、建武4(1337)年、伯耆国稲光保の地頭職を与えられました。
明徳の乱には光豊、光基等が活躍しました。
一族の光尚は、「南山城」に、基継は、「垣屋城」を、光久は「東山城」を築城し、一族繁栄して屈指の土豪に成長しました。
その後、山名氏や細川氏の被官となり、また、波多野氏が八上城によって強大化するに及んで重臣となり、光忠、光吉が活躍しましたが、明智光秀の攻撃により落城前に帰農して、酒屋を開業しました。
標高298mの尾根先にあり、主郭は約10mの方形で、北10mあまり低いところに、堀切を挟んで、二の郭(50m×14m)があります。主郭の南には、土塁が一部残ります。
その下に腰郭が西へ取り巻き、階段状に低く、二郭があります。東の山麓に幅15m程の平地が、数ヶ所あります。南北の平地に井戸跡が残ります。中世の典型的な山城です。
(現地説明板より)
城跡は、溜池側から登ります。溜池の東側から北側を経て西側へぐるりと回り込み、溜池の西側に登城口があります。
淀山城 - 01
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淀山城 - 02
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淀山城 - 03
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淀山城 - 04
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淀山城 - 05
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淀山城 - 14
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東山城は、波々伯部氏の一族が、山城、摂津、丹波を結ぶ要衝の地に大永年間(1521〜1527)に築城したものです。
築いたのは波々伯部次郎左衛門尉光則の支族である民部丞光郷の子、兵庫助光興といわれ、その子光久は更に東山城を堅固な城郭として再築するなど、一族繁栄して郡内屈指の一大勢力を形成していました。。
城跡の主郭は、山頂の平坦部にある30m×35mの楕円形の曲輪です。東側の尾根を堀切、北と東にそれぞれ二つの郭が残り、土塁の一部が残っています。
また、南側の尾根上には、六段の郭が階段状に伸びています。東側の尾根には、馬駈場の跡が残っていて、東南麓には馬場寺跡や弘長寺跡が残ります。
(現地説明板より)
平成24(2012)年から平成25(2013)年にかけて、「辻を知ろう歩こう会」を中心に整備事業が行われました。(神戸新聞記事より)
東山城 - 01
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東山城 - 02
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東山城 - 03
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東山城 - 04
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南山城は、波々伯部氏の祖為光の子、次郎左衛門尉光朝の次子光尚が、嵐四郎と称して応永年間に築城しました。
波々伯部氏一族は、淀山城を中心に東山城、畑市城、垣屋城(西紀)に拠って当時の丹波の守護山名、細川、更に波多野氏に属して勢力の保持に努めて活躍しました。
弥十郎岳(715m)より北に伸びる尾根先を堀切って、山上に約22m×13mの楕円形の曲輪を設け、北に向かって段階状に平坦面があります。
主郭部の東側には、石垣を積んでいたのか、残石が散乱しています。
また主部には、建物跡の礎石が残っています。
(現地説明板より)
平成25(2013)年から平成26(2014)年にかけて、「辻を知ろう歩こう会」を中心に整備事業が行われました。
南山城 - 01
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Posted at 2014/04/20 21:02:36 | コメント(0) | トラックバック(0) | ツーリング | 日記

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