松江城の後は、松江市内の史跡めぐりです。
小泉八雲記念館は昭和8(1933)年11月29日に開館しました。
昭和2(1927)年、遺族から八雲遺愛の文机、椅子などが松江市に寄贈されたのがきっかけです。
そして、昭和8(1933)年には東京帝国大学の市河三喜博士らの尽力で全国的な八雲記念会がうまれ、八雲の顕彰事業として松江市に記念館を建設することを決め、遺品、史料の収集と建設資金の募集にあたりました。全国から寄せられた寄付金約6,500円で八雲旧居の隣接地に建設、開館され、昭和9(1934)年2月松江市に寄贈され今日に至っています。現在の建物は伝統美観保存指定地区のため木造平屋和風造りに昭和59(1984)年に改築されたものです。
平成2(1990)年には八雲来日来松100周年にあたることから、松江市において「小泉八雲来日百年記念フェスティバル」が開催され、内外の研究家・愛好家が一堂に会しました。そして、同時にヘルン旧居前の塩見縄手広場に八雲の胸像が建立されました。
次は隣にある
小泉八雲旧居跡です。この屋敷は小泉八雲が明治24(1891)年の5月から11月までの6ヶ月間新婚生活を過ごした屋敷です。三方に庭があり、八雲は中央の部屋から三つの庭を眺めるのが好きだったと云われています。
旧居は代々根岸家の人々の手によって、八雲が住んでいたままの姿を変えることなく保存され現在に至っています。
この辺りは堀川沿いの塩見縄手の雰囲気の良い町並みですが、その一角に松江藩の中級武士の生活を伝える
武家屋敷が公開されています。江戸時代初期から松江藩の六百石程度の中級藩士が、屋敷替えによって入れ替わり住んだところです。
現在のこの屋敷は、享保18(1733)年の大火で焼失後、再建されたもので、約270年前の古い姿のままよく保存され、松江市の文化財に指定されています。
長屋門、母屋、庭園など中級武士の住んだ屋敷が、当時のまま保存されているのは、全国的にも貴重なものです。武家屋敷裏門には松江市の伝統行事「鼕行列(どうぎょうれつ)」に用いられる「鼕(どう)」の展示場があります。
明々庵は茶人として知られる松江藩第七代藩主松平不昧公の好みによって、松江市殿町の有澤家本邸に建てられ、不昧公もしばしば臨まれた席です。一時は東京の松平伯爵邸に移されていましたが、その後松平家から郷国出雲に帰され、昭和3(1928)年、菅田庵のある有澤山荘の向月亭に隣接した萩の台に建てられていました。第二次世界大戦後、管理が行き届かず荒廃していましたが、昭和41(1966)年、不昧公百五十年祭を気に現在の赤山の台地に移されました。
この台地からは、松江城天守を眺めることができます。庭を眺めながらお抹茶を楽しむこともできます。お茶の盛んな松江で抹茶と和菓子を頂きながら、不昧公の世界の一端を少しでも知りたい方にはおすすめできるスポットです。
この後は、松江のお土産を買いに、
島根県観光物産館に行きました。
お土産に松江の銘菓「若草」と「菜種の里」を購入。「若草」は大好物でかならず島根土産に買って帰りますが、「菜種の里」ははじめてです。
次は少し車で移動し、
月照寺に行きました。月照寺は歴代松江藩主松平家の菩提寺です。もともと洞雲寺という禅林でしたが、徳川家康の孫に当たる松江藩初代藩主松平直政公が寛文4(1664)年、生母月照院様の霊碑を安置するため、浄土宗の蒙光山(むこうさん)月照寺として改称復興したのが始まりです。
更に、二代綱隆公が父の遺命により境内に廟を造り山号を歓喜山と改めて以来、9代にわたる藩主の菩提寺として栄えてきました。国の史跡に指定されている境内には、松平家九代までの各廟所のほかに、鐘桜・唐門、小泉八雲の随筆に登場する巨大亀形の寿蔵碑、茶聖七代不昧公ゆかりの茶室大円庵、毎年4月の不昧公忌に茶筌供養が行われる茶筌塚、茶の湯の井戸、不昧公の恩願を受けた力士雷電の碑などがあります。また、宝物館には松江藩主ゆかりの遺品などが数多く展示されています。また、あじさい寺として知られ、6月中旬からはあじさいの花が咲き誇ります。見頃には少し早かったですが、それでもかなりの数のあじさいが咲いていました。松江藩主の墓所もかなり立派です。
洗合城〔荒隈城〕にも行ってみました。永禄5(1562)年、中国平定を目指す毛利元就は、この辺りに山城を築き、富田城攻略の前線拠点としました。毛利元就がここに城を築いた理由は、前面に宍道湖を眺められるこの地が見通しがきき、兵員や物資の輸送に便利であること、中海と宍道湖を結ぶ水道をおさえることができること、また法吉の尼子十旗の筆頭である白鹿城を攻めるのに絶好の地であったことが考えられます。
城の範囲は東は天倫寺のある辺り、西は南平台住宅地全域、北は国屋地区の県道沿いまでであったようです。過去2回の発掘調査で、郭、土塁、柵、堀切の以降が発見されています。
ここから毛利元就は、永禄6(1563)年白鹿城を攻撃して勝利し、永禄7(1564)年には本陣を東出雲町の京羅木山に移しました。
その後、関ヶ原の戦いの後出雲に封じられた堀尾忠氏の父、吉晴が居城とすべく検討しましたが、「出雲24万石の居城にするのには、広大に過ぎ維持できない」との堀尾忠氏の意見により亀田山に松江城を築くこととしたため、城郭として使用されることはありませんでした。
天倫寺の前に案内看板がありました。
白鹿城〔白髪城〕は、松江市の中心から北方4kmの島根半島の山脈にある白鹿山(標高149.8m)に築かれた山城で、軍記物では白髪城とも書きます。また、すぐ北方の真山には、この白鹿城に対する毛利の向城として築かれた真山城があります。
尼子氏の中では富田城につぐ重要拠点の城で、松田誠保(尼子晴久の姉婿)の居城として尼子十旗の筆頭とされました。永禄5(1562)年に洗合城(荒隈城)を築いた毛利元就は、翌永禄6(1563)年、石見銀山の坑夫を雇って井戸の掘り抜きを行い、穴中合戦をしたりしながら給水路を断つなどの作戦を展開しました。松田誠保は、白米を杓にもり、灰を足して馬足に注いであたかも飲料水に不足していないように見せかけ欺こうとしましたが、結局は落城し、松田誠保は隠岐に逃れました。
今は、山上には本丸、一の床、二の床、三の床、大井戸、小白鹿山等の縄張りの遺構が残っており、備前焼の壷、甕等が発見されています。
林道のある西側から登城します。他にも登城口はありますが、西側からだと概ね20分程度で登城できます。
真山城〔新山城〕は松江市の北方の真山に築かれた城です。真山は新山とも書かれ、標高256mの頂上から一の床、二の床、三の床と階段状に区画され、、野面積みの石垣が残っています.永禄6(1563)年、毛利軍の将、吉川元春が真山に陣を布き、尼子軍が拠る白鹿城を攻めました。この戦いに尼子軍は敗れ、白鹿城は落城しました。以後毛利氏は多賀左京亮元信を入城させました。
永禄12(1569)年、尼子勝久は、山中鹿介幸盛とともに京都で挙兵し、隠岐に渡り、ついで島根半島に上陸し真山城を占拠しました。以後尼子軍は真山城を拠点として富田城に迫りましたが、尼子軍は敗北し、元亀2(1571)年には尼子勝久は真山城を去りました。以後毛利氏が修理し家臣を置きました。廃城の時期は定かではないようです。
山上からの松江の市街地、宍道湖の眺望が素晴らしいです。
この後は中海の北側、島根半島を東に向かいます。鳥取県に入り、境港市には、
鳥取藩台場跡・境台場があります。
幕末鳥取藩により築かれた台場跡です。
浦富台場跡、浜坂台場跡、賀露台場跡、橋津台場跡、由良台場跡、赤崎台場跡、淀江台場跡の鳥取藩台場8カ所の一つです。
その中でも規模が一番大きく、重装備の台場がここ境台場でした。
台場の敷地約14,300㎡、原形は敷幅40m、高さ約7m、上部に8基の砲座を有し
境台場の使命は明治維新とともに終わりましたが、明治30(1897)年に境町へ払い下げられ、以降台場公園として市民に親しまれてます。台場の東北隅にある境灯台は、明治28(1895)年に開設された山陰最初の灯台を平成3(1991)年復元したものです。
これでこの日の史跡めぐりは終了です。この後は皆生温泉に入浴した後、友人の「ふぁんたすてぃっく」なドライビングで帰宅しました。