この日はレガシィの12ヶ月点検。車を預けて、大阪へ買い物に出かけるついでに、少しだけ歴史散歩を。
崇禅寺は山号は凌雲山、曹洞宗の寺院です。
天平年間(729~748年)に法相宗の行基によって創建されたと伝えられています。
嘉吉元(1441)年、室町幕府6代将軍足利義教は嘉吉の乱で赤松満祐に暗殺され、義教の首級を携えて播磨へ下る途中に崇禅寺森の観音堂付近にその首を埋めました。
翌年、幕府はその地に菩提を弔うため、細川持賢に崇禅寺を再興させ、曹洞宗の寺院となり細川家の菩提寺となりました。
その後、文明15(1483)年に焼失し、慶安年間に再建されました。
明治2(1869)年には摂津県の県庁が置かれました。
昭和20(1945)年6月7日、大阪大空襲により焼失し、現在の伽藍は平成元(1989)年に再建されたものです。
境内には「細川ガラシャの墓」があります。
ガラシャは細川忠興の妻で、慶長5(1600年)に家康に従って奥州の上杉攻めに参加し、その留守を見計らって石田三成が挙兵し、妻子を人質として大坂城に入城するように促しましたが、ガラシャはそれを堅く拒み、火の付いた屋敷内で37年の生涯を終えました。宣教師オルガンチノは細川屋敷跡からガラシャや殉死者の遺骨を拾い、細川家にゆかりのある崇禅寺に運びました。
ガラシヤの墓は無地の五輪塔で「秀林院細川玉子之墓」の石標が建っています。周りには6つの墓石があり、これは殉死者のものといわれています。足利義教の墓とならんでいます。その他、崇禅寺馬場の敵討で反り討ちにあった遠城兄弟の墓があります。
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中島惣社は、白雉2(651)年孝徳天皇が豊崎宮に遷都された際、五穀豊穣を祈願され神領を賜わりました。
宇賀御魂神、受保大神、大市比賣神が主祭神です。
大阪の陣で片桐且元の茨木街道沿いの兵火で社殿は消失し、わずかに絵図と建武2(1335年)年に奉納された中島惣社と記した木額だけが残りました。
豊臣秀頼の崇敬厚く、「中嶋総社」の四字を記した絹地一通を寄進しています。昭和20(1945)年6月の大阪大空襲で焼失し、昭和42(1967)年に再建されました。
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この後は、天王寺区へ行きました。
吉祥寺は山号は万松山、曹洞宗の寺院です。
寛永7(1630)年創建されました。
赤穂藩藩主浅野家の祈願所であり、藩主長矩公は江戸参勤の途中必ず立ち寄って休息したと言われています。
足軽の寺坂吉右衛門が46士の遺髪、遺爪、鎖かたびら等に銀10両を添えて義士の冥福を祈る碑を建ててくれるよう吉祥寺に依頼したため、境内には赤穂浪士の墓があります。
大正5(1916)年、失火により全焼し、大正14(1925)年に再建されましたが、昭和20(1945)年、空襲により壊滅的被害を受け、赤穂浪士の墓を残して全焼しました。
毎年12月14日に「義士祭」が行われます。山門をくぐると大石内蔵助の石像が鎮座し、境内には四十七義士の墓と、四十七義士石像があります。
壁がなんと、赤穂浪士の討ち入りの際の火事場装束のだんだら袖の模様になっているのにはびっくりしました。
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あべのハルカス。この日は近鉄百貨店が全面オープンでした。
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Posted at 2014/03/06 21:58:40 | |
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