この日は明石方面のサイクリング。
マリンピア神戸で買い物後、
海神社に立ち寄りました。
海神社(わたつみじんじゃ・かいじんじゃ)は、綿津見神社とも表記されます。
神功皇后の三韓征伐からの帰途、当地の海上で暴風雨が起こって船が進めなくなったので、皇后が綿津見三神を祀ると暴風雨が治まり、そこでこの地に綿津見三神を祀る社殿を建てたのが当社の始まりといわれています。
海上交通の要地であることから。古くから海上鎮護の神として崇敬を受け、天正11(1587)年に豊臣秀吉が祈祷料として垂水郷山内の山林を寄進、江戸時代にも歴代明石藩主が篤く崇敬し、毎年2月に参拝していました。
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明石に車で移動後、サイクリングを開始です。
船上城は、室町時代に播磨の豪族赤松氏が砦を築き、永禄年間に三木城主別所氏の支城として築かれ、長治の叔父別所吉親が居城しました。
その後播州が羽柴秀吉のものとなると蜂須賀小六正勝も居城しましたが、天正13(1585)年家臣の所領替えを行い、高槻の高山右近を明石に移しました。その際に、船上城を大々的に整備したと言われています。
関ヶ原の戦いの後は池田輝政が領有、八男・利政が入城しました。その後元和2(1616)年小笠原忠真が入城すると新たに明石城を築城したため、船上城は廃城となりました。
現在は田んぼの中の小高い丘に稲荷があり、そこに船上城の説明看板があります。
明石警察署の南側の道を西へ行き、住宅街の路地を北に入ると田んぼがあり、行き止まりみたいに見えますが、田んぼの淵をひるまず進むと左手に小高い丘があります。そこが城跡です。
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無量光寺(むりょうこうじ)は山号は月浦山、浄土宗の寺院です。
門前にある細い道は「蔦の細道」と呼ばれ、光源氏が明石の君が住む「岡部の館」に通った道のモデルとされています。
また、光源氏が月見をしたお寺で「源氏稲荷」があります。
慶長18年(1613年)に中興されたと伝わる。しかし1945年7月6日の神戸大空襲により全山焼失。その中で左甚五郎作と伝わる彫刻のある山門だけは焼失を免れ、焼失した本堂と源氏稲荷は戦後に再建されました。
無量光寺 - 1 posted by
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無量光寺前・蔦の細道 - 3 posted by
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善楽寺は山号は法寫山、天台宗の寺院です。円珠院・戒光院・実相院の総称をいいます。
孝徳天皇の大化年中に天竺の高僧、法道仙人が開創しました。明石で最も古い寺で、源氏物語の舞台になり、平清盛のゆかりの地です。戒光院は明石の入道の邸宅「浜の館(たち)」とされ「明石入道の碑」が建っています。
天喜元(1053)年、住職の源泉法師が延暦寺第三十一世座主になりました。
元永2(1119)年には火災で堂塔を焼失しました。
保元元(1156)年、播磨守に任ぜられた平清盛は、この地を重視し善楽寺のすべての堂塔伽藍を再興し、念持仏であった木造の地蔵尊と寺領500石を寄進しました。
また、清盛の弟教盛の子、忠快法師が寺僧としており、源平合戦の最中の養和元(1181)年に亡くなった清盛の供養のため、巨大な五輪塔を建てました。
戦国時代の天文8(1539)年には再び戦乱で本堂などを焼失、文禄2(1593)年に再建されました。
江戸時代は明石藩主から黒印を与えられ、数々の寄進を受けました。5代藩主松平忠国は、源氏物語の世界をここに見て「明石入道の碑」を建てました。
境内の美しい松にも「光源氏明石浦之浜之松」の名がつけられました。
昭和20(1945)年7月7日、戦災により再び焼失し、本堂、仏像、寺宝などが灰燼に帰しました。
昭和53(1978)年、再建が始まり、十王門が復活し、昭和63(1988)年3月30日、四度目の復興を遂げました。
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伊弉冊神社は、延喜式神名帳には、明石郡岩屋の土産神、伊知都比売神社で、崇神天皇6(92)年9月10日に勧請された式内社だそうです。
現在、明石郡内には同名の神社はなく、明石市大蔵本町の稲爪神社、稲爪神社の境内摂社の稲爪浜恵比須神社、明石市岬町の伊弉冊神社、明石市材木町の岩屋神社が論社(式内社の後裔)となっています。
光仁天皇の時代の宝亀2(771)年に境内地4町(432m)四方が赦免地となりまいした。
その後、別所氏が三木城主の時、崇敬厚く社領50石を寄進して、祭典、営繕に当たったと云われています。
嘉吉の乱の際の赤松氏の和阪の戦いや天文年間(1532~1555)の町野入道の放火、羽柴氏の三木城攻め等の兵火に罹り、社殿、旧記をことごとく焼失したと伝えられています。
明治12(1879)年7月20日に県社に列せられました。
昭和20(1945)年6月太平洋戦争の戦災にて、社殿、社務所一切の建物を焼失し、昭和37(1962)年に社殿等が再建されました。
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岩屋神社は、延喜式神名帳の伊和都比売神社に比定される神社の一つで、社伝によると、成務天皇13(143)年6月15日に成務天皇の勅命により、淡路島の岩屋より神を勧請して創建されたと伝えられています。。
創建以来、稲爪神社、海神社と並んで東播磨地域の古大社として人々の厚い崇拝を受けた、明石城の産土神として尊ばれ、例年藩主自らが参拝する神社のひとつでした。
元文2(1737)年には藩主・松平直常の世継ぎ松平直純が「鎧始めの儀」の際に当社に参拝し、以後、世継ぎの鎧始めの儀の際には当社への参拝が慣例となりました。
昭和20(1945)年7月、太平洋戦争の明石空襲により社殿が焼失しましたが、昭和29(1954)年に再建されました。
毎年7月第3日曜日には、御皇神を淡路・石屋神社から勧請する際の故事にちなんだおしゃたか祭が行われています。「おしゃたか」とは、神事で舟を押して行くときに唱えることばで、「神さまがいらっしゃったか」の意味です。
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本松寺は、山号は法栄山、日蓮宗の寺院です。
慶長元(1596)年、秀吉の家臣藤井新右衛門勝介の寄進により、船上城下に創建されました。
開山は、審理院日甫上人です。
その後、元和3(1617)年、小笠原忠真が明石城を築城した際、宮本武蔵により城下の町割が設計され、明石の中心も明石川を越えて、東へ移りました。
その際島左近の末裔の檀頭、斎藤甚左衛門利政をはじめ、美濃部九郎三郎等の尽力により、元禄4(1618)年現在の地に移転しました。
庭園は、宮本武蔵が作庭といわれています。明石の町割を設計した際、明石城の樹木屋敷やこの本松寺の庭園の作庭に当たったと伝えられています。
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明石神社は明石藩9代藩主松平直常が松平家の先祖の徳川家康、松平直良、直明の霊を祀ったのがはじまりで、元々明石城内にありました。
明治32(1899)年に現在地に移転され、11代藩主松平直純が建てたと言われる護穀神社の祭神も合祀されました。
境内には明石城築城当時から太鼓門に置かれて城下に時を告げていた「時打ち太鼓」が保存されています。太鼓の胴はケヤキ造りで、城主が太鼓の皮の張替え修理をした年月日や城主名の墨書もあり、昭和49(1974)年には明石市の指定文化財になっています。
神社は平成7(1995)年の阪神・淡路大震災で被災し、半壊状態が続いていましたが、敷地を一部売却し再建費用を工面し、鉄筋コンクリート造りで再建されました。
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月照寺は、山号は人麿山、曹洞宗の寺院です。
弘仁2(812)年、弘法大師空海が明石の岡、赤松山(現在の明石城祉)に湖南山餘鵜楊柳寺を創建したのがはじまりです。
仁和3(887)年、楊柳寺覚証和尚は、鎮守社として人丸社(現在の柿本神社)を建立するとともに、大和の柿本山広安寺より人麿念持仏であった船乗十一面観世音を勧請して奥の院に奉祀し、寺号を月照寺と改めました。
天正2(1574)年真言宗から曹洞宗に改宗しました。
元和7(1621)年、明石築城によって境内が城地となり、元和8(1622)年に人丸社と月照寺は現在地に移転しました。
延享元(1744)年山号を人麿山と改め、明治4(1871)年、神仏分離令により人丸社は月照寺より分離して柿本神社となりました。
月照寺の山門はかつての明石城の切手門です。元々は伏見城の薬医門でしたが、明石城の築城時に徳川秀忠から小笠原忠政が拝領しました。明治6(1873)年に月照寺山門として移し建てられました。
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子午線標示柱は、日本標準時の基準である東経135度子午線の位置を示しています。
東経135度子午線は、昭和3(1928)年に京都大学観測班が天体観測を行って明石市の人丸山上を通過していることが分かりました。
この結果、昭和5(1930)年1月、月照寺山門前にこの標示柱が建設され、「トンボの標識」の愛称で呼ばれるようになりました。
そして、昭和26(1951)年の再観測で現在の位置(11.1m移動)に設置されています。
標示柱は、高さ約7m、鉄柱の直径15cmで、上部のカゴ状の球は地球を表し、球の上には「あきつ島」(日本の異名)を象徴したトンボ(あきつ)がのっています。
日本標準時子午線表示柱 - 1 posted by
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柿本神社は、仁和3(887)年に明石の岡にあった楊柳寺(後の月照寺)の覚証という住僧が夢中に柿本人麿の神霊がこの地に留まっているのを感得し、寺の裏の古塚がその塚であることが判明したために塚上に人麿を祀る祠を建てて寺の鎮守としたことに創まるといわれています。
元和5(1619)年、明石の岡に明石城が築城されると、月照寺とと共に現在地に移転しました。
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長寿院は明石藩松平氏の菩提寺です。
寛永4(1627)年空澤養運上人を開基にして融国寺と号する禅寺でしたが、越前大野藩から明石藩に入部した松平直明の帰依を受け浄土宗西山派の寺院長寿院となりました。
昭和20(1945)年7月6日の空襲により、諸堂于を焼失しましたが、明石藩主の御霊屋とその門は戦災を逃れました。
旧明石藩主松平家廟所は、松平直明から斉宣までの藩主とその家族の墓があります。御霊屋は11代将軍家斉の25男で松平斉韶の養子となった松平斉宣の霊屋です。
弘化2(1805)年、松平慶憲が斉宣の墓前に建てたものです。
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「旧武藤山治邸 旧鐘紡舞子倶楽部」は、鐘紡の中興の祖といわれ、衆議院議員として活躍した武藤山治(むとう さんじ)が明治40(1907)年に神戸市の舞子浜に建てた住宅です。
木造2階建コロニアル様式の洋風建築で、設計は、当時横河工務所に在籍していた大熊喜邦(後に帝国議会議事堂を始めとする多くの官庁建築を主導)が担当しました。。
武藤山治の没後、昭和12(1937)年に武藤家から鐘紡に寄贈され、従業員の厚生施設「鐘紡舞子倶楽部」として利用されていましたた。
しかし、明石海峡大橋建設に伴う国道2号の拡幅工事のため、平成7(1995)年に和館は取り壊され、洋館のみが現在の狩口台7丁目に移築されました。
平成19(2007)年3月に、兵庫県は、建物とともに家具・絵画及び蔵書等調度品についてカネボウより寄贈を受け、県立舞子公園に移築復元しました。
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孫文記念館は、中国の革命家・政治家・思想家である孫文(号は中山、又は逸仙)を記念する日本で唯一の博物館です。
この建物は、もともと神戸で活躍していた中国人実業家・呉錦堂の別荘「松海荘」を前身としています。大正4(1915)年春、還暦を迎えた呉錦堂は、当時の建築の粋を尽くして別荘の東側に八角三層の楼閣「移情閣」を造築しました。
孫文は、大正2(1913)年3月に準国賓として来日中に神戸在住の中国人や政・財界有志による歓迎昼食会に招かれ立ち寄りました。本館は神明国道(現在の国道2号)の拡幅により撤去されましたが、移情閣と附属棟はそのまま残されました。
戦後は神戸華僑総会により管理され、昭和57(1982)年の日中国交正常化十周年を記念して昭和58(1983)年11月兵庫県に寄贈され、改修を行いました。
昭和59(1984)年11月12日、孫文生誕の日に「孫中山記念館」として一般公開を開始、平成5(1993)年12月には「兵庫県指定重要文化財」に指定されました。
平成6(1994)年3月、明石海峡大橋の建設にともない、いったん解体され、元の位置から西南方向200メートルの現在地に移転、復原工事が進められ、平成12(2000)年4月に完成しました。
平成13(2001)年11月、移情閣は、文部科学省より国の重要文化財に指定され、平成17(2005)年10月、孫中山記念館は、「孫文記念館」と改称されました。
日本と孫文、神戸と孫文の関わりを中心に、呉錦堂の生涯や移情閣の変遷などについての詳細な展示が行われています。
平成22(2010)年11月7日、一般公開を開始しました。
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孫文記念館(移情閣) - 2 posted by
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明石藩舞子台場(舞子砲台)は、幕末に外国船の侵攻に備えて、文永3(1863)年に幕府の命を受けて、勝麟太郎(海舟)の指揮のもと、明石藩が築造した砲台場です。
対岸にある淡路島にある徳島藩松帆台場(国史跡)と協力して、明石海峡を通過する外国船をはさみ撃ちにするため建設されたと考えられています。
発掘調査の結果、海岸護岸の石垣が当時のものであり、台場の石垣全体が埋まっていることがわかりました。
台場の型式は稜堡式(りゅうほしき)と呼ばれ、石垣の平面がW字形となる西洋の要塞を参考にして設計されています。すべて石で積まれた例は国内では他になく、大変貴重なものです。
大きさは東西幅約70mで、現在残っている石垣は下層部分にあたり、高さは約6mです。明治初めの写真資料から、もともとの高さは海岸から約10mであったと推測できます。
こうした発掘調査で明らかとなった遺跡の重要性から、平成19(2007)年2月に国史跡として指定されました。
これまでは舞子砲台跡として親しまれてきましたが、今後は「明石藩舞子台場跡」が正式な名称となります。
(説明看板などより)
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再び明石の方に戻りサイクリング終了です。
秋に海沿いをサイクリングするのはなかなか気持ちの良いものです。