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ピズモのブログ一覧

2014年03月25日 イイね!

姫路黒田官兵衛ゆかりの地めぐり(その3・妻鹿)

松原八幡神社は、天平宝字7(763)年豊前宇佐八幡宮から分霊を勧請して創建としたといわれ、妻鹿の漁人久津の網に「八幡」と書かれた一尺ばかりの霊木を海中から拾い上げたと伝えられています。
息長足比売命・品陀和気命・比咩大神の三神を祀り旧県社です。
平安時代に石清水八幡宮領松原荘の総鎮守となり、鎌倉時代には八幡大菩薩垂迹の地として崇敬を集め、一遍上人が参詣したことでも知られています。
南北朝時代の「峯相記」には、「社頭繁昌」し「神事祭礼厳重」と記されていますが、戦国時代に至って度々の戦乱被害にあい、天正12(1584)年社頭再建を伝えています。
天正5(1577)年、織田信長の命を受けて中国平定のために播磨に入った羽柴秀吉が播磨の諸城を攻略している時、松原八幡神社と八正寺は秀吉方に属し、別所長治と対立したため、長治を援助する毛利輝元の軍船が来襲して兵火に見舞われました。また、天正9(1581)年、秀吉は松原八幡神社に城南芝原(現在の豊沢町)へ移ることを命じましたが、松原の地は由緒ある土地であることを理由に移転を拒んだため秀吉の勘気に触れ、社領を60石に減じられたといわれています。(「飾磨郡誌」)この60石が江戸時代を通じて朱印地として安堵されました。
地元では、この時秀吉の軍師黒田官兵衛孝高が秀吉に懇願したことが、松原八幡神社のこの地での存続につながったと伝えられています。
この時再建された拝殿は黒田官兵衛孝高が寄進したと伝えられています。
また、黒田二十四騎の1人、井上九郎右衛門之房は、福岡藩知行割の資料に「播磨飾東郡松原郷桂村人」とあり、当地松原の出身とされています。
現社殿は享保3(1718)年、楼門は延宝7(1679)年の造営といわれています。
明治に至って姫路藩好古堂教授だった亀山雲平が宮司となり、私塾久敬舎ついで観海講堂を設立して住人の教育にあたり、播磨一円から門人が集まったといわれています。
松原八幡神社秋季例祭風流(まつばらはちまんじんじゃしゅうきれいさいふりゅう)は、「灘まつり」「灘のけんか祭り」として全国に知られる祭礼で、東山・木場・松原・八家・妻鹿・宇佐崎・中村(宵宮宮入順)の七地区によって担われ、年番地区を中心に祭礼を執行しています。
「灘七村」と称される近世以来のムラを基盤とする地域住民の強固な伝統意識によって継承され、神輿と太鼓屋台(ヤッサ、ヤタイと称する)の練りや練り合わせと傘鉾・獅子舞・獅子檀尻・お迎え提灯・大幟などの風流が特徴的で、お旅所の麓の桟敷席を伴う特設の観覧場での風流は華麗さ壮大さにおいて特異なものです。
文献・絵画資料も豊富で、祭礼の歴史は荘園鎮守としての松原八幡宮放生会まで遡ることができ、鎌倉時代までの流鏑馬の風流を嚆矢として室町時代には「一つ物」「天童」「傘鉾」などの風流が現れ、江戸時代に至ると獅子舞・芸屋台の檀尻、18世紀中頃には太鼓屋台が登場して現在は風流の中心を占め、播州平野にのみ展開している特異な神輿屋根型屋台の分布圏の中心の一つと想定されています。
特に、近世後期に流行した祭礼風流の受容・変遷・伝播を跡づける上で貴重なものです。
平成18(2006)年3月17日付で兵庫県指定重要無形民俗文化財に指定されています。
(現地説明板などより)
松原八幡神社 - 01
松原八幡神社 - 01 posted by (C)pismo

松原八幡神社 - 02
松原八幡神社 - 02 posted by (C)pismo

松原八幡神社 - 03
松原八幡神社 - 03 posted by (C)pismo

松原八幡神社 - 04
松原八幡神社 - 04 posted by (C)pismo

松原八幡神社 - 05
松原八幡神社 - 05 posted by (C)pismo

松原八幡神社 - 06
松原八幡神社 - 06 posted by (C)pismo

松原八幡神社 - 07
松原八幡神社 - 07 posted by (C)pismo

松原八幡神社 - 08
松原八幡神社 - 08 posted by (C)pismo

松原八幡神社 - 09
松原八幡神社 - 09 posted by (C)pismo

松原八幡神社 - 10
松原八幡神社 - 10 posted by (C)pismo

黒田官兵衛の父、黒田職隆廟所です。
黒田職隆は黒田重隆の子で、黒田官兵衛孝高(如水)の父として知られています。隠居後の黒田宗円の名でも知られています。
黒田氏は重隆の代の時、播磨に入国し、御着城主小寺政職の重臣となり姫路城代になりました。政職は更に重隆の子には自分の偏諱を与え、職隆と名乗らせ自らの養女を嫁がせ、小寺の名字を名乗らせました。
羽柴秀吉の播磨侵攻にあたり、黒田職隆、孝高父子は天正8(1580)年、姫路城を秀吉に譲り、妻鹿国府山城(功山城)に移りました。
廟所は、南北約15m、東西約12mの規模で、中央の廟屋内に大型の五輪塔が建っています。五輪塔は角礫質凝灰岩製で、地輪に刻銘があります。
江戸時代の古文書「播磨古事」等によれば、天明3(1783)年10月、姫路城下の心光寺住職入誉が墓所発見を福岡藩に報告し、翌年10月、福岡藩が玉垣を巡らし、廟屋を整備するなどしたとされます。現在の廟屋は昭和52(1977)年に地元自治会が整備したものです。
北約800mには職隆が晩年に在城したとされる妻鹿国府山城(功山城)があります。
(現地説明板などより)
この墓碑は、俗に「筑前さん」と呼ばれています。後に筑前福岡藩主になった黒田氏の先祖と言うことで、そのように呼ばれるようになったのでしょうか。。行き止まりの道路の先にありますが、北側の公道に「筑前さん参道」の石碑が建っているのが目印です。
黒田職隆廟所(筑前さん) - 1
黒田職隆廟所(筑前さん) - 1 posted by (C)pismo

黒田職隆廟所(筑前さん) - 2
黒田職隆廟所(筑前さん) - 2 posted by (C)pismo

黒田職隆廟所(筑前さん) - 3
黒田職隆廟所(筑前さん) - 3 posted by (C)pismo

元宮八幡神社に建てられた母里太兵衛生誕之地です。
元宮八幡神社は、御旅山の山上に移る以前の御旅山八幡神社の元宮です。
黒田二十四騎の1人、母里太兵衛生誕之地碑が建っています。平成25(2013)年7月14日、妻鹿連合自治会により記念碑として建てられました。
播磨国妻鹿の国人曽我一信の子として妻鹿にて誕生しました。
槍術に優れ剛力の勇将として知られ、黒田軍の大将を務めました。
黒田二十四騎の中でも特に重用された黒田八虎の一人です。
また、民謡「黒田節」に謡われる名槍「日本号」を福島正則から呑み獲った晩話でも知られています。
「酒は呑め呑め 呑むならば 日本一のこの槍を 呑み取るほどに呑むならば これぞ真の黒田武士」
(現地説明板などより)
元宮八幡神社・母里太兵衛生誕之地碑 - 1
元宮八幡神社・母里太兵衛生誕之地碑 - 1 posted by (C)pismo

元宮八幡神社・母里太兵衛生誕之地碑 - 2
元宮八幡神社・母里太兵衛生誕之地碑 - 2 posted by (C)pismo

元宮八幡神社・母里太兵衛生誕之地碑 - 3
元宮八幡神社・母里太兵衛生誕之地碑 - 3 posted by (C)pismo

国府山城は、市川左岸にある標高102mの高さの甲山(功山・国府山とも呼ばれています。)にあります。別称が多く、妻鹿城・功山城・甲山城・袴垂城ともいわれています。
初代城主は、薩摩氏長の子孫で「太平記」で有名な妻鹿孫三郎長宗です。長宗は元弘の戦(1330年頃)赤松円心に属して功を立て、その功によって妻鹿地方を領有するようになり、ここ功山に城を築いたといわれています。
その後、黒田官兵衛孝高の父職隆は、天正元(1573)年に姫路城から国府山城に移り居城としました。ちなみに黒田職隆の父重隆の妻は、妻鹿氏の出身です。
また、天正8(1580)年三木城主別所長治を滅ぼした羽柴秀吉は三木城を居城にしようと考えましたが、黒田官兵衛は三木城が戦略的に不備であることを進言し、自らの居城である姫路城を秀吉に譲り、国府山城に移りました。
天正13(1585)年職隆が没した後は、廃城となったようです。
甲山山麓の荒神社から登城します。登城口には「妻鹿城址」の石碑が建っています。
荒神社は、奥津彦命・奥津姫命が祀ってあり、甲山経塚から出土した二仏の泥塔がご神体です。
この荒神さんは、かまどの神様で拝殿天井には「オコゼ」の絵馬が多数奉納されています。また、境内には黒田官兵衛ゆかりということで目薬の木が植えられています。

国府山城(妻鹿城)・荒神社 - 01
国府山城(妻鹿城)・荒神社 - 01 posted by (C)pismo

国府山城(妻鹿城)・荒神社 - 02
国府山城(妻鹿城)・荒神社 - 02 posted by (C)pismo

国府山城(妻鹿城)・荒神社 - 03
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国府山城(妻鹿城)・荒神社 - 04
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国府山城(妻鹿城)・荒神社 - 05
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国府山城(妻鹿城) - 06
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国府山城(妻鹿城) - 07
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国府山城(妻鹿城) - 08
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国府山城(妻鹿城) - 09
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国府山城(妻鹿城) - 10
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国府山城(妻鹿城) - 11
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国府山城(妻鹿城) - 12
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国府山城(妻鹿城) - 13
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国府山城(妻鹿城) - 14
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国府山城(妻鹿城) - 15
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国府山城(妻鹿城) - 16
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国府山城(妻鹿城) - 17
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国府山城(妻鹿城) - 18
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国府山城(妻鹿城) - 19
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国府山城(妻鹿城) - 20
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国府山城(妻鹿城) - 21
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国府山城(妻鹿城) - 22
国府山城(妻鹿城) - 22 posted by (C)pismo

国府山城(妻鹿城) - 23
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国府山城(妻鹿城) - 24
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国府山城(妻鹿城) - 25
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国府山城(妻鹿城) - 26
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国府山城(妻鹿城) - 27
国府山城(妻鹿城) - 27 posted by (C)pismo
Posted at 2014/03/30 22:42:52 | コメント(0) | トラックバック(0) | 自転車 | 日記
2014年03月25日 イイね!

姫路黒田官兵衛ゆかりの地めぐり(その1・青山)

この日は姫路の黒田官兵衛ゆかりの地を巡ります。
車+自転車での移動です。

最初は青山地域です。
平成26(2014)年の大河ドラマ「軍師官兵衛」の第5話「死闘の果て」の「官兵衛紀行」で紹介されました。
青山合戦の際の黒田官兵衛の陣地跡・土器山〔秩父山〕です。
永禄12(1569)年、黒田官兵衛孝高は播州姫路城を攻略しようとする、龍野城主赤松下野守政秀を迎え撃つために土器山に布陣しました。
時に官兵衛は24歳、正室幸圓は17歳のときのことでした。
龍野城を出た赤松軍勢は、龍野街道(古代山陽道)から青山桜峠にさしかかり、はるか東に望む姫路城を手中に治めようと菅生川を渡り布陣しました。
官兵衛は姫路城を東方1里足らずの土器山に布陣し、当初は叔父の井手友氏や母里小兵衛などの有力な武将を失い苦戦しましたが、夜襲により勝利しました。しかし、再び母里武兵衛を失いました。
現地には船越神社から登ります。船越山から続く土器山(秩父山)が陣地とのことです。
(現地説明板などより)
土器山・青山合戦陣地跡 - 01
土器山・青山合戦陣地跡 - 01 posted by (C)pismo

土器山・青山合戦陣地跡 - 02
土器山・青山合戦陣地跡 - 02 posted by (C)pismo

土器山・青山合戦陣地跡 - 03
土器山・青山合戦陣地跡 - 03 posted by (C)pismo

土器山・青山合戦陣地跡 - 04
土器山・青山合戦陣地跡 - 04 posted by (C)pismo

土器山・青山合戦陣地跡 - 05
土器山・青山合戦陣地跡 - 05 posted by (C)pismo

土器山・青山合戦陣地跡 - 06
土器山・青山合戦陣地跡 - 06 posted by (C)pismo

土器山・青山合戦陣地跡 - 07
土器山・青山合戦陣地跡 - 07 posted by (C)pismo

土器山・青山合戦陣地跡 - 08
土器山・青山合戦陣地跡 - 08 posted by (C)pismo

土器山・青山合戦陣地跡 - 09
土器山・青山合戦陣地跡 - 09 posted by (C)pismo

下手野の道標 - 1
下手野の道標 - 1 posted by (C)pismo

常夜燈 - 1
常夜燈 - 1 posted by (C)pismo

青山の道標 - 1
青山の道標 - 1 posted by (C)pismo

青山の道標 - 2
青山の道標 - 2 posted by (C)pismo


播磨風土記に記載する14の中にある稲牟礼丘に鎮座する稲岡神社です。
稲岡山は播磨風土記に記載する14の中にある稲牟礼丘(いなむれがおか)です。
播磨風土記による14の丘とは舟丘、波丘、琴丘、匣(くしげ)岡、箕丘、日女道丘、藤丘、石丘、稲牟礼丘、冑山、鹿丘、大丘、甕(みか)丘、筥丘のことです。この14の丘は昔、大汝命(おおなむちのみこと)、弩都比賣命(ねつひめのみこと)とその子、火明命(ほあかりのみこと)にまつわる伝承の丘のことであって、稲牟礼丘は稲の落ちた丘をかく名づけそれが稲丘というようになりました。この稲牟礼の丘は青山の中央にあり、丸い形から丸山と云ったり青い山を青山といい青山の地名の起源となりました。これが現在の稲岡山です。
青山の鎮守、稲岡大明神は豊受姫大神のことで、現在の稲岡神社は射目崎大神即ち倉稲御魂(うがのいなみたま)大神を応永年間(1395〜1428)に合祀したと云われています。

あひ見ては 千とせや いぬる いな岡も 我やしかとう 君まつ程に
(万葉集・人麻呂)
歴史がきざむ 稲岡の 
古にし世を 静かに思い
鎮守の森に頂けば
そびえて ほえる高貴山 
誇りも高く しのびよる
ああ 悠々の青山よ 青山よ
(青山賛歌より)

(現地説明板などより)
稲岡神社 - 1
稲岡神社 - 1 posted by (C)pismo

稲岡神社 - 2
稲岡神社 - 2 posted by (C)pismo

宗全寺跡
宗全寺跡 posted by (C)pismo

青山製紙組合の碑
青山製紙組合の碑 posted by (C)pismo

黒田官兵衛の初陣の地・青山古戦場です。
青山のこの地は、永禄12(1569)年8月、姫路城主黒田官兵衛孝高(如水)と龍野城主赤松政秀が戦った古戦場です。黒田官兵衛の初陣の地ともいわれています。
永禄12年(1569)8月9日、播州龍野城 赤松下野守政秀は、三千余人の兵を率いて姫路城を攻めようと、この地より僅か北の龍野街道(古代山陽道)を東へ進撃してきました。
黒田官兵衛は父職隆のもとを離れ、指揮官として龍野赤松軍を迎え撃ちました。構えた陣地は、この地より東の菅生川(現夢前川)近くの土器山(下手野)で、悪戦苦闘を重ねました。
その陣地の東一里には、何がなんでも防御せねばならない、官兵衛が生誕した「姫路城」がありました。
官兵衛は秘策を尽くして不意撃ち、挟み撃ちし敵の軍勢を追い詰めてこの地まで撃退しました。
そしてこの地が「決戦場」となり、この戦いで敵の首七十をあげた官兵衛は、奇襲の作戦技もあって有名になりました。
「智将 黒田官兵衛」といわれる、その兆しを見せたのがこの青山合戦でした。 
(現地説明板より)
現在はゴルフ場の隣接地に「黒田官兵衛古戦場跡」の石碑が残るのみです。隣には黒田氏の家紋に描かれている藤や黒田氏ゆかりの目薬の木が植えられています。
黒田官兵衛古戦場 - 1
黒田官兵衛古戦場 - 1 posted by (C)pismo

黒田官兵衛古戦場 - 2
黒田官兵衛古戦場 - 2 posted by (C)pismo

黒田官兵衛古戦場 - 3
黒田官兵衛古戦場 - 3 posted by (C)pismo
Posted at 2014/03/30 20:16:59 | コメント(0) | トラックバック(0) | 自転車 | 日記
2012年06月03日 イイね!

堺市サイクリング

この日は、堺市を少しだけサイクリングしました。

城岸寺城は、別名大饗(おあい)城ともいいます。大饗の地名は称徳天皇の頃、丹比行宮の饗宴場であったことに起因すると伝えられています。
城岸寺城は南北朝の頃、楠木氏の一族である和田和泉守が城ヶ峯と称する周囲濠をめぐらした要害の地に城塞を築きました。。
和田氏は楠左衛門尉成康の次男、太郎親遠から始まり河内から泉州和田村に(岸和田古城)居城を構え和田氏を名乗りましたた。
その子、四郎高遠、その孫、正遠(正成の甥)その子孫、高家、正武等が城岸寺城に居を構えました。
正平7(1352)年和田助氏の軍忠状(自分の手柄を記した書状)に大饗城の名が見えることは大阪府史、狭山町史に記載されています。
その後、元享年間に融通念仏宗、中興の祖、法明上人が河内の国、念仏勧進の際、病気平癒のため、当城岸寺を建立し、現在当寺に伝わる通称「たくまはん」と呼ばれる阿弥陀如来来迎図があり信仰を集めています。「たくまはん」はその昔、一世を風靡した狩野派、巨勢派(巨勢の金岡は金岡神社の祭神)と並び称せられた宅磨派、宅磨法眼良賀の作といわれています。
堀は昭和56(1981)年に埋め立てられ、城岸寺公園、児童館が設置されるとともに現在の本堂が建立されました。その際発掘調査が行われ南北朝の頃と推測される建物跡が発見されました。
尚、境内植込の石臼は前の本堂建立の際に基礎石として、使用されていたものです。(説明看板より)
城岸寺城
城岸寺城 posted by (C)pismo

家原城は松永久秀方の和泉衆の城で、永禄9(1566)年に松永方が三好三人衆と上之芝(現在の上野芝)で戦って敗れ、岸和田城へ逃れました。
永禄11(1568)年には三好政康率いる約5,000の兵に攻められました。松永方の寺町左近将監・雀部治兵衛らが籠城しましたが落城しました。家原城から逃れた人々は、踞尾、家原に住み着いたといわれています。
城域は南北約175m・東西245mで、本丸を中心に南の曲輪(南北約24m・東西約16m)・西の曲輪(南北約26m・東西約20m)が付属しています。城の周囲は堀(幅約6m)・土塁によって守られていました。城の南・東・西は石津川を利用して防御を固めていました。
現在は、公団住宅などが立ち並んでいますが、大池に面した部分にかつての家原城の南の曲輪の地形の面影を見いだすことができます。
(説明看板などより)
家原城
家原城 posted by (C)pismo

家原寺は、山号は一乗山、院号は清涼院で正式には一乗山清涼院家原寺という高野山真言宗別格本山の寺院です。
慶雲元(704)年、行基が生家を寺に改めたのが始まりとされています。
本尊の文殊菩薩は「知恵の文殊さん」として知られていて、一年を通して多くの参拝者があり、特に受験生が多く合格祈願に訪れることで有名です。
家原寺所蔵の「行基菩薩行状絵伝」は、国の重要文化財に指定されています。また、家原寺の境内は大阪府の史跡に指定され、境内の石造板碑は天文20(1551)年の銘があり、大阪府の指定文化財となっています。
大左義長法会は「家原のとんどまつり」として知られ、多くの参拝者が昇運や無病息災を願って訪れます。
(説明看板などより)
家原寺 - 01
家原寺 - 01 posted by (C)pismo

家原寺 - 02
家原寺 - 02 posted by (C)pismo

家原寺 - 03
家原寺 - 03 posted by (C)pismo

家原寺 - 04
家原寺 - 04 posted by (C)pismo

家原寺 - 05
家原寺 - 05 posted by (C)pismo

家原寺 - 06
家原寺 - 06 posted by (C)pismo

家原寺 - 07
家原寺 - 07 posted by (C)pismo

大鳥大社の御祭神は、日本武尊と大鳥連祖神の二柱で、和泉国一宮にあたる延喜式内社です。
日本武尊は、伊勢国能褒野で薨去した後、白鳥に姿を変え、大和琴引原、河内国古市を経て最後に大鳥の地に舞い降りたとされています。神域は千種森といわれ、樹木が密生しています。白鳥が舞い降りた際、一夜にして樹木が生い茂ったという伝説もあります。
同じく式内社の大鳥北浜神社、大鳥美波比神社、大鳥井瀬神社、大鳥羽衣浜神社と併せて、大鳥五社明神と呼んでいます。
本殿は、わが国神社建築史上、大社造りにつぐ古い様式で、大鳥造りと呼ばれている切妻造の妻入り神社建築ですが、明治38(1905)年に焼失し、明治42(1909)年に古式どおり造営されたものです。

平清盛・重盛父子も平治元(1159)年熊野参詣の途中当社に参拝し、清盛は「かいこぞよ、帰りはてなば飛びかけり、育み立てよ大鳥の神」と詠み、富岡鉄斎(当社大宮司)の筆による石碑が建てられました。
境内には与謝野晶子歌碑もあります。
大鳥大社 - 01
大鳥大社 - 01 posted by (C)pismo

大鳥大社 - 02
大鳥大社 - 02 posted by (C)pismo

大鳥大社 - 03
大鳥大社 - 03 posted by (C)pismo

大鳥大社 - 04
大鳥大社 - 04 posted by (C)pismo

大鳥大社 - 05
大鳥大社 - 05 posted by (C)pismo

陶器城は、鎌倉時代の終わり頃北条氏の家臣陶器左衛門尉の居城でしたが、元弘3・正慶2(1333)年1月15日に楠木正成一族に攻め滅ぼされました。
また、正平6・観応2(1351)年7月には、南朝方の和田助氏と助重が北朝方の拠る陶器城を攻めています。
城域は南北約190m、東西約160mで、堀と土塁に囲まれた本丸跡(約26m四方)を中心にして北西と南東にそれぞれ長方形の曲輪が突き出ており、城の周囲は堀(北西の曲輪幅約6m・南東の曲輪幅約8m)と土塁(北西の曲輪幅約1.5~2.2m・南東の曲輪幅約12m)によって囲まれていました。
南東の曲輪には幅約4~6mの武者走が土塁に設けられていたり、南部には虎口が設けられていました。
現在は、陶器北公園となっていて、公園の一角に土塁が残っています。陶器城 - 1
陶器城 - 1 posted by (C)pismo

陶器城 - 2
陶器城 - 2 posted by (C)pismo
Posted at 2012/06/18 23:43:49 | コメント(0) | トラックバック(0) | 自転車 | 日記
2011年01月15日 イイね!

「第45回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開」建仁寺正伝永源院・両足院・妙心寺海福院

この日は、「第45回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開」を見に少しだけ京都をサイクリングしました。
途中、近くを通ったので旧本能寺跡に立ち寄りました。

天正15(1587)年豊臣秀吉の命で移転する前、元の本能寺は現在の中京区元本能寺南町にありました。
つまり、本能寺の変があったときの本能寺はこの付近にありました。
1990年代までは本能小学校があった場所ですが、平成17(2005)年に京都市本能特別養護老人ホーム・京都市立堀川高等学校本能学舎が建ちました。
敷地西側(写真上)と北東隅(写真下)に石碑が建っています。
本能寺跡 - 1
本能寺跡 - 1 posted by (C)pismo

本能寺跡 - 2
本能寺跡 - 2 posted by (C)pismo

正伝永源院は、建仁寺の塔頭です。
元は正伝院と永源庵の二ヶ寺でした。
正伝院は大覚禅師(蘭渓道隆)と共に中国から来日した義翁紹仁(勅謚普覚禅師)を開山に鎌倉時代に創建されました。
しばらく荒廃していましたが、織田有楽斎長益が元和4(1618)年に当院を再興し、名茶席如庵を建て茶道三昧の内に元和7(1621)年に亡くなりました。
法名は正伝院殿如庵有楽大居士と号し、現在も高さ4.5mの石塔が正室霊仙院殿蓬丘清寿大姉の塔と共に本堂の東に建っています。
一方、永源庵は無涯仁浩を開山に南北朝時代に創建されました。
細川頼有(和泉上守護家・熊本藩細川氏の祖)の帰依を受け、細川家の菩提寺として続きました。
明治初年の廃仏毀釈により、建仁寺は50余ヶ寺の塔頭が14ヶ寺に削減され、当時は永源庵は無住のためたちどころに廃寺処分とされてしまいました。
しかし、本山の真北に位置しており堂宇は残し、少し離れたところにあった正伝院はこの地に移りました。しかし、元の正伝院は土地は上地され建造物は売却され、金の寄付を強要されてしまいました。
新たな正伝院はその後時の公爵細川家の菩提寺であるため、後に永源の名を起こし正伝永源院と名乗るようになりました。
ちなみに現在の正伝永源院は福島正則寓居の地としても知られています。
売却された後の如庵は祇園町の有志に払い下げられた後、明治41(1908)年に東京の三井本邸に移築されました。如庵はその後昭和13(1938)年に、三井高棟によって神奈川県中郡大磯の別荘に移築され、昭和47(1972)年に、名古屋鉄道によって愛知県犬山市の有楽苑に移築されました。
正伝永源院の正伝如庵は、平成8(1996)年に復元されたものです。如庵の扁額は細川護貞氏の揮毫によるものです。
建仁寺正伝永源院 - 01
建仁寺正伝永源院 - 01 posted by (C)pismo

建仁寺正伝永源院 - 02
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建仁寺正伝永源院 - 03
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建仁寺正伝永源院 - 04
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建仁寺正伝永源院 - 05
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両足院は、建龍山徳見禅師を開山とする臨済宗建仁寺派の塔頭寺院です。
現在の両足院は、開山当時「知足院」と号していました。
室町時代の再建により、「知足院・両足院」両院を併せて「両足院」と称する事となり現在に至ります。
本尊の阿弥陀如来立像を方丈に安置し、境内北側に当院鎮守の毘沙門天立像を祀っています。
毘沙門天像は秘仏で、鞍馬寺の毘沙門天像の胎内仏であったものを、戦国武将の黒田長政が関ヶ原の戦いの際に内兜に守護神として納めて出陣し勝利したと伝えられています。
庭園は「唐門前庭」、方丈前に広がる枯山水庭園、書院前の池泉回遊式庭園「書院前庭」、坪庭「閼伽井庭(おかいにわ)」からなります。
長谷川等伯筆の襖絵「水辺童子図」、「竹林七賢図屏風」、伊藤若冲の「雪梅雄鶏図」などを所蔵しています。
建仁寺両足院 - 01
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建仁寺両足院 - 02
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建仁寺両足院 - 03
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建仁寺両足院 - 04
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建仁寺両足院 - 05
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建仁寺両足院 - 06
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建仁寺両足院 - 07
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建仁寺両足院 - 08
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建仁寺両足院 - 09
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建仁寺両足院 - 10
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建仁寺両足院 - 11
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建仁寺両足院 - 12
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海福院は元和2(1616)年、福島正則が夬室智丈(かいしつちじょう)和尚を開山として創建した妙心寺の塔頭寺院で、福島家の菩提寺です。
福島正則が「賤ヶ岳の戦い」で一番槍として戦功をあげた「槍」や「福島正則画像」、陣中杯や書状、狩野探幽筆「猿回し図」、曾我蕭白(そがしょうはく)筆の襖絵や、狩野益信(ますのぶ)筆「山水図」などが特別展示されていました。
蘆雁の間と呼ばれる部屋に点茶や水屋の設備が押入れの中に仕込まれた珍しい「押入仕込茶堂」があります。
また、妙心寺法堂の「雲龍図」製作のために海福院に滞在していた狩野探幽が、新調されたばかりの唐紙の襖に猿回しの絵を描き、帰ってきた住職に叱責された「猿回し図」も本堂にあります。
妙心寺海福院 - 01
妙心寺海福院 - 01 posted by (C)pismo

妙心寺海福院 - 02
妙心寺海福院 - 02 posted by (C)pismo

妙心寺海福院 - 03
妙心寺海福院 - 03 posted by (C)pismo

妙心寺海福院 - 04
妙心寺海福院 - 04 posted by (C)pismo

妙心寺海福院 - 05
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妙心寺海福院・福島正則の墓 - 06
妙心寺海福院・福島正則の墓 - 06 posted by (C)pismo

「第45回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開」の対象寺院を3つ訪れると、お抹茶をいただけます。花園会館でお抹茶をいただき、今回のサイクリングは終了です。
Posted at 2011/01/25 20:08:16 | コメント(2) | トラックバック(0) | 自転車 | 日記
2010年11月13日 イイね!

垂水〜明石〜舞子サイクリング

この日は明石方面のサイクリング。
マリンピア神戸で買い物後、海神社に立ち寄りました。
海神社(わたつみじんじゃ・かいじんじゃ)は、綿津見神社とも表記されます。
神功皇后の三韓征伐からの帰途、当地の海上で暴風雨が起こって船が進めなくなったので、皇后が綿津見三神を祀ると暴風雨が治まり、そこでこの地に綿津見三神を祀る社殿を建てたのが当社の始まりといわれています。
海上交通の要地であることから。古くから海上鎮護の神として崇敬を受け、天正11(1587)年に豊臣秀吉が祈祷料として垂水郷山内の山林を寄進、江戸時代にも歴代明石藩主が篤く崇敬し、毎年2月に参拝していました。
海神社 - 01
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海神社 - 02
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海神社 - 03
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海神社 - 04
海神社 - 04 posted by (C)pismo

海神社 - 05
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明石に車で移動後、サイクリングを開始です。
船上城は、室町時代に播磨の豪族赤松氏が砦を築き、永禄年間に三木城主別所氏の支城として築かれ、長治の叔父別所吉親が居城しました。
その後播州が羽柴秀吉のものとなると蜂須賀小六正勝も居城しましたが、天正13(1585)年家臣の所領替えを行い、高槻の高山右近を明石に移しました。その際に、船上城を大々的に整備したと言われています。
関ヶ原の戦いの後は池田輝政が領有、八男・利政が入城しました。その後元和2(1616)年小笠原忠真が入城すると新たに明石城を築城したため、船上城は廃城となりました。
現在は田んぼの中の小高い丘に稲荷があり、そこに船上城の説明看板があります。
明石警察署の南側の道を西へ行き、住宅街の路地を北に入ると田んぼがあり、行き止まりみたいに見えますが、田んぼの淵をひるまず進むと左手に小高い丘があります。そこが城跡です。
船上城 - 1
船上城 - 1 posted by (C)pismo

船上城 - 2
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船上城 - 3
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船上城 - 4
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船上城 - 5
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無量光寺(むりょうこうじ)は山号は月浦山、浄土宗の寺院です。
門前にある細い道は「蔦の細道」と呼ばれ、光源氏が明石の君が住む「岡部の館」に通った道のモデルとされています。
また、光源氏が月見をしたお寺で「源氏稲荷」があります。
慶長18年(1613年)に中興されたと伝わる。しかし1945年7月6日の神戸大空襲により全山焼失。その中で左甚五郎作と伝わる彫刻のある山門だけは焼失を免れ、焼失した本堂と源氏稲荷は戦後に再建されました。
無量光寺 - 1
無量光寺 - 1 posted by (C)pismo

無量光寺 - 2
無量光寺 - 2 posted by (C)pismo

無量光寺前・蔦の細道 - 3
無量光寺前・蔦の細道 - 3 posted by (C)pismo

善楽寺は山号は法寫山、天台宗の寺院です。円珠院・戒光院・実相院の総称をいいます。
孝徳天皇の大化年中に天竺の高僧、法道仙人が開創しました。明石で最も古い寺で、源氏物語の舞台になり、平清盛のゆかりの地です。戒光院は明石の入道の邸宅「浜の館(たち)」とされ「明石入道の碑」が建っています。
天喜元(1053)年、住職の源泉法師が延暦寺第三十一世座主になりました。
元永2(1119)年には火災で堂塔を焼失しました。
保元元(1156)年、播磨守に任ぜられた平清盛は、この地を重視し善楽寺のすべての堂塔伽藍を再興し、念持仏であった木造の地蔵尊と寺領500石を寄進しました。
また、清盛の弟教盛の子、忠快法師が寺僧としており、源平合戦の最中の養和元(1181)年に亡くなった清盛の供養のため、巨大な五輪塔を建てました。
戦国時代の天文8(1539)年には再び戦乱で本堂などを焼失、文禄2(1593)年に再建されました。
江戸時代は明石藩主から黒印を与えられ、数々の寄進を受けました。5代藩主松平忠国は、源氏物語の世界をここに見て「明石入道の碑」を建てました。
境内の美しい松にも「光源氏明石浦之浜之松」の名がつけられました。
昭和20(1945)年7月7日、戦災により再び焼失し、本堂、仏像、寺宝などが灰燼に帰しました。
昭和53(1978)年、再建が始まり、十王門が復活し、昭和63(1988)年3月30日、四度目の復興を遂げました。
善楽寺 - 01
善楽寺 - 01 posted by (C)pismo

善楽寺 - 02
善楽寺 - 02 posted by (C)pismo

善楽寺 - 03
善楽寺 - 03 posted by (C)pismo

善楽寺 - 04
善楽寺 - 04 posted by (C)pismo

善楽寺 - 05
善楽寺 - 05 posted by (C)pismo

善楽寺 - 06
善楽寺 - 06 posted by (C)pismo

善楽寺 - 07
善楽寺 - 07 posted by (C)pismo

伊弉冊神社は、延喜式神名帳には、明石郡岩屋の土産神、伊知都比売神社で、崇神天皇6(92)年9月10日に勧請された式内社だそうです。
現在、明石郡内には同名の神社はなく、明石市大蔵本町の稲爪神社、稲爪神社の境内摂社の稲爪浜恵比須神社、明石市岬町の伊弉冊神社、明石市材木町の岩屋神社が論社(式内社の後裔)となっています。
光仁天皇の時代の宝亀2(771)年に境内地4町(432m)四方が赦免地となりまいした。
その後、別所氏が三木城主の時、崇敬厚く社領50石を寄進して、祭典、営繕に当たったと云われています。
嘉吉の乱の際の赤松氏の和阪の戦いや天文年間(1532~1555)の町野入道の放火、羽柴氏の三木城攻め等の兵火に罹り、社殿、旧記をことごとく焼失したと伝えられています。
明治12(1879)年7月20日に県社に列せられました。
昭和20(1945)年6月太平洋戦争の戦災にて、社殿、社務所一切の建物を焼失し、昭和37(1962)年に社殿等が再建されました。
伊弉冊神社 - 1
伊弉冊神社 - 1 posted by (C)pismo

伊弉冊神社 - 2
伊弉冊神社 - 2 posted by (C)pismo

岩屋神社は、延喜式神名帳の伊和都比売神社に比定される神社の一つで、社伝によると、成務天皇13(143)年6月15日に成務天皇の勅命により、淡路島の岩屋より神を勧請して創建されたと伝えられています。。
創建以来、稲爪神社、海神社と並んで東播磨地域の古大社として人々の厚い崇拝を受けた、明石城の産土神として尊ばれ、例年藩主自らが参拝する神社のひとつでした。
元文2(1737)年には藩主・松平直常の世継ぎ松平直純が「鎧始めの儀」の際に当社に参拝し、以後、世継ぎの鎧始めの儀の際には当社への参拝が慣例となりました。
昭和20(1945)年7月、太平洋戦争の明石空襲により社殿が焼失しましたが、昭和29(1954)年に再建されました。
毎年7月第3日曜日には、御皇神を淡路・石屋神社から勧請する際の故事にちなんだおしゃたか祭が行われています。「おしゃたか」とは、神事で舟を押して行くときに唱えることばで、「神さまがいらっしゃったか」の意味です。
岩屋神社 - 1
岩屋神社 - 1 posted by (C)pismo

本松寺は、山号は法栄山、日蓮宗の寺院です。
慶長元(1596)年、秀吉の家臣藤井新右衛門勝介の寄進により、船上城下に創建されました。
開山は、審理院日甫上人です。  
その後、元和3(1617)年、小笠原忠真が明石城を築城した際、宮本武蔵により城下の町割が設計され、明石の中心も明石川を越えて、東へ移りました。
その際島左近の末裔の檀頭、斎藤甚左衛門利政をはじめ、美濃部九郎三郎等の尽力により、元禄4(1618)年現在の地に移転しました。
庭園は、宮本武蔵が作庭といわれています。明石の町割を設計した際、明石城の樹木屋敷やこの本松寺の庭園の作庭に当たったと伝えられています。
本松寺 - 1
本松寺 - 1 posted by (C)pismo

本松寺 - 2
本松寺 - 2 posted by (C)pismo

本松寺 - 3
本松寺 - 3 posted by (C)pismo

本松寺 - 4
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本松寺 - 5
本松寺 - 5 posted by (C)pismo

明石神社は明石藩9代藩主松平直常が松平家の先祖の徳川家康、松平直良、直明の霊を祀ったのがはじまりで、元々明石城内にありました。
明治32(1899)年に現在地に移転され、11代藩主松平直純が建てたと言われる護穀神社の祭神も合祀されました。
境内には明石城築城当時から太鼓門に置かれて城下に時を告げていた「時打ち太鼓」が保存されています。太鼓の胴はケヤキ造りで、城主が太鼓の皮の張替え修理をした年月日や城主名の墨書もあり、昭和49(1974)年には明石市の指定文化財になっています。
神社は平成7(1995)年の阪神・淡路大震災で被災し、半壊状態が続いていましたが、敷地を一部売却し再建費用を工面し、鉄筋コンクリート造りで再建されました。
明石神社 - 1
明石神社 - 1 posted by (C)pismo

明石神社 - 2
明石神社 - 2 posted by (C)pismo

明石神社 - 3
明石神社 - 3 posted by (C)pismo

月照寺は、山号は人麿山、曹洞宗の寺院です。
弘仁2(812)年、弘法大師空海が明石の岡、赤松山(現在の明石城祉)に湖南山餘鵜楊柳寺を創建したのがはじまりです。
仁和3(887)年、楊柳寺覚証和尚は、鎮守社として人丸社(現在の柿本神社)を建立するとともに、大和の柿本山広安寺より人麿念持仏であった船乗十一面観世音を勧請して奥の院に奉祀し、寺号を月照寺と改めました。
天正2(1574)年真言宗から曹洞宗に改宗しました。
元和7(1621)年、明石築城によって境内が城地となり、元和8(1622)年に人丸社と月照寺は現在地に移転しました。
延享元(1744)年山号を人麿山と改め、明治4(1871)年、神仏分離令により人丸社は月照寺より分離して柿本神社となりました。
月照寺の山門はかつての明石城の切手門です。元々は伏見城の薬医門でしたが、明石城の築城時に徳川秀忠から小笠原忠政が拝領しました。明治6(1873)年に月照寺山門として移し建てられました。
月照寺 - 01
月照寺 - 01 posted by (C)pismo月照寺 - 02
月照寺 - 02 posted by (C)pismo

月照寺 - 03
月照寺 - 03 posted by (C)pismo

月照寺 - 04
月照寺 - 04 posted by (C)pismo

月照寺 - 05
月照寺 - 05 posted by (C)pismo

子午線標示柱は、日本標準時の基準である東経135度子午線の位置を示しています。
東経135度子午線は、昭和3(1928)年に京都大学観測班が天体観測を行って明石市の人丸山上を通過していることが分かりました。
この結果、昭和5(1930)年1月、月照寺山門前にこの標示柱が建設され、「トンボの標識」の愛称で呼ばれるようになりました。
そして、昭和26(1951)年の再観測で現在の位置(11.1m移動)に設置されています。
標示柱は、高さ約7m、鉄柱の直径15cmで、上部のカゴ状の球は地球を表し、球の上には「あきつ島」(日本の異名)を象徴したトンボ(あきつ)がのっています。
日本標準時子午線表示柱 - 1
日本標準時子午線表示柱 - 1 posted by (C)pismo

柿本神社は、仁和3(887)年に明石の岡にあった楊柳寺(後の月照寺)の覚証という住僧が夢中に柿本人麿の神霊がこの地に留まっているのを感得し、寺の裏の古塚がその塚であることが判明したために塚上に人麿を祀る祠を建てて寺の鎮守としたことに創まるといわれています。
元和5(1619)年、明石の岡に明石城が築城されると、月照寺とと共に現在地に移転しました。

柿本神社 - 1
柿本神社 - 1 posted by (C)pismo

柿本神社 - 2
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柿本神社 - 3
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長寿院は明石藩松平氏の菩提寺です。
寛永4(1627)年空澤養運上人を開基にして融国寺と号する禅寺でしたが、越前大野藩から明石藩に入部した松平直明の帰依を受け浄土宗西山派の寺院長寿院となりました。
昭和20(1945)年7月6日の空襲により、諸堂于を焼失しましたが、明石藩主の御霊屋とその門は戦災を逃れました。
旧明石藩主松平家廟所は、松平直明から斉宣までの藩主とその家族の墓があります。御霊屋は11代将軍家斉の25男で松平斉韶の養子となった松平斉宣の霊屋です。
弘化2(1805)年、松平慶憲が斉宣の墓前に建てたものです。
長寿院 - 1
長寿院 - 1 posted by (C)pismo

長寿院 - 2
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「旧武藤山治邸 旧鐘紡舞子倶楽部は、鐘紡の中興の祖といわれ、衆議院議員として活躍した武藤山治(むとう さんじ)が明治40(1907)年に神戸市の舞子浜に建てた住宅です。
木造2階建コロニアル様式の洋風建築で、設計は、当時横河工務所に在籍していた大熊喜邦(後に帝国議会議事堂を始めとする多くの官庁建築を主導)が担当しました。。
武藤山治の没後、昭和12(1937)年に武藤家から鐘紡に寄贈され、従業員の厚生施設「鐘紡舞子倶楽部」として利用されていましたた。
しかし、明石海峡大橋建設に伴う国道2号の拡幅工事のため、平成7(1995)年に和館は取り壊され、洋館のみが現在の狩口台7丁目に移築されました。
平成19(2007)年3月に、兵庫県は、建物とともに家具・絵画及び蔵書等調度品についてカネボウより寄贈を受け、県立舞子公園に移築復元しました。
旧武藤山治邸 - 1
旧武藤山治邸 - 1 posted by (C)pismo

旧武藤山治邸 - 2
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孫文記念館は、中国の革命家・政治家・思想家である孫文(号は中山、又は逸仙)を記念する日本で唯一の博物館です。
この建物は、もともと神戸で活躍していた中国人実業家・呉錦堂の別荘「松海荘」を前身としています。大正4(1915)年春、還暦を迎えた呉錦堂は、当時の建築の粋を尽くして別荘の東側に八角三層の楼閣「移情閣」を造築しました。
孫文は、大正2(1913)年3月に準国賓として来日中に神戸在住の中国人や政・財界有志による歓迎昼食会に招かれ立ち寄りました。本館は神明国道(現在の国道2号)の拡幅により撤去されましたが、移情閣と附属棟はそのまま残されました。
戦後は神戸華僑総会により管理され、昭和57(1982)年の日中国交正常化十周年を記念して昭和58(1983)年11月兵庫県に寄贈され、改修を行いました。
昭和59(1984)年11月12日、孫文生誕の日に「孫中山記念館」として一般公開を開始、平成5(1993)年12月には「兵庫県指定重要文化財」に指定されました。
平成6(1994)年3月、明石海峡大橋の建設にともない、いったん解体され、元の位置から西南方向200メートルの現在地に移転、復原工事が進められ、平成12(2000)年4月に完成しました。
平成13(2001)年11月、移情閣は、文部科学省より国の重要文化財に指定され、平成17(2005)年10月、孫中山記念館は、「孫文記念館」と改称されました。
日本と孫文、神戸と孫文の関わりを中心に、呉錦堂の生涯や移情閣の変遷などについての詳細な展示が行われています。
平成22(2010)年11月7日、一般公開を開始しました。
孫文記念館(移情閣) - 1
孫文記念館(移情閣) - 1 posted by (C)pismo

孫文記念館(移情閣) - 2
孫文記念館(移情閣) - 2 posted by (C)pismo

明石藩舞子台場(舞子砲台)は、幕末に外国船の侵攻に備えて、文永3(1863)年に幕府の命を受けて、勝麟太郎(海舟)の指揮のもと、明石藩が築造した砲台場です。
対岸にある淡路島にある徳島藩松帆台場(国史跡)と協力して、明石海峡を通過する外国船をはさみ撃ちにするため建設されたと考えられています。
発掘調査の結果、海岸護岸の石垣が当時のものであり、台場の石垣全体が埋まっていることがわかりました。
台場の型式は稜堡式(りゅうほしき)と呼ばれ、石垣の平面がW字形となる西洋の要塞を参考にして設計されています。すべて石で積まれた例は国内では他になく、大変貴重なものです。
大きさは東西幅約70mで、現在残っている石垣は下層部分にあたり、高さは約6mです。明治初めの写真資料から、もともとの高さは海岸から約10mであったと推測できます。
こうした発掘調査で明らかとなった遺跡の重要性から、平成19(2007)年2月に国史跡として指定されました。
これまでは舞子砲台跡として親しまれてきましたが、今後は「明石藩舞子台場跡」が正式な名称となります。
(説明看板などより)
明石藩舞子台場跡 - 1
明石藩舞子台場跡 - 1 posted by (C)pismo

明石藩舞子台場跡 - 2
明石藩舞子台場跡 - 2 posted by (C)pismo

明石藩舞子台場跡 - 3
明石藩舞子台場跡 - 3 posted by (C)pismo

明石藩舞子台場跡 - 4
明石藩舞子台場跡 - 4 posted by (C)pismo

明石藩舞子台場跡 - 5
明石藩舞子台場跡 - 5 posted by (C)pismo

再び明石の方に戻りサイクリング終了です。
秋に海沿いをサイクリングするのはなかなか気持ちの良いものです。
Posted at 2010/12/02 21:12:03 | コメント(2) | トラックバック(0) | 自転車 | 日記

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