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ピズモのブログ一覧

2010年11月06日 イイね!

太子・羽曳野サイクリング(その2・通法寺・壺井付近の河内源氏発祥の地)

源氏三代の墓(源頼信、頼義、義家)は、河内源氏の里、通法寺付近にあります。
源氏三代の墓
源氏三代の墓 posted by (C)pismo

源義家の墓は、通法寺の南東の丘陵上にある小高い円丘です。
義家は、父は源頼義、母は平直方の長男として生まれました。
前九年、後三年の役で活躍し、武将としての地位を不動のものにしました。
嘉承元(1106)年7月に京の邸宅で死去し、この地に葬られました。
源氏三代の墓・源義家の墓 - 1
源氏三代の墓・源義家の墓 - 1 posted by (C)pismo

源氏三代の墓・源義家の墓 - 2
源氏三代の墓・源義家の墓 - 2 posted by (C)pismo

源頼信の墓です。
源頼信は、清和源氏の家系である満仲の三男として生まれ、20歳のとき中央官界に身を置き、藤原道家や道長に仕えました。
長元元(1028)年に勃発した平忠常の乱の際には、追討使平直方に代わり反乱を鎮圧しました。
この乱を鎮圧したことによって、頼信は武家の頭梁としての確固たる地位を築きました。
また、上野・常陸・伊勢・美濃などの国司を歴任し、最後に河内国司となり、河内国古市郡壺井里に本拠地を構え、河内源氏をひらくもとになりました。
長久元(1043)年には、子の頼義とともに観音堂(後の通法寺)を建立したと伝えられ、代々河内源氏の氏寺として信仰されました。
永承3(1048)年、81歳の時この地で死去し、遺言により通法寺の巽(東南)の丘陵上に葬られました。
源氏三代の墓・源頼信の墓 - 1
源氏三代の墓・源頼信の墓 - 1 posted by (C)pismo

大僧正隆光の墓は、源頼信の墓の隣にあります。
隆光は通法寺の再建の際に多田義直が上表した際、柳沢吉保と共に尽力した人物で、将軍綱吉の学僧であり江戸護持院の住職をつとめ、いわゆる「生類哀れみの令」を公布させた人物でした。
そのため綱吉の死後は役目御免の扱いを受け、自分が世話をしてきた通法寺の住職に左遷させられ、のちに奈良市二条町付近の自宅で死去しました。奈良には超昇寺跡に墓がありますが通法寺においても隆光の分骨所としての墓碑が残されました。
大僧正隆光の墓 - 1
大僧正隆光の墓 - 1 posted by (C)pismo

通法寺は、長久4(1043)年に河内国司であった源頼信が小堂を建てたことから始まります。
前九年の役(1051~62)の時、東北地方で活躍した源頼義が浄土教に帰依し阿弥陀仏を本尊としてから河内源氏の菩提寺となり源氏の隆栄と共に栄えました。
南北朝時代には、戦火にあい建物を消失しましたが、江戸時代になって源氏の子孫・多田義直が5代将軍綱吉に願い出て柳沢吉保らが普請奉行となって再建しました。
しかし、明治時代の廃仏毀釈により現在のように、山門・鐘楼などを残すだけとなってしまいました。
通法寺跡 - 01
通法寺跡 - 01 posted by (C)pismo

通法寺跡 - 02
通法寺跡 - 02 posted by (C)pismo

通法寺跡 - 03
通法寺跡 - 03 posted by (C)pismo

通法寺跡には源頼義の墓が残っています。
源頼義は父は源頼信、母修理命婦で長男として生まれました。
平忠常の乱の際、父を助け乱の鎮圧に貢献し、はやくからその武勇を東国武士に知らしめていました。
前九年の役での安倍氏との戦いでは、清原氏の助けを得て勝利を得ました。
出陣に際して、石清水八幡宮に参拝して戦勝を祈願し、その戦功をあげることができたので、その感謝の意味をこめてこの地に八幡神を勧請し、通法寺の北側に壺井八幡宮を建立、源氏の氏神としました。
承保2(1075)年7月13日、88歳でその生涯を閉じ、通法寺境内に葬られたといわれています当初は本堂の床下に葬られましたが、後に現在の位置に移されました。
通法寺跡・源氏三代の墓・源頼義の墓 - 01
通法寺跡・源氏三代の墓・源頼義の墓 - 01 posted by (C)pismo

通法寺跡・源氏三代の墓・源頼義の墓  - 02
通法寺跡・源氏三代の墓・源頼義の墓 - 02 posted by (C)pismo

通法寺跡の東側に源氏館の石碑と説明看板が建っています。源満仲の三男頼信は河内守となって寛仁4(102)年に河内国古市郡壺井里の香炉峯に居館を構えて本拠地としました。数々の武功によって大きな勢力を築いた名族、河内源氏の始まりです。
頼信とその子頼義、孫の義家らは、平忠常の乱(1028~30)、前九年の役(1051~62)、後三年の役(1083~87)などの相次いだ戦乱で活躍し、関東、東北地方へも地盤を広げていきました。
彼らの子孫には、鎌倉幕府を開いて将軍となった頼朝や、その弟義経などがいます。
頼信らが住んだ館の跡は、壺井八幡宮が鎮座する丘の上にあると伝えられています。
今のところ、場所や規模などを知る具体的な手掛かりはないそうです。
源氏館跡 - 1
源氏館跡 - 1 posted by (C)pismo

壺井八幡宮の鳥居の脇の井戸が清泉「壺井」です。
平安時代の前九年の役の際、源頼義の軍が飲料水に苦しんだ折、弓の先で崖を突き崩して得た冷泉により将士の意気があがったといわれています。
役の平定が完了し凱旋する際、冷泉の水を壺に入れて持ち帰り、本拠地の香炉峯の南麓に井戸を堀り、そこに冷泉の水を底に入れ苦戦の記念としたもので、これが「壺井」の地名の起源となったそうです。
壺井 - 1
壺井 - 1 posted by (C)pismo

壺井 - 2
壺井 - 2 posted by (C)pismo

壺井 - 3
壺井 - 3 posted by (C)pismo

壺井八幡宮があるあたりは、香炉峯(こうろほう)といわれ、河内源氏発祥の地として知られています。
寛仁4(1020)年、源頼信が河内守に任官し、この地に私邸を営みました。
康平7(1064)年、前九年の役を平定した源頼義は、石清水八幡宮の神を勧請し、私邸の東側に祀ったのが壺井八幡宮の始まりです。
また、八幡宮と並んで建つ壺井権現社は天仁2(1109)年、源義家の5男義時が氏神として源頼信、頼家、義家の三代を祀るため創建しました。
南北朝から戦国時代にかけ、度々兵火に見舞われ、荒廃しましたが、元禄14(1701)年に徳川綱吉の命で柳沢吉保が再建したのが現在の社殿です。
平成7〔1995〕年に復元修理が完成しました。
壺井八幡宮 - 01
壺井八幡宮 - 01 posted by (C)pismo

壺井八幡宮 - 02
壺井八幡宮 - 02 posted by (C)pismo

壺井八幡宮 - 03
壺井八幡宮 - 03 posted by (C)pismo

壺井八幡宮 - 04
壺井八幡宮 - 04 posted by (C)pismo

壺井八幡宮・壺井権現社 - 05
壺井八幡宮・壺井権現社 - 05 posted by (C)pismo

壺井八幡宮宮・壺井権現社 - 06
壺井八幡宮宮・壺井権現社 - 06 posted by (C)pismo

秋のさわやかな天気の中のサイクリングはなかなか気持ちの良いものです。
河内は色々な史跡があり、またアップダウンがさほどないのでサイクリングには最適です。しかし、幹線道路がもう少し歩道等が整備されていればより快適なのですが。
Posted at 2010/11/24 20:41:00 | コメント(0) | トラックバック(0) | 自転車 | 日記
2010年11月06日 イイね!

太子・羽曳野サイクリング(その1・太子町史跡めぐり)

この日は太子町周辺をサイクリングです。
この附近には古墳が多く、王陵の谷といわれています。
また、聖徳太子の廟がある叡福寺があります。

小野妹子墓です。
科長神社南側の小高い丘の上に、古くから小野妹子の墓と伝えられる楕円状の小さな塚があります。妹子は、推古天皇の時代に遣隋使として、隋にに派遣された人物です。
妹子が聖徳太子の守り本尊の如意輪観音の守護を託され、坊を建て、朝夕に仏前に花を供えたのが、池坊流の起こりになったとされることから、現在、塚は池坊によって管理されています。
小野妹子の墓 - 1
小野妹子の墓 - 1 posted by (C)pismo

小野妹子の墓 - 2
小野妹子の墓 - 2 posted by (C)pismo

小野妹子の墓 - 3
小野妹子の墓 - 3 posted by (C)pismo

小野妹子の墓 - 4
小野妹子の墓 - 4 posted by (C)pismo

科長神社(しながじんじゃ)の創建の由緒は不詳ですが、元は二上山上に鎮座し、二上権現と称していました。
延喜式神名帳には「河内国石川郡 科長神社」と記載され、小社に列している。暦仁元(1238)年に現在地に遷座しました。
現在地には元々恵比須神社(一名 土祖神社)があり、科長神社が当地に遷座するに当たりその末社とされたと伝えられています。
級長津彦命(しながつひこのみこと)、級長津姫命(しながつひめのみこと)など8柱を祀るために、八社大明神も呼ばれています。
また、当地は神功皇后誕生の地という伝承もあり、社宝に神功皇后所用と伝える雛形の兜があるそうです。
科長神社 - 1
科長神社 - 1 posted by (C)pismo

科長神社 - 2
科長神社 - 2 posted by (C)pismo

推古天皇陵は陵墓名を磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)、古墳名を山田高塚古墳といいます。
日本で初めての女帝である第33代推古天皇は、聖徳太子を摂政にし、大陸の隋との交渉によって先進的な政治制度や文化、芸術などを積極的に吸収し、政治の改革や仏教文化を中心とした飛鳥文化を花開かせました。
推古天皇陵は、東西に長い三段築成の長方墳で、内部には2つの横穴式石室があると考えられています。先に亡くなられた御子、竹田皇子と一緒に葬られたとされています。
推古天皇陵〔磯長山田陵・山田高塚古墳〕 - 1
推古天皇陵〔磯長山田陵・山田高塚古墳〕 - 1 posted by (C)pismo

推古天皇陵〔磯長山田陵・山田高塚古墳〕 - 2
推古天皇陵〔磯長山田陵・山田高塚古墳〕 - 2 posted by (C)pismo

推古天皇陵〔磯長山田陵・山田高塚古墳〕 - 3
推古天皇陵〔磯長山田陵・山田高塚古墳〕 - 3 posted by (C)pismo

二子塚古墳(ふたごづかこふん)は、7世紀中頃の墳墓といわれており、推古天皇陵の南東200メートルに位置し、方墳を2基つなぎ合わせた双方墳という珍しい形式を有しています。
東西の墳丘それぞれに、ほぼ同形同大の横穴式石室と石棺を有しています。
地元には二子塚古墳こそが本当の推古天皇と竹田皇子の合葬陵であるとする言い伝えがあります。
二子塚古墳 - 1
二子塚古墳 - 1 posted by (C)pismo

二子塚古墳 - 2
二子塚古墳 - 2 posted by (C)pismo

二子塚古墳 - 3
二子塚古墳 - 3 posted by (C)pismo

二子塚古墳 - 4
二子塚古墳 - 4 posted by (C)pismo

用明天皇陵は陵墓名を河内磯長原陵(しながのやまだのみささぎ)、古墳名を春日向山古墳(かすがむかいやまこふん)といいます。
第31代用明天皇は、聖徳太子の父で古事記では最初磐余池上陵(いわれのいけのうえのみささぎ)に葬られ、その後推古元(593)年、河内磯長原陵(かうちのしながのはらのみささぎ)に改葬されたと記録されています
用明天皇陵〔河内磯長原陵・春日向山古墳〕 - 1
用明天皇陵〔河内磯長原陵・春日向山古墳〕 - 1 posted by (C)pismo

用明天皇陵〔河内磯長原陵・春日向山古墳〕 - 2
用明天皇陵〔河内磯長原陵・春日向山古墳〕 - 2 posted by (C)pismo

叡福寺は、山号は山号は磯長(しなが)山、聖徳太子御廟のある寺です。
「中之太子」野中寺、「下之太子」大聖勝軍寺とともに三太子の一つに数えられ、「上之太子」と呼ばれています。
聖武天皇の勅願により、太子の墓を守り霊を鎮めるため神亀元(724)年に建てられたのがこの叡福寺です。寺は天正2(1574)年の兵火で大きな被害を受け、ましたが、慶長年間(17世紀初め)、後陽成天皇の勅願により豊臣秀頼が伽藍を再興しました。
叡福寺 - 01
叡福寺 - 01 posted by (C)pismo

叡福寺 - 02
叡福寺 - 02 posted by (C)pismo

叡福寺 - 03
叡福寺 - 03 posted by (C)pismo

叡福寺 - 04
叡福寺 - 04 posted by (C)pismo

叡福寺 - 05
叡福寺 - 05 posted by (C)pismo

叡福寺 - 06
叡福寺 - 06 posted by (C)pismo

叡福寺 - 07
叡福寺 - 07 posted by (C)pismo

聖徳太子の御廟です。
聖徳太子は生前、推古天皇28年(620年)にこの地を墓所と定めたといわれています。推古天皇29年(621年)、太子の生母穴穂部間人皇后が没するとここに葬られ、翌年、相次いで没した聖徳太子と妃の膳部菩岐々美郎女が追葬されたといわれています。
叡福寺 - 08
叡福寺 - 08 posted by (C)pismo

西方院は、浄土宗の寺院です。
山号は南向山、知恩院末寺で聖徳太子作の阿弥陀仏を本尊とする寺院です。
太子の侍女月益、日益、玉昭の三姫(それぞれ蘇我馬子、小野妹子、物部守屋の娘とされる)が太子死去後に剃髪して創建し、太子の冥福を祈って一生を終えたといわれています。
西方院 - 01
西方院 - 01 posted by (C)pismo

西方院 - 02
西方院 - 02 posted by (C)pismo

西方院 - 03
西方院 - 03 posted by (C)pismo

西方院 - 04
西方院 - 04 posted by (C)pismo

蘇我馬子の塚は、古くから土地の人々によって馬子の塚と言い伝えられてきました。
しかし、「建久四年古図」には「妹子大臣塚(小野妹子)」と記されており、真実は定かではありませんが、蘇我氏ゆかりの地に霊を祀る遺跡と思われます。
蘇我馬子の塚(植木家墳墓) - 1
蘇我馬子の塚(植木家墳墓) - 1 posted by (C)pismo

蘇我馬子の塚(植木家墳墓) - 2
蘇我馬子の塚(植木家墳墓) - 2 posted by (C)pismo

西方院や蘇我馬子の塚付近のマンホールはこんなデザイン。
西方院付近
西方院付近 posted by (C)pismo

西方院の階段から叡福寺を眺めます。
西方院付近から叡福寺を眺める - 1
西方院付近から叡福寺を眺める - 1 posted by (C)pismo

敏達天皇陵は陵墓名を河内磯長中尾陵(こうちのしながのなかのおのみささぎ)、古墳名を太子西山古墳といいます。第30代敏達天皇は、死後、母君の石姫皇后の墓である磯長の陵に葬られたと『日本書紀』は記しています。
全長約93メートルの磯長谷では唯一の前方後円墳です。
敏達天皇陵〔河内磯長中尾陵・太子西山古墳/奥城古墳〕 - 1
敏達天皇陵〔河内磯長中尾陵・太子西山古墳/奥城古墳〕 - 1 posted by (C)pismo

敏達天皇陵〔河内磯長中尾陵・太子西山古墳/奥城古墳〕 - 2
敏達天皇陵〔河内磯長中尾陵・太子西山古墳/奥城古墳〕 - 2 posted by (C)pismo

敏達天皇陵〔河内磯長中尾陵・太子西山古墳/奥城古墳〕 - 3
敏達天皇陵〔河内磯長中尾陵・太子西山古墳/奥城古墳〕 - 3 posted by (C)pismo

この次は、羽曳野の河内源氏発祥の地へ向かいます。
Posted at 2010/11/22 19:53:34 | コメント(2) | トラックバック(0) | 自転車 | 日記
2010年11月03日 イイね!

秋の斑鳩(その4・中宮寺跡・上宮遺跡・調子丸塚古墳・黒塚古墳)

中宮寺跡は、現在法隆寺東院の隣にある中宮寺が、創建当初建てられたところです。
現在の中宮寺の約500m東方にあり、土壇が残っています。
昭和38(1963)年、発掘調査が初めて行われ、塔と金堂について多くの知見を得ることができました。
昭和47(1972)年から昭和62(1987)年にかけて5次にわたって発掘調査が行われ、寺院伽藍や寺域が徐々に明らかになりました。
塔跡にはついては、基壇上面の側柱礎石が抜き取られるなど保存状態は良くありませんでしたが、基壇の規模は一辺約13.5mで、塔自体は一辺約6.8mと推定されています。
基壇中央には約2.5m地下に、花崗岩の塔心礎が遺存し、そうの上面からは金環、金糸、金延板小片、玉類等の埋納物が発見されました。
金堂跡については、部分的な調査でしたが、基壇を二度造りなおしたことが明らかになりました。
創建当初は、凝灰岩製切石による壇正積基壇と推定され、これを平安時代に縮小し瓦積基壇とし、鎌倉時代に花崗岩の割石による乱石積基壇に修造しています。
鎌倉時代の基壇規模は、東西約17.3m・南北約14.1mで創建時もほぼ同規模であったと思われます、現存礎石や礎石抜き取り穴から桁間5間・梁行4間の建物が推定されています。
講堂、中門、回廊などの存在は明確になっていませんが、講堂は創建当初は計画されたものの、造営されなかった可能性が高く、中門は、溜池開削によって破壊されたと考えられます。
寺域については、西面と北面の築地塀跡(基底幅約2.1m)を検出していて、築地塀外観には幅約2.4mの外濠がめぐり、築地塀内側にも内濠がめぐります。
このことから、寺域は東西128m、南北165mと推定されます。
北門や南門の一部や西面築地に並行する南北の古道を検出しています。
出土遺物としては、創建瓦の単弁蓮華文軒丸瓦をはじめ、飛鳥時代から室町時代の瓦があります。
このことは、伝えられている寺院の消長と一致します。
中宮寺は聖徳太子が、母穴穂部間人皇后の宮室を寺院にしたと伝わり、聖徳太子創建七ヶ寺のひとつ「中宮尼寺」に比定されていますが、諸説があり定かでありません。
飛鳥時代創建の法隆寺若草伽藍とはほぼ同時期に建立されたことは確かで、上宮王家との深い結びつきがある寺院です。
(斑鳩町 斑鳩町教育委員会説明板より)
中宮寺跡 - 1
中宮寺跡 - 1 posted by (C)pismo

上宮遺跡は、平成3(1991)年度にふるさと創生事業の一環として、公園建設された際に確認された遺跡です。
斑鳩町教育委員会により発掘調査が実施され、奈良時代の大型の掘立柱建物群が発見され、平城宮で使用されたものと同じ笵型で作られた軒瓦が多数発掘されました。このことは、上宮遺跡が当時の朝廷と深い関係にあったと想像できます。
この公園の南にある成福寺の周辺は聖徳太子が晩年過ごされた「飽波葦墻宮(あくなみあしがきのみや)」の伝承地です。
「続日本紀」には、称徳天皇が神護景雲元(767)年に「飽波宮」に行幸した際に、二日間滞在したとあります。更に神護景雲3(769)年にも河内由義宮に向かう途中に立ち寄ったとありますので、飽波宮は常設の行宮だったようです。
これらのことから、上宮遺跡は、奈良時代の飽波宮跡である蓋然性が非常に高く、飛鳥時代の「葦垣宮」も将来、周辺で発見される可能性が高まっています。
地下遺構の保存に配慮する形で中心部のみが公園として整備され、例年9月22日に行なわれる「太子ロマン斑鳩の里観月祭」の会場となっています。
上宮遺跡公園 - 1
上宮遺跡公園 - 1 posted by (C)pismo

上宮遺跡公園 - 2
上宮遺跡公園 - 2 posted by (C)pismo

調子丸塚古墳は、駒塚古墳の南東に位置します。
長さ約49mの前方後円墳「駒塚」より少し小さく直径約14m、聖徳太子の舎人(従者)で、いつも太子に仕えていた調子丸の塚と伝えられています。
調子丸は84歳で亡くなり、この地へ葬られたと伝えられています。
ただし、この墓は考古学の視点からは古墳時代中期(5世紀)の造営と考えられています。
田んぼや住宅に囲まれていて、直接道路には接していません。
少し離れたところから撮影しました。
調子丸塚古墳 - 1
調子丸塚古墳 - 1 posted by (C)pismo

調子丸塚古墳 - 2
調子丸塚古墳 - 2 posted by (C)pismo

駒塚古墳は、聖徳太子の愛馬だった黒駒(烏駒〔からすこま〕ともいう)を埋めた塚と伝えられています。
大師は諸国に命じ、良馬を求めたところ、甲斐国から献上されたのが黒駒です。
「太子伝」にはこの馬の伝説がよく出てきており、「太子を乗せ、3日3夜で国中を巡った」という話や、「太子が亡くなられた時、棺の側に寄り添って河内の磯長陵(太子の墓)までお送りし、棺が墓に葬られた時、目から赤い涙を流し、悲鳴と共に倒れ、息が絶えた」と伝えられています。
平成12(2000)年度〜平成16(2004)年度の4ヶ年をかけ、発掘調査が行われました。
調査の結果、全長49m以上の前方後円墳で、墳丘は前方部、後円部共に二段に築かれ、墳丘には葺石が葺かれていることが判明しました。
埋葬施設は後円部で墓壙の輪郭を確認しました。埋土に乱れが無いため未盗掘墳の可能性があります。 出土遺物では、埴輪はほとんどなく、赤色顔料を塗布した二重口縁壺の破片が少量出土しました。 築造時期は出土遺物が少なく断定はできませんが、墳丘形態などからこれまで考えられていた古墳時代中期(5世紀)よりは少し古い4世紀後半頃の古墳である可能性が高まりました。
(看板資料などより)

駒塚古墳 - 1
駒塚古墳 - 1 posted by (C)pismo

駒塚古墳 - 2
駒塚古墳 - 2 posted by (C)pismo

駒塚古墳 - 3
駒塚古墳 - 3 posted by (C)pismo

コメダ珈琲法隆寺店の駐車場の隣接地にあります。
自転車で良い運動をしたので、疲れました。コメダ珈琲でシロノワールを食べて休憩後、法隆寺の駐車場に戻り帰路につきました。
Posted at 2010/11/14 17:03:22 | コメント(0) | トラックバック(0) | 自転車 | 日記
2010年11月03日 イイね!

秋の斑鳩(その3・法輪寺・法起寺)

法輪寺は、山号は妙見山、聖徳宗の寺院です。斑鳩の北方に位置し、土地の名によって三井寺とも呼ばれています。
聖徳太子が三つの井戸をこの地に移されたことからこの名がおこったと伝えられています。
創建の由緒は、飛鳥時代に聖徳太子の御子、山背大兄王が大師の病気平癒を祈ってその子由義王とともに建立したと伝えられ、また一説には百済開法師、円明師、下氷新物三人合力して造寺したともいいます。
昭和25(1950)年の発掘調査では、法隆寺式伽藍配置で法隆寺西伽藍の三分の二ほどの規模であることが明らかになり、七世紀中には寺観が整っていたと考えられています。
平安仏が多く伝えられているため、平安時代には寺勢がなお盛んであったようですが、次第に衰退し、江戸時代には三重塔を残すのみとなっていました。
享保年間寶祐上人により再興がされ三重塔が修理され、講堂、金堂等も再建されていきました。
しかし、昭和19(1944)年、斑鳩三塔の一つとして知られていた国宝だった三重塔は、落雷により焼失しました。
仏舎利は取得できましたが、全焼により国宝指定が解除となったため独立で再建をめざし、作家の幸田文など多くの人々の支援で、昭和50(1975)年、竹島卓一博士の設計、宮大工西岡常一棟梁の元、元の場所で再建されました。
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」ですが、法輪寺の周辺も柿が実っていました。
法輪寺 - 01
法輪寺 - 01 posted by (C)pismo

法輪寺 - 02
法輪寺 - 02 posted by (C)pismo

法輪寺 - 03
法輪寺 - 03 posted by (C)pismo

法輪寺 - 04
法輪寺 - 04 posted by (C)pismo

法輪寺 - 05
法輪寺 - 05 posted by (C)pismo

法輪寺 - 06
法輪寺 - 06 posted by (C)pismo

法輪寺 - 07
法輪寺 - 07 posted by (C)pismo

法起寺(ほうきじ、ほっきじ)は、岡本尼寺、岡本寺、池後寺、池後尼寺と呼ばれている聖徳宗の寺院です。山号は岡本山です。
推古14(606)年に聖徳太子が法華経を講説されたという岡本宮を寺に改めたものと伝えられ、法隆寺、四天王寺、中宮寺などと共に、太子御建立七ヵ寺の一つにかぞえられています。
推古30(622)年2月22日、聖徳太子はその薨去に臨み、長子の山背大兄王に岡本宮を改めて寺とすることを遺命しました。
その後、舒明10(683)年に福亮僧正が聖徳太子のために、弥勒像一躯と金堂を造立し、天武14(685)年には恵施僧正が宝塔の構立を発願し、慶雲3(706)年3月に塔の露盤を作ったとしています。
奈良時代には相当栄えていたようですが、平安時代から法隆寺の指揮下に入り、寺運も徐々に衰微しました。
鎌倉時代には講堂や三重塔が修復されてますが、室町時代に再び衰え、江戸時代のはじめごろには三重塔を残すのみであったといわれています。
その荒廃を憂い、当寺の再興を発願した寺僧の真政圓忍(しんせいえんにん)とその弟子たちは、 延宝6(1678)年に三重塔を修復しました。それ以降も、寺僧たちの努力によって浄財を集め、元禄7(1694)年に講堂を再建、文久3(1863)年に聖天堂を建立し、現在の寺観が整えられました。
明治維新後は、本寺法隆寺と共に真言宗の所轄となりましたが、明治15(1882)年、法隆寺が興福 寺と共に法相宗に独立したのにともない、法相宗の小本山となりました。
しかし、昭和25(1950)年、法隆寺が聖徳宗を開宗したため、当寺も聖徳宗の本山の一つになっています。
昭和47(1972)年には三重塔の解体修理に着手し、昭和50(1975)年に完成したのに続いて、昭和53(1978)年には講堂の修理を行い、昭和57(1982)年には重要文化財の十一面観音菩薩像を安置する収蔵庫を新設しています。
平成5(1993)年、法隆寺と共に世界遺産に登録されています。
法起寺の周辺はまだコスモスが咲いていました。

法起寺 - 01
法起寺 - 01 posted by (C)pismo

法起寺 - 02
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法起寺 - 03
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法起寺 - 04
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法起寺 - 06
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法起寺 - 07
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法起寺 - 08
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法起寺 - 09
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法起寺 - 10
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法起寺 - 11
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法起寺 - 12
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法起寺 - 13
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法起寺 - 14
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法起寺 - 15
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法起寺 - 16
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法起寺 - 17
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この後、もう少しサイクリングを続けます。
Posted at 2010/11/10 21:01:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | 自転車 | 日記
2010年11月03日 イイね!

秋の斑鳩(その2・藤ノ木古墳・斑鳩文化財センター・龍田神社・龍田城・吉田寺・斑鳩神社)

斑鳩の里を西から順番にサイクリングしていきます。
藤ノ木古墳は、法隆寺の西方に約400mに所在する直径50m以上、高さ約9mを測る6世紀後半の円墳です。
昭和60(1985)年に発掘調査が開始され、南東方向に開口する全長13.95m両袖式の横穴式石室で、玄室の奥壁近くに全体を朱で塗られた二上山の凝灰岩製の刳抜式家型石棺が横向きに置かれていました。石室内からは、世界でも類例の無い装飾性豊かな「金銅装透彫鞍金具」に代表される馬具のほか、武器や土器等の遺物が出土し、一躍世界からも注目される古墳となりました。
昭和63(1988)年には、ファイバースコープ調査を経て開棺調査が実施されました。石棺内部は未盗掘で、二体の人物が埋葬当時の状態で合葬されていることが明らかとなりました。副葬品は豊富で、被葬者の権力を示す金銅製の冠や履などの金属製品のほか、玉纏太刀や剣などの刀剣、銅鏡、銀製空玉やガラス製玉をはじめとする多くの各種玉類などがありました。
昭和62(1988)年に重要文化財、平成16(2004)年に国宝に指定されました。
藤ノ木古墳 - 01
藤ノ木古墳 - 01 posted by (C)pismo

藤ノ木古墳 - 02
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藤ノ木古墳 - 03
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藤ノ木古墳 - 04
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藤ノ木古墳 - 05
藤ノ木古墳 - 05 posted by (C)pismo

藤ノ木古墳 - 06
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斑鳩文化財活用センター(斑鳩文化財センター)は、国史跡藤ノ木古墳のガイダンス機能を有し、貴重な文化財の展示がされている施設です。
平成22(2010)年3月20日、オープンしました。
藤ノ木古墳から出土した代表的な副葬品のレプリカが常設展示されています。
斑鳩文化財センター - 1
斑鳩文化財センター - 1 posted by (C)pismo

斑鳩文化財センター - 2
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龍田神社は、法隆寺の鎮守とされていた神社です。
伝承によれば、聖徳太子が法隆寺を建立しようとしていた際、白髪の老人に化身した龍田大明神に逢い、「斑鳩の里こそが仏法興隆の地である。私はその守護神となろう」と言われたので、その地に法隆寺を建立し、鎮守社として龍田大明神を祀る神社を創建したといわれています。
龍田神社 - 1
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龍田神社 - 2
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龍田神社 - 3
龍田神社 - 3 posted by (C)pismo

龍田神社 - 4
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龍田城は、室町時代に一乗院方衆徒龍田氏に築かれたといわれています。
関ヶ原の戦いの後、慶長6(1601)年、徳川家康は豊臣氏の家老として豊臣秀頼の後見人を任されていた片桐且元に大和龍田2万8000石の大名として取り立てました。その際、龍田城の跡に陣屋を築いたと言われています。
ちなみに茨木城の方は豊臣家家老の立場での預かり城であったと思われます。
大坂夏の陣の後、片桐且元は元和元(1615)年には加増され4万石を領しました。
且元は大坂夏の陣の後、20日後に死去し、子の片桐孝利が継ぎました。孝利は寛永15(1638)年に死去したが、嗣子が無く、一時は断絶されかけましたが、且元の功績を考慮して弟の片桐為元が家督を継ぐことで存続を許されました。ただし、1万石に減封されました。為元の後は、為次がついだが、嗣子が無く改易されました。
幕府は為次の弟にあたる片桐且昭を3000石の交代寄合としたが、且昭も嗣子がなく、且元の弟・片桐貞隆から始まる小泉藩の一族・片桐貞就を養嗣子としました。しかし、貞就も元禄7(1694)年に死去すると、これまた嗣子なく断絶し、且元系統の片桐家は完全に断絶し、陣屋も廃されました。
白山神社の裏側のため池・平太池が龍田城の唯一の遺構だそうです。
龍田城 - 1
龍田城 - 1 posted by (C)pismo

吉田寺(きちでんじ)は山号は清水山、浄土宗の寺院です。
天智天皇の勅願により創建されたとされ、本堂近くに・妹の間人皇女を葬る古墳があります。
平安時代の永延元(987)年に天台僧・恵心僧都(源信)が開山したとも伝えられています。
俗に「ぽっくり寺」の名で親しまれています。聖霊殿(聖徳太子を祀る)と承応元(1652)年建立の多宝塔が重要文化財に指定されています。
吉田寺 - 1
吉田寺 - 1 posted by (C)pismo

吉田寺 - 2
吉田寺 - 2 posted by (C)pismo

吉田寺 - 3
吉田寺 - 3 posted by (C)pismo

斑鳩神社は、旧法隆寺村の守り神として、丘の麓にありましたが、元享4(1324)年に現在の所に移したといわれています。
地元では「天満さん」の名で親しまれている菅原道真を祀る神社で、天慶年中(938年以降)に法隆寺第9代管守湛照僧都により建立されました。湛照僧都は菅原氏の後裔であることも関係し、建立したと伝えられれています。当初は天満山の西麓に位置し境内に如法経堂という堂がありましたが、寛文年間に火災で全焼した。寛文8(1668)年に神殿が再建された後、水害のため享保10(1725)年に現在と同じ山上に移ったと伝えられれています。
明治2(1869)年には、法隆寺境内にあった総社明神、五所明神、白山権現が遷祀され、現在の境内には、本殿、一殿、二殿と惣社、五所社、白山社、大将軍社、厳島社、恵比須社の六社が祀られています。
斑鳩神社 - 1
斑鳩神社 - 1 posted by (C)pismo

斑鳩神社 - 2
斑鳩神社 - 2 posted by (C)pismo

斑鳩神社 - 3
斑鳩神社 - 3 posted by (C)pismo

次は、法輪寺へ向かいます。
Posted at 2010/11/10 20:05:27 | コメント(0) | トラックバック(0) | 自転車 | 日記

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